聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

Ⅰ.奈良時代の謎【法王と天皇】対立の真相

2023-07-29 | 古代ミステリー

今回は古代ミステリーロマンの投稿です。

✨✨✨✨✨✨✨

前の投稿で紹介した『水屋神社』は、大和の国と伊勢の国の国境に位置していて国分けの伝承が残されている。

水屋神社は春日大社の「行在所」だったとされるが、行在所とは天皇が皇居から出て滞在する時に使う「仮宮」のことで、「平城宮」の行在所なら分かるが何故、春日大社だったのだろうか?

✨✨✨✨✨✨✨

今回はこの⛩️春日大社や水屋神社が創建された奈良時代の世界を、より古代ミステリー的な視点から異説を唱えてみます。

興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

【奈良時代の真相】

神仏習合の時代(神が仏教神にかえられ、神社が仏教の配下に置かれていた中世独特の宗教時代)春日大社は興福寺下に置かれていた。

 

春日大社や水屋神社ができた奈良時代は、仏教勢力が力を強めてきた時代であり、どんな世の中だったのだろうか?

 

1300年前にタイムスリップしてみて🛸🛸、当時の様子を窺っていく。

 

まず、奈良の前の飛鳥時代は、天武天皇が「天照大神を始祖神として、その子孫の天皇家を日本人が崇める」という宗教政策を考え実施していた。

天武天皇は、それまでクローズアップされてこなかった天照大神や神武天皇の存在を持ち出して自軍を鼓舞し天智天皇系の勢力に勝利した。

 

そして伊勢神宮の社格を日本一に高め、初めて「天皇」という王号と「日本」という国号を使った。古事記・日本書紀の編纂を命じ、天武天皇の跡を継いだ持統天皇は、「日本」という国号で初となる遣唐使を送り時の中国皇帝に「もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本と呼ぶように。」と言わしめた。

 

天皇を頂点とした日本の礎の時代だったが、その後、奈良時代になると藤原不比等(一説に鎌足に託した天武天皇の隠し子と言われている)がその事業を継承し、天皇を中心とした律令国家は固められたかと思われた。

しかし不比等の死後、権勢を誇っていた不比等の一族らが一斉に天然痘で亡くなると、権力の中心は仏教勢力へとって変わられた。

(天然痘は流行ってはいたが、一斉に亡くなるのは古代では暗殺の偽装とみる向きがある🤔)

 

藤原氏というと、天皇家を凌ぎ権勢を欲しいままにしてきた様に思われがちだが、それは奈良仏教の勢力から天皇家が逃れ「平安京」に遷都した100年後以降のことで、当初は天皇の支えとなり(天武系)、日本の天皇制と公地公民を守り天智系に対抗していた。

しかし、結局藤原氏を抑えて権力を欲しいままにしたのは仏教勢力だった。生まれたばかりの日本の公地公民制は、これによって破られたとも言える。

 

私達が歴史として学ぶ時は、天皇側は苛政を行い弾圧した悪玉で、僧・行基など奈良時代の仏教者は民衆の為に布教し開墾という社会事業を行ったヒーローの様に語られていることが多い。これに疑問を持ったことはなかった。

しかし、行基以来、国土開発は国家主導から仏教主導の世界へと変わってしまった。

 

仏教伝来後二百年が経ち、律令体制下では既に神仏両派が対立した時代ではなかったが、仏教勢力同士の新旧対立へと時代は動き始めていた。朝廷側は、布教を禁じる事までしなければならない程、新興勢力の行基らは僧業を超えた活動家だったのだ。

 

 

【布教という名の私有民化事業】

天智天皇系の長屋王が実権を握る様になると、開墾地の私的な所有を三世に限り認めるという「三世一身法」が施行され、大がかりな開発事業を行う行基らは私有地の開墾民達から多額の資金を集められる様になり、奈良仏教は堂々と巨万の富を蓄えていった。

国の田畑でさえ布教の後は私有地に変えられてしまい、ついには大仏を建立できるほどにまでに財を成し、行基は旧仏教者らを追い越して日本で初めての大僧正の位にまで昇りつめた。

 

国民は税は払わず、行基に資金を払い、平城京遷都の役務だけで終わったはずの国民も、千を超すとも言われる寺院や大仏の建立の使役に駆り出された。奈良仏教勢力の前に天皇家は言いなりであり「天皇は仏教の下僕である」事を宣言させられ、もはや政策者が仏教を利用するのではなく、仏教者が政策の実権を握っている世の中となっていた。

 

その後「墾田永年私財法」によって開墾地は永遠に免税となり、仏教勢力は開墾民から永遠に私税を得ることが可能になってしまった。布教による出家信者の増加は、開墾した広大な寺領で耕作を行う私有民の増加であり、即ち国民の減少でもあった。

墾田永年私財法ができた理由は、

三世一身法だと『免税期間が過ぎると開墾した田畑が放棄され耕されなくならから、永遠に免税にした』と言う。

本当にそんな事があるのだろうか?

