聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

奈良【丹生川上神社】水の女神三社巡り

2021-12-31 | パワースポット

奈良県【丹生川上神社】

古事記・日本書紀に登場する水の女神『罔象女神』『闇淤加美神』を祭る。

吉野川沿いの神社。

(🙄ミツハノメ・クラオカミ)

読めない😅


上社・中社・下社、三社を紹介しています。画像多めです。

古代~中世までは朝廷の雨ごい・天止め祈願をされていた。

南朝の後醍醐天皇に崇敬を受けたが、戦国時代で神社が途絶え不明になってしまい、明治になって復活した。

中社・上社・下社と参拝し、下社近くの天河弁財天も行かれる方も多い。

水の女神様ワンデーコンプリートツアー🤔金運もアップしそうだ、

丹生川上神社【上社】奈良県吉野郡川上村大字迫167

ご祭神 高龗神(タカオカミ)

奈良県には、ミヅハの神様、オカミ、水の女神様が沢山祭られている。

敷石遺構の発掘により復元された神社

私は水の運気が必要なタイプらしく、こちらに来ると心が洗われるよう✨

来て良かった。😌

丹生川上神社【下社】吉野郡下市町長谷1-1

ご祭神 闇淤加美神(クラオカミ)

    丹生都姫との説もある。

祈雨には黒馬を献じ、止雨には白馬を献じてという伝承があり

「白龍・黒龍」という神馬が迎えてくれる。

こちらが、絵馬の起源だそうです。

日本最長の屋根付き階段。

そして、一年に一度しか入れないという貴重な社殿、、、😌

【中社】奈良県吉野郡東吉野村小968

丹生川上神社とは通常こちらの中社をさして言う様だ。

創建675年 天武天皇

ご祭神 罔象女神(ミヅハノメ神)

蛇の神でもあり雨を降らす神様。

下照姫さまの事だとも。

他に

下社 闇淤加美神(クラオカミの神)

上社 高龗神(タカオカミ)

大日孁尊(オオヒルメ)も共に祭られている。

全て女神様🙄

クラオカミ・タカオカミは龗神(オカミ)と呼ばれる水の神様で、

クラオカミは谷の川の龍神、

タカオカミは山の川の龍神、

吉野川 斎の淵

古代では、農作物が育つのに必要な雨を降らせる水の神様・蛇神様だったが、こちらの水の女神様は

「丹生」=(鉄鉱石の赤)という言葉どおり製鉄の民の、川と山への信仰もあったかもしれない。

日本古来からの蛇神は、中国由来である龍神が日本にも伝わると「龍」も「蛇」も同じであるとされ、やがて「龍神」におきかえられていった。

中社の罔象女神(ミヅハノメ神)は古い水の祖神。水つ蛇=ミヅチの神とも言われる。

まだ中国の龍神信仰が入ってくる前の、日本古来の水神・蛇神の信仰をささやかながらに感じる。

大日孁尊(オオヒルメ)は

こちらも巫女的な雨を降らせる神様。ミヅハやオカミと違って古事記・日本書紀には登場しない。

天照大神の別称ともされるが、

女性神であり

天照大神と大日孁尊は別々に祭られていることが多く、もともとは別の神様のようだ。

叶え大杉

両手を杉に当てて願いを唱える。

蓋を開け井戸から組み上げ、お水も頂ける

様々な神々が鎮座する奈良の中で、

水の女神さまとたくさん繋がるスポット。

△▼△▼△▼△▼△

【丹生】

丹生(赤鉄鉱の色)とは、川や沼などで土肌にてらっとしたオレンジ色を浮かべているベンガラの事。

縄文時代から土器の顔料などに使われていたが、

製鉄の原料にもなり奈良では多く取れた。

製鉄には鉄の60倍の薪が必要になる為、

製鉄の民は山にたたら場を作り、

山と川からの恵みに感謝し神を祭った。


鹿児島【ロマンス街道】天孫ニニギ降臨

2021-12-31 | パワースポット

天孫・ニニギの尊と木花咲耶姫命が出会ったという、古事記・日本書紀にある
笠沙の岬(現・野間岬)と縁りのロマンスロードを行く

 

【野間神社】
鹿児島県南さつま市笠沙町片浦4108

笠沙の岬(現・野間岬)の付け根にある野間岳の山道を上がっていく。

東宮に、ニニギの命、コノハナサクヤ姫
西宮に、三兄妹ホデリ、ホスセリ、ホオリ、

元は山頂にそれぞれ祭られてたが、江戸時代に台風により今の場所へ遷された。

コンクリート製の社殿✨

しかし、江戸時代は西宮には娘媽神女、順風耳、千里眼、という中国の海の神と航海の神が祭られていたという。


娘媽神女(媽祖)は中華街でも祭られているが、台湾や上海・南京など中国江南で祭る海の女神様。

 

 

呉の国から船を出すと、何故か鹿児島の種子島に辿り着くという。😮

鉄砲伝来以前よりもっと太古、中国江南からの玄関口が鹿児島で、

始皇帝の徐福伝説の徐福が住んでいたという伝承が中国側にある。

 

 


【笠沙の宮跡】
天降りした高千穂から雲をかき分けこちらに着き

「ここは海を隔てて韓の国が見え、朝日が指し夕陽が照らす良き所だ」と、

ここに宮を建てた。

 

