聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

入谷【小野照崎神社】東京の下町パワースポットと、狛猫

2022-07-31 | スピリチュアル

【小野照崎神社】東京都台東区下谷2丁目13−14

東京の下町 入谷に鎮座している神社⛩️

 

 

 

『小野篁公』を祭る。平安時代の従三位・参議 

弓馬に長じ反骨精神のある平安時代の歌人で、文徳天皇の教育係りも努めた。

 

 

入谷の日光街道沿いから少し路地を入ったところに鎮座されている。

東国へ下向してきた時に、こちらに住んでいたという

 


小野篁は、詩人であり画家でもあり「その才、神に至る」とまで称されていた為、

アーチストや芸能人の崇敬を集めていて、


渥美二郎がこちらで願掛けをしたところ、


『男はつらいよ』の役が回ってきたというエピソードがある。

 

 

 

神社の

 

 

狛猫😆⛩️ちーちゃんと黒ちゃん発見!

 

 

こちらが黒ちゃん(でしょうとも😅)

 

 

頼んだら顔あげてくれた。

 

 

こちらがチーちゃん

 

 

例によってお願いしたら、スフィンクスポーズとってくれた。懐っこい✨

 

 

何気にドヤ顔😂

 

 

摂社

 

 

こちらでは、月がわりの御朱印や待ち受けを発行しているらしい

涼やか✨✨✨

 

 

長文の投稿が続いてましたが、今回はさくっと😌これで✨

 

読んで下さってありがとうございました🙏✨


竹内文書【御皇城山皇大神宮】富山県ミステリースポット

2022-07-30 | スピリチュアル

【御皇城山皇大神宮】

富山県富山市の呉羽山(呉羽丘陵)にあるひっそりとした神社。

 

久しぶりの宇宙系のスポットです。

発光現象やUFO目撃などがある不思議なスポットに祭られている神社。

 

富山市の呉羽山の山麓にあるが、八幡山とも城山とも言われてるのも不思議だ

 

皇祖皇大神宮との名称ですが、

古事記・日本書紀、伊勢神宮の天照大神を皇祖としている神宮ではなく、

『竹内文書』を拠りどころとしているらしい、😮

 

 

由緒で祭られている神様は、古事記に寄せてはいますが、

馴染みのないお名前の神々が沢山😳

 

 

私は『竹内古文書』に関心がないので、よく分からないが、

ご由緒は地球が出来る前から、、😅

磁場がなければ星も銀河もできない。

地球が出来る前、既にここの座標に磁場があったということだろうか?🙄

 

 

かつて大神殿があった場所に、位山(岐阜県)の神通川から降ってきた天照大神が再建されたという。

モーゼ、ブッダ、キリスト、空海、モハメッドなど世界の聖人たちはここへ来て修行をし、それぞれの流派を開いていったらしい。🙃

 

神道というより、新興宗教にありがちな

オールインワンタイプ=「全てこちらが本元ですよ」的な

マウンティングに感じてしまう、、😂

 

と、思ったら『天津教』という教派神道の神社でした😅

 

信者の方が丁寧に掃除をされてるようで綺麗だった。

 

幕末から明治にかけて、古来より続く神社の神道

『神社神道』とは別に

『教派神道』という

新興宗教が数々起こった。○○教という教祖様がいる教団タイプで

根源的で包括的な教義・教典が特徴だ。

 

 

お参りのしかたは、手を合わせて拝むのでなく、特殊な印を結んでの四拝。

八拍手は他にもあるが、こうした拝み方は他に知らない。

鞍馬山でやってそうな人がいるかもしれない…

この参拝法も、奥義全部のせ感がある、、😳

 

『根源的で包括的』なのが=新興宗教とはいえ、、😑

モーゼ、ブッダ、キリスト、空海、孔子、など包括もテンコ盛りで、

こちらに来て皆さん修行してましたという根源感もハンパない、

世界の全ての宗教を見事にマウンティングしてる。

 

 

 

竹内古文書への信仰や宗教団体としての由縁はさておき、

竹内文書に関心がないビジター的にも、

この場所の独特な雰囲気は感じる。

 

色んなエネルギーが集まりやすいという。

 

最初の印象では、茨城県の神社に雰囲気が似てる?御岩神社(峨眉礼宮)?ぽいと思いましたが、

茨城県からの遷宮な様です。

総本庁は茨城県の皇祖皇大神宮

通称むっちゃんこと武内宿禰73代目の竹内 睦泰とは違って、

こちらは宗教教団色が強い。

 

ガイドしてくれた方は以前来た時、

ここで出会った掃除をしている方から龍神の画像を見せられたそうです。

 

案内して頂き行ってきましたが、

何故か、なかなか辿り着けず?😅?

カーナビでの路線は工事で通行止めになっていて、行ったり来たりして


最終的に富山大学の敷地の前まで来ましたが何故がまた道が塞がれ??

 

富山大学の敷地の間から、なだらかな参道を上がっていく。

 

ネットで検索すると

富山の『裏パワースポット』などと軽〜い感じで紹介されていることも多いですが、、😑

確かにそうなのかもしれませんが、、、😅

軽々しくお参りする感じではなかった気がします。

 

 

後で分かりますが、

参拝者の駐車が迷惑で道を通れない様にしていたという

不思議なおじさんが現れました。

他の方々への思いやりで、神社の下、富山大学の敷地前のジャリ道には駐車しない方が良いかもしれません🙏

 

パワースポットというよりも

ミステリースポットかもしれない、、、

行く人にもよりますが、

私はあまり長くいない方がいいかな?という感じでした。

といいつつ長くいましたが、、😅


 

 

このブログで、黒又山ピラミッド、皆神山ピラミッドなど

天然の地形を利用した縄文ピラミッド=環太平洋型ピラミッド

を幾つか紹介してきましたが、

こちらの山はピラミッド型では無いですが、

類似する世界観を感じます。

富山平野に龍が横たわる様な不思議な形をしてる😳

 

それにしても、、です。

喜界島の『大本教』の聖地にいった時も感じましたが、

新興宗教というのは、よくこういう不思議な場所を探してくるな、

とつくづく思います。

祭り方なのか、祀られる存在がそう感じさせるのかは分かりません。

根源的・包括的な教義経典やUFOや光の柱など別にしても、

スポットとしては不思議な空間です。

✨✨✨✨☝️☝️

 

私は長らく神社巡りをしてるうちに

神道と宗教は別物という意識が芽生えてしまった😅💦

もちろん神道を宗教利用しようとしたり、政治利用したりする歴史はあったし、国にとって宗教政策は徴税や軍事の様に重要なものだった。

それでも神道そのものは、宗教とは

次元の違う精神性のような気がしている。

 

竹内文書や宗教団体のことは分かりませんが、

 

最後に竹内さんのお話しをちょっと↓↓
😅🙏


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


弥生時代が終わり、大王の時代=
古墳時代となった四世紀頃のこと

神功皇后の忠臣・竹内宿禰
(タケノウチスクネ)という人物がいた。

※忠臣でなく実は天皇だった説あり
(慕容🙄)

その千年後、

鎌倉時代末〜室町時代に天皇家が南北二つに分裂して争う『南北朝』の大乱が起きた。

まず、

鎌倉幕府と後醍醐天皇が対立、

幕府軍の足利尊氏の5万超の軍勢に
対し
天皇家に味方するのは楠木正成500、

天皇方は敗れ楠木正成は玉砕⚔️
後醍醐天皇は島流しとなる。

が、楠木正成は散っておらず
後醍醐天皇は島抜けし、再び倒幕軍を挙兵する。

幕府軍を率いていた足利尊氏は突然幕府を裏切り天皇側につき、鎌倉幕府を滅ぼす。

楠木正成と足利尊氏は功臣となったが、足利尊氏は今度は天皇家による政治を行おうとする後醍醐天皇を裏切り対立する天皇を擁立し足利幕府を樹立。

後醍醐天皇は、京都から南へ逃げ仕方なく吉野に朝廷を開き、

全国の武士は南朝方、北朝方に分かれ大乱となったが、最終的に足利幕府によって南朝の後醍醐天皇側が滅ぼされた。』

南朝は滅ぼされましたが、

天皇家の忠臣・竹内宿禰の子孫が

南朝の正統性をしろしめす天皇家に伝わる秘儀や秘宝(三種の神器)古文書を大切に守っていたという、、

戦国時代に消失したと思われるが、

竹内文書と呼ばれるものは、これを出典の由緒として結ぶものが多いようです。(真偽のほどは分かりませぬが🙃実は残っていたという)

皇祖皇大神宮という天皇家の祖神を祭ってる様な御社名も、

天皇家の正統性を謳っているという事なのかもしれない、、

(楠木正成や竹内宿禰は祭られてないのかな、、?😑)

 

余談の思い出話しですが、
私が歴史ヲタクになったきっかけの一つ、小学校の頃

竹ノ内先生という方がいて、

歴史の授業で教科書を使わず、ずっと
『南北朝』時代をやっていた。

一学期まるまる南北朝😂

各自、南北朝を調べ発表することになり図書館で調べまくった。初めて歴史散策という体験をさせて貰った。

今思うと、竹ノ内先生こそが、

南朝方の竹ノ内宿禰の子孫の末裔だったのかもしれない?🤔

 

(違うと思います😅)

 

 

😌神社に話し戻します、🙏

 

今回は、普通の神道の神社ではなく、

教団の神社⛩️


明治時代に竹内巨麿

という方が竹内家に伝わる竹内古文書を受け継ぎ、

宗教団体を設立した事が教団の神社としての御由緒だ。

こちらでは、

伏羲、神農、徐福、孔子(中国)
空海、日蓮、親鸞、(日本)
モーゼ、キリスト、ブッダ、モハメッドなど(西アジア南アジア)

名だたる聖者達が、人の生きる道をここで神より教わったとあるが、

ゾロアスター(ツァラトゥストラ)は挙げらておらず、画竜点睛を欠いてるのが歴史マニアとしては何故か😅ちょっと残念だった😑

ゾロアスターは、根源的という存在ではガチの人。

プラトン、キリスト、ブッダより数百年あるいは数千年前の西アジアのアーリア人系の宗教者で、

世界で初の善悪二元論を説いた。

(🌑闇アーリマン・☀️光アフラ・マズダ)

ギリシャ哲学、キリスト教、バラモン教、仏教成立にも影響を与え、

ドイツの哲学者ニーチェ、ナチス、
占星術やタロットにまで影響を残している。

日本でも、高野山などの密教や

お盆(ちょうどお盆ですね)なども影響が残っている。

現代のスピリチュアル系でも、ゲリーボーネルさんや並木良和さんなどゲリーさんに師事した著名な方々によって語られている

「統合と分離を周期的に繰り返す」

という世界観も、

ゾロアスターさんが最初に説いた事だ。

(🙏マニアックな話しにそれました😅)

 

考えてみれば、、

(まだ続くんか😅)

『根源的で包括的』という点においては

新興宗教もスピ系のアカシックレコードも同じだ😮

「全部ここですから〜心配ないですよ」とゆ〜

オール・インワンには

人々を引き付ける魅力がある。

ただ、スピリチュアルの方々が

それでアカウントビジネスをやってるのに対し、

新興宗教という言葉の響きには「お金集め」「票集め」的なイメージがついて回るのも否めない。

昨今、新興宗教という言葉を使わず、

やたらと「新宗教」という言葉が使われているのは

そうしたイメージを払拭する意味合いもあるのだろうか?🤔

 