農民自らが、自分達が汗を流して開墾した田畑を『税金を払いたくないから』と言って放置する事などない。

農民の一揆なら分かるが、
農民のストライキなど、飢え死にしてしまうだけではないか😳💦

日本人の生存を可能にしてきた、定住型農耕社会では有り得ない事だが、

免税目当てにそれを可能にしてしまう程、耕作人をコントロールする大きな力が働いていたのだろう。

 

開墾と抱き合わせて行われる布教という名の私有民化事業によって事実上、かつての和国の部族連合国の様な「私有地・私有民時代」のへの逆戻りとなった為、日本国の公地公民制は早くも崩れた。

 

 

【法王と天皇のせめぎ合い】

奈良仏教の法王・僧道鏡の時代になると勢力はピークに達し、とうとう天皇の位を譲れと迫る様になった。仏国土(仏教国化)を掲げる奈良仏教としては、法王が国王の地位を狙うのは当然のことである。

天皇を頂点とする日本国から、

法王を頂点とする仏教国日本へ、

実質支配だけでなく、ついに天皇という位を奪うまで、道鏡はあと一歩という所まで迫っていた。

天武天皇系は最後まで天智系に皇統を譲る事に抵抗していた為、利用され力を削がれながらも苦肉の選択で僧・道鏡に譲位しようとしていた様だが、伊勢神宮と並び天皇家の第二の祖廟である九州の宇佐神宮の存在により、土壇場で道鏡に皇位を譲位するには至らなかった。

 

春日大社や水屋神社が造られたのは、この頃の事である。天皇側は失速しつつも結局皇位を保ち仏教勢力に王位を譲ることは無かったが、仏教勢力をどうにかすることも出来なかった。藤原氏の生き残り達も、この頃は仏教勢力側についていたと思われる。

 

当に

天皇側・伊勢神宮と、

法王側・興福寺の勢力がせめぎ合い拮抗していた時代の真っ只中だった。

 

天皇側は様々な妨害に合いながらも、何度も奈良から脱出しようと遷都を試み、ようやく京都の平安京に遷都して新政権を開いたのはこれから20年以上経った後のことだ。

 

天皇は君臨しつつも、天武天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、または村上天皇の様に時代を切り開いた天皇以外は律令国家以降、自ら政治を行ったということがあまり無い。後醍醐天皇の様に天皇の政治に戻そうと言う戦いは失敗に終わっている。

天皇主導の時代は黎明期の飛鳥時代だけで、奈良時代は最初に天皇側が脅かされた時代だった。

そしてその仏教勢力の時代の後は、貴族の時代、武士の時代へと国家権力の中心は移り変わっていった。

 

伊勢神宮の領域と、興福寺の領域と、国境を分けた神話と共に、

水屋神社周辺には、珍し峠や水屋神社の楠と杉の和合の樹など

かつての領地のせめぎ合いを、景観までもがそれを物語っているかの様に残されている。

『珍し峠』

 

『楠と杉の和合の樹』

 

長い話しをお読み頂きありがとう御座いました。

✨✨✨✨✨✨✨

 

次回は、【日本の中央構造線上には何故、神社が多いのか?】

水屋神社が、日本列島を横切る中央構造線という大断層の上に祭られていることから、その秘密を解き明かしていきます。


三重県・大和と伊勢の国境の神社【水屋神社】

2023-07-28 | パワースポット
【水屋神社】
三重県松阪市飯高町赤桶2507
 



三重県松阪市の櫛田川沿いにある神社。
 
 
 
三重県というと何といっても「伊勢神宮」が有名だが、三重県は縦に長く(日本5位)
 
桑名、伊賀、松坂、多気、志摩、尾鷲、など山と海のスポットが続いていて、
 
それぞれに風土や歴史が違う。
 
 
 
 
 
 
三重から奈良へ抜ける国道166号線沿い、忽然と赤い桶が現れる。
 
 
この辺りは、
 
伊勢の国(三重県)と
大和の国(奈良県)の国境と云われ、
 
春日大明神と天照大神が境を決めたという国分けの伝承があるそうだ。
 
 
 
創建は奈良時代 平城京の頃。
 
 
 
✨✨✨✨✨✨✨
 
 
 
 
楠と杉が重なり合い、和合している。
 
まるで、大和と伊勢の境界を示している様だ。
 
 
 
和合の樹🌲
 
 
 

 

樹齢千年という大楠

 

 

ご祭神は藤原氏の氏神

中臣氏の始祖である

⛩️天児屋根命(アメノコヤネ)と、

 

関東の

鹿島神宮ご祭神 

⛩️武甕槌神(タケミカヅチ)

 

香取神宮ご祭神 

⛩️経津主命(フツヌシ)

 

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「水屋神社」は楠だけでなく、独特な樹がなんとなく目につく。

 

 

 

このエリアが

伊勢神宮の社領と、春日大社の社領の境界だった様で、

興福寺の『あか桶の庄』という荘園と、伊勢神宮の荘園が隣接する。

 

何故、興福寺かと言うと神仏習合の時代(神が仏教神にかえられ、神社が仏教の配下に置かれていた中世独特の宗教時代)

春日大社は興福寺下に置かれていたからで、水屋神社は春日大社の行在所として祭られていたらしい、

 

ややこしいが🙄

 

本社 【興福寺】

支社 【春日大社】

出張所【水屋神社】

 

といったところだろうか🤔

 

更にややこしく考えると、行在所と言うのは天皇が都から出られた時に滞在する仮宮の事なので、「平城宮の行在所」ではなく「春日大社の行在所」とはどういう意味だろうか??
次回、古代ミステリーの投稿でまた綴ってみようと思います。

(また3回シリーズか🙄)

✨✨✨✨✨✨✨✨✨

御覧頂きありがとう御座いました。

 
 

Ⅲ.七福神「エビス」様と古事記の向こう側・古代ミステリー最終章

2023-07-20 | 古代ミステリー
  1. ✨恵比寿さまの

3回シリーズの古代ミステリーロマン

最後の投稿です🙏興味のある方は ご覧ください。

 

【古事記の向こう側へ🚀】

今の日本には、150年前の明治時代の宗教政策の影響がまだ色濃く残っている。

当時は、政教一致を掲げていて、

「日本は天照大神を始祖とする神の国である。」

古事記・日本書紀は全て史実である」という教育が行われていた。

 

