聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

福井県⛩️【三國神社】古代と近代の顔

2024-07-07 | 古代ミステリー

⛩️三國神社

北陸地方、福井県と石川県の県境にある。

久しぶりの古代ミステリーの投稿です。
(画像は以前のもの😌)

九頭竜川沿い、下流に鎮座されてる神社。

 


江戸時代から明治時代、大阪から北海道まで日本海側のルートをいく廻船を
北前船と言い、北前船の寄港地の三国港の繁栄と共に三國神社も栄えてきた。



越前三大祭りのひとつ「三国祭り」

(三國祭り 巨大人形の山車)

 

 

しかし、創建の由緒は繁栄より古く1500年は遡ると思われる。


御祭神⛩️ 継体天皇 大山咋神

継体天皇は、大和王朝の王統が途絶えて王になるものが居なくなってしまい、大伴金村に請われて王権を継いだ天皇で直系ではない為、謎が深い。

1500年前の巷説の世界を少し覗いてみる。

興味のある方はご覧下さい😊

 

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継体天皇は、

正史の世界では応神天皇の五世孫とされるが、五代も遡れば確かさは定かでなくこれは寧ろ別の王統である場合に用いられる表現と考えられている。

巷説の世界では、古代最大の渡来部族・エフタル族の王とされるが、
アカデミズムからも「別の王朝では?」との声があがる程、継体天皇は天皇の系譜の中では異質な存在だ。

 


蒙古鉢形甲
(この時代に突然大陸の兜が登場する)

 

渡来人王朝のせいか、日本を統一した王朝にしては継体天皇を祭る神社は少なく影が薄い。

 

継体天皇を祭る神社は、何かしら直接的な御由緒がある神社のみだ。

 

継体天皇の故郷、福井県坂井市高向神社の看板。

 

もう一人のご祭神大山咋の神は、天台宗の守護神や秦氏が祭る松尾大社に祭られる山の神様だが、

しばしば同じく山の神様である大山津神さまと混同される。

 

(大山咋をお酒の神様として祭る松尾大社)

 

マイノリティだが、継体天皇に王位継承を願った大伴金村の子に「大伴咋」と言う者がいて、どちらかと言えば

三国神社の大山咋=大伴咋説を支持してみたい。

 

大伴咋は、聖徳太子の命令で、
倭国、百済、高句麗による対新羅
「三国同盟」を結んだ使臣だ。

高句麗と百済が敵対していた為、同盟は困難であり、三国を結んだ功績は当に

三国神社と名乗るに相応しい。

 

 

エフタル族は、西アジアで勢力を誇った遊牧民族だが、ペルシア、突厥に挟撃され
民族の大移動を敢行し、まだ大国の少なかった東アジアへと逃亡してきた。

 

これほどの大部族がやってきた事はかつてなく、6世紀の朝鮮半島と日本列島は大混乱の時代を迎える。

 


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当時 ヤマトの王だった武烈天皇は驚き新羅に逃亡してしまい、
その後エフタルを恐れて王位を継ごうとするものが誰もいなかった為、

仕方なく大伴金村・物部麁鹿火が、ヤマトの王位を継いで下さる様にと頼んだ。

継体天皇(男大迹王)は河内で即位したが、朝鮮半島への進出をひかえ草深いヤマトに引っ込んでいる場合ではなかった。

河内から新羅に侵攻し王座を奪い、智証麻立カーンとして即位し国制を改革した。

百済へも圧力をかけ皇太子を廃嫡させ倭国に送り、自分の息子を百済皇太子にし任那四県を割譲して付けた。

そして新羅に逃げていた武烈天皇が帰順してきた為、継体天皇は朴妃を嫁して武烈に王位を譲り、自分はその上皇(葛文王)となって、倭国に戻った。

 