私は無宗教で、日ごろ宗教教団に関わる機会はなく、

宗教団体の神社は、

神社巡りをしていても、あまり

自分からは行かない様な神社なので

今回、ガイドの方の案内で辿り着くことが出来た。😌珍しい機会でした。

(しかも絶対反対キンの日に😂)

 

✨不思議な国 日本


加賀の国一の宮【白山比咩神社】菊理姫さま✨

2022-07-26 | スピリチュアル

【白山比咩神社】石川県白山市三宮町二105-1

画像多めで割と短め?の投稿です😌

全国三千の白山神社の総本社

ご祭神 菊理姫
イザナミ イザナギ

表参道駐車場より

北参道・南参道駐車場からだと本殿はすぐだが、

下に降っていき表参道から歩いていくのがいいらしい

なだらかな上り坂な参道。

 

緑のトンネルが心地よい

山側からの風も涼し気にぬけていく、、

 

 

創建二千年 

何百年後かの神仏習合の時代、

白山で山岳修験道が開山されると、頂上に奥宮が祭られ白山比咩と白山修験道が習合されたようだ。

 

 

菊理姫は、日本の祖神であるイザナギとイザナミ夫婦が諍った時に間に入りおさめた御神徳の高い神様だ。

イザナキ・イザナミ夫婦相神も共に祭られている。

 

琵琶滝

 

二の鳥居から階段…

 

入口 神門

 

 

門前にある荒御前神社

 

 

奥宮遥拝所

標高2,702mの白山の頂上に奥宮を祭っていて、

こちらから遙拝する。

 

 


今回、北陸を周るツアーは珍しくスピリチュアル系の方にガイドで同行して貰った。

いつも1人で気ままに神社巡りをしてるが弾丸ツアーが多くて、ゆっくり誰かと周るのは久しぶりだ。

 

祓い場

 

祓い社

 

なんとも風光明媚な、桃源郷のよう😌、、✨

 

 

私は、白山姫神社は四回目だったが何故か?いつも雨に煙っていて、

ゆっくり境内を周ったことがなかった。

 

 

同行してくださった方の案内でゆっくりその場の雰囲気を感じながら周ることができ、

初めてきたと錯覚するほど、知らない白山比咩神社を知ることができた。

 

しかも、降水確率90%だったが何故か突如😅快晴になり☀️

 

住吉社


不思議なことに、、😳

その方がエネルギーラインを開くと、空間の雰囲気が変わる。

すると、今まで誰も立ち寄らなかった境外の荒御前神社に次々と人がきて、

あっと言う間に列ができてしまった😂マジか、、

 

門外にある門客神社などは、元々その場所にいた神様である場合が多い。

同じエリアにまつられながらあまり参拝客もなく、寒々とした雰囲気を醸し出していたりするのが、いつも気になっていた。

 

とある神社で、神木にもそれをしていたら、終わると5人の列が出来ていた😳

 

😂客商売などには「一人来て五人帰る説」など負のジンクスがあるが、
プラスのパターン、、「何故か混みだす説」の方。☝️😂

(今度ぜひうちの会社でそれやって下さい🙏😆)

 

神社には本殿の他、摂社や神木、境外にある荒神社(荒魂)、門客神社など様々あるが、

それぞれが別々に存在してるので、それをかき混ぜると
『調和』していく、と言うことだ。

 

私達が、誰もが感じる調和感と言えば、

コンサートや

(バンドで言えばグルーブ感😎)

サッカー観戦など不思議な一帯感を感じる時がある。

 

昔の人は、神社の前で人々が踊ったりすることで自然と空間をかき混ぜていたらしい、

神様と人々が、和楽を愉しむ。

(実はこれは手ぬぐいの起源である説アリ🤔頭に巻かずフリフリする🪅)

 

今回は、

不思議な旅だった。


菊理姫さまは、古事記には登場せず、日本書紀の一端に登場する謎の神様。

 

 

😂🙏少し菊理姫さまについて書いてみます。


▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼

『イザナギとイザナミが別れに臨もうとしていた時、間に入った菊理姫はイザナキに耳うちをし、それを聞いたイザナキは笑顔になった。』

男と女の仲を取り持つ結びの神様だが、新羅系の神様と云われている。

この時、菊理姫が何と言ったかは謎であり古事記・日本書紀の研究では焦点となる。

🤔古事記では別のエピソード「イザナミとイザナギは言い争った」別れたところで終わり、なぜ日本書紀にだけ菊理姫が挿入されているのか?

🤔イザナギはなぜ菊理姫の言葉で笑顔になったのか?

スピリチュアル系では、

『見た目の美しさでなく本来の美しさを見てください』

と伝えたと言われている。

スサノオも新羅系であり、スサノオの母イザナミも新羅系であったのかもしれない。

新羅は女系を大切に守っていて、
新羅の前身から受け継がれてきた
血統聖母の様な神聖な存在がいた。

イザナミも神聖な女性血統であり、
菊理姫もまた神聖な存在で
もしかするとイザナミの血を引く王女
或いは、イザナミとイザナキの娘だった可能性もある。

『本来の美しさ』とは見た目でなく魂そのものの輝きを指してると思うが、
そこには純粋な血統であるという神聖さもあったのだろう。

古事記でなく、日本書紀に登場したということは、
菊理姫が娘かあるいはもっと後の子孫、違う時代にイザナキイザナミ夫婦の仲を祭った存在だということを示すためかもしれない。

古事記・日本書紀は、西洋で言う旧約聖書・新約聖書の様な日本版となるべく編纂が命じられたと言う。


遣隋使から遣唐使の時代〜  知識人に国境はなく、

中国に集められた世界中の多くの知識が日本に入ってきた時代。

そこへ来て唐が高句麗と百済を滅ぼした為、日本列島には亡命百済人や高句麗人で溢れていて、かつてないほどの政治的・文化的な飛躍的進化が日本列島に起こっていた時代だ。

かつてない多様な世界観から、数々の神話が編み出されたが、その中でも特に菊理姫さまの存在は唐突で際立っている。

日本の祖神さまであるイザナギイ・ザナミ夫婦の諍いの間に、突如として現れ二人のひび割れた関係を修復する。

その為だけに存在している結びの神様のようだ。

それだけ結びのご神徳は高い。☀️☀️☀️☀️

 

※ちなみに古事記・日本書紀が編纂され始めた七世紀は新羅ですが、
イザナミが活躍した弥生時代にはまだ新羅はアリませんでした。

朝鮮半島南端に存在していた任那(『日本府』、『加羅』、『倭』とも呼ばれていた)は6世紀頃まで存在し和国が宗主国だった時もあったが、大伴氏・蘇我氏など豪族の時代に割譲を繰り返し、和国→百済→と領有が代わり、シロ国から勢力を伸ばしてきた新羅が最終的に吸収しましました。

したがって、スサノオと母イザナミや
菊理姫の時代は地理的には例え新羅の歴史であっても、

国的には日本(和国)の歴史と言えるのかもしれません。

 

 

 

 


スサノオ・ファイナル2.【分筆】よもやま話し

2022-07-25 | スサノオ

前回の投稿があまりにも長かったので、後半をこちらに分筆し移しました。

 

それでも、長文です😅🙏 画像少なめ

 

最後に新羅から来たスサノオの謎を綴ってます。

 

今回、全国のスサノオを祭る神社を回ってみて、、

 

⛵新羅と行き来した渡来系スサノオ 

🌲植樹を行なったスサノオ

🗡️製鉄地を圧えたスサノオ

🏞️治水の川の神のスサノオ

🌾食べ物の神様としてのスサノオ

🔥火切りを伝えたスサノオ

🐮牛頭天王としての疫神スサノオ

⛩️地域密着型のスサノオ

様々な一面を知ることができた。

 

英雄はひとつのことをやり遂げるわけではなく、様々な足跡を残す。

スサノオ様の足跡を総じてみると、

『和国で数々の偉業・覇業を断行した、渡来人の開拓者であったスサノオ』

のストーリーが浮かび上がる。

 

そして、おそらくは中国〜近畿にかけて鎮座した建国者であったのかもしれない。

スサノオが別名「牛頭天王」として、中世の御霊信仰(=無念に亡くなられた方を神として祭る)で祭られる様になったので、

不遇にもスサノオは天照大神系の勢力に追われ無念のうちに亡くなられた?存在だった。


この天照大神とスサノオ兄弟関係は

まるで

鎌倉時代の頼朝と義経兄弟の様だ。

源氏が平家を討ち滅ぼすと、兄・源頼朝は、
弟の義経を追放し、義経は健気にも兄に潔白を認めてもらおうとするが、兄・頼朝は取り合わなず追撃する。

 

スサノオの最後は分からないが、

天照大神との関係では、出雲に行かなければならない事情があった事は確かだ。

日本神話では追放された事になっているが、伝承では居たく無いと言って自ら出たとされ、

巷説では、冤罪で一族の罪を全て背負って出たとも言われているので、

無念だったのかもしれない。

この様な覇権を争う出来事は歴史上、枚挙に暇がないほどある。

源頼朝と義経
足利尊氏と直義
織田信長と信行
徳川秀忠と兄弟達
伊達政宗と小次郎
大碓命と日本武尊
天智天皇と天武天皇
蘇我馬子と蘇我摩理勢、海幸彦と山幸彦、、

 

弥生時代の建国期~

まず、

渡来人としてのスサノオを祭り

スサノオの偉業・覇業が祭られ

天照大神系へ皇統が移る兄弟間の追放劇があった。

 

やがて古事記に神話として掲載される。

 

スサノオから1000年くらい時代が下った後、

不遇に去られたスサノオが(疫神・牛頭天王として)祭られた。

牛頭天王は元はインドの仏教神であり、インドの山車祭りを取り入れ、

中世~「祭り」として全国隅々まで広がり

地域に根を降ろし、~現代に続く。

 

スサノオ様を巡る旅で、

点と点だった信仰も一つになった気がする。


が、さらに謎は深まった。

深まったところでスサノオ様を追いかけるのはヒトマズこれで終わりにしようと思います。

 

奇しくも、7月下旬は全国的な『スサノオ』祭りのシーズン。

天王祭や御船祭りなどの夏祭りでスサノオ様を祭っていて、

夏祭りの象徴ともなったスサノオ(牛頭天王)🎐⛩️

スサノオを助け疫病から免れたという蘇民将来の茅の輪くぐりも

神社の拝殿前に設置され、

夏のスサノオは🌊神輿の海中渡御や、御船祭りなどもあり大海原を治めたスサノオの側面も感じます。

(※かつて日本海の制海権がなければ半島への行来だけでなく列島を治めることは出来なかった)

日本全国スサノオ様を周ってきて、
最後にこうして地元神奈川県のスサノオ様の御霊にまつろうことが出来た😌🙏

 

聖なる国 日本✨ とスサノオさま🐮

 

12回(+1回)の思わず長いシリーズになりましたが、、

お付き合い頂きありがとうございました🙏

 

 

😌↓ここからは、

スポット巡りのお話しではなく

古代ミステリーロマン的に 😮

【スサノオの謎】について、よもやま話しをだらだらと書いてます。

(まだ書くのか😅)


興味のある方はご覧下さいませ🙏長文です、

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

北陸のスサノオ様 (富山県)

 

(スサノオ様参り終わったんじゃないんかい😂)

 

平安時代、

天皇家の「スサノオキャンペーン」とも言える歴代天皇による熊野詣が行われた。

そして、日本人ならお伊勢参りと「熊野詣」と言われるほど、お伊勢参りと並び日本人の記憶に残った。

 

何故、天皇家はこれ程までスサノオに注目したのだろうか?

