九州福岡県 志賀島 【志賀海神社】
御祭神=ワタツミ神三神 【底津綿津見神】【仲津綿津見神】【表津綿津見神】
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓によって住吉三神と綿津見(ワタツミ)三神が生まれた。 志賀島は漢の武帝による奴国の【金印】が発見された島として有名だが、周囲11㌔しかない小さな島だ。
このところ【青島神社】【穂高神社】と海神族(ワタツミ)の聖地が続いた。
志賀海神社は、海の神総本社で古代海神族である安曇氏の発祥の地。
『龍の都』とも云われ君が代の祝詞の伝承で知られる(山誉祭)
楼門
安曇百足が土蜘蛛を退治したことに由来する歩射祭が1月に行われている。
志賀島北側の勝馬という所に御手洗という沖津宮があり禊祓の伝承もあるそうだ。
摂社
【亀石のある遥拝所】
神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで亀石が奉納された。神功皇后が鹿の角を納めた事に由来する鹿角堂には一万以上の角が奉納されているとのこと。
海神族は、世界最古のシュメール文明が滅んだ後、船で東方へと渡ってきたシュメール人の
末裔とも云われ、自ら「龍の末裔」と称していたらしい、、、
とても小さな志賀島にも、悠大な起源が感じられる。
志賀海神社 福岡県福岡市東区志賀島877
【織幡神社】福岡県宗像市鐘崎 佐屋形山頂
神功皇后と竹内宿祢、応神天皇 天照大神、そして、
海神族の海の神様がすべて祭られている。
宗像族【宗 像 大 神・三柱】 タギリ姫 タギツ姫 イチキシマ姫
安曇族【志賀海大神・三柱】 底津綿津見 仲津綿津見 表津綿津見
住吉族【住 吉 大 神・三柱】 表筒男 中筒男 底筒男
織幡とは、神功皇后の三韓征伐の際、竹之内宿祢が御手長という旗竿の「紅白の幡」を織ったことに由来する。紅白の旗は壱岐の天手長神社に祭られている。
岬にある佐屋形山 麓の鳥居
重みを感じるスポット
竹内神社でもそうだったが【竹内宿禰】にぐわんっと感じるのは私だけだろうか?
「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし」と言いった竹内宿祢の御霊がまるで今もこの地に坐されているかのようだ。
境内には竹内宿祢が沓を残して昇天したという沓塚がある。
狛犬が少し珍しい
神功皇后による三韓征伐の際、龍の都の龍王より、住吉大神の「潮干珠(しおひるたま)、潮満珠(しおみつるたま)」を授かって、新羅へ出兵し勝利へ導く。
「龍の都」或いは竜宮とは志賀島にあったのだろうか?
巨石
鐘崎という名のとおり、古くから岬に釣鐘が沈んでいるとの伝承があって、宗像氏、黒田長政、が引き揚げようとしたが失敗。大正時代になって引き揚げられたが只の巨石だったとのこと。
織幡神社 福岡県宗像市鐘崎224
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
神功皇后(気長足姫)は謎が深く、竹内宿祢とともに非常に強い重みを感じる。
三韓征伐では神功皇后は臨月だったが石を腰にはさみ出産を遅らせ、宣託に従わず命を落とした夫・仲哀天皇に代わって出兵し、新羅の国半ばまで急襲し降伏させた。
しかし学説では?日本書紀に挿入された架空の人物とされてしまってるので、伽耶、九州王朝、モンゴル迄、そのモデルとなる出自に、逆に憶測がわく。
戦とは将軍の仕事であり、王が自ら兵を率いることは世界的に少なく、まして王妃が共に出兵し王にもしものことがあった場合は王妃が代わって指揮を採るという軍制は、モンゴルの遊牧民と日本にしか無いらしい…。
(私としては、伽耶を舞台にした韓国ドラマ『キムスロ』のチョンギョン妃が、神功皇后の力強いイメージにピッタリとはまる…鉄造りの小部族が王を立てて立国しようとする話はそのまま日本の歴史ドラマに置き換えて観ても見ごたえがある)
全国に神功皇后を祭る神社は多く年代もまばらで、いちいち日本書紀の偽に合わせて祭っていたとも到底思えず、史書の記述とはまた別に、深い信仰としてあり続けた存在の霊性を感じる。
まだ朝鮮半島と日本列島が未分化だった時代。
海峡を挟んで同一の諸島文化が存在していた。
広大なアジア大陸を遙かな時を経て移動し、
大陸北方の陸ルートで移動し半島から渡ってきた(元?)遊牧民族と、
大陸南方の海ルートよりやってきた海神族とが九州で共に出合った。
一説によるとその後、海神族であるアズミ族は「磐井の乱」で九州勢が敗れた後
九州を離れ長野県の上高地へと移動し、一部のアズミ族は更に海を渡って、
ネイティブアメリカンのズニ族になったという。
いい加減でおおざっぱな
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