聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

縄文の道・ジブリがいっぱいある富士見町

2022-08-28 | 諏訪の道

日本を代表する縄文遺跡『井戸尻遺跡』がある長野県富士見町の聖地を周る旅。


【乙事諏訪神社】長野県富士見町乙事


江戸時代に諏訪の神様を勧請した。
木殿の無い珍しい神社。

 

(注連縄を左右に長く垂らすのはこの地方独自の感じがする😮)

 


宮崎駿監督『もののけ姫』の中で、

乙事主という猪の神様が登場するが、

監督曰く「乙事主と名前に使いましたが、あの辺りに猪がいたという訳ではないです。」

とのことらしいです。😆

 

 

もののけ姫の中には他にも、エボシ様、甲六など富士見町の由来の地名がいくつか登場する。

 

一本歯の高下駄を履いたジコ坊という、小太りの謎めいた人物が登場するが(日本人そのものという😅)

ジコボウとは、この地方のキノコのこと。

 

境内に生えていたキノコ😌☝️

 

 

 

 


【井戸尻歴史民族資料館】


耳をすませば、♪カントリーロードが聴こえてきそうな古い時計たち。

歴史民族資料館は、井戸尻遺跡跡地にあり、宮崎駿さんの描いたこの地方の絵も4点展示されている。


諏訪盆地は「東洋のスイス」と呼ばれるほど、セイコーエプソンをはじめ時計の製造業で知られる。

標高の高い長野県は日本の中で、一気圧低いエリアで精密機器の製造に適しているらしい。(ちなみに気圧が低い分、酸素が少なくなるので酸化作用も少なくなり、寿命は伸びるという🤔長寿県の長野と沖縄も一気圧低い?!)


また、都市伝説によれば長野県諏訪と世界最古の遺跡ギョベクリ・テペは標高が同じだという。

私はテレビやYouTubeを全く観なくなってしまったので詳しくは分からないが、標高約760mで太古に人々が集まった場所という共通点があるらしい。

考古館の展示物でも、感じることもあったので次回の投稿で書いてみたい。

 

【千と千尋の神隠し】
八ヶ岳山麓に、富士見町と茅野市、諏訪市と諏訪盆地が広がる。

千と千尋の神隠しの最初のシーンで、
運転中に道を間違えてしまう場面に登場する看板。

 

作品設定では21号線となっているが、20号線(又は旧甲州街道)上にある。

「とちの木」方面が右手になるのは東京方面から中央高速道で下り、
諏訪南インターで降りて20号線を茅野市・富士見町方面へ向かっていくルートだ。

(千尋たちは東京方面から諏訪盆地の方へ越してきたのか、😳)

 

 

【藤森栄一】
明治末の長野県諏訪市生まれの考古学者。諏訪盆地の縄文遺跡の発掘と、当時は革新的であった『縄文農耕論』を唱えた方。

ちなみに藤森栄一さんは『となりのトトロ』のお父さんのモデルと云われる方です。

😌☝️設定が考古学の先生なのでそのようですが、私は『耳をすませば』のお父さんが一番似てると思います。『魔女の宅急便』のお父さんも含めて「結局、お父さん皆な同じじゃね?」説がありますが、青年の藤森さん、壮年の藤森さん、往年の藤森栄一が全ているのかもしれません😌

アーヤのマンドレイクも、🤔

(私は「かもしかみち」という藤森栄一さんの本を読んでからトトロを観たのですが、作品から伝わってくる様な藤森栄一さんの世界に涙しました😭監督の素晴らしさにも感動🙏😭本当に色んな事を作品から学ばせて頂いてます、)

 

【井戸尻のストーンサークル】(復元)

 

藤森栄一さんは井戸尻考古館初代館長の武藤雄六氏ら数々の弟子を輩出し、

宮崎駿監督も影響を受けた様で、ジブリ作品の中にもその世界観が感じられる。

今では藤森栄一さんの本はなかなか閲覧する事も出来無いが、、😔

(単行本中古6万円😅)

宮崎駿監督の作品からほのかに世界観が伝わってくる様で嬉しい。

宮崎駿さんは富士見町の人より、富士見町に詳しいと言われるほど。

奥様の別荘がある様で、いらした時は参拝などもされてる様です。

もしかして前前々回の

小袋石の投稿で、参拝時にすれ違った老夫婦がそうだったのかもしれない、🤔

(違うと思います😅)

 

 

「SF作品?!」と見紛うほどの縄文土器。😳

シュメール人、、巨神兵?

ラピュタのロボット兵、サンの仮面、、😮

 

(空まで縄文が浮かんでる様な不思議な空)

 

また別の投稿で「縄文人」 

山の民についても少し書いてみたい。


(絶対少しじゃないと思う😅)

 

今日は山形県。これから押出遺跡へ。🚗🚗🚗


縄文の道【アイヌ人と縄文人】洞爺湖

2022-08-21 | 縄文の道

【日本のエンシェント 縄文人】

一万年以上前から日本列島に住んでいた、日本の先先住民族である縄文人。

渡来してきた弥生人達と入れ替る様に約2500年前(±200〜)に姿を消した。

※諸説500年以上差があるので取り敢えず2500年で書きます🙏

今回は、北海道の洞爺湖にある島と、縄文人について書いてます。

(画像少なめ😌加筆文凄い長めです、😅🙏)

北海道のアイヌ人は最も縄文人に近く、

50%近く縄文の遺伝子を受けついでいるらしい。

北海道函館の縄文遺跡群より北に100㌔弱、洞爺湖の中に浮かぶ島のひとつに

縄文とアイヌを繋ぐ子供達が隠れ住んでいた様だ。

縄文人とアイヌ人を繋ぐ子供達が隠れていたと思われる場所。

逃げた末の隠れ里だったが、敵に攻められ最後の場所となったようだ。


港から山にいく途中、結界が張られている様な不思議な場所に遭遇した。足を踏み入れると明らかに異様な違いを感じる。

中国の三国志に登場する諸葛孔明が、『石兵八陣』という石を積み上げただけの迷路の様なトラップで、敵を心胆寒からしめたが、或はこの様なものだったろうかと思う。

港から侵入した敵を山に近づけない様に惑わしたのかもしれない。


しかし、敵は港のある正面からでなく島の裏側から上陸し、子供達が集められた隠れ里を急襲した様だ。


今は住んでる人もなく、白鳥がのんびり暮らしていた。


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ブログタイトルとは全く関係ありませんが、

縄文人と、弥生人の列島進出について、、少し綴ります、、😔

(少しでなく結構な長文🙏)

