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冬の北海道パワースポット✨【道央】

2022-02-20 | パワースポット

2月、真冬の北海道で参拝できる神社を紹介します。

※支笏湖(しこつ湖)氷瀑祭

雪に閉ざされ、小さな郷社や山間の神社は殆どが参拝できなくなってしまいますが、参拝できる様に道を作って下さってる平地にある神社を五社、道央の幻想的な雪景色を巡る旅。画像多めです。

 


◆道央◇  滝川神社 江部乙神社 長沼神社 由仁神社 千歳神社

 

【江部乙神社】北海道滝川市江部乙町12-1-24

雪に包まれて凛とした静けさが深いです。思った以上に寒くありません。

体感温度で、東京の3度と北海道のマイナス3度が同じくらい? 何故だろう…

ご祭神 天照大神 大国主命

 

こちらは「笑う狛犬さん」で知られる神社です。

社務所で聞いたお話しですと、今年で鎮座111年の狛犬さん。

右側が雄で「ちゃんとついてます!」とのこと。

左右で雄雌のしるしが造形されているのは珍しくて、全国の神社で1割くらいしかないそうです。

正面からのショットの方がリアルでしたが横から…😌

 

雪圧で繋がっていた木。

 

 

 

【由仁神社】夕張郡由仁町本町330

 

ご祭神 天照大神 大己貴神 誉田別命

 

北海道は古い神社がありません。

殆どが明治時代、北海道を開拓しに移住してきた人々が神社を祀りました。

雪深い北海道で、道路を切り開き鉄道を通し、トンネルを掘り農地を開拓し、近代化を進めた開拓者の方々は、

皇祖神『天照大神』と、国造りの国土神『大国主命』を祭リました。

出雲系の神 『大国主命』(大己貴命)と

天孫系の神 『天照大神』が、

一緒に祭られているのは本州では珍しいです。

境内に摂社としてひっそり祭ってたりしますが、本殿で一緒にお祭りしてる神社はあまり見たことがありません、、😳

北海道は、一緒に祭っている神社が多いです。😌

 

 

 

 

【滝川神社】北海道滝川市一の坂町東1-1−12

ご祭神 天照大神

 

雪の参道 ライトアップが幻想的


冬の北海道の日没は早く、最も早い場所で日没が3時40分ぐらい😳

pm4時〜5時には真っ暗になってしまう北海道らしく、夜でもお参りできる様にライトアップされていて、拝殿の前に立つと左右の人感センサーライトが点灯する。

夜神楽やお祭りの時以外は、夜は神社には行かないものですが、、

しかし、わざわざ道を作りライトアップして下さってるので参拝してみました。

北海道の人にとって、雪は見慣れた風景で、不便だったり雪かきが毎日大変だったりとあまり嬉しくないことかもしれませんが、

雪明かりにほのかに包まれてる風景は、

とても幻想的でした。

 

 

【長沼神社】夕張郡長沼町字馬追原野2980

 

ご祭神 

大國魂命、大己貴命、少彦名命、

 

 

 

 

 

 

【千歳神社】北海道千歳市真町1

ご祭神 豊受大御神 イチキシマ姫

千歳空港から近い神社。車で15分ほど。是非寄ってほしいおすすめのスポットです。

 

 

階段を上がった鳥居の左右に、ひっそりと夫婦相神が祭らている。

 

夫婦神

イザナギ・イザナミ

猿田彦・アメノウズメ

 

 

境内の左側から出て、奥の方に進むと山神社が祭られています。

 

 

大山祇の神様

金山びこ・金山姫

 

 

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千歳神社は北海道では創建は古い。

仏教のお寺と違って、
神社は創建1000年、2000年前のものが相当あるので、創建何百年というのは神社としては比較的新しいが、千歳神社はその中でも由緒ある神社。

1660年、江戸時代松前藩で、鮭漁が盛んだった頃に石狩川上流から支笏湖を結ぶ
『シコツ川』の船着き場を臨む小山に弁天堂が祀られたのが起源。

(シコツ=アイヌ語で大いなる窪み)

その後、1600年代後半にロシアがカムチャッカ半島を領有し、1700年代後半には松前藩に通商を求めてきた。

フランス船が現れたり

1805年にはロシアが北方を襲撃してきたりして、江戸幕府は急遽北方調査を進め、蝦夷地(北海道)を松前藩から幕府直轄地にして、北方のヨーロッパからの侵入に備えた。

この時の調査で松前藩が、アイヌの人達に対し非道い扱いをしてきたことも明らかになってきた。アイヌ人がロシアと交易する可能性も示唆され

松前藩がなくなり、

江戸幕府の初代函館奉行が配置された時に、

「シコツは音の響きが悪い」

という理由で、

川には鶴が多く集まることから

シコツから→千歳(鶴は千年の意味)

に改名された。

 

1803年に支笏稲荷が創建され、明治になり

豊受大御神と市杵島姫が祀られた。

もともとあった弁天堂は、釜加神社へと遷され

大正になり「千歳神社」に改名された。

 

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話しは飛びますが、

🙏おかげさまで、、今回のブログで100本目の投稿になりました..