ヤマト以前の歴史は

「日本人とは関係の無い、野蛮人がいた時代」と、教えられていたそうだ。

 

戦前までこれが続いてきた。しかし、21世紀に生きる私達が、今更これを鵜呑み信じる訳にもいかない。

 

DNA解析により私達の祖先は縄文人と弥生人の二重構造とされているが、その祖先である弥生人達が、どこの国から渡来してきた民族なのかさえ、未だに解明されてはない。かつての様に神話の世界に逃げ、ヤマト開闢以前の日本の姿を知ろうとする探究心を押し止める事などもうできないのだ。

 

古事記に記されている文字を額面どおり読むのではなく、制作者側に立った意図を読み取ろうという試みは一部の市井の間では研究されているが、それらは正史ではないので古代ミステリーと言われている。

 

中国や韓国などでは、史書の中で比喩的に表現している文章や隠語を読み取る(讖緯説など)こと等ザラにあるが、日本ではまだタブーになっている様にも思える。なので、あえて説域を広げていく為に、より古代ミステリー的な視点から思いっきって異説を掲げてみる。

 

✨✨✨✨✨

【ヤマト王朝以前の日本の姿】

ヤマト王朝は、三世紀頃から始まったと考えるのが一般的らしい。では、それ以前の前王朝は、どの様な国があったのか。

 

「和国100余国の大乱」と魏志倭人伝にある様に小国が多く、統一された王朝はなかった。

 

それぞれの部族や小国は戦っても相手を完全に武力破壊することなく、平和的な婚姻合併策をとり連合国となって勢力を強めていった。お互いの王子と王女を婚姻させて、生まれた子を王にした。

しかし、古代和国は伝統的な女王国も多く、男王国と女王国の合併の場合は、女系男系の嫡系対立が生じる。瀬織津姫などもその様な困難は遭遇したかもしれない。

 

古事記を額面どおり読まず、イザナミ・イザナキの「国生み神話」を比喩的な表現の物語として秘められた弥生人たちのストーリーを探っていく。

 

夫・イザナギと妻・イザナミの「国生み」とは?

 

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古事記に記される『日本神話』

天御柱でイザナギは左から、イザナミが右から周り出会い、イザナミの方が先に声をかけて二人は結ばれた。

第一子のヒルコが生まれたが、柔らかく3年経っても歩くことができなかったので、ヒルコは神(王)には成れず船に乗せて流された。次の子も神(王)となることはできず、

 

「女の方から声をかけたので失敗した。今度は男が先に声をかけよう」と二人は合わさり直した。すると今度は上手くゆき、次々に国を生み出していった。

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「女性の方から先に言い寄った為に失敗した」

 

これは女王の方から男王に嫁入りするという男王国家は基盤が弱く、失敗したという事だ。

 

男王国と女王国の婚姻合併は3年経っても基盤が定まらず、日本列島の進攻もままならなかった為、和国の伝統に従い、逆に男王から女王に婿入りするという再合併を試みた。

 

(逆もあり得ると思います…何れにせよ男系・女系の紆余曲折の時代🤔)

 

男系のヒルコ=王子・男王は世襲せず

女系のヒルメ=王女・女王の国としたところ、軟らかかった基盤が固まって四国から九州へと国生みの歩みが始まったのだ。

ヒルメは女王となり、大ヒルメと呼ばれた。

なので、国生みが続いた四国・九州には「大ヒルメ」の伝承が多く残されている。

大ヒルメ=女王は、後に天照大神ともいわれる様になり、また卑弥呼とむすびつける考えもあり、和国原初の女王国時代の代表的な存在となった。

 

室町時代になり、エビス様という福の神の名で、

ヒルコと出雲の国譲りの事代主という神が、同じ神様として祭られた。

 

なぜ室町時代の人々は、この国生みと国譲りの神を重ねたのか?

 

イザナギ・イザナミは、小国で混沌としていた西日本の多くの神(王)たちを二人の配下にしていき、部族連合国は拡大したが、最終的に黄泉の国(出雲)のイザナミ軍と、常世の国(新羅)のイザナギ軍は武力激突している。

日本書記では、イザナギ・イザナミ二人の仲を取り直したのは、(新羅の)菊理姫とされているが、古事記に登場せずに日本書記に記されているあたり、後世になり二人を祭った子孫なのではないかと思う。戦いは痛み分けとなったが、

 

イザナミ→スサノオ→大国主→事代主と代を重ねた後、

男系女系の嫡系対立の最後の争乱が、出雲の国譲りだったのではないだろうか。🤔

 

出雲の国譲りは、天孫族が出雲に進攻してきて出雲族より国を譲り受けたという日本神話でのエピソードだが、天孫族同士の内乱ともいわれている。

出雲の大国主・事代主(エビス)は船に乗って去っていき、この時、天孫族の嫡系が移ったのかもしれない。これを境にヤマト族の国権は女王から男王の系譜に移り、男系国家へと徐々に変貌していった。

 

この後も形式的であったにせよ、新たな王や支配者は必ず前王朝の王女に婿入りするという、伝統的なやり方で王位と国を譲り受ける婚姻合併は和国に長らく残っていた。

古代和国では、職業軍人は存在せず(将軍くらいで)兵士の多くは農民だった為に、戦に勝ったところで武力支配が継続出来なかった為、平和的な合併策がとられたのではないかと思う、🤔

 

西宮には、事代主だけでなく武南方や瀬織津姫など天孫族側ではない神々が多く祭られている。

 

✨✨✨✨✨✨✨

戎(エビス)が日本で神として祭られた頃は、南朝の後醍醐天皇と、北朝側の足利氏との間で半世紀に及ぶ対立があり、分裂王朝の時代が続いていた。

最終的に足利氏側が勝利したが、新興の足利勢力は、南朝の味方であった旧寺社勢力に宗教的に対抗する為、新たな信仰勢力を生み出す必要があり、明との貿易で輸入した新たな神々を使って、旧来の仏教でも神道でもない、

『七福神』という外来種の神々への信仰を生み出していったのかもしれない。

 

そして、中央からすれば「戎」という蔑称で呼ばれた者達だが、実は民衆の側にはエビスとは呼ばず、元々「エピスさま」と敬服し親しんでいる人々がいたのだ。

 

何故、民衆には土着的なエビス信仰があったのか?