 

平安初期、嵯峨天皇は『スサノオは皇国の本主』と詔りしたが、

天照大神を祖神とする天皇家が、なぜ皇国の本来の主はスサノオであると詔りしたのか?

 

八坂神社の祇園祭も世界遺産になるほど人々に知られるスサノオ(牛頭天王)となり、博多祇園山笠や全国の天王祭などスサノオへの祭りは止むことなく続いている。

 

天皇家から民衆のすみずみまで、これほど人々のスサノオとの関係が続くのは、

やはり【皇国の本主】だからこそなのかもしれない。🤔

 

スピリチュアル系では、じきに最高神がスサノオに変わると言われているようだが、

本当にスサノオの封印されていたことが解かれ、

本来のスサノオが顕れてくる時がきているのだろう。😳

 

過去、

スサノオ様の存在を忘れさせない為の歴史的な二つの仕掛けがあった。


一つは神社に伝わる大祓の詞に

『わが皇御孫の命は、豊葦原瑞穂の国を、、』とあるが

皇御孫の命-すめみまのみこと」とはスサノオ様のことだという。

 

「高天原に神つまります…」の大祓いにしても、

 

「一二三四五六七八、ひふみよ、いむなや…」のひふみ祝詞

(物部祝詞)にしても、

 

祝詞とは、建国の宣言文・勝利宣言文の様な内容が多い。

建国のあらまし、

敗者側の方への追悼、

今後の民のあるべき姿、

やってはいけない

罰則規定など を読み上げる、

祭政一致した樹立憲章の様なものだ。

それをスサノオが、「言よさし祭りき…」と宣言している。

 

古代ミステリーでも、オカルト系だと敗者側への哀悼の儀にだけ特に注目し、「祟りを恐れた」「呪いを封じた」等と中世の呪術的な取り上げ方をされている事が多いが、

全体としては大体こんなもん🙄

 

 

もう一つは『牛頭天王』

牛頭天王とスサノオは、疫神である牛頭天王と、蘇民将来という疫神の逸話で「疫神繋がり」で結びつけられた。

蘇民将来の逸話の中で疫神・武塔天神が『吾はスサノオである』と名乗ったことにより、

牛頭天王=疫神=武塔天神=スサノオという信仰が生みだされた。

(疫神同士というだけで無理やり繋げてないかい?🙄☝️)

(備後の国風土記では武塔天皇の子が牛頭天王🤔??)

 

神仏習合の時代へと移り変わり、神社は寺院の配下に置かれていき

神社の領地・領民(=神田、神人)はおさえられていく。

寺院は国家の権威的の象徴として存在し、まだ民衆の信仰とはかけ離れていたが、後に『遊行僧』という寺院に属さないストリート系の僧達が登場?

すると、やがて民間へと仏教の信仰が浸透した。

仏教政権によるこうした浮沈の時代も、スサノオは仏教の守護神『牛頭天王』となり、見事に隆盛していった。

 

牛頭天王はインド仏教寺院の守護神だが、このあたりも「和製仏教神」とまで云われる由縁ではないだろうか。

(※インドでの牛頭天王は薬木の生える牛頭山に由緒が考えられるが、仏教神としてはそれほどには目立たない存在😌創作神話や説話の創作では、目立たない存在がクローズアップされ、強力な神々に書き加えられリニューアルされていく事がある😑)

 

牛頭天王は「新羅から遣唐使(吉備真備)によって遷されてきた」という由縁があるが、

やはりスサノオは新羅で亡くなったのかもしれない。

そして約1000年近い年月を経て

新羅のスサノオの分霊は吉備真備の手によって日本列島に戻ってきた。

 

今も尚、スサノオさまの御霊は日本にいる。

大祓の払い言葉も今に残り、スサノオ様の存在は決して風化することがない。

 

これもある意味、伝統を大切にする日本の良さなのだろうか、、、🤔

 

そして、日本人と共にある神社。

と、一言で言ってしまえばそれだけだが、

神社にも二千年以上の歴史と伝統がある。

神社自体も仏教伝来~中世の神仏習合~GHQの政策統合まで

数々の宗教政策により変遷してきた。(信仰そのものの変化も多少はある)


時には仏教政権の配下となり、戦国時代の戦火にさらされ、民衆への緩和政策となり、皇国史観、政教一致、敗戦後は分離し、GHQ政策の神社統合があり、

幾多の時代の変化を抜け存在し続け

二千年を超える星霜を歴て今も尚、

私たちと共にあり続けている。

これには、他に類をみないほどの価値がある。

 

ただ一心不乱に崇拝してきたという訳ではない。

 

ただただ大切に受け継がれてきた神社。

これも、日本人が気づいてない日本の良さなのかもしれない。


『日本人と神社』という関係そのものが、無形の世界遺産以上の存在に感じる。

それだけに、、、

牛頭天王とスサノオの関係は、殊更

謎、、🤔に感じる。

 

インド仏教の守護神【牛頭天王】と

蘇民将来の話しに疫神として登場する【武塔天神】

そもそもスサノオと牛頭天王を結びつけているのは、この備後の国風土記に書かれている蘇民将来の話しだけだ。

当時の日本は創作神話の時代、

遣唐使などを通じて大陸の知識がもたらされ、ギリシャ神話や聖書などの様々な影響を意識し、

古事記、風土記、先代旧事記など

種々の『バイブル』が編纂された。

古事記・日本書紀も、

日本における旧約聖書・新約聖書と
なるよう編纂が命じられ、ギリシャ神話などの神話性も取り入れられていった。

古事記とギリシャ神話が似てると謂われる由縁です☝️

蘇民将来のエピソードには、
『ユダヤ起源説』もあり、
旧約聖書の出エジプト記の影響をも感じとれる。

しかし、日本には(或はインドも)西アジアの様に羊はいなかったので
羊の頭ではなく、牛の頭に置き換えられたのかもしれません、🤔

西アジアの羊
南アジアの牛

(どちらも神獣ではありますが、、)

西アジアでは、羊は神様への供物で
南アジアでは、牛は神様の乗り物。

特に羊は群れで生活する動物でこれを捧げることは集団意識を捧げます、という意味になる。また

羊や牛など巻き角の頭には霊力が宿るとされ、呪術的な表現として使われることもあったかもしれない、🥺

※ユダヤ起源説=
旧約聖書出エジプト記では羊の血を玄関に塗りユダヤ人は災厄から助かるという。
日本の牛頭天王信仰では災厄を受け無いようにヒイラギとイワシを玄関に飾る。まじスか😂
(ヒイラギとイワシで羊の血の臭いを再現したか?🤔)この類似点による。

  

蘇民将来の話しはかなり作り込まれていて、深堀りすると深みにはまる😮

『北海に住むという武塔天神が、嫁を探しにきた。一晩宿を借りようと、長者・巨旦将来に頼んだが断わられ、兄の蘇民将来は貧しいながらも武塔天神を暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は『八王子』を連れ、蘇民将来のもとに顕われ感謝し、蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。
そして「吾はハヤスサノオの神である」と、武塔天神は本性を明かした。』

 

疫神の武塔天神が『吾はタケハヤスサノオである』と名乗ったこともそうだが、

八王子を連れてきたということ。

通常、八王子というと
スサノオと天照大神の誓約(ウケイ)で生まれた八柱の神さまたちのことを言う。

(八王子=男神五神、女神三神)

古事記では

誓約(ウケイ)により生まれた神々は

女神三神がスサノオの子とされ

男神五神は天照大神の子とされた。

しかし、備後の国風土記では

八王子、八柱の神々全てをスサノオが引き連れてきた😳

皇統となる男神らもスサノオに従ってきたことになる。

 

また「牛の頭と馬の頭」で

牛頭天王は、馬頭観音に対こうした存在であるという考え方があるが、

インドでの馬頭観音は『最高神ビシュヌ』の化身でもあり、これに対しての牛頭天王は

日本でいえば『最高神・天照大神』に対こうしたスサノオということになり、

そこかしこに奇妙な神話の符丁も感じる。

 

そして、蘇民将来の娘と子孫を守る約束をした

『娘とその子孫を助け、息子は助けないのは残酷じゃないか?巨旦将来と同じ様に疫病で命を奪うのか?本当に蘇民将来に感謝してるのか?』

という意見が当然あり、私も謎に思っていた。🤔

 

=女系を守るという意味だ。

 

古代は、現代ほどの男権主義は蔓延ってはなく、母系社会=女系を大切に守るクニの方が多かった。

西アジアのユダヤのレビラト婚など女系を守る結婚制度は、北アジアから東アジアまで広く分布し、卑弥呼の起源という南アジアの稲作文化でも女王系の成り立ちが存在していた。

強い男権主義は真ん中の中国だけで、『貞婦ニ夫にまみえず』等と、女性の貞操を強要し再婚を悪として、女性を隷属させていた。しかしながら中国人以外は、多くは女系を中心にまとまっていた。

日本でも戸主は女性がなり、母戸主、里戸主、などと言い首長は必ず女性がなるというまだ女王系の文化が残っていた時代だ。

(今年も日本は世界144カ国中最も男女格差社会が酷い国としてワースト1に😔💦現代の日本人男性の感性では理解が及ばないほど真逆の世界観がかつて存在していたのかもしれません・・・🥺)

 

千葉県の玉前神社の女神の由縁にも、女系集団が上陸してきたという伝承があり海の鳥居が祭られている。

推古女帝、斉明女帝、元明女帝、孝謙女帝など女性の天皇がレアケースとなってしまう前の、遥か昔むかしの時代。

 

蘇民将来の家では、女系血統を大切にしていたという事だろうか?

 

エピソードの一つ一つが興味深く、謎めいた長文になるだけなのでこの辺で止めておこう、、😑

 

読んでくださっている方もきっと疲れる🙏😔

 

スサノオの存在と、関係の謎については、

謎のまま未来に託すことにして😌

 

最後に、、
ちょっとだけ韓国の話しを😅🙏

(ホンマいくんかな😱)

①スサノオは五十猛命と共に新羅の『ソシモリ』に行った。

②スサノオは「ここには居たくない」といい出雲の鳥上に五十猛と共に神降りした。

この二つの史話から、『ソシモリ』は何処か?という議論が諸説あります。

(地名でなく人名かもしれませんが…)

 


①慶尚北道高霊にはその昔

「ソシモリ山」と呼ばれていた山があり(現・伽耶山)古代では牛の頭山という。

「牛の頭」は韓国語で「ソシモリ」。仏教が伝わってから伽耶山と呼ばれる様になった。そして麓の白雲里村にはナント!「高天原」という地名があるという。😳古事記に寄せている、

 

一方、

 

②「現・牛頭山」は、江原道春川にあり

旧・大日本帝国朝鮮総督府はこちらの方を比定地にして江原神社を祭っていた、、🤔

いずれは行くべきか、、😂

 

朝鮮半島に任那(日本府)があった時代にも、和国→百済→新羅と、
朝鮮半島の領有が移り変わる紆余曲折があった。

国家形成の起源は、多元的😌☝️


一様には語れない、聖なる国✨日本

 

長文を読んで頂き、ありがとうございました🙏✨


スサノオⅫ.御霊祭 末社の天王様【八坂神社】スサノオ・ファイナル

2022-07-24 | スサノオ

京都の八坂神社ではなく、今回はローカルな八坂神社のスサノオ様のお祭りで、長らくシリーズになっていた??スサノオの旅はこれで一旦終わります。😌

(一旦?😂)

 