 

向かいの竹屋が尾には、木花咲耶姫が火を放って三兄妹を出産した産屋があったという。
(宮崎にも産屋があります)

ここは私にとってのパワースポットです✨✨

 

もう一つ、、
同じく笠沙の宮跡があります。

 

 

南さつま市には、3箇所「笠沙宮跡」があり笠沙町の宮の山遺跡にも、

「笠沙宮跡」があります。🤔分かりにくいす

こちらは宮の山に登山することになりますが、険し目の狭い山道。

蜘蛛の巣や倒木が激しくて(私立ち入り禁止かな?)とゆー感じで
京塚という手前で引き返しました。

 

えっ?ここが?という程

どこも、ひっそりとしていました😌🙏

 

 

 

【新田神社】
鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2

薩摩の国一の宮(一の宮=そのエリアで1番の社格の神社のこと)

 

大鳥居の斜め前にあるお店の色が、、、素晴らしいです。

 

 

 

笠沙の岬より遷られてきた。神亀山という小高い丘にある神社。山が亀の形に似てるからだそうですが、ピラミッド説があっても可怪しくない不思議な山。標高67m


可愛山陵という陵がありニニギ命の古墳と云われてます。

 

 

 

 

 


新田義貞の七世、新田義興公を祭る破魔矢発祥の起源である『新田神社』ニッタとは違う。アラタ神社と言う。

 

突如あらわれたというガラッパ像

 

笠沙宮が分かりにくく、あいにくと雨がどんよりけむってましたが、またゆっくり周ってみたいです。

 

 

 

 

指宿市【龍宮神社】豊玉姫(乙姫💖)


【伊都国】細石神社✨密かに凄い福岡の知られざるスポット

2021-12-21 | パワースポット
伊都国=糸島市(福岡県)
【細石神社】
ご祭神 磐長姫、木花咲耶姫、
伊都国の中心だったという場所にある小さな神社。
伊都国の王墓【三雲南小路遺跡】のすぐ近くに祭られている。伊都国は魏志倭人伝など中国の史書に登場する古代日本列島の玄関口だった国。
交易の拠点で、中国歴代王朝の使者は、必ずまず伊都国に立ち寄った。
由緒の割には訪れる人も少なく、ひっそりとしていて静かだ。
磐長姫を祭る神社は少なく
父・大山津見神と姉妹で祭られている神社はあるが、磐長姫木花咲耶姫
姉妹お二人だけで祭られている神社は
寡聞にして知らない。
(日本唯一?!)
少なくとも福岡県ではこちらだけで、
古事記にあるお二人のエピソードを憚り
木花咲耶姫の象徴である富士山がある関東ではあり得無い、、
凄い稀な神社だ😳
摂社・末社が4社鎮座されている
こちらで玉虫に出会えたら相当ラッキーです
細石神社は小さな神社だが、知る人ぞ知る神社で遠方から参拝に来る方も多い。(古くは佐々禮石神社という)
一帯は、古代のパワースポット。
真東を向き(サンロード)太陽の道にあり農作物の育ちが良く、糸島野菜は糸島の海産物共々、美味しい。
神社の創建は不明だが、
細石は【君が代】の歌詞に
『千代に八千代に細石の巌となりて、苔の生すまで』と歌われている小さな石で、
福岡には君が代を神事で奉納する志賀海神社があり、その君が代の起源から考えれば、
二千年近く前になるだろうか、、?
(弥生時代が終わり古墳時代が始まる頃🤔)
近くの『三雲南小路遺跡』も二千年程前の王墓で、元々は細石神社の境内にあったらしく、こちらがその祭祀場だった。
ちなみに、
志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は元々、細石神社の御神体だったとの説があります。
三雲南小路遺跡で偶然出会った中村先生😂
大学教授で糸島を紹介する本を出されていて(知っとうかいな糸島)ラジオ番組もやっている。
毎日、境内をお掃除されてらっしゃるらしく運が良ければ、先祖代々こちらに住み守りをなさっている中村先生に会えるかもしれない、、
△▼△▼△▼△
『天孫降臨の日本神話』
高天原より降臨してきた天孫ニニギの命は、
「ここは韓の国が見え朝日が射し夕陽が照らす良い土地だと」笠沙岬に向かい宮を建てた。
そして、笠沙岬で美しい木花咲耶姫と出会い一目惚れをする。
父・大山津見神(大山祇神)に求婚の使者を遣わせたところ、大山津見神は木花咲耶姫の姉・磐長姫も共に差し出した。
しかし、姉・磐長姫は醜いと返されてしまった。
それを恥じた大山津見神は、
「御子の命が岩の様に揺るがなくなる様に姉の磐長姫も嫁がせました。
木花咲耶姫は木の花が咲き乱れる様に栄える意味があります。
姉・磐長姫を戻し木花咲耶姫だけを留めたならこれから、天の御子の寿命は花が散る様に儚いものになるでしょう」
と言った。
▲▽▲△▲▽▲
この二人を憚って、
『木花咲耶姫と磐長姫は、同日にお参りしない』という習慣が最近まであった。
当然、お二人を一緒に祭る神社も少ない、、
伊都国は弥生時代の王都。
卑弥呼女王とは別に、伊都国には王がいて「世々王有り」と魏志倭人伝に記されている。
【三雲南小路遺跡】
約二千年前の王と女王が埋葬されていた墳墓跡。
弥生時代は、その後の古墳時代と比べるとそれほど巨大古墳はないが、
弥生時代の古墳としては最大級
しかし、跡地に案内の看板があるのみで他には何もない😳
田園風景の脇にポツンとあるただの空き地にしか見えない、、案内看板はうっかりすれば「売り地」看板として見落としてしまいそうな、くらい簡素なもの。
さして観光地化もされていないので、
「えっ?ここが伊都国の中心?」
というほど、何もない😳
足を踏み入れれることもできるが、
畏む気持ちで。
手前が1号墳・王墓で、奥が二号墳・女王墳墓。
数々の銅鏡、銅剣、勾玉や副葬品が発見された。江戸時代に出土し多くの秘宝が持ち出されてしまったが、今日まで研究が続いてる謎多き古墳。
ニニギ命木花咲耶姫の墳墓とのこと。
( ゚д゚ )彡こちらの空き地が!?
木花咲耶姫の父・大山津見神の古墳は九州日向の国にあるので、日向街道を越えてきたこちら側にその子孫の墳墓があっても不思議はないが、、
あまりにも、さり気なさすぎる😳
ニニギ命は、初代伊都国王となりこの地を治めた。後に、息子のヒコホデミ命が母・木花咲耶姫と共にこちらに埋葬した。
日本神話にある「神武の東征」=
(ニニギ命の曾孫にあたる神武が九州から東へ遠征して国々を統べ、奈良で大和王朝を開き初代神武天皇となった)
これで、西日本は一つにまとまった。
政治の中心は九州から奈良の大和へ拠点が遷り、多くの有力者は移動してていったが、王墓を守る為にこちらに残った子孫達もいた。
この辺りには、その王族の子孫の方が静かに暮らしている。
『筑紫の日向の橘の、』と、神道の祝詞にも謳われ、古事記にも登場する神々の地。
近畿の大和王朝と九州を結ぶ、糸島市【二見ヶ浦】
中村先生の力作『しっとうかいな糸島』
伊勢神宮参拝の前に禊参りをする三重県
『伊勢志摩の二見ヶ浦』、
福岡県伊都市にある『伊都志摩の二見ヶ浦』
近畿・九州とも同じ
二見ヶ浦という名称で海上に【夫婦岩】が祭られている。
夏至の日の朝陽は伊勢志摩の二見ヶ浦にある夫婦岩の間から登り、