 

中国の西方にいた異民族「西戎」とは、勇猛な遊牧民族のことを指して言う。遊牧民族の多くは母系国家(ハラ)で、中国は男系国家(ウル)であった為、中国人は習俗の違う彼らのことを野蛮であるとして戎(エビス)という蔑称で呼んでいた。(犬戎、西戎など)

 

6~7世紀頃、エフタル族、突厥族など西アジアでの争いに敗れた遊牧民族らが、馬を駆り戎服(軍服)を纏ったまま北アジアのステップロードを抜け、民族(ペドウン)の大移動を敢行し朝鮮半島、日本列島へと逃げ込んできた。

推古8年(600年)

「43万の異敵が襲撃してきた」

戎人8千人が筑紫から播磨の明石まで至った」などと史書にも記述が残る。

 

 

エフタル族が日本列島に上陸すると、ヤマトでは彼らを恐れて一時は王権を継ごうとする者が誰もいなくなってしまった程だ。やがて欽明天皇が没した後、エフタル族は勢いを失い東日本へと去っていった。

次に渡来した突厥族は、明石を拠点として難波を押さえ奈良まで進出したが、聖徳太子の死後は勢いを失い多くは関東へと去っていった。

 

西アジアから渡来した彼らは、在来のエミシと区別され、外来のエビス(戎)と呼ばれた。

(あくまでヤマトからみた外来で先住者にとってはヤマト族も外来種だが🤔)

 

戎と呼ばれた人々が中央から東国の野に下った後でも、彼らと共に渡来してきた人々の子孫や恩恵を受けた者達が、「エビスさま」と親しみを込めて呼び陰ながら祀っていたのかもしれない。

製鉄、馬術や馬飼い、弓術など大陸渡来の恩恵に恵まれた人々は少なからずいたはずだ。そして、日本に弥勒信仰を伝えたのも彼らだった。

 

西アジアの勇猛な戦士たちの子孫は馬術弓術に優れ、蔑まれながらも東国で力を蓄えていき、ついには武士の時代をきり開いた。坂東武者は、戎の末裔だったのだ。

 

武士の世の中となり、エビスさまを堂々と祀ることが出来る様になった民衆の信仰と、

新しい宗教を頒布しようとする幕府の宗教政策の思惑も重なり、

ついには神となった戎(エビス)を恵比寿(エビス)様という福の神の呼び名にして広めて、外来の神々と合わせて「七福神」という新しい信仰がはじまった。

 

三福神、八福神など紆余曲折があった福の神信仰には、頒布する側の試行錯誤の思惑があったのだろう。インダストリアル宗教プロデューサーは必ずいたはずだ。

室町は貨幣経済と市場が過去最高に発達した時代でもあり、福の神や商売繁盛の神も最も時代に適っていた。

 

天皇の治世から、武士の治世へ変わり、

仏教神、皇祖神、
沿岸部に祭られる御霊信仰の
スサノオなど、それら過去の信仰対象は一切除いて、

中国の道教の神々まで取り込み、

神(王)になれず船で流されたヒルコと

国を譲り船で去っていった事代主と

東国へ去った、エビスと

沿岸部の信仰が習合され、

大国主など出雲系の神も大黒さまとして再生させて、

『七福神』が生み出された。

かつての仏教神、皇祖神が宗教界の主流派だとしたら、エビス神らは

野党連合政権といったところだろうか🤔しかし、マーケットはこちらに反応した。

港や市場はこの『福の神』の信仰と共に流通経済が発展し、ついには座(ギルド)という同業者組合まで発生した。

呪いや祟りなど呪術的な教化が蔓延した前時代を暗黒の中世と言うならば、なんとルネッサンスな世界だろう。日本の伝統芸能が花開いた時代でもある。

怨念という、前時代の負の植え付け型宗教を払拭しただけでなく、

商売繁盛という御利益の教化と、経済成長が同時に進行したというのは、

日本の宗教政策史上、極めて稀有な時代だ。

 


エビス様は、ヤマトの世で陰ながら祀っていた人々だけでなく、ついには日本の伝統的な信仰にまでなった。

 

 

✨✨✨✨✨✨✨

 

かつての女王国や母系国家とは、この様な世界だったろうかと思うほど、

 

西宮は全体が母性的な優しさに包まれている様に感じた。✨

 

時代を超えた福の神の歴史と、

福の神の福徳が溢れている。

 

次は、今宮戎神社にお参りしてみようと思う。

 

3回シリーズ・古代ミステリーロマン「エビス様の真相」

 

長い話を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

✨✨✨✨✨✨✨

 

✨古代ミステリーロマンは、あくまでも読み物です🥸🤟

 


Ⅱ.七福神「エビス」様の起源・日本唯一の不思議な神

2023-07-17 | 古代ミステリー

…前回のエビス様の投稿からの続き、古代ミステリーの投稿です。

エビス様その2.