神奈川県の相模川沿いに祭られる「八坂神社」の御霊祭。

(御霊信仰=中世、牛頭天王(スサノオ)の祇園祭・天王祭などで全国に広がった災厄除の祭り)

知人がお囃子をやっていて見学させて貰った。

相模川沿い蛇行するあたりの高台に鎮座されていて、やはり氾濫時における水防ハザードマップ場の安全地点に祭られている様だ。

上流にダムがありそう氾濫することも無いとは思うが、防災意識は今も共にある。

消防団

神輿の格納庫の隣に消防車の格納庫がある。

貞観年間(859〜877)、富士山を初め次々と火山が噴火し大地震が発生、東北地方を大津波が襲い、全国で疫病が大流行し未曾有の壊滅的な状況が日本列島を襲った。

陰陽師は、これを祟りと占った。

菅原道真公など政争によって無念な死をとげた人が、疫病などの災厄をもたらす存在とされ神様として祭ることで災厄を鎮めようとした。。

いわゆる「御霊信仰」という中世独特の疫神信仰が広がった時代で、スサノオを祭る祇園祭りも貞観年間から盛んに行われる様になった。

(牛頭天王=スサノオも疫神であり無念な死を迎えた人だったのだろうか、、🤔)

 

『御霊式』

御霊式で、スサノオ様を神輿に降ろしてから、山車・山鉾で街中を巡行して地域一帯の災厄を除く。

地域の氏子さん達によって行われるお祭りで

これは、祇園祭り山笠祭りなどユネスコ無形文化遺産の様な日本を代表するお祭りや、ローカルな末社のお祭りであっても皆、同じ。

地域の人々の手によってその土地の災厄を除くお祭りだ。

 

お囃子も、獅子舞も、神輿も、全て氏子さん地域の方々の手によって行われる。

 

16世紀、八坂神社は神仏習合により比叡山延暦寺の末寺となっていた。

織田信長による比叡山焼き討ちがあった後、祇園祭は中止命令を受けたが

「神事これ無くとも山鉾渡したし」

と、氏子の方々によって祇園祭が行われた。

地域にしっかりと根ざした祭りであり、現代でもその伝統は全国隅々にまで根ざし続いている。

 

 

その土地を守っているのは神ではなくまず人々であり、

神威を開くからこそ神々と繋がりがある。

 

 

神輿連 囃子連 自治会 子供会 PTA  消防団 氏子会、 地域の総力が結集し祭が行われている。

しかしながら、街中の巡行はせず、倉庫から山車と神輿を出してお囃子を奏でるだけの縮小版。演目もコンパクトに。

 

 

それでも、お囃子は見事に尽きる。

相当練習を重ねてきたようで、スサノオ様の耳にも届こう✨

 

 

真ん中の太鼓が「親」。

囃子の要で、このリズムユニットを『調べ』という。

 

 

読んで字の如く、調べで和すと書いて調和で、

神輿に向けて調和のエネルギーを送っている。

 

 

 

『獅子舞』

 

 

演目『鎌倉』で、アクロバットな動きをする獅子舞。

 

 

「何もやらなければ記憶にも残らない」

と、氏子さんたちは規模を縮小し懸命に伝統を守ろうとしてきた。

 

八坂神社に限らず、無人の奉納をしたり、無人で花火だけ上げた神社もあった。

人々が伝え続けるからこそ伝統というが、

途中何度か途切れては復活し、今に続いてる。😮

 

(私は新興住宅地の育ちで、実は地域にはこうした神社やお祭りがなかったので、お参りだけでは分からない初めて知ることが多い😌)

 

神社には子供の遊び場があり、消防団の消防車があり、集会所があり、地域にとっては大切な拠点で、

今も、人々の集合意識と共にスサノオ様はいる。

 

社が傷めば修理し、

宮司さんはいないので、地域の総守護の神社などから来て頂き、

日々の掃除や管理、山車の購入の資金集めから例祭まで、全て氏子さん達の手によって支えられているのが地域の神社だ。


社務所もないし、あっても開けられないこともある。

 

今風に言えば『御朱印の貰えない神社』となるだろうか、、🤔

私は御朱印集めをしないので、

(その時その場所の感覚を味わう派)

よく分からないが、御朱印集めをしてる方は「神社なのになんで御朱印ないの?」と

思われるだろうか、、、

末社の神社、というより神社の殆どはこうした伝統的神社で、

むしろ御朱印を頂ける神社の方が全体の分母からすれば少なく珍しいのかもしれない、、

 

全国何千社の総社とか、総本宮などを周ることが

多かったが最後に、

何千の方の末社にも巡り合うことができて良かったと思う。

今回周ったスサノオ様全国ツアーでは、御朱印が頂ける神社は50ヵ所中

10カ所くらい。御朱印だけで周ると回れる神社がぐんと少なくなってしまう気がする、、、😔

 

須佐ノ男 2000年記念全国弾丸ツアー

(そういうタイトルだったのか🙄)

 

【弥生】人として生きたスサノオ 長崎県対馬 ⛩️島大國魂神社

 

【古代】神話になったスサノオ様 島根県奥出雲 ⛩️八重垣神社

 

【中世】信仰となったスサノオ様 京都・愛知県 ⛩️八坂神社⛩️津島神社

 

【近世】祭りとなったスサノオ様 祇園祭・天王祭・御船祭

 ⛩️八坂神社⛩️津島神社⛩️氷川神社

 

【近代】伝統となったスサノオ様 全国

 

【現代】今も続く、スサノオ伝説 宮城県岩手県 ⛩️八重垣神社⛩️八坂神社

 

この一ヶ月ちょっとの間で、全国八千㌔を巡り、

2000年の歴史を薄っぺらく語ってしまわない様にと、

自分なりに調べて周ったが、実際行かないと分からないことの方が多かった。。

 

今や民俗伝統芸能と共に存在している

スサノオ様。

 

千年以上の歳月をかけて、スサノオ様と共に

宮廷音楽だった雅楽は、民衆の「猿楽」に

宮中神事は、民衆のお祭りに、

かたちを変えながら時代に広く浸透していった。

 

 

【素鵞神社】神奈川県湯河原市吉浜

海を見下ろす高台に鎮座するスサノオ様

 

最後に、月一ペースでよく行くスサノオ様を祭る神社の紹介を🙏

 

 

こちらには鹿島神宮(茨城県)では既に失われてしまった

「鹿島踊り」という伝統が残る。

 

 

こちらにお参りさせて頂き、目の前の海でサーフィン🏄をしてから、美味しいお魚を頂き、背後にそびえる箱根山を登って(🚙30分)芦ノ湖畔にある箱根神社にお参りして、温泉に入って帰るという、、😌海と山を堪能する1dayツアーが、毎月のルーティンになってる🌊🏕✨⛩️

 

 

これで、スサノオ様を巡る旅を終わります⛩️

 

お読み頂きありがとう御座いました。✨✨✨🙏

 


奥州平泉 岩手県【中尊寺】北の仏国土

2022-07-20 | パワースポット

奥州平泉

【中尊寺】岩手県平泉町平泉字衣関202


今回はスサノオ様ではなく久しぶりのお寺

で、、ちょっとした観光気分🙃

(今まで観光ではなかったのか🤔)

画像多め文章少なめです。

 

奥州藤原氏 


初代清衡がひらいた【北の都】平泉

 

 

なだらかな参道を上がって行く

弁慶堂、薬師堂、観音堂と程よくお堂が配置されている

 

【弁慶堂】

 

 

 

【薬師堂】

 

 

 

【観音堂】

 

 

 

延暦寺の僧が開き、1105年藤原清衡が造立を初めた。

 

戦乱を生き抜いた藤原清衡が、戦乱でなくなった人々を敵味方の区別なく慰め、

「蝦夷と蔑まれた人々が住み辺境とされた東北地方に仏国土を建設する」

と、建立供養願文に誓い着手した。

 

 

 

中央政権とは一線を画した、荘厳な東北の都を築きました。

 


平泉町は中尊寺をはじめ町全体が、

まるで仏国土のテーマパークの様で、国宝と世界遺産の古都です。

 

暑かったですが、涼やかな風景が続きます

 

 

 

【弁天堂】

 

 

白山神社も祭られている

 

 

 

 

【お不動さん】

 

 

旅行気分でまた自撮りしてみた😆

 

 

 

最後に、、

名物の『わんこソバ』を頂く。

一人前

 

 

今回は、中尊寺だけだったが、一日ゆっくり平泉町を周ってみたい。

おだやかなスポット。


スサノオⅪ.裏出雲・古事記伝説【熊野大社と比婆山】イザナミの謎

2022-07-17 | スサノオ

【熊野大社】島根県松江市八雲町2451

出雲国一宮【熊野大社】 

別名【日本火之出初ノ社】 創建659年

ご祭神 熊野大神櫛御気野命(スサノオのミコト)

フルネームで、

伊射那岐日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命

という。

イザナギの子にして熊野の祖神でありミケ(=食べ物)の神様という意味だが、

冠ネームが長いので最初は別の神様かと思った…😅

スサノオという名を出さずに「ミケ」「ケツ」など食べ物の神様としての別称で祭っているのは、

和歌山県の熊野大社も同じで、スサノオ様のもうひとつの側面だ。

右の社殿は稲田神社で、ご妻神の櫛稲田姫を祭り

左の社殿は伊邪那美神社で、スサノオの母イザナミを祭る。

明治の一村一社制で、旧熊野村一帯の神社がこちらに合祀された。

熊野大社の元宮は熊野山(現在の天狗山)にあったようで、巨大な磐座が残る。

伊邪那美神社

荒神社

境内から左に出ると、「荒神社」で素戔嗚を祭っている。

荒神社で素戔嗚として祭っているのは中国地方に多い様だ、、

関東では、本殿が素戔嗚で側に「牛頭天王」というパターン😌

そして、その隣の稲荷社で『狛猫』発見🤩

お気に入りの場所な様だ😂☝️

別名、日本之出初ノ社ともいう熊野大社には、

『火キリの臼杵』が伝宝として残る。

スサノオがこの地に伝えたという。臼と杵の木の摩擦で、火を起こす道具だ。

「火」は「霊」を継ぐ事であり、火キリの臼と杵は代々、神器としてこちら熊野大社で祭られていて

「鑽火祭」では、出雲大社からここ熊野大社に参向し授けられる。

【熊野大社上宮跡地】

400mほど離れた場所にある。鳥居もなく案内の看板があるのみの跡地。😌

こちらも明治政府の合祀政策で、現在の熊野大社(元は下社)に遷され合祀された。

上宮の方は、中世「熊野信仰」が紀伊半島(紀ノ国)より全国に広がって、

逆輸入のような形で出雲の熊野に伝わってきて祭られた修験道系熊野大社で、

現在の熊野大社が下社で、元々の熊野大社だったという。

和歌山県(紀ノ国)にも熊野大社があり、紀伊半島には那智の滝やイザナミ陵など、出雲と名称を同じくする由縁の地が沢山あり、速玉男、事解男、など同じ神々が祭られている。