継体天皇はようやくヤマト入りして玉座に座った。

即位からヤマト入りまで20年も歳月が過ぎていて、正史の世界では
『 継体天皇はヤマトの豪族を恐れて、なかなか大和に入ることができなかった』とされている。

もしも本当にそうならば、ヤマトの豪族らは、恐れてヤマト入り出来ない王など敢えて擁立せず、他の王を立てていた事だろう。

何もせず 20年も大人しく待っていたことからも、恐れていたのはヤマトの豪族側だったと思われる。


継体天皇がヤマト入りし、ヤマトは九州勢力との頂上決戦で勝利して、東の蝦夷を残し関東から九州までほぼ日本列島を統一した。

朝鮮半島から日本列島にかけてエフタル族の支配政権は半世紀ほど続いたが、
戦乱の末、新羅を残してほぼ駆逐された。

そして朝鮮半島や 日本列島の歴史からはエフタルの名は封印され、それぞれ 新しい国へと生まれ変わていった。


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三国神社は、

かつて存在した短命王朝や三国同盟など、知られざる歴史を微かに密やかに偲ぶスポットでした✨

 

最後までご覧頂きありがとうございました✨✨✨✨✨✨

 

 

【追記】

新羅の武烈王と、倭国の武烈天皇

新羅の文武王と、日本の文武天皇

何故、同じ様な時代に同じ名の王がいるのか?(三国史記・日本書紀)

気になっている方も多いと思うが、

 

正史の世界では、「漢風諡号」と言って使って良い漢字が限定されている諡なので、同じ組み合わせになるのは珍しいことではないとされている。

 

しかし、新羅との戦争、任那領有権の争い、王族の暗殺や裏切り、大化の改新や白村江の戦いなど、最も半島と列島で往き来があった大乱の時代に、新羅王と同じ名の天皇が2人もいるのだ。

 

「単なる偶然」で済ませてしまうのは

探究心が無さすぎる。

 

現在の国境に合わせて歴史を考えるのでなく、任那が存在していた当時、

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代に頭を切り替えて考えてみた方が、まだリアリティがあると感じる。


八百万の神々の起源

2024-06-10 | 古代ミステリー

最近、聖なる国 日本のYouTubeで、

ショート動画をあげるようになった。

古代ミステリー系の投稿はブログで書くと長くなりすぎるので、音声 画像 文字、3つのツールで表現できるYouTube の方が散らからずコンパクトに収まる。

ショート動画は1分間だから、さすがに再生回数も全然違う。

そうなるとイイネだけでなく、

初の🎉アンチコメントらしきものもちらほら😂

これはあまりいい気分はしないものかと思っていたが、訴求対象がイメージでき発信の絞り込みができるので、

かえって勉強になった。

 

ショート動画『八百万の神々の起源 』

https://youtube.com/shorts/ckfD1kGrcpY?si=j__HhIKlvfgJE543

 

画像は16世紀の哲学者デカルト。 

「我思う故に我あり」

人間と自然を分離した分離主義者で、

自然を、

崇拝したり

収奪したり

コントロールしたりする 

対象物にしてしまった。 

 

(自然と見なした対象にはデカルトは容赦がなく、奥さんの愛犬まで解剖してしまった事でも知られる)

 

日本人はもともと森羅万象に生き、こうした分離主義はなく、西洋人が考えるような自然崇拝もなかった。

自然と言う言葉さえなかったのだ。

その、漠茫然とした意識を表現するのは難しいが、

昨今の、

気候変動による危機で、

人間本位の分離主義は限界を超えてしまった為、YouTubeの投稿ではその古来日本人の感覚を発信してゆけたらと思う。

 

ジオエンジニアリングなど、無謀とも思える暴走の対岸にある意識だ。

 

ブログでは、聖地・パワースポットの紹介を続けていくが、

 

YouTubeでは、どんどん脱線して

『人新世の資本論』についても挙げてみたい。

日本人の太古の叡智は、世界を救う

✨✨🙃✨🙃🙃✨✨✨✨


奈良県【高鴨神社】⛩️出雲王朝の界隈

2024-03-24 | 古代ミステリー

【高鴨神社】

奈良県御所市鴨神1110



全国の賀茂氏(鴨一族)の神社の総社⛩️

(※御所市=「ごせ市」と読む)