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『消えた縄文人の謎』

【スピーシーズ】
近頃では、DNA解析により人類の起源を分析する『分子人類学』の進歩によって、日本人の起源も次第に解き明かされる様になってきた。

今のところ🤔日本人の起源は、先先住民の『縄文人』と先住民の『弥生人』の二重構造といわれている。

一万数千年ほど前、

200万年前から続いた旧石器時代が終わり新石器時代となり、原人・旧人は消滅し今の人類の時代になった後。

氷河期も終わり、温暖になった日本列島には縄文人が住んでいた。

数千年後、、

東北・北海道の縄文人らは

イギリス、中国遼西文明と同様の、
ストーンサークルを配し、

青森県縄文遺跡【大湯ストーンサークル】


日時計とし祭祀を行ない、サークルを中心にした集落を作って平和に生活していた。

今の人類の起源は200万年前のアフリカに生まれた。そしてその人類の祖先らは約七万年ほど前にアフリカを出た。

出アフリカ後は、暫く西アジアにいたがやがて大陸の果て西ユーラシアと東ユーラシアまで広がっていった。

東の果て、旧人の石器人が住む日本列島に縄文人がやってきたのは16500年程前から。

数年前は北ルート説が強かった様だが最近(2022.10)では南ルート説の方が解析され南アジア(ネパール)から日本人の祖先となる縄文人がやってきて、系統樹ではアメリカ先住民に枝分かれした。

日本人というより東アジア人の祖先となる様な相当古いエンシェントだ。


【縄文人消滅の謎】

今から2500年ほど前〜、縄文人は渡来してきた弥生人と入れ替わるように姿を消した。しかし、縄文人のゲノム(遺伝情報)は一度激減した後、弥生時代に向けて増加している🤔😵‍💫

分子人類学では、父系(y染色体)と母系(ミトコンドリア)

両方(核DNA)の何れかで解析するらしい。

激減と増加は父系データだが😑、、「母系も同じなはずである」と考えられているようだ。集団サイズの推定方法は分からないが、

しかし、同化政策や支配技術のひとつには、男性と女子供を別々に捕囚するという形もあり必ずしも同じとは言えない事もあるだろう🤔 

まずそのあたりをヒントに考えてみたいと思う、、。

何故、縄文人の文化が一気に消滅したのか?😵‍💫


【弥生人の渡来】

2500年前(紀元前5〜6世紀)は、寒冷化が起きた頃であり中国は戦乱の時代で、民族の移動や日本列島へ逃げる人々が爆発的に増えたと云われている。

中国では、春秋・戦国時代。呉と越の戦で呉が滅ぼされ、和国へ亡命したと史書に記されている。

また、この頃の弥生人の事を『プロパーコリアン』ともいい、かつての朝鮮半島の先住民が日本列島に逃げてきたという説がある。

特に漢の武帝が古朝鮮を滅ぼした時代に下ると、朝鮮半島への支配が最長に及び、多くの半島人は列島にも逃げてきたと思われる。


1/4世紀ほど、日本の隣国が中国となり

🙄高句麗へ逃げるより海を渡った流民も多かったろう、、

高句麗は古朝鮮の流民を吸収して建国されたばかりで、まだ暫くは漢に攻められていた。

私達(本土日本人)の直近の祖先である弥生人は、縄文人の消滅となんらかの関わりがあると考えられている。

寒冷化による自然滅亡説もあるが、縄文時代は一万年の間に何度も寒冷化と温暖化が繰り返しあり、寒冷化だけで全滅したとは考え難い。

逆に温暖化の時期には青森でも稲作が可能となったため、弥生人の北上が原因であるかもしれない。

大量虐殺説は弱く、

弥生人が持ち込んだ伝染病説

(縄文人には伝染病がなく免疫がなかった為、結核などで滅んだ)

弥生人と同化した説など様々な憶測があるが、どれもがあったとしても不思議はない。

私達にも12%縄文人のゲノム(遺伝情報)があるらしいので、同化・混血はあったのだろう。

同化でも、平和的な婚姻合併策と
支配的な吸収合併があるが、兵力・支配力に差があれば後者となる。

皆殺しにするより、同じ頃に西アジアで起きたバビロン捕囚の様に、捕囚・俘囚として隷属させ使役させる方が弥生時代は常だった。

それらは

後々、部民・奴婢と呼ばれ、部族が所有する私有民となる。


狩猟民族の女子供を人質にとり、男性を兵役・労役に駆り出し使役させる方法は後世の大和王朝の時代にもあった。

大和王朝の佐伯氏は大伴氏に属する部族だが、佐伯とは元々、異民族をさしていう言葉で蝦夷族を率いたのが佐伯氏だ。

7世紀の大和朝廷は蝦夷族の酋長200人を上京させ、冠位を与え弓刀を賜るなど正式な服属儀礼を行ったが、

紀元前5世紀では、縄文人に対しどの様な同化支配が行われたのだろうか?


【弥生人と同化する縄文人】

平均寿命14歳の縄文人。

30歳で高齢者となり、35歳まで生きられれば「長寿最高齢」となる。

(今でいう100歳くらい?🙄)

首長となる長老やリーダー、長老会議は存在していても身分などは発生する隙間も無かった。

生き延びた者が次世代に繋ぎ、そしてまた生き延びた者が次世代に繋ぐという命のリレーにより存在してるコミュニティは、戦争や支配など無縁の世界で、

時には、17歳くらいの最高齢の女性が部族を率いてる事もあった。

(※2008年〜縄文人寿命46歳となってますが子供の生存率は除いてるらしく平均は分かりませんので、とりあえずこのまま書き進めます😌🙏)

支配階級や既得権さえも発生する間もなく、寿命が終わっていく。

生き延びた者が、次世代を支え命のリレーを繋いでいく世界。(リアル😅俺屍)

そこへ武器を携えた、寿命も長く身分や階級が維持出来るほどの生存率を有する『弥生人』達が乗り込んできた。

弥生人と稲は、どちらもDNA解析によると中国の南を流れる長江を下って、河口の上海から日本列島に伝わってきた。

日本列島まで来たからといって戦国時代や漫画やゲームの様な、大量虐殺はない。

基本的に、職業軍人は将軍だけで兵士という職業はなく、部族民が戦士となり戦うのが殆どだった。戦さに勝ったところで、戦争の後は農民に戻るので武力支配を継続する事が出来ない。