熊野信仰が広がったのは中世の紀ノ国からで、神仏習合による山岳修験や歴代天皇の熊野詣により、全国的に有名な霊場となった。

しかし、元は出雲であり出雲から紀ノ国へ行った方々が故地の名称をつけて熊野大社を祭ったようだ、、

出雲の伝承では、出雲から紀ノ国へ行ったのは「炭職人」であり、熊野大社の神主が同行し、紀伊半島に分霊を遷して熊野大社を祭ったという。

炭職人に神主がついていくというのは現代人の私達からすれば??🤔ピンとこないが、

熊野大社の神器『火鑽の臼杵』と同様に『炭』は弥生時代では重要で国家鎮護には必須なものだった。


特殊な【炭】は煙幕や爆炸剤など火計に用いられる炭職人相伝の秘術だ。
現代の炭火焼というような食事のためだけの炭ではなく、延焼剤としての火攻兵器の側面もある。

『剣職人』と同様に門外不出である

『炭職人』がわざわざ熊野大社の神主を伴って紀伊半島へ向かったという事は、

出雲と紀の国(紀伊半島)で、熊野大神を祭る氏族たちが同系の部族だったことを物語っている。

「出雲の熊野大社の神主が紀の国に行き、紀伊半島に熊野大社を祭った」というのは、もしかすると神主というよりスサノオ自身だった可能性もある。

紀の国=木の国の語源も、スサノオが木の植樹を行なった事が由来であり、

出雲から離れ、紀伊半島に国開きに行ったのだ。

そして、奈良でオオナムチ(大物主)とスサノオの娘スセリ姫が出会い結ばれて、スサノオは大国主の座をオオナムチに明け渡し奈良で生涯を終えた。

スサノオの墓は奈良にあり、奈良で書かれた古事記にスサノオが沢山登場するのに対し、同じ時代に出雲で書かれた「出雲の国風土記」にはスサノオは全く書かれておらず、スサノオの王子のみ登場するのも頷ける。

、、更に、奥へと進んで行きます。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

ここから、長文になります✨🙏

興味のある方はご覧下さい。

出雲の裏側、、

(🙄今までも長かったですが、😅

読んで頂いてありがとうございます🙏)

【熊野神社】広島県庄原市

奥出雲という地名はあるが「裏出雲」という地名は無い。しかしあえて

『裏出雲』と表題にしてみました。🙃

奥出雲より更に南の比婆山麓、広島県側にある出雲の裏側をみていきます。

スサノオの頃の出雲は、瀬戸内海側までが出雲だったので広島県は古代出雲とも言えるかもしれません。

山間の道に忽然と大鳥居が出現。「古事記の故郷」熊野神社

比婆山など今回は、スサノオの母イザナミの由緒を周ります。

【裏出雲ロード】

熊野神社 比婆山Ⅰ.千引岩 比婆山Ⅱ.火よけ穴 比婆山Ⅲ.イザナミ陵

神域の見事な巨杉群は県の天然記念物

参道の木々の下がる枝ぶりが独特で、山側から麓側にエネルギーを降ろす様な生え方をしている。

熊野神社は、

後ろの山に鎮座する比婆山に葬られたスサノオの母・イザナミを遥拝する為に祭られている神社。

古事記~

イザナミは出雲国(島根県)と伯伎国(鳥取県)の境、比婆山に埋葬した

とあり、イザナミ陵慕のある比婆山を奥の院として、

こちらから遥拝(=遠くから拝むこと)する。🙏

熊野神社 拝殿

拝殿左手に登山道があり、岩境、二宮、三宮と続きますが、

三宮の撮影は自粛しました。

岩境

金蔵神社

熊野神社のパワースポット✨

熊野神社の拝殿が建立される8世紀まで、

こちらの磐座で祭儀が行われていたという。

二宮

那智の滝へ、そして比婆山に続いてますが、、

一度山を下り西側の峰 比婆山立鳥帽子駐車場へ向かいます。

比婆山の南麓には三つの登山口があり、

東から熊野神社駐車場立鳥帽子駐車場比婆山古道入口、と、

西へいくほど頂上への距離が短くなる。

イザナミ陵墓は比婆山頂近くに埋葬されてるらしい。

熊野神社からだと朝早く出て夕方戻れるくらいだろうか?

間違いなく負傷レベルの筋肉痛になる、、😅ので

一番近い比婆山古道入口から登ることにする。3時間コース

【千引岩】と【火よけ穴】 広島県庄原市西城町熊野

比婆山立鳥帽子駐車場、、駐車場といっても突き当たりにジャリ道が開けてるだけのスペース。テントを張ってキャンプをしてる人達がいた。

千引岩と火よけ穴どちらも、駐車場から徒歩10分程度。

駐車場より右手にある細い山道をいくと千引岩がある。

古事記~

火の神を産みなくなった妻イザナミを追って、夫のイザナギが黄泉の国までやってきた。

イザナキは「葦原中国(アシハラナカツクニ)へ戻ってきて欲しい」と頼む。

しかし、イザナミはもう葦原中国に戻れない体になっていた。

それでも、、と頼むと、イザナミは黄泉の神に相談してみることになり

そして「相談が終わるまでは私をみてはいけない」と告げた。

しかし、イザナミと黄泉の神の相談は長時間に及び、

待ちきれなくなったイザナギは櫛に火を灯して進んでいった。

そこには焼けただれて醜い姿となったイザナミの姿があり、驚いたイザナギは黄泉の国から逃げ出した。

約束を破られ怒ったイザナミは八雷神・千五百の黄泉軍を差し向け追撃する。

イザナギがようやく黄泉平坂(境界)まで逃げてくるとイザナミが追いつき

最後にこの大岩を挟んで対峙し、イザナミとイザナギは言い合った。

「美しき吾妻、時周り来る時があれば、この千引の岩戸を共に開けよう」

「愛する夫よ、あなたの国の人を日に千人ころしましょう」

「愛する妻よ、ならば私は一日に千五百人生んでやろう」

このことから「千引岩」と名がついた。

駐車場に戻り左手奥の道をいくと、火よけ穴がある。

『火よけ穴』=隠れ穴ともいう

焼けただれて醜い姿となったイザナミは、この穴に隠れていた

一説に、火の神を生んだイザナミは、この穴の中で亡くなったと云われている。

また、イザナミがここを通りかかった時、天から火の雨が降ってきたので、

この穴に入って難を逃れたともいう。

火の雨が降ってきて火傷を負い、穴の中に隠れていたところ亡くなられたのだと思います、、😔

【比婆山御陵】比婆山古道入口より登山1時間半

車数台を停めるスペースがあるが、一台も停まってなかった。

例によって夕方、山に一人で入る…

結構な登山だったが水を持ってくるのを忘れてしまった。

原始的だが汗を飲みながら登った。

イザナミに追われ、驚いて逃げるイザナギはこの岩を飛び越えていった。

「飛越石」という。

イザナミが埋葬されたという陵は登頂近く(9合目)にあった。

埋葬地の看板

しかし蝦の大群に襲われ、ゆっくりお参りどころではなかった。

アウェー感というか、何か予感がして例によって御陵の撮影は自粛した。

、、無事に下山することができた。

パワースポット巡りで山深くに入ると、時に際どい体験をすることもある。

この「越原」と書いておっぱらと読む地名は、イザナギを「追払った」ことが由来だという。

イザナミの墓は

古事記説では、伯耆の国(鳥取県)の境い近くの比婆の山に埋葬したとあるが、

宮内庁説では、伯耆の国から30㌔くらい離れた島根県松江市に『岩坂陵墓参考地』というのがあり、

他にも紀伊半島の三重県熊野の『花の窟神社』など諸説あり、古事記説は否定されまくっている、、😑

まぎらわしいですが、今回は『古事記の故郷』ですので古事記説で周りました。

長い旅のお話しにお付き合い頂き、ありがとうございました。

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古事記〜


『スサノオの追放 エピソード1

スサノオは母の国に行きたいと何時までも泣いていて、乱行を行うようになった。父イザナキはこれに怒りスサノオを追放した。

『スサノオの追放 エピソード2

スサノオは高天原にやってきたが、天照大神は奪いに来たと警戒し完全武装で迎えた。スサノオは天照大神とウケイ(誓約)を行い潔白を証明した。しかしその後、乱行を行い事件を起こし罪を負わされ追放された。

スサノオは二回に渡って追放されていますが、「母の国に行きたい」というのが発端であり、母イザナミの国とは、父イザナギの葦原中国でなく、こちら「黄泉の国」なので

最終的には、二度の追放を経てスサノオは母の国に辿り着いた。

出雲には「夜見嶋」という場所があり、他にも神名火山、十神山・十神島など興味深い地名が残ります。

出雲は古事記同様に奥が深く、歩く古事記という感じがしました。

更にここからは、

古事記を古代ミステリーロマン的な視点で

とりとめもなく綴っていきます。

古事記を神話でなく、

ただの物語として読んでみるだけの試みですが、、

興味のある方はご覧ください。

(津田史観とか皇国史観とか極端にバイアスがかかったものは😵‍💫ちょっと分からないですが、普通に読んでみます。😌)

毎回、長文ですが今回も長いです、、🙏😌

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古代ミステリーロマン【スサノオの母イザナミの謎】

突然ですがこれは☝️ヤフオクで1万円でゲットした中国製のレプリカの鏡です。🤣

😅内向花紋鏡のつもりで買いましたが、どうやら『銘帯鏡』という、
もう1〜2世紀古い時代の鏡のようです(マニアック😂)

弥生時代の男達はこの様な鏡を腰にさげていた、、

裏側の鏡面が凹面になっていて、太陽の陽を一点に集めて発火させる為の鏡。天然のライターです。

しかし、夜や雨では使えないため

太陽がなくても使える臼杵式の摩擦発火装置が必要とされました。

(木と木を擦り合わせ発火させる、スサノオが熊野神社へ伝えたという発火装置)

また、火種として燃焼時間の長持ちする備長炭の様な特殊な炭も携帯上、重要でした。

後世の火打石もです。

時代が下るごとに発火装置は進歩しますが、弥生時代の臼杵式発火と炭は庶民の暮らしの為だけでなく


国家鎮護のための重要な神器でした。

古事記〜

イザナミとイザナキは沢山の神々を生み出し、最後に「火の神」を産んだことによって女陰を焼いてしまい、イザナミはなくなられた、、

と、記されてますが、

これは、にまつわるお話しです。

弥生時代の戦さというと、銅剣・鉄剣の白兵戦(チャンバラ)だけだったが、

一世紀前後になると新たな渡来部族らにより

火術・武術・兵術など戦術がもたらされていった。

特に火矢を用いた火術は、先住部族、先々住部族の銅剣と鉄剣の戦力差を埋めるほどの戦闘力があった。


八岐大蛇がスサノオに急襲されて、火を吐きながら逃げた、、つまり火矢を放ちながら、または火を放って退却出来たという事は、

急襲に対してただちに反撃できる発火技術を持っていたということだ。

既に、備長炭の様な堅炭による種火の保存技術か、スサノオが熊野神社に伝え残した様にすぐ摩擦発火する火ギリ発火装置があったのだ。

『スサノオの母イザナミは、火の神を産みなくなられた』

この古事記の話しは、その様な新たな発火技術の誕生によってなくなられたというエピソードだ。

比婆山に伝わる伝承では、
火の雨が降ってきてイザナミは穴に隠れたという。

黄泉の神との話し合いが長引き、

イザナキ側が夜になり、火矢による奇襲攻撃をしかけ黄泉の国の国境を超えてきた。

火矢による奇襲は、種火は目立たせてはならない、

(私の様な『銘帯鏡』ではなく😂、夜でも戦術に使えるほとの新たな技術があった)