✨✨✨✨✨✨

【まぼろしの古都】

エビス様の総本社【西宮神社】がある兵庫県西宮市の「西宮」という地名の語源は、京都からみて西にあったので「西宮」と呼ばれたらしい。しかし、では「東宮」とは何処だ?  と言う疑問が残されている。

(今宮戎神社とか?🤔)

 

京都から西というよりも、大阪の「難波宮」(=東宮)に対して西にある宮とした方が、しっくりくる気がする。

古代まぼろしの都『難波宮』(現在大阪城前にある難波宮跡公園)は仁徳天皇~聖徳太子、孝徳天皇など、弥生・飛鳥・奈良時代の英雄達が開いた大阪湾を望む都で、何度か遷都が繰り返され、副都となり、平安時代に消滅して、表舞台はから姿を消した。

しかし、兵庫県側には、平清盛~室町時代に栄えた貿易拠点もあり、都はなくとも、海の玄関口だった摂津(神戸)と難波(大阪)は当に、「西の宮」「東の宮」と呼ぶに相応しいエリアだ。

 

 

【エビス様の始まり】

エビスの名は平安から見られ、信仰は室町時代の七福神から広がった。当初は八福神など紆余曲折があったが七福神になり、西宮神社近くで仕えていた傀儡師(操り人形師)らの手によって全国に広められたという。(人形浄瑠璃の起源)

 

七福神は、江戸時代に入り天海僧正によって更に広められたが、これは現世利得を民衆に教化する為の宗教政策だった様に思う🤔。

戦国時代の仏教は「来世利得」であり、兵士たちは死してあの世に往生する為(極楽浄土へ生まれ変わる為)皆、命がけで戦うのが常だった。

陣中には、あの世に往生させる為の僧が同伴し合戦に臨んでいたが、兵士に命を惜しまず戦わせる為の仏教の役割は終わりにして、平和な治世では人々が現世利得を求める様に福の神の信仰へ誘導する必要があったのだろう。

天海僧正の現世利得の宗教政策は、民衆の間で見事に大ブレイクし、十日エビスや「福男」の信仰など、死して極楽を求めるかつての戦国風土は刷新され、生きて福を求める平和な世の中へと風変りしていった。

 

エビス様は、室町時代に生まれた「七福神」の1人に列せられた唯一の日本の神様だが、日本国王を名乗った足利氏が貿易で財を成した時代だけあり、中華の福の神が多く輸入された時代でもある。元々、異民族を指して言うエビスとは中国風の呼び方で、

日本では蝦夷(エミシ)であり、

エミシ→ エビス→ エゾ と呼び方は変化していった。

ヤマト王朝にとっての、異民族や先住民族は飛鳥・奈良時代までは「蝦夷」=エミシと呼ばれ、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北のエミシを征した後は、エミシからエビスに変わった。

平安時代以降は関東への蔑称として「アズマ(東の)エビス」などと呼び蔑んだ事もあったが、後にアズマエビスと呼ばれた東国の武者は鎌倉幕府を開いた。

 

やがて室町時代にはエビスという呼称は無くなり、「エビス」と言う神になっていった。

北海道のエゾを残し、日本列島は足利氏に統一された国になったが、

エビスといえども、我が宮を」と言う言葉が文献にも残されており、かつて中央からは未開人の蔑称の様に蔑まれていた。そのエビスが、時代を画して神様になったというのはどういう事だろうか?

 

突然、神となったエビスだが

エビス様を事代主神として祭る神社もあれば、(今宮戎神社)

エビス様をヒルコとして祭る神社もあり、(西宮神社)様々だ。

沿岸部には、ヒルコ上陸の伝承と、事代主の上陸伝承がそれぞれあったが、

これは、

事代主神、ヒルコ、もともと古くから沿岸部にあった海の神様、漁の神様の信仰に「エビス」様がマウントされて、エビス様と言う新たな信仰に習合されたという事ではないだろうか?

 

室町時代にエビス様を全国に広めたという傀儡師とは、

歌舞、曲芸などを行いながら全国各地を巡る芸能集団だが、

同時に寺社の布教をする興行メディアの役割を担っていた。

 

全国を回遊する傀儡師らも、沿岸部を漂白していた為、海辺の信仰があり

西宮神社に仕えた彼らは人形を使った演目で(エビスまわし)かつての沿岸信仰に加え

新たなエビスさまという福の神への信仰を全国へ広めていったのだ。

 

 

【古代の宗教政策と古事記】

古代世界では、徴税と軍事と宗教政策が国の根幹を成すものだった。支配者達は、律令と軍事だけでは国は治められず、宗教という見えない鎧で国を覆わなければならない事を知っていた。今の私達が考える「宗教」とは、全く性質が異なる。

 

古代は教育というものが存在せず、民族教育なども当然無い為、国が頒布する宗教政策が全てだったので、民族教育の為の宗教政策でもあり、民衆の信仰心を集める事を目的として、政策者は宗教をコントロールしなければならなかった。

 

軍事と宗教と信仰をコントロールしてこそが、民衆の支配者たる由縁だ。

多くは平和な治世の為に有事を防ぐことを目的とした宗教政策であり同化政策だったが、時には軍事的に利用されることもあった。

 

古代和国100余国の時代には、小部族・小国の王たちが沢山いてそれぞれが始祖を祭っていた。ヤマトの王もかつてはその中の1人でしかなかったが、8世紀の日本人が中央集権力を高める為に編纂した「古事記・日本書紀」の中に王たちはまとめられた。先住の国津神や結びの神としてイザナギ・イザナミの眷属に書き加えられていき、八百万の部族たちの始祖は、八百万の神々に体系化され一体となった。