⛩️御祭神
阿遅志貴高日子根命
(あぢしきたかひこね)
またの名を
迦毛之大御神(かものおおみかみ)

妹の👰下照姫も祭られている。

 


鉱脈の上にある神社で、多くの気が出ていることで知られる。

 

 

神社の案内によれば、
『夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体にたいへん良く、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共によみがえられることをお祈り申し上げます。』

とのことだったが、確かに
リトリート感のある神社だった。✨✨

 

 

そして、境内にたくさんの神々が祭られていたことも心やすけた。

 

 

 

 

鴨一族の始祖『アジスキタカ彦根』は

大和に繋がる古い神様だが、

大和より古い出雲に繋がりあった神様で、

出雲の大国主命多紀理姫の子。

農業の神様として祭られている。

 

 

 

創建不明だがこちらへ祭られたのは、
出雲の国譲り後かもしれない。


上鴨社⛩️高鴨神社

中鴨社⛩️御歳神社

下鴨社⛩️鴨都波神社

と、三社を呼ぶように、この地域は古くから鴨一族が拓いた農地だった様だ。

 

 

大和王朝にも繋がりが浅からずとしても

それより古い、

葛城王朝とも繋がりがあったと思われる。

 

 

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古事記では、

高天原から「出雲を譲れ」と派遣されたアメノワカヒコにそっくりだったと言うエピソードが記されている。

 

✨✨✨📖

高天原より国譲りの為に派遣されたアメノワカヒコは、出雲にやって来ると

アジスキタカネ彦根の妹💖下照姫と結婚して出雲側についてしまい、高天原陣営から殺されてしまった。しかし、

アメノワカヒコの葬儀に、
アジシキタカ彦根が現れると、

そっくりだった為に「生きていた!」
と驚かれる。

アジシキタカ彦根は、

「自分はアメノワカヒコでは無い」

と怒り、

下照姫もアメノワカヒコではないと否定する歌を詠んだ。

アメノワカヒコは、高天原を捨て出雲に亡命し

出雲の神アジシキタカとなったことを物語る様なエピソードであり、

当時は高天原より出雲の方が勢いがあったであろう事が覗える。

この後、高天原からの

三回目の遠征で出雲はとうとう

高天原側に王権を譲り渡し消滅する。

 

『アジシキタカヒコネ』を始祖とする鴨一族は

王朝を超えて在り続けてきた由緒のある氏族だったのだろう。

 

最後までご覧頂き、ありがとうございました🙏

✨✨✨✨✨✨✨

 

 

 


出雲大社の界隈⛩️Ⅲ

2024-03-19 | 古代ミステリー

今回はパワースポットではなく、

古代ミステリーの投稿です。

 

【スサノオの墓】
出雲大社から車で30分ほど。稲佐浜から海岸線を北上する。


日御崎神社方面、隠れが丘と言う地にひっそりとある。

鳥居をくぐり、暫し緑の参道をゆく。

 

 

スサノオ様の神魂がいつき祀られるところ。

 

 

もともと、美佐伎神社と言い日御碕神社と合わせ

⛩️『日御碕大神宮』と称せられていたのが、

明治時代に日御碕神社に改名されたらしい、、

 

 

【日御碕神社】

 

 

スサノオの墓については奈良説もあるが、出雲ではまずこちらが候補にあがる。


日本神話ではスサノオは、
高天原(新羅)を追放され出雲にやってきて、ヤマタノオロチに差し出されそうになっていた櫛稲田姫(稲田姫)と出会った。

 

【稲田神社】

稲田姫の生誕の地に祭られている。

島根県仁多郡奥出雲町稲原2128-1

 

スサノオはヤマタノオロチを退治して姫を守り、二人は結ばれてスサノオは出雲の王となった。

⛩️出雲大社も、スサノオに命じられた大国主が建てた宮であり、古代出雲の起源はスサノオ無しでは語れない。

 