そのため、和合する同化政策をとった。

相手を武力破壊せず従わせるのに軍事力・支配力に差が無ければ、弥生人達は婚姻合併による平和的な和合を行う。

互いの王子と姫を結婚させ生まれた子を王とする。

軍事力・支配力に差があれば、女子供を人質にとり隷属させる。

戦いというと命を奪うことや土地を奪うもの、王を倒すというイメージが強いが、小部族が多かった時代では『子供を取る』のが戦いだった。

その部族にとって未来に繋がる存在であり子供はとても大切にしていたし、
逆に子供をとられる事は、その部族の未来を奪われたも同然だ。

(土偶も女と子供だけだし🤔特別な存在だったのだろう✨)

子供を人質にとり、男は奴隷となり女は犯され奴隷となる子を生んでいく。

「相手を皆殺しにする様な武力破壊をせず隷属させる」縄文人狩りによる同化政策も行われたかもしれない。

残酷な事の様に思われるが、こうした同化政策は紀元7世紀頃までアジアには存在していた。

縄文時代の中国人は、逃亡を防ぐのに奴隷の目を潰したり手枷足枷をはめたりしてたらしいが、(或は手に穴を穿って繋がれたり、、)東アジアの奴隷制でそこまでしていたかは分からない。

古朝鮮を滅ぼした時も数万人が捕囚として中国に連行されていったが、世界は奴隷制による生産性・国力向上の時代だった。何も稲作だけで向上した訳では無い。

『稲作によって食糧が豊富になり、貧富の差が生まれ支配階級や身分が発達した』

、、という語りも枕言葉の様に定着してしまっているが、

稲作社会の中だけで身分が生まれたのではなく、異民族への捕囚や俘囚、奴隷狩りによって支配者と被支配者という身分が生まれたのだ。

「稲作によって食糧が豊かになり、、」等とあまりに卒なく美々しく纏めてしまうと、犠牲になった方々も浮かばれまい😢

(よく知られる『幸せ』という字は「奴隷文化」の代表例。手錠の形を表していて語源は手錠をはめられてるだけなら幸せだと言う意味だそうです🥺)

農耕民族の集団サイズのジャンプは、異民族の捕囚・奴婢という下層身分を生みだした事は否めない。

「稲作によって労働力が必要となり、異民族への奴隷狩りにより捕囚俘囚・奴婢という下層身分が生まれて、生産性が向上し支配者は豊かになり貧富の差が生まれた。」と、

逆説的に説明した方がより歴史的なリアルティがある。

農耕民族のバビロニアはユダヤ人、
中国は古朝鮮人の捕囚化・下層民化に成功して、集団サイズの拡張と農耕サイズの拡張によって豊かになったのだ。

ちなみに身分が発生するには、ある程度の寿命と生存率が必要だが、それでも支配階級の世襲も発生当初は末子相続でなければ維持できず、私達が知る長子相続が可能になるのには、更なる寿命と生存率の向上を待たなければならなかった。

縄文時代から千年も経つと、流石に生産性は向上しかつての俘囚・奴婢も小作人レベルへと向上した。

日本では7〜8世紀の律令制の時代には国家体制が強まり、奴婢・部民などの奴隷民・私有民を認めずに全てを国民としたが、

(リンカーンの奴隷解放より千年以上早い😑)

江戸時代になっても、商人がアイヌ人に対して行なっていた酷いことを考えれば、異民族への接し方は紀元前でも想像にかたくない。

何故、この様な想像をするかというと縄文人が弥生人と入れ替わる様に姿を消した事が『一気に全滅した』とは考え難いからだ。

ただ、時代を画して縄文土器も姿を消し弥生土器にとって替わっているので、縄文人の文化の途絶は確かな様だ。

絶滅はしなかったが、縄文人の文化を自ら残せない様なかたちで生き延び、私達に遺伝子だけを残していったというイメージで、考えてみる。


【縄文土器を残せない捕囚】

稲作の出来ない北海道で、弥生人が縄文人の消滅に関わったとは考え難いが、子供を人質にし「バビロン捕囚」の様に、労働力の捕囚として縄文人狩りを行い、連れさられていった可能性は考えられる。

更に北にいた縄文人はアイヌ人に50%血をひかせ、捕囚となった縄文人は本土日本人に12%、南へ逃げた縄文人は沖縄人(ウチナンチュ)に20〜30%の遺伝を残した。


相手を皆殺しにしない限り、勝者と敗者の混血によって遺伝子が残されてきたのが歴史の常だ。

子孫を残さず寒冷化や伝染病で全滅したのなら、私達に12%も縄文人のゲノムは残されない。

縄文文化を残さず、遺伝情報だけを残した混血期の時代が、ある程度長く続いたであろうことが伺える。

弥生人達のエリート・ドミナンス効果が(支配者の言語・文化・宗教に置き換えられ浸透していく)混血の進行と共に広がっていったのだ。

縄文人の滅亡説が、3000〜2300年前と諸説に幅があるのは、渡来してきた弥生人との同化が始まり、縄文人の血統が混血によって弥生人の遺伝の中に完全に埋没するまで数百年かかったという事かもしれない🤔いずれは父系母系、両方の遺伝子を調べていけばこうした混血の歴史のストーリーが浮かび上がるのだろうか、、

(あまり、詳しくはないので後からまた加筆・訂正をするかもしれません。😔)

女子供を人質にとられ別々に捕囚された縄文人は直系の子孫や文化を残せず、

別の場所に逃げた縄文人は直系の子孫を残したが、伝染病で滅び


混血した縄文人は伝染病を生き延びたが文化を残せなかった、、

と、まずざっくりと多様に考えておくことにしよう、、🤔


一様に、縄文文化は弥生人文化にとって代わられてしまったが、混血期に併存していた時代は、もっと多様性があったとしても然るべきだ。

沖縄ではグスク時代の支配が始まる(12世紀頃)まで縄文土器(火炎土器)は作られていたらしいので、本土日本人とはまた違う長い平和的な同化の歴史があったのかもしれないし、

勿論、平和的に共存していた地域や時代もあっただろう。

中国地方の弥生遺跡から、他に類例がない分銅型の土器が発見されているらしいが、これが縄文時代晩期の土印の形に通じる感じもする。

縄文時代から弥生時代への連続性を示す貴重な遺物であり、縄文人から弥生人へ意匠を継承すること自体、平和的な同化があったことを示すものかもしれない。

そして、

縄文人には自ら文化を捨てて封印し、寧ろ弥生人から隠さなければならない

大切な何かがあったのかもしれない。


【縄文人はフリーセックスだった!?】

話しはそれるが縄文のコミュニティについて少し語る、
(少しじゃないと思う😅)