火矢を受けてしまい驚いたイザナミは燃える頭から櫛を外し、その炎を頼りに火よけ穴まで辿り着き隠れた。

やがてイザナキに見つかってしまう。

焼け爛れたイザナミの姿をみたイザナキは驚いて逃げ出してしまった。

元夫の仕打ちに怒りイザナミ側も反撃の軍を出した。


しかし、イザナミは火傷を負いその上

既に葦原中国には戻れない体、、

つまり身重の体で、火の神の子を宿していた為に穴から動くことも出来ずに、火傷が原因でそのまま隠れ穴で亡くなられてしまった。

黄泉の国の兵士たちは悲しみ、亡き骸を比婆山に埋葬した、

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

古事記〜

『スサノオは、髭が胸に届くくらいになるまで、母の国に行きたいとずっと泣いていた』


『ずっと泣いていた』

『言葉を話さなかった』

という王子が時々登場するが、

これは常用言語を話せない状態であることを指していて、

言語の違う他国の渡来系王子であるという意味だ。

イザナキの国が、葦原中国(アシハラナカツクニ)ならば

母イザナミの国は、黄泉の国だという事になり、

イザナミ・イザナキ夫婦は
違う国同士の婚姻だった事になる。


女王イザナミと男王イザナミ

二つの王統の同化政策は、

二人の婚姻により血統を継ぐことで始まった。

古事記〜

『イザナキ・イザナミの二人は天御柱を左右からそれぞれ周り、美斗のまぐわいをする事になった』

最初は女王から言い寄ったために、うまくゆかず、生まれた子は流してしまった。

次は男王から言い寄ってみてうまくいき正式な神婚がなされた。

弥生時代はまだそれほど人口は多くなく、国の対立で相手を完全に武力破壊をするほどの兵力差はなく婚姻による和合政策が常だった。

女性が言いより入嫁になるか、
男性が言いより入婿になるか、 

男系の国と女系の国では、こうした試行錯誤があり、

しばし、イザナミ・イザナキの婚姻合併策は落ち着く。

しかしその後、

イザナギ側とイザナミの黄泉の国での戦いが起こった。


イザナミの子スサノオと、
イザナギの子(天照大御)高木神勢力との間でも諍いが起きた。


スサノオの2回に渡る追放劇は、

両国和合がひび割れしたエピソードだ。

『スサノオは多くの罪を負った』

というが、文字どおり

自分以外の氏族達の罪を全て被ったという説や、冤罪説もある。

スサノオは、長崎県対馬に新羅との往来の伝承が残る様に、新羅系であることは間違いない。

出雲も、新羅系の国造りをされた国であり、

出雲の始祖の八束水臣津野命は、
国土が狭かった為に、国を引き寄せた、と出雲国風土記に記されている。

国引きの後『オウ!』と言ったのが、今も残る意宇郡という地名の由来となっている。

この国引き神話は、新羅の一部を加えたエピソードという解釈がされていて

スサノオの後、

二代目大国主となった大己貴命らも新羅から来た少彦名命の助けを得て国造りを行い、

国造りを終えて少彦名命は常世の国(新羅)に帰ったというので、

数代に及び、出雲と新羅の往来は続いていた。

古事記の

新羅を常世の国といい
出雲を黄泉の国という言い方は

両国が裏表の関係であることを示している。

まるで和歌の返し歌の様なセットだ、😮

古事記では、

スサノオの娘・スセリ姫の入婿となった大己貴命に十種の神器が渡り

スサノオは「お前が大国主になり天をつくほどの宮を建てよ」

と、言ったのが最後の言葉で、

スサノオの自身の最後は分からない。

スサノオの墓は、最後の言葉に関わる伝承地が残る奈良説(笠山荒神社など)が

有力と思われるが、出雲説もある。或いは新羅(旧江原神社など)ということもあるかもしれない。

あまり追いかけると、いつか韓国にまで行くことになるかもしれないので、

この辺でやめておこう。😂💦

【稚児池神社】奥出雲 スサノオが産湯に浸かったという井戸を祭る

【新宮神社】奥出雲 ご祭神 イザナミ 速玉男 事解男

【櫛田神社】奥出雲 櫛稲田姫の生誕地

【稲佐の浜】ふつうの出雲 出雲大社の西岸

出雲大社も寄り、稲佐の浜へ。🌊波が少しだけあったので🏄もしてみた。

裏出雲の公式キャラクター?日本の祖神さまイザナミさまが、なみちゃんに😌

それにしても、、

😮

創作神話の時代とはいえ、当時の人々の表現と意味込めは見事に尽きる。😳

同じ時代に読まれた万葉集の和歌一つとっても、とても現代人が及ぶものではない。

ひとひらの言葉に二重三重の意味を込め

時に情感描写でそれを包み、

時に言外にそれを置く。


歌は、一言に3つの意味をこめる

人の心、特に恋心を謳い、
自然の美しきを纏い、
世上を表す。

短い言の葉に全てをこめて歌うほど、想いの深さが伝わった。

ストレートに言葉を読むのでなく、裏読みする語彙力がなければ返し歌もままならない。 

中国にも讖緯説という裏読みが必要な表現方法があるが、

とても古事記・日本書紀の時代のセンスに及ぶものではない。

現代人でも皮肉を言う時は、ダブルメッセージで逆の意味を含めて言うが、

皮肉以外で、トリプルメッセージの言語表現が出来るのはこの時代の特徴だろう。

古事記や万葉和歌は謎解きや理解よりも

現代人脳の私にとって

読む度に意味が変わるのが面白い。😌

それにしても、、

古事記を額面どおり読む現代人の朴念仁ぶりよ😅

blockhead🙃cold fish

(※紀元2世紀〜7世紀頃までは、世界的にも創作神話と宗教政策の時代だった)

とりとめのない長い話しを読んで下さって、

ありがとうございました。🙏✨

スサノオ二千年の旅、  

ファイルファンタジーなみのシリーズになってしまいましたが、

最後は、地元の神奈川県で終わりたいと思います。😌

(😂まだ続くんか)


スサノオⅩ.奥出雲・古事記伝説【八重垣神社】ロマンスロード

2022-07-15 | スサノオ

【八重垣神社】島根県松江市佐草町227

ご祭神 素戔嗚命 櫛稲田姫 大己貴命

縁結びの神社⛩️ 鏡の池では結びの占いができる。

 

日本神話の故郷『出雲』(島根県)はスサノオ降臨の地。

~古事記

「高天原を追われたスサノオは出雲に辿り着きます。ここで姫を八岐大蛇に差し出さなければならず苦しんでいた出雲族と出会いました。スサノオは八岐大蛇を退治し無事に姫を助け、二人は結ばれました。」

スサノオが櫛稲田姫と出会い八岐大蛇を退治した奥出雲と

櫛稲田姫と結ばれた❤️島根県の松江市を周ります。

 

 

スサノオは、斐の川上から七里離れたここ佐草の郷"佐久佐女の森(奥の院)"に、大杉を中心に

『八重垣』を造り、八岐大蛇から守る為に稲田姫を御隠しになられた。

境内の左から後ろに出ると、佐久佐女の森の奥院がある。

 

『鏡の池』奥院

社務所で紙を買い、紙を池に浮かべ10円か100円玉を真ん中にのせ、沈む早さで叶う早さを占う。

15分以内なら叶いやすく、30分以上かかると叶いづらいという、、😮

浮かべてみた、、

なんと!😳水につけると文字が浮かびあがってきた

「答えは己の中に」ですと。

(思い当たる😅)

隣で老夫婦がやっていたが

違う文字が浮かび上がっていた。ご宣託は人それぞれらしい、

1〜2分で沈んでいった😂☝️

先週、宮城県山元町の「八重垣神社」にお参りし一週間後にこうして

島根県の八重垣神社に参拝することができ、何だか不思議な気分になった。

 

八重垣神社の元宮は、奥出雲にあったという。

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

 八重垣作る その八重垣を

スサノオが詠んだ我が国最初の和歌。

 

【元八重垣神社】

スサノオと櫛稲田姫が出会ったという場所💖

 

こちらに八重垣神社があったが、明治時代に1キロ先の伊賀武神社に遷され、

今は社殿も鳥居もなく、この石碑が残るのみ。

 

 

入口には元結の松といい、櫛稲田姫命が髪を結くときの紐を

こちらの松に掛けたという。

 

うっかりすると通り過ぎてしまいそうなほど、、というか一度通りすぎた😅

 

 

『八頭の峠』

 

この一帯は八頭(ヤト)といいこの周囲1 km くらいのエリアが、

スサノオと櫛稲田姫が出会い

八岐の大蛇が退治されたという「古事記」に登場する日本神話の発祥地だ。

 

 

 

『長者屋敷跡』

櫛稲田姫の両親、足名椎・手名椎(アシナズチ・テナズチ)の老夫婦が住んでいた屋敷跡地。

足名椎・手名椎は大山祇命の子で、国津神(天孫降臨以前からもともとこの国にいた神々)

 

道路脇の元八重垣神社前のジャリ道を進み奥まった所にひっそりとある。

 

老夫婦には八人の娘がいたが、八岐大蛇に年に一人づつ人身御供に奪われ、

櫛稲田姫がとうとう最後の一人になってしまった。

櫛稲田姫もやがて捧げねばならないと泣いていたところ、

高天原を追われて出雲の鳥髪に降ってきた須佐之男命(スサノオのミコト)が、上流から箸が流れてくるのを見つけ(上にも人がいる)と気づきやってきた。老夫婦と出会い

何故、泣いているのか?と尋ね事情を聴いた須佐之男命は、櫛稲田姫を八重垣に囲い隠し、

八岐大蛇を退治する為に、鏡池の水で醸した酒を八つ酒甕に入れ並べておいた。

八岐大蛇がやってきて、酒を飲みだし酔いがまわったところで

須佐之男命は急襲した。

 

鏡池

櫛稲田姫が鏡に使ったていた池。

八岐大蛇を酔わせる酒甕は、この泉の前に並べられた。

 

  

どんな旱魃でも水が絶えることがなかったという。澄んだ水面は、当に鏡。

 

須佐之男命に、八岐大蛇は討たれた。

八岐大蛇が火を吐いて逃げた「火の谷(樋の谷)」という地名が今も残る。

 

【伊賀武神社】島根県奥出雲町佐伯116

ご祭神 五十猛命(スサノオの御子)

八頭に鎮座していた八重垣神社をこちらに遷し、須佐之男命と櫛稲田姫を共に祭っている。

 

 

向かって左の小さな社が「八重垣神社」

 

社殿で待っていてくれた、モリアオガエル🐸

 

 

【須我神社】八雲立つ日本初の宮

 

須賀神社とも。

古事記〜

八岐大蛇を退治した後、スサノオはこの地にやって来て櫛稲田姫と共に住む宮を造ることにした。

そして『我が心、須賀須賀しい(清々しい)』とおっしゃられた為、

この地は『須賀』と呼ばれるようになった。

 

車で10分ほど離れたところに奥宮があり、二社参りがオススメ

 

 

八雲山登山口から400mほど登ったところに須佐之男命と櫛稲田姫の夫婦岩がある。

 

「登山口の看板」

 

 

 

 

 

ご神体の【夫婦岩】

御子岩と三つ並んでいた。

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

古事記では、


「スサノオは五十猛と肥(斐川)の河の上流、鳥髪に天降り、八岐大蛇を退治した」とあるが、

鳥髪峰(鳥上山)は、今は船通山といい、八岐大蛇の棲みかだった山。

頂上には八岐大蛇の『退治碑』がある。

 

 

【鳥髪の峰】島根県奥泉町竹崎

(亀石コース登山口より頂上まで1.5時間)

 標高1142m  船通山

 

登山口までは車で。私は、登山客が引ける夕方5時頃をねらって登山することが多い。急いで登る、、

船通山には須佐之男命が御子・五十猛と共に新羅より天降ったとの伝承があるらしい、、

夕方からの登山で雨も降り、幻想的な雰囲気。

 

 

亀石コースと鳥上滝コースがありどちらも所要時間は同じくらい、

楽だという亀石コースの方から登った。頂上100m手前で両コースは合流する。

なんというか、、霧とも雨ともつかない靄に包まれ、

このまま神隠しにあってしまうのではないか…というくらい幻想的。

異世界ゲート感たっぷりの登山だった👽

ちょと怖め😅

 

 

最初がきつかったがベンチがあり、途中は平坦な道が結構続き後半はなんとかもった。

 

登頂

当然、誰もいない。雨にけむる山に一人。

 

 

須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、発見した『天叢雲剣』のモニュメントが立っている。

 

船通山は島根県(出雲の国)と鳥取県(伯耆の国)にまたがる山で、

双方の観光協会が立てたものらしい。天叢雲剣に相応しく、雨に曇っていた。

 

『鳥髪宮』

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

八岐大蛇(ヤマタのオロチ)には諸説ある。

ここから先は、タイトルの♡ロマンスロードとはうって変わって

八岐大蛇との⚔️戦いのお話しです。

長くなってきましたが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

ヤマタのオロチの正体とは?