伊都志摩の二見ヶ浦にある夫婦岩の間に沈んでいく。🌅
サンロードが繋ぐ古代のパワースポット✨😮
三重県【伊勢志摩】二見ヶ浦・夫婦岩
福岡県【伊都志摩】二見ヶ浦・夫婦岩
800㌔以上離れた伊勢と伊都、
祖先の方は、この場所を同じ名で呼んだ。
ニニギ命、
ヒコホデミ命、
ウガヤフキアエズ命は、
『日向三代』と云われ、神の代(古事記)の終わりであり、
ウガヤフキアエズの子・神武天皇が東へ遠征し、
近畿までを統べて奈良に大和王朝を開き、
これより人の代(日本書記)が始まった。
九州から奈良へ、神代から人代へ、
伊都国は、神話から歴史の移り変わりを大切に偲ぶスポット。

大分県宇佐市安心院✨【妻垣神社】と【三女神神社】

2021-12-12 | 古代ミステリー

宇佐神宮から車で30分ほど、大分県宇佐市安心院町のスポットの紹介。

安心院と書いて「アジム」と読む。


朝霧の地 妻垣山(共鑰山)【妻垣神社】


日向(宮崎)より東征に向かった神武天皇が、ここに立ち寄ったことが由緒とされる。


神武天皇が「朝霧が素晴らしい」といった伝承のとおり、朝霧に包まれ幻想的でした。

 

安心院といえば安心院ワインとスッポン料理、松本清張の小説ですが、

松本清張の古代ミステリーの様に謎めいてます。

(妻垣神社 社殿)

 

神武天皇が東征で立ち寄った妻垣山、

阿曇一族(海神族)の足跡が残る龍王山、

ストーンサークル佐田京石や佐田神社など不思議なスポットが点在しています。

(神門)

 

 


ご祭神 

比咩大神(玉依姫)

八幡大神(応神天皇)

神功皇后

 

 

 

【足一騰宮】
ご祭神 比咩大神(玉依姫)

妻垣神社の本宮。少し離れた所から山路を上がっていく。拝殿はなく岩があるのみ。

神武天皇は朝霧の素晴らしいこの地を気に入り、

母后の玉依姫さまの御霊を祭ったところ、岩の上に御姿を現わされ


「信心を忘れぬ様に岩に足一つの印を付けておく」と告げられ、

一気に山に騰られた為『足一つ騰がり宮』という。

 

神武天皇の東征を、宇佐で迎えたのは宇佐津彦・宇佐津姫兄妹二人でした。

神武天皇が、宇佐津姫を侍臣の天種子の妻にして比咩大神(玉依姫)の宿る『足一騰宮』の守護を命じたことが、こちらの妻垣という名称の由来。

 