「縄文人はフリーセックスだった」
「いや、違う」という議論が予てあったが、

他の哺乳類と比べて『発情期が異常に長い』といわれる現代人の性感覚からでは、発情期が長いというほど寿命が長くもない縄文人の繁殖行為は到底考えることは出来ない。

エンシェントの縄文人より寿命が長い分だけ発情期も長く生存率も高いモダンな現代人の生殖活動は、決して同じではない。

集団での子育て、集団での繁殖は、生存戦略としては正しく、現代人の様な(=ここ数千年のモダン)カップルでの子づくり子育てはをしていては生存戦略としては怠けている状態であり、一万年どころか僅か数世代で絶滅してしまうだろう。

フリーセックスといっても現代人が考える様な、セックスを愉しむ目的の乱交パーティではないのだ。

平均寿命14歳、30歳で高齢者となる縄文人のコミュニティは、現代人と比べて社会扶養、社会連帯、社会責任が非常に発達していた。

『皆なで子づくり皆なで子育て』

そこには身分や階級、法律、宗教もなく、人間としての大道を生きていたコミュニティだ。

「縄文時代は身分の差は殆ど無かった」との考えもある様だが、

身分を考える事自体ナンセンスで、ただ、長く生きた人とそうでない人、時系列的な前後の差こそあれ、上下はない。

制度としての結婚も、そもそも為政者が市民を支配しやすくする為に単体化させたもので、元々人間の女性は生涯で三人ほどの男性の子を産むものだった。

こうした『縄文コミュニティ』のような集団での子育て子づくりの文化は中国や東南アジアでの稲作文化でも存在していたが、国家制度や身分制度が強まると共に排除されていった。

逆説的だが身分や国家が成熟する為には当然、寿命や生存率・食料の増加と人口の増加が背景になけれならない。

縄文人が姿を消した頃、中国では『孔子』という偉人が社会構成の変化に対して法治国家化への警鐘を鳴らしていた。孔子によれば、

『法治国家』は最も次元の低い国家で、法を定めては人々は法の抜け道をみつけて悪い事をするのが無くならないという。

(↑性悪説により法の支配が必要との事がかえって悪事を助長してしまう社会😔確かに未だに脱法行為や合法化は存在する)


『徳治国家』は次に次元の高い国家で法律はなく、道徳や為政者の思いやりなど人々の常識や良識によって社会が構成されている状態。今でいうソーシャルグッドビジネス、ウェルビーイングだけで存在している上善社会だろうか🤔

(↑性善説だが、現代人でもいちいち法律刑罰を知って従っている訳ではなく、実際は殆どの市民は良識や常識だけで生活している。法律ではどうなの?と弁護士に相談しなければ分からないほど法治は行き渡ってはいない?!😳)

行政手続きなどを除けば一般市民はほとんど法律とは縁がなく、良識だけでモラルのある生活をしているので、割と徳治に寄っているのかもしれない。 

孔子の言うとおりかも、、😅

『道治国家』が一番高い次元とされ、
法も徳もなく治まっている社会。人々はあるがままの大道を生きて成立っている。王がいたとしても王の存在さえ忘れるくらい平和な状態を上善とする。

大道(タオ)=タオイズムというが、

縄文人はタオであり、

身分や法律、アニミズムや宗教など、

現代人が考えるような社会性や精神性は存在してなかった。

(非常識な社会だ🙄☝️)


うちの子⇔皆なの子

親の責任⇔皆なの責任

家族扶養⇔社会扶養、、

一万年というサステイナブルな文化の継続は

生存戦略としては正しかったと言う他ない。

(渡来人による食料と人口の増加さえ無ければ、、😑)


😔孔子の警鐘も虚しく、

世界は法治国家となり、縄文人のコミュニティの様な道治国家は存在し得なくなった。

最後に、、


【尚も残る縄文人の謎】

九州と東北に縄文人の遺伝子は色濃く残り、近畿や関東では薄いという濃淡があるが、弥生人の上陸地である九州に色濃く残っているのが謎とされている。

弥生人の流入だけでなく噴火によって人が住めなくなった頃もあり、むしろ古い遺伝子は薄くなって当然だ。

弥生人が圧倒して混血はせず、まず植民支配した、、🤔縄文人に稲作をさせ文化を取り上げ隷属させていたという事なのだろうか?

九州は稲作が広がっていた為、より多くの異民族の俘囚や奴婢を集める必要性があり、結果的に混血は濃くなったのかもしれない。

逆に縄文の聖地だった長野県の尖石遺跡では、縄文土器だけを残し、

人々が突然いなくなったのが「謎」とされてきた。

しかし、縄文人のゲノムは東北と九州に色濃く遺伝を残しているので

弥生人の侵略により東北に逃げたか、九州に連れ去られたのだろう。

(縄文人が突然、教科書から姿を消したのも謎だ😂復刻しても考古学協会から改善声明がでるほど影が薄い、、😅)

弥生時代になると農具も鉄器が登場するが、縄文時代はまだ貧弱でどちらかというと旧石器時代に近い農具もあり、貧弱さを補うだけの奴婢の労働力が必要だった。

また弥生人の開拓時代に大勢の奴婢の必要性があったのは、稲作そのものでなく、開墾、治水事業等の土木工事だ。石垣の石を運び、道を拓き、堤を造り、水路を引き、畦道を作り等、インフラ整備は、渡来してきた弥生人達だけではとても出来なかったかもしれない。

いずれにしろ、労働力、物資、食料の調達は敵地調達が兵法の極意とされていた様な時代であり、

奴隷商人による奴隷狩りも需要があったことだろう、😔

奴婢や生口(=中国へ献じたという奴隷)は、奴隷とは違うという考えもあるが、奴婢は卑弥呼の埋葬でも100人が殉殺され、人命の代わりに『埴輪』が使われる様になるまではずっと殉殺されていたので、支配者に所属して自由はなく生殺与奪権を強力に握られていた下層身分である事は間違いない。

私達はよく、ピラミッドや古墳など立体的な大きな構造物をみると、

「人々を使役する強力な支配者がいたに違いない」と、

初歩的な考え方をするが、必ずしも巨大建造物=強力な支配ではなく

水田の様な平面遺跡だからといって強力な支配が無かった訳ではない。

いずれにしろ人間は、支配による使役よりも、主体的な共同創造の方が遥かに高度な創造力を発揮するものだ。

北海道(キウス遺跡)の縄文人達は、支配者の為でなく自分達の為に古墳クラスの、周堤墓墓の造営を行なっていた。

容易に伺い知りえる事ではないが、いつか分子人類学的なストーリーが浮かび上がってくるのを待ちたい。


縄文文化は広範囲の流通のネットワークがあり、ゲノム(遺伝情報)を残しつつも一様に日本列島から縄文文化が姿を消したのは、各地の集落のみで存在していた訳ではなく、このネットワークによって存在していた理由があったのかもしれない。