 

【古事記のできた訳】

古事記・日本書紀が操作性のある書物である事が知られる様になってきた現在では、「万世一系」と言う建前的な考え方ではなく、巷説の世界では幾つかの王朝交代があったと考える方がよりリアルになってきている。しかし、一方では古事記・日本書紀の系譜を信じている人もまだ多い。

 

古事記・日本書紀は、日本の旧約聖書・新約聖書となり得るよう天武天皇が命じ半世紀近くかけて編纂されたものだが、見事に完成されたバイブルだ。

遣唐使の時代、世界の文化を集めた唐から知識を持ち帰った者がいたのかもしれない。8世紀の日本人はあらゆる神話素材を使った組み立てにより、和国の有力部族達の歴史を日本の歴史の中に組み変えていった。

 

インド神話の乳海撹拌の様なイザナミ・イザナキの国生み神話、

ギリシャ神話の天と海と冥界の神の様な三貴神、

エジプト神話の様な死者を蘇らせ兄弟神に勝つというエピソード、

キリスト教の様な創造主と最高神

(創造主ヤハウェ→天御中主・最高神イエス→天照大神)など、

世界の宗教をふんだんに取り込んだ、当時としては最新式のものだった。

 

えべっさんこと「ヒルコ」の古事記でのエピソードは洪水型兄妹始祖神話(長い名😅)が

素材になっていると言われているが、

神話の素材に注目しただけでは、

ヒルコそのものの存在は見えてこない。

 

次回は、古事記の裏側をみながらヤマト王朝以前の様子、日本列島に存在していた先住部族やヤマト族との合併の様子から、ヒルコ事代主について考えていきたい。そして、結末へ。

 

Part 3. へ続く…。

お読み頂きありがとうございました🙏✨

 


Ⅰ.七福神「エビス」様の謎・日本唯一の不思議な神

2023-07-16 | 古代ミステリー

「えべっさん」の愛称で親しまれている恵比寿さま。

前々回の投稿、兵庫県⛩️西宮神社を総本社として祭られている神様で、その起源を探ると、意外と不思議な事が多い。

今回は、古代ミステリーの投稿です。興味のある方はご覧ください。

😌神社の紹介ではなく、エビス様について書いてます

✨✨✨✨✨🐟🎣

エビス様は、タイと釣り竿を持った姿で、大漁の神様、商売繁盛の福の神として父親の大国主神(大黒天)と共に祭られている。親子ともども「七福神」に連なる神様だ。

七福神は、エビス様以外のメンバーは日本の神様ではなく中国・インド仏教の神々で構成され、古来より神社で祭られていた神々ではない。

寿老人・福禄寿・布袋※(中国)

大黒天・毘沙門天・弁才天(インド)

そして、恵比寿さまだけが日本の神様なのだ。

※中国では、7世紀の中国人僧侶である布袋様と、インド仏教の弥勒=マイトレーヤーを同一視して同じ神とした。しかし、中国仏教が伝来しても日本では弥勒は弥勒として、布袋様は布袋様として別々に祭られている。

これは中国仏教が日本に伝来したタイミングにもよるが、実はそれ以前から日本には弥勒信仰が既に根付いていた為だと思われる。弥勒信仰は元々、西アジアの信仰で、もっと早い段階で中国を介さずに、西アジアから直接日本へ伝わった弥勒信仰があった様だ。

 話しをエビス様に戻して…😌🙏

古事記に登場する日本神話の神々、

国生み神話のヒルコ

国譲り神話の事代主

この二人の神様を合わせて「エビス」と呼んだ。

大黒天(マハーカーラ)は日本の大国主と、

弁才天(サラスバディ)は日本の市杵島姫と習合され、インドの神様と同じ神様として祭られているが、

エビス様だけが生粋の和製仏教神であり、しかも仏教神でありながらもインド仏教の神話でなく、古事記に登場する日本神話の古い神々を合わせて作られた神なのだ。

神仏習合の時代(神社が仏教の下に置かれていた中世独特の宗教時代)であり、日本古来の神々は全て仏教の神と習合させられていたが、何故、この時だけは仏教神ではなく逆に神道の日本神話の神々二人を合わせ、エビス様という新たな神が、生み出されたのか? 🤔

(仏教神が足りなくなったから?🙄)

一度葬られた神を復活させ新たな伝説を作り信仰の対象となるのは、世界でも類がなく大変珍しいと言う。

「たまたま混同されただけ」と解する学者もいるらしいが、本当にそうだろうか?

信仰の変化には自然発生的なものもあるが、通常は支配者側の宗教政策によるものか、或いは敗れた側、支配される側が堂々と祀ることが出来なくなった為に、表向きは御神名を変えて影祀りしているかのどちらかだ。

エビス様は前者の様に支配者側が、教化の為に考え出した神ではない様に感じる。

では誰が、何の為に創り出した神なのだろうか?

ヒルコは、イザナキ・イザナミの国生み神話で最初に生み出された存在であり、天照大神などよりも遥かに古い。柔らかく、3年経っても動くことが出来なかったので、船で流されたという。

事代主は、出雲の国譲りで天孫族に国を譲り明け渡した最後の神々の1人だ。父・大国主と共に船で去っていった。事代主は、天皇守護の宮中八神にも祭られタカミムスビなど「霊=ムスビ」の神々と並び唯一の国津神として、今も皇居の神殿に祭られている重要な神だ。


(出雲市稲佐の浜・国譲りの地)

二人ともヤマト王朝の前時代の代表的な存在であり、ヤマト王朝以前の最初と最後の存在を、わざわざ結び付け祭るには何らかの意図があったとしてもおかしくはない。巷の者にとっては「たまたま」と言う事にして、放っておくには気になるところだ。

そして、エビスとは他国の異民族のことを指して言う呼び名だ。

エビス=「戎」と言い、習合により恵比須・蛭子(ヒルコ)と当て字表記された。

中国では、西にいる異民族を指して「西戎」というが、日本の「西宮の戎」とも一脈通じる気がする。

それにしても、何故、ヒルコと事代主を合わせた神を、

わざわざ「エビス」と言う異民族の呼び名を御神名にして祭ったのだろうか?