参道の山路はかなり急勾配です。

下に車を止め15分ほど登ったでしょうか、

 

ようやく見えてきました。

(目印のように光が差し込んでくれていて✨先ほどの朝霧が嘘の様な晴れ)

 

 

(妻垣神社の本宮😌🙏)

 

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△

756年に、

八幡大神と比咩大神(玉依姫)が語り合い天皇の勅使に「既にこの山に示現しているので社殿を祭れ」との神託を下し妻垣神社の社殿が創建され、比咩大神を主祭神に八幡大神、神功皇后をお祭りしたとのこと。

 

🤔🤔🤔ここでちょっとした疑問なのですが、

何故、

神武天皇の東征から何世紀も後になってから神託と勅命によって祭られることになったのだろう、、

既にこの世になく、神となっていた存在です、、。

756年には、応神天皇も玉依姫さまも、八幡大神、比咩大神という神になられ全国各地に祭られていました。

古事記・日本書記の東征神話にも、神武天皇のこちらでの事は記されてますし、大和朝廷が大和朝廷を開いた初代神武天皇の母后玉依姫の事を祭り忘れていたとは考え難いですし😅

(『信心を忘れぬ様足跡を残す』と告げられたのに社殿造り忘れてた?😳)


安心院のという地名の由来は、

比咩大神がこちらの院に腰掛けて、
霊界で修行中の応神天皇(八幡様)と民を救済させる利生を語らい「安心した」からだそうですが、

この伝承ですと、

「玉依姫さま(比咩大神)がまだ人として生きていて、この世に生まれてくる前の応神天皇と語らっていた」


という感じもします、、🤔

😅時代が交錯してる?

もしかすると、

八幡大神と比咩大神と呼ばれているのは、

=応神天皇と玉依姫様ではなく、

別の神様が封印されているのかもしれません🤔

八幡宮は、応神天皇が弓矢の名人だったことから
「弓矢八幡」と崇敬され武家社会で広がりましたが、

八幡=応神天皇ではない説もあります。

元々は、武家の神様ではなく、海の神様だった八幡様。

すると、756年に現われた八幡大神とはどんな神様だったのでしょう、、

武神、海神、、または別の神様か?🤔

 

 

【三女神社】

ご祭神 宗像三女神

 

(参道)

 

、、、話しがそれますが、神社あるあるです↓

 

(ここからは本文と画像は関係ありません😌☝️)


これは、知られてるようであまり知られてない神社あるあるなのですが、

表向き神社で祀られている神様と、

実際に祀られてる元々の神様が違う場合があります。

元々の神様が抜けてしまって、他の神様が入ってる様な神社もありますが、、

 

一番よく知られているのは、神仏習合の時代に神社の神様が全て仏教の守護神に変えられてしまった事。

(スサノオ→牛頭天王、豊受大神→馬頭観音など)

次に、明治の神仏分離の時に、古い古い神々は天之御中主神や国常立大神に変えられていきました。

特に朝廷に服さなかった神々は名をあげることなく別の神様の名前で祭られています。

 

例えば、、

大和朝廷のヤマトタケルの東征・征西で帰服した(祭ろうた)神々たち。

全滅させられた訳ではないので、子孫や一族はその後も残り密かに祖神様を祭ってましたが、堂々とその名をあげ祭る事は出来なかったため、
その奥さんを比売神様として祭っていたりします。

女性の神様が祀られてる神社なのに、男性的なエネルギーを強く感じたり逆に

男性の神様が祀られてるはずなのに、優しい女性的なエネルギーを感じたりするのもこの為かと思います。

鰹木や千木によっても違いが分かるので、それが唯一の表現かもしれません。

 

(三女神神社)

 

【妻垣神社】と【三女神神社】

こちらの神々は、神代から人の世にかけての伝承がまたがっていたりして、不思議な伝承が残ってますが、足跡を知る為の大切な存在が鎮座されている気がします。

一度行ったくらいでは伺い知れない

繋がりたいスポット。

 

 


神奈川県大磯 高麗山【高来神社】

2021-12-10 | パワースポット

(高麗山 高麗権現跡地)

神奈川県大磯町 高麗山『高来神社』

海を臨む標高168 M の高麗山に祭られている。

 

【創 建】 神功皇后(4世紀末)

 

古代より高麗山は、神の宿る山として崇められていた。

神功皇后が三韓征伐の後、高皇産霊と高麗大神和光(高麗権現)を祭り、

後に神功皇后、応神天皇、ニニギノ命が祭られた。

『参道』

 

社殿の裏から、高麗山の頂きまで登れる。15分〜20分ほど

左が男坂で、右が女坂。

 

『高麗山男坂』勾配はきつめですが、案外登り易い。

小さなお子様も登っていたり、、😌

 

『登頂へ続く石段』

 

山の頂きに祭られていた『高麗権現』さまは、

箱根神社と伊豆山神社に遷祀された。

 

頂きは跡地で、小さな祠だけがある。

 

頂上の祠の左奥に、尾根づたいに続くハイキングコースがあり、よく整備された山道を30分ほど歩くと平塚市の高麗山公園に着く。

人気のトレッキングコース

高麗山公園(湘南平)は、夜景が綺麗で太平洋を臨むスポットです😌。

 