西アジアのバビロン捕囚の場合、

農耕文化を持つバビロニア人が侵攻してきて、ユダヤ人の聖地エルサレムを奪いユダヤ人は捕囚となりバビロニアに連れ去られた。聖地を失ったユダヤ民族は教義経典を拠り所とするしかなく、一神教となって『神と宗教』を強め民族としての結束を強めた。

これによって、同化や混血が進んでもユダヤ人としての独自性や文化を維持しつづけた。

一方、宗教を持たず宇宙の根源と繋がるようなパラダイムを持っていた縄文人は聖地を失うと共に、文化を失った。

文明とは、農耕・人口集中・組織化、などを基本とした呼び方だが、

生産性の向上や物理的な技術に着目されがちである。

そして、生産性の向上と継続性は必ずしも比例しないので、

文明の繁栄と滅亡は繰り返えされてきた。

(※農耕民族の様に特化した作物を文明と言い、縄文人の様に様々な栽培管理を行なうのを文化と言いらしい、😳)

文明は優れていて、文化は文明とまで言えない劣ったイメージがあるが、

文明=滅びるもの

文化=サステナブルな継続性のあるもの

華やかに咲き散っていく文明が、優れているとも言えない。😔

一万年以上の継続性がある縄文文化を

文化でなくあえて『縄文文明』と言い変えてみるならば、

縄文人にとっては、継続性や人口密度(集団サイズ)や食糧調達などそれぞれの臨界点を理解した上での広範囲に渡る人口拡散こそが、彼らの文明であり、

農耕だけに依存しないエコサイクルに適った食糧調達・適度な人口拡散・組織化に頼らない社会連帯、など、
原始的な環境や気候変動に対応したサステナブルな、寧ろ高度な文明だったと言える。

各地に散らばる小集落同士が、黒曜石や土器の交易を行なっていたのではなく、小規模拡散型の一つの大きな文明の中で流通していたのだ。

男性集団が女性コロニーを回遊していたかもしれない。😌

いったり来たりの交流よりも回遊性のある方が、近親交配リスクを減らし遺伝子劣性を抑える。

その上で、現代人がフリーセックスと呼ぶ様な集団繁殖を行ってこなければ、小コロニーの中だけでは、逆に生殖能力すら失われていた可能性もあっただろう。

遺伝子プールの撹拌は縄文人全体の課題で、こうした交配戦略によって縄文人はゆっくりと少しづつ寿命を伸ばしてきたのかもしれない。

塩の流通にしても然りで、日本海側の縄文コロニーから、信州の聖都がある縄文コロニーに回送が続けられた。

(上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送ったのも、縄文の血がなせる技かもしれない🤔)

タオイズムを無理やり信仰という言葉にあてはめるなら、生と死の円環に対する信仰とでも言うのだろうか?🤔

しかし信仰や宗教ではない。

独自のパラダイムと死生観(サナトロジー)を持つ、不思議な集団だ。

寿命が短いことも幸いしたのだろうが、

都市化→荒廃→滅亡、

生産性向上→戦争と奪い合い→滅亡、

という負のサイクルを知っていなければ、

一万年というサステナブルな繁栄はあり得なかったかもしれない。

縄文の文化は歴史の遥か彼方に封印されたままで、

ストーンサークルと土器、遺伝情報を通してしか伺い知ることは出来ず、

私達現代人の浅薄な価値観では到底、彼らの世界には及ばない。

小規模集落拡散型の文明は、都市化・中央集権化の弊害を防ぐだけでなく他にも様々な利点もあったのだろう。

高度に進化した世界では、
大都市は無くなり人が集中してたくさん住んでいる場所も無ければ、
全く人が住んでいないと言う場所もないという。

均質化され、貧富の差や格差社会の濃淡もなくなるらしい。


何をもって豊かさとするかによるが、

格差の隙間を埋めてしまうほどの
『溢れるばかりの豊かさ』があるのだろう。

一万年という日本列島に住む人々のサスティナブルな進化の歴史を考える時、

現代人の私達もまだまだ進化の過程にあり、豊かに拓けていく未来が進化の道に続いているだろう事を感じずにはいられない。

「宇宙の根源と繋がるとは何だ?」

という事については、また別の投稿で書いてみたいと思います。

話しが長くなり散漫になってきましたので、今回はこれで終わります🙏

取りとめのない長い話しを読んで下さって、ありがとうございました。

来週末は、

『ジブリの故郷』
長野県富士見市の縄文の聖地と

山形県の三大縄文遺跡

中川代遺跡 (中国製石斧)
三崎山遺跡 (青銅製刀)
押出遺跡  (漆塗り)

にいってみようかと思います😌🚗

聖なる国 日本✨☝️歴史が長い🙃

#縄文の遺伝子 
#日本人男性が持つヤップ遺伝子
#Y染色体ハプログループD1b


お盆『先祖崇拝と自然崇拝』について、

2022-08-11 | スピリチュアル

今回は聖地・パワースポットの投稿ではなく、「お盆」の時期にちなみプライベートなご先祖様のお話しで😌す。

そもそもプライベートな事を思いのまま書くのがブログですが😅💦

後半は思いのまま加筆してます。
😌🙏(画像少なめ)


北陸某所のとある浄土真宗のお寺さん

入口の脇にお地蔵さまがある。

 

生き地蔵と云われ、囲いを作って安置されている。

 

お地蔵さまは人々の身近で見守っている仏さまだが、境内で人々が囲いを作ったのには云われがあった。

 

 

 


【洪水から村を救ったお地蔵さま】

 

今から200年ほど前、おそらくは江戸時代の天保年間のこと、、

『ある時、大雨が続き川の水かさが増していました。

三日目の夜中、

「土手が切れるぞー!」と

村の人々を起こして周る者がいました。

びっくりして起きてきた村人達は、切れかけた土手を見つけ、杭を打ち土俵を積み土手を守りました。


翌朝、泥だらけになったお地蔵さまが見つかり、

村人たちを起こして周ったのは、このお地蔵さまだったという事が分かり、

「もう二度とお地蔵さまが流されないように」と

囲いを作り、お地蔵さまを祀りました。』

 