【八重垣神社】
スサノオが櫛稲田姫をかくまった場所に祭られる

 

 

【須我神社】
スサノオと妻・稲田姫と結ばれた神社

〒699-1205 島根県雲南市大東町須賀260

日本の宮

 

スサノオが稲田姫に詠った

日本の和歌。

 

古事記では、スサノオは出雲の王になったと記されるが、

通説では、スサノオは初代『大国主』になったとされている。

出雲は、
方々の国々と婚姻合併を繰り返し連邦王国となって勢力を拡大した国であり、

出雲連邦王国の盟主の事を

『大国主』と言う。

 

 



四方を海に囲まれた日本列島では、

『海峡を制する者が日本列島を制する』

と言われた程で、

日本海の制海権を持てるかどうかが、
地上の支配にも大きく影響していた為、

日本海側にこうした連邦国ができるのは当然の成り行きだった。

 

朝鮮半島から日本列島へ向かう船は、
リマン海流で南下し対馬海流と合流すると、海流に乗って日本海沿岸の何れかに到着する事になる。

 

この日本海沿岸ラインの国々が、大国主により結ばれて連邦国となったお陰で、着岸地である出雲や越の国の人々は、大陸側半島からの最新式の武器や技術を手に入れられる恩恵を授かっていた。

出雲はその日本海勢力の中心国だった。

大国主(出雲連邦の盟主)と
 
九州の多紀理姫と湍津姫、

新潟の奴奈川姫、

東西との婚姻による大型合併がかなった事で、

九州→朝鮮半島

朝鮮半島→日本海沿岸の

海上ルートは、確実で強固なものになった。

 

 

 

八千矛神、大己貴命、大穴牟遅、宇都志国玉、葦原醜男、など

大国主命には沢山の名がある。

これは大国主命とは一人の人物の固有名詞ではなく連邦の盟主をさして言う王号であり、初代大国主のスサノオの様に、幾人かの王たちの呼び名ではないかとみられている。

大国主命には70人以上の兄弟と、150人にも及ぶ息子がいることからも、
一人の人物ではなく、歴代の人物と思われる。


最後の大国主命が、
天孫族に対して出雲を譲ったと言う
『国譲り』の場所。


出雲大社の西、稲佐浜の近くにひっそりとある。

 

出雲連邦王国は大和王朝に先駆けた前王朝である為、

大和王朝の歴史書である日本書紀には記されず、

古事記の神話の中に描かれている。

 

その描き出しは、征服王朝らしい正当性で勇ましい書き方をしているが、

出雲から大和へと、政権が譲られた

「出雲の国譲り」とは、実際は、

同族・同盟の中のお家騒動であり、嫡系争いによるクーデターの様なものだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 


皆神神社の界隈と「不思議な松」

2024-02-22 | 古代ミステリー

皆神山ピラミッドの投稿で紹介して以来、10年ぶりになる。

長野県の皆神神社と、その周辺の投稿。

 

雰囲気もなんとなく変わった。皆神神社を囲い込む様にあったゴルフ場はなくなった様だ。

 

⛩️侍従神社  

 

 

⛩️少彦名命

 

預言の的中が未だ有名な近代の宗教家・出口王仁三郎(大本教)の印象が強く残るあやしい感じはなく、小綺麗な石碑がさりげなく整備されていた。

 

 

開放されて広々とした、空気感が清々しい。

 

 

以前はゴルフ場だったので、裏手から観ることは出来なかったが、

木花咲耶姫が祭られている奥宮は、小さな古墳の様にもみえる。

 

 

 

 

ご祭神 木花咲耶姫を祭る⛩️浅間神社

鳥居の神額には「三国第一」と書いてある。

 

木花咲耶姫は山の神「大山祇神」の娘で富士山の神様。

山梨県の富士新倉浅間神社からの勧請だろうか。

 

「三国第一」をかかげる

富士新倉浅間神社

 