 

諸説あります。

アジア北東にいたオロチ族(オロチョン族)が南方経由で渡来してきて

出雲に盤踞していたが、須佐之男に討伐された。

或いは『ヤマトのオロチ』

ヤマト傘下の製鉄部族だったのかもしれないし、八頭の大蛇(ヤタのオロチ族)八頭にいたオロチ族なのかもしれない、

蛇をトーテムとする部族だったか、

八岐に別れる斐川の流れを八又の蛇に例えたのかもしれない、、等と言われています。

何れにしろ、

先住の製鉄部族が追い払われて新たな権力者が

『製鉄の地』出雲を征覇したという事は確かだ。

 

須佐之男が活躍したと思われる弥生時代。

 

紀元1世紀前後はまだ銅剣と鉄剣の混在が残り、

銅剣の部族達は製鉄技術を持つ鉄の部族には太刀打ち出来なかった。
(☝️文字通り鉄剣に折られる)

剣で戦うことが出来ない以上、

姫を差し出して隷属する部族となるか、

須佐之男が酒に酔わせて八岐大蛇を討った時の様な奇襲で、

一発逆転の勝利を狙うしかない。

(火計などの策略も重要🔥🔥)


須佐之男が出雲へやってきて、八岐大蛇を討って、
『八岐大蛇の尾』すなわち八岐大蛇が棲家にした鳥髪の斐川の源流地点から
『天叢雲剣』を発見した神話は、

こうした製鉄部族の覇権交代のエピソードだ。

 

長崎県の対馬が、人として生きた時代の須佐之男を感じる聖地だとしたら、

島根県の出雲は、人として生きた須佐之男が神話化された聖地といえるかもしれない。

 

須佐之男と八岐大蛇の戦いは、

天孫族と出雲族の戦いを暗示していて

或いは

天孫族系同士の覇権争いだったという説もある。

 

古事記の、須佐之男の襲撃で八岐大蛇は『火を吐きながら逃げた』というエピソードは、火計を使い、又は火矢を使い逃げたという事だ。

火は製鉄にも欠かせないが、戦いにも欠かせないもの。

後世、スサノオが発見した天叢雲剣は天皇家の神剣となり日本武尊(ヤマトタケル)が拝受したが、日本武尊が火難に遭った時ら脱出の迎火に使った『火打石』もやはり伯母の倭姫から授かった王家の神器だ。

 

次回の「スサノオⅪ」でまた詳しく書きますが「火」は出雲では重要で、

(🙄まだ続くんか)

出雲大社の鎮火祭では毎年、熊野大社にをきり出す臼杵を頂く。

火嗣の継承儀礼があるのが出雲の由緒だ。

話しは、中部地方の愛知県に飛ぶが愛知県尾張の国😅🙏

尾張氏の始祖『天明命』→『天香久山』→『天村雲命』

と、続いてるのも興味深い。天叢雲剣と同じ名を持つミコトが、火明のミコトの一族にいるというのも何か関係が有りそうだ、😮

出雲に話しを戻して、、🙏😅

古事記とほぼ同時期に出雲で編纂された【出雲国風土記】は、現存する唯一の完全本だが、他の風土記のように
『古事記』『日本書紀』に被る内容が全く書かれていなくて、スサノオに至っては登場すらしない😂☝️

スサノオの御子ツルシヒコが、、等名前だけが4カ所登場するのみ🤨

八岐大蛇も出雲国風土記には登場しない。

この辺りも何やら事情があるのかもしれない、、🤔

古事記では「肥の河の上流、鳥髪峰」

出雲国風土記では『斐川の源流、鳥上山』と、

斐川=肥の河 
鳥髪=鳥上山の地名だけは割と合致がみられるので、

全く別々の場所を記している訳ではない。

古事記はスサノオから天照大神へ皇統が移ったことを強調するために、スサノオの神話をつくり出したと思われる。

そして、出雲国風土記ではスサノオの御子を登場させスサノオの神話に一切触れていないのも、そこに対する無言の主張ともとれるかもしれない、、😑

対照的なのが備後国風土記だ。

次回の投稿『裏出雲』でも触れるが、奥出雲は備後国(広島県)と隣り合う。

備後の国風土記といえば『蘇民将来』のエピソードで、スサノオと八坂神社などに祀られている牛頭天王が結びつけられている唯一の出典だ。

備後国風土記〜

武塔天神(牛頭天皇)が嫁を探しにきた。宿を借りようと長者・巨旦将来に頼んだが断わられ、兄の蘇民将来は貧しいながらも暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は蘇民将来のもとに顕われ感謝し、蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、武塔天神は本性を明かした。』

 

出雲国ではスサノオを登場させず

山の反対側の

備後国ではスサノオを登場させツメ跡を残してる、、😳

この裏表の関係はなんなのだろう、🤔

 

鳥上山(=今の船通山)は砂鉄の産地で、

奥出雲では古くから製鉄が盛んだった。

考古学は苦手だが😅荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(銅剣・銅鐸)など、

弥生考古学最大級の遺跡があり、出雲へはいつかまた足を運んでみたい。

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

この一ヵ月、毎週末


関東、近畿、中部、九州、東北、中国地方と、

スサノオ様を祭る神社の列島巡りをしてきましたが、

図らずながら、


【人として生きたスサノオ】九州
  ↓
【神話になったスサノオ】中国
  ↓
【信仰になったスサノオ】近畿・中部
  ↓
【現代につづくスサノオ】東北

 

と、西から東へ

須佐之男命二千年の歴史を周る旅が出来たかと思います😌🙏

 

最後まで、長い文章にお付き合い頂きありがとうございました🙏

 

あと少し、スサノオ二千年の旅は続きます、、🛸✨✨


スサノオⅨ.兵庫県広峯神社『もう一つの牛頭天王』総本宮

2022-07-10 | スサノオ

【広峰神社】兵庫県姫路市広峰山52

 

牛頭天王総本宮

この週末、いよいよスサノオ降臨の日本神話の故郷、出雲へ。

ですが、その前に兵庫県の広峯神社へまずお立寄りさせて頂きました。

奈良時代に吉備真備が、備後の国(広島県福山市)の須佐能袁能神社(疫隈)から勧請してきたのが由緒。

 

吉備真備は、吉備の国(岡山県)の人。

713年に遣唐使となり学ぶこと18年、唐国において知識人として名を馳せ帰国し、大和朝廷で重用された。

吉備真備は岡山県にも数々スサノオを祭っている。

 

戦国時代の名軍師、黒田官兵衛も祭られている。

 

広峰山の山頂に祭られているが、大鳥居までは車で上がれる。

😑😑😑

Googleマップだと姫路城を背に左から

白幤山、広峰山、広峯山、廣峯山と、まさかの
同姓同名の山?が三つ連なり😅

左から2番目の広峰山の前に廣峯神社が祭られている。

そして住所は広嶺山52とあり

Wikipediaでは広峯神社となっている。


ややこしい過ぎ、、😂

『みね』って漢字4種類もあったんだ😮

鳥居からは、参道が長々続く、、。

吉備真備が最初に祭ったのは白幣山の山頂で、ここから八坂神社と廣峯神社に分かれたとの説がある。

最初は、ひろみね山という山の表記が違うだけかと思ったら、

それぞれ違う別の山だった?☝️まるで須佐之男と素戔嗚命と牛頭天王は違うと暗示しているようだ、、(してない😅)

 

 

中世から近世にかけて牛頭天王の信仰は爆発的に全国に広がった。

 

1717年製の神輿

 

八坂神社の牛頭天王総本社と並び、こちらの広峰神社は牛頭天王の総本宮を称している。総社と総本宮、どちらが起源かで対立はあるようだが、神祇界の事情はさておき、

牛頭天王の疫神としての逸話「蘇民将来」の話しも備後の国の話しで、備後より876年に八坂へ勧請されたらしく、起源は西からと考えていいのかもしれない。

更に西に遡れば韓国の牛頭・天王で、牛頭天王は「和製の仏教神」と云われるほどインドとは程遠いが、韓国とは近い。

 

ただ、元宮=総本社という事ではないかもしれないが、

かつて祇園本社「播磨国広峯社」といい、そこから祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社とも言われている。

 

広峯神社からの眺め

 

山の上だけあり、こちらはやはり奥宮、元宮といった感じが漂う。

 

社務所は、留守でした。

 

神社の裏手から、10分ほど山道を上がると

白幣山の頂上で、

吉備真備を祭る学問の神社と荒神社、

そして、その二つの社の間に

岩座が祭られている。

小さな岩座

 

ここがちょっと分かりにかった、、😅

地元の方に尋ねると、白幣山ではなくミツ山という呼び方をされていた。

社殿の裏へ周るといくつか社が祀られている。

 


そこから、なだらかな山道を10分ほど上ると頂上。

 

 

 

吉備神社とあら神社が祀られていてそのやしろとやしろの間にあるのが岩座で

=スサノオが最初に降ったという白幣山の頂上です。

 

 

吉備神社 

氣のいいところ、、

 

 

 

本殿の裏には、九星気学による生まれ年の穴に願いを入れることになってる、、

が、社務所が受付なので、皆さん諦めていた。

機会が、あれば願い事してみたい、、😌

 

これから、兵庫県岡山県、広島県、島根県へと抜けて

スサノオ様を周る。

広島ではスサノオの母、イザナミの神話の地

比婆山を周り、

 

1.兵庫県【広峰神社】スサノオ
2.広島県【熊野神社】イザナミ・スサノオ
3.広島県【千引岩】イザナミ
4.広島県【火よけ穴】イザナミ
5.広島県【比婆山御陵】イザナミ

島根県
奥出雲
6.【稚児池神社】スサノオの産湯
7.【櫛田神社】櫛稲田姫・スサノオ
(櫛稲田姫生誕の地)
8.【八重垣神社跡】
スサノオと櫛稲田姫が結ばれた地
9.出雲市【出雲大社】
10.松江市【八重垣神社】
11.松江市【熊野大社】
12.雲南市【須我神社】
13.雲南市【須我奥宮】

奥出雲
14.【伊賀多気】
15.【新宮神社】
16.【船通山登山】

 