 

私の七代前のご先祖様のお話しということ。

 

 

何故この話しを知ったかというと、『本当にいるのか分からない遠い親戚』に巡り合い教えて貰えたからで😌


「遠い親戚に○○の人がいるらしい」、、など、

親から噂に聴くことはあっても、現実に会えたり確かめたりする機会はまず無い。

近しい親戚で疎遠になる昨今、遠い親戚となれば、普通は生涯出会うことの無い親戚だ。

たとえ出会えたとしても「は?」

という感じかもしれない。

 

ある時、

私はご先祖様のことを知りたいと思い家系図を作ったことがあった。

ご先祖さまが代々住んでいた『本貫地』というのが誰にでもありますが、
武家でもないので当然家伝の巻物などはなく何処かは分かりません😅

 

まず本家筋の伯父さん(父の兄)にお願いして
『原戸籍』という聞き慣れない戸籍を役所から取り寄せて貰った。

祖父以前に遡り、残存する限りの(出生)死亡記録が書かれている。

これで7代前までのご先祖さまの名前が分かった。

江戸時代寛永年間、実に200年前。

 

明治時代の役人が江戸時代から残る記録を転記してくれていたのだと思うが、ペンではなく筆で書かれ、
昔の住所表記で今の住所だと何処に当たるかがさっぱり分からなかった。

地元であれば郷土史研究をしている人から聞けばわかりそうなものだが、
その土地がどこかもわからないので
仕方なく国会図書館に行って

(古い何かでも多分あるだろーという勝手な憶測😅)

(議事堂右向かいに図書館が鎮座する)


昔の地図などを調べたりしてなんとか

「多分ここだろう?」という場所を探しだした。

 

そのエリアのお寺巡りをし、
家系図を頼りにご先祖さまのお墓を探してますという旨を伝え
「こういう方のお墓はありますか?」
と尋ねて周り、

(厄介な来訪者や😅🙏)

たまたま、5代前のご先祖さまの名前の屋号が使われていた為、
『本当にいるのか分からない遠い親戚』の方に巡り合うことが出来た。

そして家系図の間違っているところやお地蔵さんのお話しも教えて頂き、
約200年前からのご先祖さま代々が眠るお墓に一緒にお参りすることが出来た。🙏🙏🙏

江戸時代は人の移動は禁じられてたので、基本的に江戸時代まで分かれば400年前くらいのご先祖さまはそこいた事になる。


普段の自分からは、父母という一組のカップルしかみえないので世代の時の流れを考えることもない。

七代前からだと、200年間で😮ナント
128組のカップルが子供を生み育ててくれてきたお陰で
今の自分が存在しているという事になる🤔


家系図を作ろうと思ったきっかけは、
沖縄にいた頃、ユタさんのような方に先祖供養を勧められた事があったからだ。

沖縄の人は、お墓の前にブルーシートを敷いて皆で食事を持ちより、
ゆんたく(お喋り)しながら1日中(ひっちー)ご先祖さまと一緒にすごす。中国式の紙のお金を燃やしたりなど、中国傘下だった琉球時代の習慣が色濃く残るお盆。台湾に近い。


(💴あの世でご先祖さまが使うためのお金。紙のお金は横浜中華街の関帝廟でも使われていた)

先祖を敬い、
一族の始祖を祖神として大切に祭っていたのは本土の日本人も同じ😌

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

【日本人は木や岩、自然全てに神が宿ると信じていた】、、という嘘😱

について書いてます、、😑

興味のある方はご覧下さい。🙏✨


昔の日本人は、

先祖や祖神が宿る依り代の

木や岩、或は埋葬した山に

祖霊(神)が宿ると信じていただけで

何も『木や岩、自然全てに神が宿る』と、、信じていた訳ではありません。😔

自然を敬うのは当り前の事ですが、

これはイギリス人のタイラーさんという学者が思いついた『アニミズム』という考え方で、

私達日本人の先祖を敬うという信仰からはだいぶ外れています。

なぜこのような間違いが起きてしまったかと言うと、

西洋一神教では『先祖崇拝』が禁じられていて、特に敬虔なキリスト教では
死後の世界観も含めて2000年近く禁じられてきたので、

先祖崇拝?が理解できず、木や岩、山そのものを崇めていたと勘違いした様です。

 

「全治全能の唯一神ヲアガメナサーイ」的な一神教にとって、

人々が過去に実在したであろうご先祖様・祖神を崇めることは極めて危険で

祖先崇拝はあってはならなかった。

 

ただ、

『日本人は自然を敬い木や岩、山、自然全てに神が宿ると信じていた』

という美々しい言葉の響きは日本の学者にも受け入れられ、今では枕言葉の様に使われている為、

大切に受け継がれてきた先祖崇拝が、→ 自然崇拝に置きかえられて

定着してしまった感があり😔

残念に思うので、

くどい様ですが今一度、主張します😢


日本人は自然を敬ってましたが、

木、岩、山、自然全てに神が宿ると信じていたというのは間違い

宗教が生まれたのも、自然崇拝からでなく

猟師は山、漁師は海、
農民は大地と天、

食を得るための感謝と安全の祈りから。

先祖崇拝も

埋葬した場所の木や岩、山

或いは祭祀を行う木や岩、山

依り代に祖霊・祖神を祭っていただけ。

(両墓制=埋葬する場所と祭事を行う場所が違うパターンもあります😌☝️)

 

そもそも『自然を敬う』、、、と言っても、

日本には自然という言葉はなかったのだ。

ありのままで在るものを西洋人の様に、わざわざ人と切り離した対象として考える発想自体😵‍💫なかった。

仕方なく、英語のネイチャーに(ありのまま)という仏教用語の『法爾自然』を対訳に当てた西洋言語だ。

人も自然の一部でありその当たり前の事を、何故わざわざ

西洋人は人と切り離した対比的な存在『自然』と考え、

切り離した上で、崇拝するなどという事を考えつくのか?😵‍💫

西洋人は、個が強め文化なので
自己中心的な考えに極端に片寄ることで、自己と切り離された他者が生まれ対象(自然)として考える様になったのだろうか、、?🤔

タイラーさんが、日本を理解するには精神性が違いすぎたのかもしれない、、、😅

また、古代から中世へと移りゆく大化の改新の前、少なくとも大和王朝には120以上の氏族が属していた。それぞれが祖神を祭っていたとはすれば氏族の数だけ、神々が存在することになり、