7世紀末、朝鮮半島の北にあった高句麗が唐に滅ぼされると、高句麗の若光王は和国へ亡命し、こちら大磯へと上陸してきた。

高麗という地名の起源となる。

 

717年に僧行基が高麗寺を創建し【若光王】がまつられ、

神仏習合の時代を経て徳川家康権現が勧請された。

 

明治の神仏分離になると、高麗寺は廃寺となり高麗神社が残り旧観音堂に社殿が祭られたが、

高麗神社は高来神社に改名された。

 

【高来神社 社殿】(旧観音堂)

紆余曲折の歴史を超えてずっと在り続けてきたのは、

ここの山が聖地として崇められてきた由縁だろう。

 

(手水舎)

 

 

目立たないのでちょっと分かり難いですが、社殿を正面にみて境内の右側、奥の奥の方へ行くと下へ降りる小路があり、神水が頂ける。

 

(御神水)

 


高句麗の若光王はここから50㌔北にある埼玉県日高市の

高麗山の高麗神社の方に移っていった。

大和朝廷は高麗郡を設置し、若光王は朝廷より『高麗王』を賜って郡主となって高句麗の渡来人たちが集められ関東の開発にあたった。

埼玉県日高市の高麗山、高麗神社〜聖天院付近もちょっとしたトレッキングコース。

こちらも推すめしたいです。

 

箱根神社に遷し祭りされた後の跡地は、がらんとしてますが、

汗をかいてでも登りたい聖地✨✨

時間があればこちらを参拝した後、遷祀された

⛩️箱根神社にお参りするのも良いかもしれません。


福岡古えの津【那珂川】パワースポット5選

2021-12-05 | スピリチュアル

現人神社・妙見神社・安徳宮・裂田神社・高津神社

(妙見神社 鳥居)

博多から車で30分程。那珂川市にある『現人神社』から、

那珂川上流の妙見神社、安徳宮、裂田神社、高津神社と周ります。

光映りがすごい✨

 

【現人神社】
ご祭神 住吉三神『底筒男命・中筒男命・表筒男命』

御神徳は仕事運、就職運アップ、商売繁盛など。

 

イザナキが、亡くなられた妻イザナミに会いに黄泉の国に行った後、

禊を行い穢れを払った時、沢山の神々がお生まれになり、住吉三神は

そのうちの海の神様。他に【綿津見三神】ワダツミという海の神様も一緒に生まれた。

 

 

神功皇后の三韓征伐の時に、

海の神様、底筒男命・中筒男命・表筒男命ら住吉の三神が、人の姿となって現れて神功皇后を助けたことから、三韓征伐の後、神功皇后が「現人」と名付けたのが由来。

(三韓征伐=4世紀末、神功皇后が新羅、任那、百済を朝服させに那珂川より出航した)

 

全国に2千以上ある住吉神社の起源といわれる。

(博多の住吉神社は、最初の住吉神社らしいです)

 

『恋ぼんぼり💖』境内摂社 地禄神社 ご祭神【埴安彦・埴安姫】

 

弥生時代は博多方面は海だったので、この辺りが海岸線で海の神様が祭られたのかもしれません。

7世紀頃、福岡県に大宰府や水城が次々と構築されるまでは那珂方面が拠点で、

弥生時代は糸島半島(伊都国)が玄関口となり、那珂川市・春日市(奴国)が王の拠点となってました。

 

(手水舎)

住吉三神の『筒』という字は、『星』の意味もあるらしく、三つ星(=オリオン座三連星)は、勝利の星として武将に崇められてました。

オリオン座三連星は発見しやすく、海を渡る船乗りにとって目印にもされた馴染みのある星。

仕事運だけでなく勝負運や旅にも縁起良さそう😌✨⛩️

 

 

【妙見神社】

現人神社から那珂川の上流へ車で10分ほど行っただけですが、

雰囲気が変わり山に祭られてる神社が多くなります。

 

御祭神 天ノ御中主(アメノミナカヌシ)最古の神様です。

今度は、三つ星(オリオン)でなく「北極星」

神社の名称となってる妙見とは=北極星のことで、

北極星もまた船乗り達にとっては一番の目印にされていた星。

 

社殿はなく小さな祠だけの神社

 

沢の斜面にひっそりと鎮座している神社。

 

 


【安徳宮】

安徳台にあり、安徳天皇を祭る。

安徳天皇は平氏の平清盛の孫で幼くして即位し(3歳)、政治は平清盛が行ってました。

安徳台という60M ほどの台地の上にあり少し分かり難い場所です。

ミカン園さんの手前からいきました。

 

(ハート型の巨大古墳?🙄)

 

12世紀源平合戦の頃、平家が安徳天皇と三種の神器と共にこちらに都落ちしてきて仮宮を置いたのが起源で、安徳台という地名の由来になってます。

 

(安徳宮 ✨不思議な光…)

 

 

(下り龍??🙄)

 