寡聞にして知らないだけかも知れないが、古事記に登場する二人、ヒルコと事代主が合祀され「エビス様という神になった」という様な特殊なケースは他には無い。日本唯一の存在だ。🤔

そして、

エビス同様にヒルコも事代主も

支配者・征服者側ではなく、

追われた側、除かれた側の存在だ。

続く・・・

✨✨✨✨✨✨✨⛩️

次は、エビス様の起源について、もう少し綴っていきます。

お読みいただきありがとうございました。🙏✨

3回シリーズくらいで書く予定です。


五千頭の龍【聖天宮】日本の中の台湾🐉埼玉県の道教神社

2023-07-15 | パワースポット

【聖天宮】

 

画像多めです。

田園風景の中に忽然と現れる。

埼玉県にある台湾の神社⛩️

 

楼閣の五千頭の龍が圧巻。


三清道祖
『道徳天尊』倹
『元始天尊』慈
『霊寶天尊』謙
を祀る⛩️

 

 

 

 

五千頭の龍、

つい数えてみたくなる🙄

 

台湾の宮大工を呼び寄せ、

15年の歳月をかけて建立されたという

魂のこもった造形だ。

🐉🐉🐉🐉🐉

 

 


一枚岩から彫り出された、九頭の龍

 

 

 

楼閣からの鳳凰の眺め

 

 

 

陰陽☯

 

 

異国情緒に包まれた(埼玉だけど)

不思議な世界でした、、😳

 

 

 

✨✨✨✨✨

御覧頂きありがとうございました🙏✨🐉


西宮三社巡りⅢ【西宮神社】ベイエリアのパワースポット

2023-07-08 | スピリチュアル

【西宮神社】兵庫県西宮市社家町1-17

全国 3500社ある福の神
えべっさん神社の総本社

 

 

ご祭神 
蛭子大神(エビス様)
天照大神
須佐之男

 

1月10日の開門神事で赤門から230m 先の本殿まで一斉に走り出す
雄壮な『福男』選びで知られる。

 

 

 

女性も参加出来るそうだが、福女に選ばれた方はまだいないらしい。

 

 



本殿の向かいにある、市杵島姫様を祭る神社

丁度、6月17日が祭日だった。

 

 

 

元々こちらは、廣田神社の南宮があった摂社だった様で、市杵島姫様が祭られていた。

主祭神のエビスさまは七福神の1人で

恵比寿さま
蛭子さま
戎さま

とも書く。

 

 

イザナキイザナミの国生み神話で、
最初に生まれた子だが、
体が柔らかく歩けなかった為
「ヒルコ」(蛭子)と名付けられ船に乗せて流された。


その後、
漁民に拾われ釣りの神となり
西宮に流れ着き祭られた。

 

室町時代には大漁や商売繁盛の神として
『七福神』の1人に連なり

大国主の子・事代主神と習合して、

大国主と習合した大黒天(マハーカーラ)と、親子で祭られる様になった。

今は「えべっさん」との愛称で関西で親しまれている。


紆余曲折が凄すぎる神様だ😳🙏✨⛩️

 

西宮の三社とも
(越木岩⛩️・廣田⛩️・西宮⛩️)

紆余曲折がすごく、神様や神社の名が幾つもあり、起源が重層的だ。

しかし、信仰はとてもシンプルな様だ。

こちらでは毎朝、皆で大祓を奏唱されている。

 

 

六甲山神社 菊理姫✨

 

松尾大社🍶の狛犬

 

 

庭津火神社⛩️社殿の無い神社

 

梅宮神社 お酒の神様🍶

 

廣田神社の摂社の南宮神社の末社である

『兒社』⛩️

(社系の説明長い🙄)じ社、ニ社?こ社と読むのだろうか、、

 

 

 

 

⛩️越木岩神社
⛩️廣田神社
⛩️西宮神社 

西宮のハーバービューラインは

女神様と福の神のパワースポットで、

なんというか、神社のテーマパークの様な不思議な空間だった。

✨💖✨✨🙏



お読み頂きありがとうございました。

🙏✨

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 

三社巡りシリーズ最後なので、

感想を加筆します。

 

興味のある方はご覧下さい。🙏✨

 

西宮市を周ってみて感じたのは、

「氣」が違う事。

関東から西宮へ移った知人から「とても氣の良いところ」と聴いてはいたのだが、

ホントに何かが違う。エリア全体が神社の境内の様に何か精妙な空気感に包まれている。

 

日本中、車でグルグル周っていると、その土地その場所の独特な空気感を感じることがあるが、

特に運転していると県をまたいだだけでも土地柄がよく分かる。

諏訪の人は側方間隔とる、〇〇の人2割スピード増し、〇●県の人はウィンカー出さない、●〇県の人ゼッタイ道譲らないとか、適応してこちらも直ぐに運転の仕方に馴染まないと危険だ。

神社巡りで月と地球の距離くらい走っても、無事故でいられたのは神様のご加護があったと思うが、その辺りの察知もあったのかもしれない。🤔

 