日本の学術的にも由緒が多元的であるより、「自然」に一元化しておいた方が何かと面倒がないのかもしれない。🤔

 

阿部氏 大彦命
安曇氏 綿津見命
葛城氏 天高彦
尾張氏 天火明命
大伴氏 天忍日命
中臣氏 天児屋根命
田辺氏 伯太命
諏訪氏 建御名方命
佐伯氏 天忍日命
壱岐氏 月読命

、、etc 氏祖神をあげれば😅きりが無いですが、

日本人は家紋や苗字から遡れば、必ず

八百万の神々の何方様かに起源があたります。

 

「古墳」とは王墓のことですが全国で16万基もあり、

それぞれ氏族や部族の始祖や王が、数多く存在していたという証しでもある。

大和朝廷が日本を統一してからは、各部族の王墓は姿を消し、かつて

王のいた部族も大和朝廷の中の一氏族という形で帰属する様になって

祖神を祭るのみの存在となっていく。

東洋人は
ご先祖様への崇敬信仰

西洋人は
唯一神への崇拝信仰

と考えた方が現実的で、何より

西洋人目線の
「自然崇拝→八百万神」説で、

ご先祖様との本来の繋がりを、
崩されてしまう事も無い。

八百万神は自然崇拝から発生した神という訳ではなく、
私達のご先祖様(始祖神)なのだから。

 

平安時代になると神別氏族として
400氏族ほどに出自分類されますが、


飛鳥時代はまだ八百万の神々と末裔の氏族は近しく(私が200年前の七代前のご先祖さまがお地蔵様として祭られていると知り得た様に😌)、

それぞれ祭りごとがあり結びつきがあった。

遡るほど、複雑化するのは確かに面倒そうですので、

学術的にはアニミズムを採用し、

「全てに神が宿ると信じていた為、八百万の神々が信仰された」

と、しておいた方が無難そうだ🤔

 

アカデミズムでの事情はさておき、、

 

私たち市民は

神社に行った時の懐かしい雰囲気や

ホッとする気分を感じるだけで充分かもしれません😌✨🙏

 

 

ともかく、、

昔の日本人は、山だらけの日本列島の中で、

神聖な場所、祭事を行う聖地を定めるのがとても上手でした。

渡来人も、中国の気学風水を知る人々にとって、先祖を祭る場所によって子孫が繁栄しますので、どこの山に祭るかはとても大切にしていました。


西洋人の学者曰く😔☝️

日本人の自然崇拝は木や岩に神が宿ると信じていて、これは子供が人形に話しかけるのと同じ幼稚な行為であると言う事です🙄
(もしかしてだいぶ上から目線?😅)

が、


自然崇拝でなく

先祖崇拝ですから、

(木)=神籬、
(岩)=磐境、
(山)=神奈備山

に祖霊・祖神を祭っていただけで、

全ての木、岩、自然を崇拝していた訳ではないのです。祟りを恐れた訳でもありません。

現代人が、お仏壇に手を合わせるのと同じ、、😌🙏

仏壇や位牌に神が宿ると信じてる訳ではなく、

祟りを恐れたり崇拝している訳でもなく、

私達、日本人は、ただ

ご先祖さまを敬い感謝し

お祈りしているだけです。🙏✨✨


昔も今もそう。

仏教の寺院に墓地が附置され、
亡くなった人を弔ったり埋葬したりするのは今でこそお寺の役割となってますが、それはここ何百年かのことで
それまでその役割を担っていたのは
神社でした。

そして古神道祭祀の弥生時代より

更に遡り


縄文時代でも、
人々の生と死の祭祀や様式は存在し、

聖地(生)
霊地(死)

があった。

イギリスや中国遼河文明と同様のストーンサークルを、埋葬地に祭る。

(生殖活動の斎や場所も存在していたと思われます。ねぶた・もあしび等かすかな残滓感😌)


5000年前、一万年前、ずっと昔から

日本列島には、亡くなられた方への思いやりと祭祀が

ただありました。

 

 

聖なる国✨✨日本の先人達✨

 

 

 

私達の命をこの世におくりだしてくれた

先祖の方々への感謝と皆様のご冥福を

心よりお祈り申し上げます🙏✨

 


長野県【小袋石】紀元前ミステリー・縄文とミシャグジと諏訪大社

2022-08-08 | 諏訪の道

【小袋岩】諏訪七石の一つ。

諏訪大社・本宮と諏訪大社・前宮の間ぐらいにある小袋石(おふくろいし)というスポットへ向かった。脈絡なく、『縄文』→『ミシャグチ』→『諏訪大社』と、この地方の歴史をザックり触れつつ書き進めていきます。

 

日本列島を圧し折っているフォッサマグナと中央構造線が交わる特別な場所にある😅長野県諏訪市と茅野市の境界付近。

ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界でもあり、そこに関東から九州を貫く世界最長クラスの活断層が横切る。活断層の十字架の中心部だ。

 

諏訪大社「上社本宮」

 

諏訪大社には上社と下社があって

上社本宮・上社前宮、
下社秋宮・下社春宮、

合わせて四社を諏訪大社というが、上社本宮が一番大きく賑わっている。

 

諏訪大社「上社前宮」の拝殿下の風景(途中、外に出てから更に上がってく…)

 

他の諏訪七石は、諏訪大社・上社本宮などに点在しているが、

普通に見ることが出来るのはこちら😌

 

諏訪大社・上社本宮の【御沓石】

 


古くから東日本には、諏訪大社のある長野県を中心に『ミシャグチ』という信仰が存在していた。

 

弥生人が渡来してくる前の時代、

古事記・日本書紀に由来する西日本の歴史が始まる遥か遥か昔、

5000年前の東日本の山梨~長野にかけては縄文文化の中心地があった。

更に遡れば23000年前の旧石器時代から人が住んでいた地域だ。

 


長野県諏訪へ向かう途中で、突然思い立ち、手前の山梨県にある釈迦堂遺跡博物館に寄ってみた。

土器土偶など出土品は日本最大級。

 

 

かつては、東日本の中心地として栄えた場所らしいが、今はいつ来ても誰も居ない😅

 

 

黒曜石の産地で、東日本の土器流通拠点だったようだ。

黒曜石は鋭く加工しやすく、金属器が登場するまでは石器の刃物として使われていた。


今から約5000年前縄文時代中期の土器や土偶が展示されている。

 

縄文人のボディピアスは、なんと00ゲージ以上の特大サイズ😳

 

(どうやって空けたんだろう🙄)

耳飾りも多数出土している。

 

5000年前の【住居跡】

 