7世紀には百済援軍の際、斉明天皇が磐瀬宮を置き、

5世紀には神功皇后がここから出航し、

2世紀には奴国の拠点があったとされ、

安徳台遺跡からは銅剣や鏡、43個のゴホウラ貝の腕輪をつけた王や王妃の遺体が発掘されている。

西暦107年に漢に使者を送った『倭王帥升』こと角杙尊の王墓との説があり

今のように福岡平野が広がるまでは、古代の重要拠点だったようです。

 

 

【裂田神社】

 

 

安徳台の麓にある小さな神社。ご祭神 神功皇后

 

 

「神功皇后は三韓征伐へ、那珂川のこちらから出向し無事に戻ってきた。

神々へのお礼に「現人神社」の神田をここに開くことになった。

しかし用水路に大きな岩があり困り果てていたところ、

神功皇后が家臣に命じ神に祈りを捧げると突然、

凄まじい稲光と雷鳴が響き落雷し大岩は裂けた。」

 

 

以来、この辺りを轟きの丘といい、

用水路を『裂田の溝』といい、ここ裂田神社に神功皇后を祭ったという。

 

こちらの裂田神社付近を流れる「裂田の溝」は、

1600年を経た現在でも用水路として使われていて、全国でも類例が無い貴重な流れ。

 

今も変わらない澄んだ水を湛えている。

 

 

 

【高津神社】

那珂川市の中でも謎が深そうな神社です。

ご祭神 高津稲荷(豊受妃大神)

『高津宮』は仁徳天皇の宮を言いますが、こちらではお稲荷さんとして祭られている。

 

元寇の時に砦があった城山、岩門城跡近くに鎮座し、

急な石段を登るトレッキングコースで、子供も老人もいい汗がかけます。

鳥居が続き、登りきると大きな岩座があり、岩の上に社が祭られている。

 

 

 

子供しか通れない小さな鳥居。(子供会の登山コースになりかぢ…)

麓にある『伏見神社』というところが里宮で、こちらの高津神社が元宮ともいわれてますが、

伏見神社では「お稲荷さん」は祭ってなくご祭神 は【ヨド姫】です。

 

難波=波が打ち寄せ住みにくい場所のこと。

博多が海だった頃は、もしやこの辺りが難波だったとか?と思いも浮かびますが

この辺りは「奴国の地」で奴の津→ 那の津→ 難の津と、こちらが難波であるとの説もある様です。

 

(伏見宮)

 

 

 

那珂川の歴史は深く、

一様には伺い知ることのできない畏怖の念を感じますが、

懐かしくて尊い場所でした。

 

紹介しなかった所も含め、

また機会があれば行ってみたいです。

 

 

 


大分県【宇佐神宮】光輝く✨ 八幡宮総社

2021-12-04 | スピリチュアル

八幡総本宮【宇佐神宮】(宇佐八幡宮) 大分県宇佐市南宇佐2859

宇佐神宮大尾山【大尾神社】八幡大神

今回見るだけで運気が上がる』様な画像が多くフォトチャンネル並みに画像多めです。

大鳥居

【宇佐神宮】大分県宇佐市南宇佐2859

宇佐八幡宮とも言い全国にある八幡宮44000社の総社。豊ノ国一之宮でもあり60万平方メートルの広大な敷地に鎮座する。八幡宮は日本一多い神社で、神社総数が11万とすると、神社の半数近くが八幡宮ということになる。

神橋

大分県北部、国東半島の付け根にある宇佐市、卑弥呼説やかつて秦王国があったエリアに祭られ

『天皇家第二の祖廟』とされ栄えた由緒ある神社。『下宮』と『上宮』がある。

大鳥居から真っ直ぐいくと『下宮』。その右側にひっそりと『払所』がある。

心が洗われるような光、、

手前の下宮からお参りします。上宮も同じ神様が祭られている。

【ご祭神】応神天皇 姫神 神功皇后

下宮への階段の横の「払い所」

優しい光が溢れるとても穏やかな空間で、

心が洗われる様な光のシャワーでした。

何もかも不要なものが流されて、浄化されます。

時間が経つに連れて輝きを増していき、ここまで光るともう元の払所見えません。

まるで、 祝福されてる様な光に、優しく包まれた奇跡のショット✨📸

スマホカメラの進歩で光遊びはだんだん鮮やかになってきましたが、

それでもたんに「光とカメラの角度」というだけでなく、

その日その時間だけ、

天候と、季節による太陽の高さと、方角と神社が重なって、雲や木々の葉のゆらぎが光をスペクトル化してくれて、はじめて撮れる不思議な映像です。

撮る人によっても違うみたいですが、私が撮るとピンク色が入ることが多い。

この日は10月31日11時過ぎに此処にたどり着きました。

宇佐神宮へ向かう途中、軽トラがノロノロ前を走ってたり急ぐアオリ屋さんに道を譲ったりなどスピードに緩急はありましたが、この場所にこの時間に着けて良かったです。

神社巡りをする時はよく、

道に迷ったり渋滞に巻き込まれたり、逆に思った以上に早くついたりしますが、

急いでもゆっくりでも到着する時間は結局同じという時があり、そんな時は予定はおいて流れに任せてくと、ああ、この場所にこの時間に到着で正解だったな、😳と感じることが往々にしてあります。