🎊🎊🎊

アクセス数、44万を超え

ページビューでは72万ページ。

 

😳いつの間にやら

 

 

一回一回のんびり書いていて、文章も長めですが

これからも、

 

この感じで続けていきます😌

 

 

真夜中のダイヤモンドダスト💎

 

 

 

 

最後に、、

歴史ヲタクな話しを少しだけ、

幻想的な画像とはうってかわって、

 

アイヌと和人の歴史について書かせて下さい🙏

暗いお話しです。(ブログ中最も暗い話し)

ここから先は、

興味のある方だけ御覧下さい。😔

 

 

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1669年、アイヌの首長
シャクシャインの乱が起きた。

それぞれが部族を率いていたアイヌ民族が連合して一斉に蜂起するのは、

1457年のコシャマインの戦い以来、約200年ぶりとなる。

コシャマインの戦いは15世紀、武田広信が突然北海道に乗込んできて、

それまで交易所でしかなかった、北海道南端を領有支配したことが発端となった。

コシャマインの乱以降、和人の征服者は武田氏→柿崎氏→松前氏と姓を変え

アイヌ民族と和人は比較的、


対等な交易をそれなりに行ってきた。

江戸時代に入り幕藩体制になると、今まではとはうってかわって激変する。

北海道の松前藩のみがアイヌとの独占交易権を持つようになり、


アイヌ人にとって自由な交易ができなくなった為、不平等で一方的な交易が始まった。

当初は松前藩城下で取引を行っていたが、ここへ『近江商人』と呼ばれる
豪商が進出してきた。

商人たちからも「近江の泥棒」と呼ばれ忌み嫌われていた存在である。

アイヌと共に貧しかった松前藩士らは商人から借金をして、彼らから縛られる様になり、今までの不平等交易に加え不均衡も生じてきた。

本来、商売の基本は不均衡による『差』によって利益を生むのは今も昔も変わらない。

商人にとって差は無くてはならないものだが、アイヌ部族同士は対立する様になった。

そこへ来て、火山が噴火した。

シャクシャインが蜂起する頃である。

 

有珠山、樽前山など噴火が続き、
火山灰が広範囲に渡って1 m 〜3 m つもり鮭漁は不振になってしまった。

天明の大飢饉は浅間山噴火によるものだが、開発の失敗と米買いが背景にあり不正や備蓄米買い上げが原因で90万人以上の餓死者が出た。

 

天保の大飢饉も、自然災害が原因だが商業化による不均衡も原因で多くの人が餓死で亡くなった。

 

北海道の火山の立て続けの噴火もそのような大災害だったことが偲ばれる。

北海道では場所請負が生まれ、米のとれない北海道だけの制度で各地の交易権を商人に請負わせた。全国に例がなく、独立採算制の近江商人の中では失敗例と言える。近江商人は、漁獲高を上げるため、

交易権・商業権でしかない商人の分限を超えてしまい、

直接経営に乗り出してアイヌ人を労働者として扱い、逆らえないアイヌ人たちを実効支配する形となった。

植民地政策ならばまだましだが、国の政策ではなく商人が私的に行なうアイヌ人を酷使するものだった。

 

アイヌ民族が国民になるのは明治以後のことで、

あくまでも他国多民族との交易であるはずだが、近江商人式の交易権を超えた直接経営も、歴史的にはただの「交易」と言われている。😔

 

また、シャクシャインの戦いではアイヌの戦士だけでなく、非武装の家族も命を落とした。

 

商人も利益を得られないほどの鮭漁被害をもたらし、

シコツ川沿いにあった運上屋や船着き場は打ち捨てられた。

その寂れてしまった情景を指して、支笏川(シコツ川)の事を

 

死骨川(シコツ川)という者がいた。

 

「シコツは音の響きが悪い」

というよりも、

このようなことが二度と繰り返されぬ様にと、当時の奉行は

『鶴は千年』というほどの安泰を願い 

『千歳』と改名したのかもしれない。

 

乱や一揆というと、

東北農民の悲劇を描いた「カムイ」という白土三平の劇画を思い出す。

江戸時代は、戦国の世が終わり、
東北農民や北海道漁民(アイヌ)の悲劇が激化した時代ともいえる。

徳川家康は「日本から鉄砲を失くした男」と世界で称されるほどの偉人だが、幕府は

「二度と戦国時代に戻らぬように」と

武士の力を奪うことを基本政策とした為に、常に藩の財政は圧迫され続けていて、藩の経営はよっぽどの商才や不正が無ければ赤字が累積するシステムになっていた。

疲弊する武士に代わって力をつけてきたのは商人である。

自然災害に限らず、飢饉となれば

藩は民を救済しなければならないが、商人にはその責任はない。

藩にとって、領民を失うことは藩を支える経済力を失う事であり、

万が一、一揆でも起きれば

「領内の仕置き宜しからず」と、

藩ごと取潰しになる可能性もあり、

飢饉は藩にとっても憂慮すべき一大事だ。

だが商人にとっては、

米価の価格は高騰し大儲けできる機会。

しかし、商人が儲けた財の備蓄を民の救済に使うことはない。せいぜい儲けの一部を神社に寄進し、更なる財運を祈願するくらいだ。

万が一、藩が潰れたとて別の場所で商いを続けることも可能だ。

乱や飢饉への責任だけを藩が背負い、商人には直接責任がない為にその影響はどれほどかは計り知れないが、

東北、北海道に進出した近江商人が、

『泥棒』とまで称されたのはその辺りに所以があるのかもしれない。

 

『死骨川』という言葉にこめられた意味と、

函館奉行の腐心が偲ばれる。

 

松前藩が取り潰しになり、

幕府直轄の函館奉行所が置かれてからも、商人の非道さは勧告を受けることがしばしばあったと言う。

 

明治以降に、祭られた女神たちが、

千歳神社として鎮座されたのは100年ほど前ですが、今

神々達は優しく静かに、

北の大地を抱いてくださいます。

千年恙無く平和であります様に🙏

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。