東日本には、西日本の古事記・日本書紀に綴られてる天孫族の歴史とは別系統の歴史が、多元的に存在している。

(だいたい歴史は遡るほど多元的になるもの🙃川も上流にいくと支流が増えてくるのと同じ)


イザナミ・イザナギ、天照大神がこの日本列島に現れる一万年前、

縄文人は、祭事はあっても神や宗教を持たなかった。

おそらく直接的な根源との繋がりを、パラダイムとして持っていたと思われる。

宇宙のエネルギーの繋がりと独自の死生観を持っていた様だ、、🤔

それはあくまで

パラダイム(考え方)であって、

レリジョン(宗教)でも、フェイス(信仰)でもない。


逆説的だが、むしろ『神や宗教』とは、そうした意識や精神性が不安定だったからこそ発生したと言えるかもしれない。🤔

 

水煙土器。(長野を北上し新潟へいくと火炎土器に)


私たちはその縄文人の死生観(サナトロジー)さえ伺い知ることは出来ず

壊された土偶と埋められた場所などからその意味を想像することしかできないが、

その文化の中で彼らは、食を絶やさず子孫を絶やさずに1万年も生き続けてきたことだけは確かだ。

現代人は太古のパラダイムや精神性を、現代より劣ったものとして常に見下す傾向があるが、一万年というサスティナブルな文化は現代の文化が及ぶものではなく、現代人の常識を外して考えなければならない事に配慮せざるを得ない。

 

宇宙のエネルギーと繋がる(或いは空を覆っている電離層から)儀式は

天地母神への祭祀というより、アーシング、グランディングという意味があったのかもしれない。

こうした宇宙の摂理に対する不思議な感性は、現代のわたし達が伺い知ることが出来ない分野だ。

🙃巨石信仰という言葉も、縄文のテクノロジーやパラダイムが理解できない為、仕方なく「信仰」という言葉に当てはめているにすぎない。😔

 

【小袋石】

【ミシャグチ】については諸説あり、私は知識がなさすぎるが・・・😅🙏

ミシャグジ信仰も神への信仰ではなく、エネルギーそのものを下ろす信仰だと言われている。

このエネルギーはマナ、プラーナ、レイキ、フォース👽、コズミックエナジーなど様々な呼び方の例えはあると思うが、

ミシャグチというのも神ではなく、そのエネルギーの呼び名に関連するのかもしれない🤔。

【1つ目の祠】

小袋石まで上がる途中、四つの祠があり、この祭り方になんとなくミシャグジ感を感じる、、😮


ミシャグチ=木を依り代としてエネルギーを下ろし、その場所に石柱を埋めたり祠を祀る。

【2つ目の祠】

こちらの祠は小さいながら、諏訪大社と同じように四隅に柱が立てられていた。そして祠の後ろには依り代と思われる木🌲が、、

 

【3つ目の祠】

石柱や祠はアンカリングか、目印だろうか🤔。年月を歴て損壊・喪失があっても、新しい物に代えられ連綿とランドマークの役割を果たしてきたようだ。

 

【4つ目の祠】

 

 

玉尾社の右にある巨石が、小袋石

諏訪大社の想念が集まるという不思議なスポット。背後に守屋山、、

 

なんと!!

突然、謎の青い光が現れた。😳 

 

 

(不思議な光👇ちょっとビックリ)😮

 

 

「ここです!」

と言わんばかりに祠へと下がり

 

・・・・😑

 

何かの偶然だとしても出来すぎている・・・

😑

 

ミシャグジ=という信仰は、

『木をつたって天降る神霊が、石に降り宿る』

というもので、木と岩(石祠・石棒)がセットになっているが、

まるでその様を見させられた雰囲気だ。

😑😑😑

 

 

参道入口は看板があるのみで目立たない山道

 

 

 

【小袋石】側面

 

諏訪大社や石をメインに考えず、背後の「守屋山」を中心にしてみた場合

ちょうど鬼門の方角にそれらが配置されている感じだ。👹

 

 

諏訪大社【上社前宮】の十間廊

 
 
こちらに、鹿の頭が75供えられていたという。
しかも耳の裂けた鹿を入れて・・・
 
なんだか呪術的なイニシエーションだが、
 
諏訪大社にも「ユダヤ起源説」もあり、
諏訪大社で祭っている「建御名方」(タケミナカタ)にも諸説アリ
(私の産土神様だ😮?)
 
諏訪は特異な謎が多く、
 
いつか連泊してゆっくりと回ってみたい。
 
 
 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


小袋石は別名『船つなぎ石』とも言う。

かつて、諏訪湖の水面がこの高さまであり船を繋いでいたという伝承が残る。

諏訪盆地は活動的な断層地帯で、諏訪湖自体も1000mは沈下してるらしいが埋まるのも早かった様だ。

縄文人が住みだしてから二千年後の

約9500年前から現代まで、諏訪盆地には大規模な地盤変動が七回あったらしい。

 

もともと、フォッサマグナ(=大地の裂け目)で地盤降下地帯ではあるが、

佐久や諏訪など、八ヶ岳周辺の盆地が太古では湖水に被われていただろう事は容易に想像できる。

 

映画『君の名は』では、新海監督は逆に湖ができたストーリーにしてるのが面白い。実際に長野県佐久市の新海神社に行ってみると(やはりかつては湖だったのでは?)と、感じてしまうほど見事な盆地だった。🤔


山なのに『船』😳ですか?

という地名は全国にあるが、

大概は、天鳥船に乗って降臨したという日本神話による伝承。
渡来ユダヤ人を起源とするケースでは
洪水の後、ノアの箱舟がアララト山頂きに漂着したという故事にあやかり
『山に船を』となる。

しかし、実際に「船を繋いでいた」という伝承が残る山は珍しい、、😮

全国でここだけかもしれない。

流石、地盤変動がAクラスの諏訪盆地だけある。

 

岩石は古磁気を残し、

この地方の地質学的な変化を知る手掛かりになっている。

縄文文化では、岩石の磁性を利用した縄文ピラミッド(環太平洋ピラミッド)などが知られているが、
ミシャグジの石柱もそれに近しいものなのかもしれない、、🤔

ミシャグジも

小袋石も深堀りしても、

容易に謎が解ける事はないと思うが

 

諏訪には小袋石を大切に思い、大事にしている方々がいるらしい。

 

私が行った時も、老夫婦の参拝者とであった。😮

(Sugar Babe のジャケットから飛び出したような、おしゃれな方達だった😮)

 

 

不思議な国 日本の『諏訪』✨🙏