たまたまですが巳歳の人と神社に行きちょっと迷い、結果的に巳の日に、巳の刻、巳の方角、からだったという時もありしました😂

『下宮』社殿

左【応神天皇】中央【姫神】右【神功皇后】

何故か理由は分からなくなったそうだが、古来より二拝四拍手でお参りする習わしらしい…

下宮に向かって左側には『上宮』への階段があり登ると手前に若宮社がある。

若宮神社 ご祭神【仁徳天皇】

鳥居の正面は工事中・・・完成予想図が描かれた緞帳が掛かっていた。

『上宮』社殿 こちらも 

左【応神天皇】中央【姫神】右【神功皇后】二拝四拍手でお参りする。

社殿の正面には「大元神社」遥拝所がある。

神代のころ最初に比賣大神(ヒメおおかみ)が三神、向かいにある御許山(宇佐島)に降臨し、

大元神社が鎮座したのが宇佐神宮の発祥とのことで、こちらから遥拝(おがむこと)ができる。

左【応神天皇】

中央【比賣神】さま

「下宮」「上宮」と周り、一旦下に降りて「八坂神社」へ

隣の春日社も工事中らしくこちらで一緒にお参りする。

大鳥居の前まで戻り、東方に鎮座する大尾神社へ向かうことに。

さり気なく立札と「大尾山参道」石版とが標示されてるが、

歩いていくと結構距離がある。

その上、参道を抜けてから石段を登り山へと上がる。

登頂まで車で行ける様だったので、ここで引き返し車で行くことにした。

宇佐神宮はともかく広く、宇佐神宮球場から大尾山までが神域のようだ。

ゆっくり一日かけて周りたいところ。周れない社もあったが、今回は『大尾神社』までに。

【大尾神社】おおお神社

😳驚く様なよび名の神社✨見るだけで運気が上がる【光輝く神社】⛩️

雲の形も、神々しい✨✨

御朱印に描かれている雲紋(神紋)の渦巻模様みたい、、

大尾山の上にあり、車で登れるがここまで来ると参拝客は殆どいなかった。参拝時、宮司さんご夫婦らしい方と出会ったが、それからはずっと1人きりだったので暫くここに滞在した。


749年 八幡大神が奈良に行かれ戻った後、大尾山にしばらく滞在すると告げられた為、こちらに社殿が設けられ15年間滞在したのが起源という。その後、宇佐神宮の八幡大神の分祀として祭られた。

ひっそりと鎮座されている。格子戸を開け中に入り参拝する。

この八幡大神様は、八幡大神=応神天皇とされてますが別の神様であるとの説があります。八幡大神が奈良に行って戻りこちらに鎮座したというエピソードと、応神天皇も不思議な示現をして顕れ祭られたエピソードがあるので、二柱の神様が習合しているのかもしれません。

応神天皇が弓矢の名人だったことから「弓矢八幡」とうたわれ武士の崇敬を集め全国に八幡宮が広がっていったのは確かなようです。

【頓宮】


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ここからは、

『宇佐神宮の謎』に迫ってみた✨⛩️

古代ミステリーロマン的にまた長々と書いています(¯―¯٥)今までも長かったですが、、🙏

天皇家第二の祖廟といわれ、古代では伊勢神宮を凌ぐほど栄えていた宇佐神宮。

最近では安倍昭恵夫人とドルフィンドクターが自粛中にお参りし話題にもなったが、大分の片田舎の神社の様に思われ天皇家第二の祖廟とまではあまり知られてはいない様だ。

宇佐神宮は、小椋山(亀山)という小高い丘の上に建てられているが、ここが伝説の女王『卑弥呼』の古墳だという説がある。

魏志倭人伝に「卑弥呼の墓、径百余歩」とあり、丁度その大きさに小椋山が合うらしい、、

八幡造りという社殿の形も巫女が神意を伝えた宮であろかと彷彿させるし、

何よりも拝殿の中央に姫神が祭られていること、

もともと三女神が降臨したことが信仰の起源であり、

それが「宗像三女神」ではなく「姫神」「三神」等と名前を伏せて祭られていること等が、

ある特別な女神の存在を感じずにはいられない。

これが宇佐神宮の謎だ。

日本の史書「古事記」「日本書紀」には

卑弥呼の名は一切登場しないし、邪馬台国や狗奴国、魏国との関係も全く書かれてないので、素直に考えれば大和朝廷の歴史とは直接は関係はないのだろう。

中国の史書「魏志倭人伝」と朝鮮半島の史書だけに卑弥呼は登場する。

魏志倭人伝では『ヒミコ』の後『トヨ姫』が跡を継ぎ、

その後記述は不明だが、

『タマ姫』『ヨド姫』がトヨ姫の跡継ぎとなったのかもしれない。

三女神「ヒミコ、ヨド姫、タマ姫」或いは

ヒミコの跡を継いだかもしれない

三女神「トヨ姫、タマ姫、ヨド姫」

ここ宇佐に女神・三代が鎮座していた可能性はある。

その後は応神天皇、神功皇后の時代となり宇佐で新しい信仰の歴史が始まった。

(この三女神は「古事記」「日本書紀」には登場しない神々で、まだまだ謎が深く闇に包まれてますが、何れ明らかになっていくかもしれません😌)