出雲の後は、

日本海側から長野を抜けて中央道で東京方面に帰るので途中立寄りで

京都府
17.安井金毘羅宮、

石川県
18.尾山神社、
19.櫛田神社、
20.瀬織津姫神社、
21.白山姫神社

富山県
22.櫛田神社
23.射水神社
24.多気神社

新潟県
25.天津神社・奴奈川神社

長野県
26.仁科神明宮
27.穂高神社
28.四柱神社
29.大宮五十鈴神社
30.諏訪大社


全部で30社を巡る予定。

 

ちょっとした弾丸ツアーだが、土日だけでは周りきれないので2日休んで
4日間で巡る(🙄登山が二つ三つあるようですけど、、)

多分、周れるでしょう😂

 

😌いつもこんな感じで、もう日本を何周してるか分からないが、

長距離移動で🛸🛸🛸ルートインホテルが定番になってしまった。

私はお酒を飲まないので夜ホテルで、晩酌するということはなく

朝6時から日が傾く夕方6時ぐらいまでお参りし

6時から午前0時までは、次の目的地への移動時間に使っている。

😅案件という訳ではないですが、、

マストになっている利便性だけ綴ります😌

ルートインホテルは駐車場有りで全国にあり、

インターの近くそして24時チェックイン

大浴場は深夜2時まで入れるというのがありたい。

駅前のルートインは駐車場や大浴場が無いところがあり残念だが、

それでも朝食付サービスも含めて全国どこでも安定のサービスで

寝心地に当たり外れがないところが助かってる。🙏😌

 

それにしても、、もはや🙄海外旅行なみの移動距離かもしれない😅

 

今日はちょっと疲れた🫠🌌💤

午前0時30分チェックイン🌃

 


スサノオⅧ.「津波ライン」宮城県〜岩手県

2022-07-05 | スサノオ

今回の週末は、東北の津波ラインのスサノオさまを周ってきた。

東日本大震災の津波で、スサノオを祭る神社はみな被災を受けなかった事から、

災害時に安全な場所に祭られていたことが明らかになった。

宮城県から岩手県沿岸の『八坂神社』『八重垣神社』『八雲神社』『熊野神社』

などスサノオ様が祭られている沿岸部の神社を周る旅。

 

【八重垣神社】宮城県山元町高瀬


創建 807年
ご祭神 神速素戔嗚命

1409年に藤波尭雄が、伊勢神宮に詣て神祇官より素盞鳴尊の神璽を頂いてきたという由緒がある。

 

鳥居


11年前の津波では、スサノオさまを祭る神社は被災することが無かった。
一番多く被災したのは、天照大神を祭る神社だったという。

スサノオ様を祭る神社は、津波の到達しないギリギリの場所に祭られていて、
過去、貞観津波(約千二百年前)、慶長津波(約400年前)の巨大津波を体験した先祖の方々はそれを標すため、

後世へとスサノオさまを祭る神社を目印に残してくれていた。


ただひとつ、、


こちら亘理郡山元町は平地が広く海岸から高地までかなり距離があり、実はスサノオさまを祭る神社の中で唯一、津波被害を受けた神社だった。

海沿いに延々と田園風景が広がる。

高瀬という地名どおりこのエリアの中では高い場所だったようで、正面からの津波は免れた。

しかし、両側の低地から水が襲ってきて被害を受けてしまったという。

広い平野の中でも、水害を回避する可能性がある場所を選らんで祭られていた事が偲ばれる。

 

以前、山元町の知人が
名物の『はらこ飯』を食べながら後日譚を話してくれた事があった。


スサノオを祭る神社が、

全てぎりぎり津波が到達しない場所に祭られていた


「スサノオの津波ライン」が知られる中で、

唯一被災した神社があった山元町だが、

二年後に、

その時に流されてしまった神輿が流れつき戻ってきて、涙したという。

 

スサノオ様を祭ったご先祖さまと、

山元町との繋がりを感じずにはいられない神威に震えた。

 

復興した八重垣神社は、全国の方々の協力による植樹で大切に囲われていた。


※八重垣(=八重に囲い大切に守る)

スサノオ様が、詠んだ我国最初の和歌
『八雲立つ 出雲八重垣妻籠に
八重垣つくるその八重垣を』

社殿は6年半かけて再建された。

今年も、7月末に神輿を海の中まで担いでいく例祭が行なわれるという。



【八雲神社】亘理町逢隈牛袋天王

創建807年 坂上田村麻呂の創建

牛頭天王社といい、明治の神仏分離令で八雲神社となり『神速須佐之男命』を祭る。

 

他の、スサノオ様の津波ラインの神社も周ってみたが、

本当にここが?!と、、思うほど

平坦な場所、海岸線に近い場所に祀られていた。

津波の被災エリアに近い場所で、よく安全な場所があったなと驚かされる。

しかし、ぎりぎり被災を免れていた訳で、

避難場所としてのスサノオ様の神社の在り様にただただ、感心した。

 

山本町・亘理のこの二社に続き、宮城県・岩手県を周らせてもらった。

津波ラインの話題となった、東京工業大学大学院の論文

東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究

で挙げられていたスサノオ様を祭る神社を巡る旅。

 

①宮城県仙台市若林区今泉【八坂神社】

②岩手県大船渡市大船渡町猪頭【八坂神社、熊野神社、加茂神社】

⓷岩手県大船渡市赤崎町跡浜【八坂神社】

④岩手県大船渡市末崎町双六【八坂神社】

⑤岩手県陸前高田市気仙町【八坂神社】

 

 

【八坂神社】仙台市若林区今泉

住宅街の中にある小さな神社

 

 

 

隣にある観音堂と春日社

 

『八坂神社』だか、拝殿には「熊野神社」「八坂神社」とが掲げられていた。

今泉城跡とあり、かつては交通や地政的な要衝の地であったことが伺える。

それにしても、、ここが?と驚くほど平地に祭られていた。

 

 

【八坂神社、加茂神社、熊野神社】岩手県大船渡市大船渡町

中央の加茂神社の左右に、八坂神社と熊野神社が鎮座する。

 

加茂神社の向かって右に祭られている

『八坂神社』

 

『熊野神社』

 

熊野神社からの海

 

湾に近い高台に祭られていた。

 

岩手県は熊野神社が多い。

北の都『奥州平泉』の藤原氏によって熊野信仰は更に拓かれた。



 

 

【八坂神社】岩手県大船渡市赤崎町跡浜

 

 

 

狛犬さんが、、

黄色い布を使い表情が豊かでした。

 

地元の方のお話しでは、神社の石段の下まで水没してしまったという。

 

【八坂神社】岩手県陸前高田市気仙町双六

 

 

 

 

 

 

【八坂神社】岩手県陸前高田市気仙町

 

景勝地 『碁石海岸』の近く、海辺の高台に鎮座されている。

 

 

 

 

 

 

 

スサノオ様を祭る神社は

熊野神社(熊野系
八坂神社(祇園系

八雲神社、八重垣神社、須賀神社など出雲系の神社が

沿岸部に祭られていた。

 

河川流域に比較的多い、「氷川神社」は河に祭られるスサノオ様だけあってか全くなかった。

スサノオ様が鎮座する神社が津波の被災を免れたのは、

過去、津波を経験したご先祖さま達が、

回避しうる場所にあえて祭っていたからだが、

他には、八幡様も多くが津波の被災を免れた。

 

一方で、稲荷神社は被災が多かったという。

 

ご祭神は、稲倉魂命や豊受大御神など
稲作農業や殖産に関わる神様で、
生活に密接した存在だけに、生活の場であれば必ず何処にでも祭られていて
日本一多い神社だ。

 

生活の場の稲荷神社と

避難場所のスサノオと

神様のご神徳の特徴による空間的配置がされていたことがうかがえる。

最も、津波の被災を受けたのは天照大神を祭った神社だったという事だが、

国家祭祀の神様だけに、鎮座地も含めてこうした庶民生活とは離れた存在であったからという事もあるかもしれない。

が、

何故、天照大神を祭る神社が最も津波被災を受けてしまったかという、
空間配置や地域性のことよりも、、

何よりも、天照大神をお祭りする


【五十鈴神社】が多いことに驚かされた😳

宮城県石巻を中心に、岩手県陸前高田市まで沿岸部に集中して祭られている。

天照大神を祭るのは、

『神明社』や『神宮』が多く、

『神社』として祭っている五十鈴神社はどちらかというとマイノリティだ。

たまに見かけると珍しいと感じるが、

こんなに沢山まとまって鎮座されているのはびっくり珍しい、、😮

(もしかすると、五十鈴神社の密度日本一のエリアかもしれない🤔)

 

話しはそれますが、「標」という地名は津波がきたことを標す意味でつけられていた地名だが、その地名が変えられてしまったり原発が造られたりしてしまった事は残念という他ない。現代の私達が活かせなければ、先人たちの苦労も水の泡だ。

 

地域にとっての神社は、信仰の場・祭祀の場というだけではなく、

時代を超えてコミュニティに存在してきた無類の価値がある。

 

現代でも都市計画デザインに求められる様な

永続性、公共性、環境性、そして景観も全て兼ね備えている。

神社には杜があり、集会所があり、保育園や幼稚園があり、そして消防団があり、お祭りがあり、

地域の人々の交流や危機回避、生活や文化と密接した関係の中に存在している。

 

津波の被災は無かったものの、地震により倒壊した神社もあった。

 

論文では、

避難所として公共的役割を担っていた神社などが、政教分離の考えから公的支援を受けることができないという問題が指摘されていた。

 

1000年以上の長期的な時間軸から自然災害の歴史を伝え、

かつ地域の防災拠点として機能する、その神社空間を維持し

地域マネジメントを実施する上で

どのようにその意味を共有していくか、

『神社空間が大規模自然災害のリスクマネジメントにおいて重要な意味を持つのは、祭事などを通して地域の人々の意識と記憶に深く根ざす可能性があるからである。

今後は神社などの宗教空間をどのように位置付けていくかということを検討しなければならない。

伝統的にコミュニティの中心に位置し地域社会の精神的支柱となってきた神社空間を地域の重要な共有資源として捉え直すことが求められている』

と、結ばれていた。

 

学術的だが、丁寧に言葉を選らんで表現されている様で、

地域の神社の様子や歴史が浮かび上がり、偏見の無い

その抽出の見事さに敬服した。😮🙏

 

 

私は、被災地に行くと或いは画像を見ただけで、涙が止まらなくなることがある。悲しみが伝わってくる様で、、


(エンパスか😔)

福島に白鳥監督の『蘇生Ⅱ』を観にゆくというツアーに行った時は、上映中ずっと号泣していてスクリーンは殆ど見えなかった。


今回はそれほどに泣かずにいられた。

「以前とは、変わりました」

と言う、地元の方の言葉には

悲しみをこえてきた思いも

感じた。

また今度、

地域の人々と共にある


スサノオ様をお参りしてみたい。

その土地その土地の人々と、

スサノオ様の神話は続いている。

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△

こうして、ブログで神社巡りを沢山書いていますが全くの無宗教で😅🙏

特定の神道や仏教を信仰していることはありません。

しかし神社、或いは神様には、


教義や信仰以前に深い繋がりがある気がする。


私には、

祖父が二人いて(当たり前だ😅)

一人は、宮大工さん
一人は、的屋さん、、

往時あった事はないが、祖父どちらも
神社に関わりがある仕事をしていた様だ。

神社には、本当に多様な繋がりがある。

初詣やお祭りに行ったことの無い人はいないと思うが、その様に
当たり前すぎて逆に忘れてしまっている繋がりを思い出させて貰えた。

 

✨聖なる国 日本 と神社⛩️✨

来週は、いよいよ出雲のスサノオへ⛩️

 

行けるのか?!😂多動人の私は、よく動く、、🛸