西宮は、どんなに渋滞していても、イライラせず道を譲り合っている。

 

信じられないほど皆優しかった。

 

走らせて貰ってるだけで、リトリートされてたのかもしれない、西宮へ引っ越したくなった。😳

 

ちょっとスピ系の話になるが、😌

 

東京には、レイラインならぬレイロードというものが存在する。

所謂、走るパワースポットというべきか、渋谷の某所から世田谷にかけての道で、

その道に入っただけで、何か雰囲気がガラっと変わるルートがある。🐉

 

富裕層が住んでいるエリアもあり、ある方の話だと富裕層の方が住むというだけでなく、そこに住むことで運気が上がり富裕になるという事らしい。

 

六甲山から夙川へ下る途中、

何か感じるルートがあった。

六甲山の地質や風水への興味は尽きないが、

関東に疲れたら、

また西宮に行きたいと思う。(いつか引っ越したい)

ありがとうございました🙏

 


西宮三社巡りⅡ【廣田神社】六甲山麓のパワースポット

2023-07-05 | パワースポット

西宮Ⅱ【廣田神社】兵庫県西宮市大社町7-7

六甲山麓にあるパワースポット

前回の投稿『越木岩神社』より100mほど低地にある。

 

 

京都からみて西方に廣田神社があった為、『西の宮』と呼ばれ、

西宮市の地名の語源ともなった神社。

創建は神功皇后 

4世紀末頃だろうか、、

 

伊勢神宮(荒祭宮)で祭られている

天照大神の荒御魂を祭っている神社だ。⛩️✨


天照大神の荒御魂を祭る神社は多くはない。京都からみて

西宮が廣田神社ならば
東宮は伊勢神宮といったところだろうか、、🤔

(荒御魂=和魂、荒魂、幸魂、奇魂、神様の4つの側面の一つ)

 


天照大神の荒御魂は『瀬織津姫』と言われていて、諸説ある。


瀬織津姫は、古典主義(古事記・日本書紀のみを拠所にする)では、

伺い知る事の出来ない神様で、

神社で唱えられる祝詞の大祓の中にだけ登場する祓戸の神様だ。

瀬織津姫は水の女神様なので、他の水の神様

ミツハノメ
オオヒルメ

などと同一視されている。

または、ワクヒルメとも。

何れにしても、日本神話の天照大神の岩戸隠れにまつわる心象が色濃い。

歴史の表舞台からは想像もつかないので、マグダラのマリアの様な悲しみを背負った悲運の存在である側面も感じられる。


・・書き始めると長くなるので、やめときます😌🙏

 

六甲山は『六甲花崗岩』からなる山だそうで、それだけでも

六甲山麓は磁性を帯びている充分なパワースポットエリアな気がするが、

芦屋、六麓荘町、など高級住宅地があるのも頷ける。

 

廣田神社は、このエリアの代表的な神社だ。

 

女性の宮司さんだろうか😳

 

緋袴でなく、巫女さんではない様だ。

 

 

女性の神様が祭られている神社で、

女性の宮司さんに出会えるとなんだか嬉しい。😌

 

(今年はこれで三回目だ🙄)

 

 

 

 

他にも多くの神々が祭られていた。

 

 

✨✨👰✨👰👰✨✨✨✨

廣田神社に祭られている

天照大神の荒御魂とは
瀬織津姫であると言われている。


前回の投稿『越木岩神社』には

稚日女尊と
市杵島姫が祭られていたが、

天照大神の荒御魂は
稚日女尊とも言われ、

市杵島姫は
瀬織津姫と重ねられる、

同一神と言われる
太陽の女神と水の女神が

夙川を挟んで東西に鎮座されているのも、
不思議な符牒に感じる。

類まれな

女神エリアでした👰✨

 

 

 

お読み頂き有難うございます🙏✨

 


西宮三社巡りⅠ【越木岩神社】兵庫県パワースポット

2023-07-01 | パワースポット

【越木岩神社】
⛩️兵庫県西宮市甑岩町5-4


御祭神 市杵島姫

兵庫県西宮市🏞️六甲山から大阪湾へ夙川がそそがれ周辺に

⛩️越木岩神社
⛩️廣田神社
⛩️西宮神社

が鎮座されている。この

西宮三社巡りをしてみた。

越木岩神社は、六甲山の中腹の閑静な住宅地の中にあった。

 

 

 

創建は不明だが古く、
磐座、磐境の祭祀の時代からの霊域だ。

 

天照大神と稲荷社

 


御祭神の市杵島姫様は、宗像三女神の末妹で
宗像大社、厳島神社、江島神社などに祭られる海の女神⛩️✨

女性の神様であることで、 安産や子宝にご利益があるという。

女性の守護💖のパワースポットとして知られている。

 




登頂の磐座には稚日女尊様が祭られていた。

 

 

稚日女尊は日本神話の天岩戸隠れに出てくる古い神様で、


天照大神、丹生都姫、
或いは瀬織津姫とも結びつけて考えられる事もある。

 

 

見事な花崗岩の磐座群が、なだらかな登り坂に沿って点在していた。

 

 

越木岩神社は、大国主西神社とも云われ😌

西宮神社から蛭子様を勧請し、「蛭子太神宮」とも言う。

創建が古い為、時代ごとに神々が祭られてきたが、

元々は女性神を祭っていた様だ。

 

登り道も綺麗に掃き清められていた。

 

高級住宅地の近くだけあり、

なんだか空気感も違う。

 

夏越し大祓いのシーズンなので、珍しく御朱印を頂いてきた。

 

 

🙏✨お読み頂きありがとうございました。