宇佐神宮大尾神社の起源である八幡大神は、奈良に行ってきてから大尾山に15年間滞在したというので元々は人間だと思われるが、神として祀られる存在でもあった。

⛩️☝️(今更ながらの当たり前ですが🙏一般的に神様とは『創造主』『創世主』をのぞき、空海、ブッダ、イエスキリストがそうであるように人々のために生きた人が亡くなられた後、神として崇められた大切な存在というのが殆ど😌)

もし宗像三女神がこの地に降臨したならば、それも素晴らしいことだと思う。宗像三女神は、多紀理姫と湍津姫命は同じ大国主に嫁いでるが、三姉妹ともそれぞれを生きた感じがしてるので、三女神が同じ地に降臨したというエピソードは貴重に感じる。

しかし、何といっても

宇佐神宮と言えば「御託宣」集である。

(宣託=チャネリング)

宗像三女神が神託を降ろす神というのは、あまり聞いたことがない。

上古の『祭政一致』の時代は

女王=巫女であり、神意を伝え

「祭りごと」と共に「政りごと」も反映したが、大和朝廷が日本統一を果たしてからは宇佐神宮は託宣を伝えるのみの政治分離した存在となった。

8世紀に権力者の「道鏡」という僧が、宇佐神宮の御宣託を偽り帝位につこうとした事件があったが、少なくとも8世紀頃までは宇佐神宮は御宣託を降ろす宮として大和朝廷に対しその役割を担っていた。

道鏡は、宇佐神宮の御神託さえ得られば皇位につけると本気で考えていた。

大和朝廷の天皇から宇佐神宮への使者・清麻呂に

「道鏡が天皇になれば天下泰平になる」というご神託に沿うこたえを持ち帰れば大臣にするとはたらきかけた

しかし清麻呂は節を曲げず

「天の日継ぎは必ず、帝の氏が継ぐ」というご神託を持ち帰ったところ、

権力者道鏡は怒り清麻呂を流罪にしたうえ名前を清麻呂から「きたな麻呂」に改名させてしまった。

宇佐神宮のご神託が大和朝廷に重く扱われていたエピソードのひとつであり、

伊勢神宮とは別に、天皇家第二の祖廟として御神託が重く受けとめれていた事が分かる。

第一の祖廟である伊勢神宮は、もともと大和朝廷の近くに海がなかった為、渡海氏の磯宮だった場所に天照大神様を祭ったものだが、更に伊勢神宮に『内宮』を造営して、伊勢神宮を日本一の社格にまでしたのは天武天皇だ。

この僧・道鏡のご神託事件の時代は天智天皇系に戻る前の時代で、

伊勢神宮を造営した天武天皇系の時代だったにも関わらず、宇佐神宮のご神託が重要視されていた事は、第二の祖廟と言われるだけある。

或いはまだ、宇佐神宮の様な御神託(チャネリング)が受けとれる巫女が他にいなかったのかもしれない、、🤔

巫女や御神託の話しになると長くなるので、詳しくはさておき、

宇佐神宮は天皇家第二の祖廟と言われ、伊勢神宮を凌ぐほど古代の人々の尊崇を集めていた。

他の神社の様な「二拝二拍手」でなく

二拝四拍手の習わしは、

大分の【宇佐神宮】

新潟の【彌彦神社】

島根の【出雲大社】の三社のみ。

宇佐神宮のある九州は胴鏡

彌彦神社のある新潟は翡翠

出雲大社のある出雲は鉄剣が手に入った為、

大和王朝は、胴鏡(八咫鏡)・翡翠(八咫勾玉)・鉄剣(草薙剣)などそれぞれ神器を差し出させて

征服者側の大和朝廷の封じ込めによって、二拝四拍手の習わしになったのでは?との説もある。

確かに、三社の共通点を紐解くとそうかもしれない。

元々、三種の神器というものはなく【剣】と【鏡】の二種が神器だった。

後に、【勾玉】が加わり『三種の神器』になったが、

神武天皇の東征ルートにある様に、九州、中国地方を降して奈良にいき大和朝廷をひらいたが、その後に新潟の越ノ国を降したとすれば、翡翠の勾玉が最後に差し出された神器となり丁度辻褄が合う。

出雲の「国譲り」は知られているが、他にも古事記・日本書紀に記されてない大きな合併があったとしても不思議ではない。

至極当たり前のことだが、

古い祖先がいない人など、 いない。

人間である以上

必ず父と母、2人の人間から生まれる。

祖父方の【祖廟】、

祖母方の【祖廟】、

祖神(おやがみ)の存在も

二つあって当たり前なのだ。

古代では、同じ祖廟を持つ近親婚姻も当然あったにせよ、

婚姻による合併で国と国を統べてきた経緯が多くあるので

その系譜によっては

第二の祖廟として同じように敬われる大切な存在があったのだろう。

私達にも、必ず2人の

お婆ちゃんとお爺ちゃんがいる、

父方母方どちらのお婆ちゃんが好き?

どちらも。

古代の人々も、その様な素直な気持ちで二つの祖廟を愛し

崇敬していた時代があったのかもしれない。

天皇家第二の祖廟といわれた

宇佐神宮は優しくあたたかく、

とても懐かしさを感じる

ヒーリングスポットでした。

✨✨✨✨✨✨🙏🙏🙏

次は1日ゆっくり周りたい😌🙏