 

【小丸山古墳】

 

頂上の皆神神社から少し下ったところにある。

古墳時代中期の古墳で、このあたりの王の古墳と目されている。

古墳の上には、

大山祇神がひっそりと祭られていた。

 

 

 

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飛鳥時代、西暦645年の大化の改新で、蘇我氏の蘇我入鹿・蘇我蝦夷が倒された後、蘇我派であった古人王(古人大兄皇子)は、身の危険を感じ、

半島への亡命を試み、長野方面から日本海側へ抜ける拠点があった善光寺を目指して逃げた。しかし道半ばで落命し、皆神山付近のどこかへ埋葬されたのではないかという説がある。

一般的には小丸山古墳が『古人王墓』とする説が通説だが、

小丸山古墳は古墳時代中期(約千五百年前)の古墳とされているので、

飛鳥時代(1350年前)の古人王の時代とは違う可能性もあり、古人を祭っている⛩️皆神神社の方が有力なのかもしれない。

 

 

皆神神社の他に、古人大兄皇子を祭る神社は寡聞にして知らない。

 

蘇我氏の甥にあたる古人大兄皇子は、王には即位してなかったとされるが、後に中大兄皇子(天智天皇)が古人大兄皇子の娘・倭姫を皇后にしていることなどから実際は王だったのではないかと云われている。

娘の倭姫に後を任せて出家までして逃げ様としていた事からも、倭姫は姫ではなく王女(皇太女)だった様子もうかがえる。

 

 

なんとなく古墳の様にも見えなくはない。

 

 

小丸山古墳の大山祇神と、

娘の木花咲耶姫を祭る皆神神社

父娘の祭祀は、古人王と娘の倭姫の存在を想起させられる。

 

 

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最後に…。

他に古人王が坐される処は無いのだろうかと皆神山の中を探し、何となく辿り着いた場所。と、『不思議な松』

 

 

なんとなく、、というよりも普通は辿り着かないと思われる場所。

 

 

地域の方が大切にしている聖地というか墓所の様なところだ。

不思議な松、

 

何が不思議かと言うと、

とある石塔を覆う様に斜めに伸びている。

周りの松の木と比べ、斜めに生えているが、

あり得ない角度で横向きに立っている。

 

 

一見して倒木の様にも見えるが、ちゃんと立っている。しかも、

先端は別段他の木に支えられていると言う程でも無い様だ。

何故、倒れないのだろう?

 

根に他の木の根が絡み支えになっているのだろか?

それにしても曲り方がおかしい🤔

 

通常、神木はあり得ない様な伸び方をする事は多い。

木の下には然るべき存在が眠られているのかもしれない。

しかし、大抵は支柱に支えられていて

支えもなく、自重で折れることもなく、

成長を続けている木は見た事がない。😳

不思議な松だった。

 


弥生時代の【金印】の謎

2024-01-31 | 古代ミステリー

【古代ミステリーシリーズ】

久しぶりの聖なる国 日本のユーチューブ配信です。

「金印」について。

約二千年前の弥生時代、日本は中国から金印を二回も授かっていますが、

これらの事は古事記・日本書紀など日本の史書には一切記されてはなく、

何故贈られたのか?? 詳しい事はよく分かっていません。

「日本がそれだけ認められていた国だから」では根拠がなく、

日本の何がそんなに凄かったのだろう?と疑問に思う方もいるかもしれません。

「国」とは言えないほどの村の様な小さな国の、竪穴式住居に住む人々に、

中国の皇帝が金印を送るほどの理由があったのでしょうか?

 

書籍版「聖なる国 日本」の方でも書いていますが、

九州の志賀島で発見された【漢委奴国】の金印は何故、

日本に贈られたのか??

可能性のある根拠について、探っています。視聴時間9.46分

興味のある方はご覧ください。

 

https://youtu.be/160smwMULk4?si=KxvIRXDIttMAyfOJ

 

〜 今回は、BGMを入れてみました。無料で使える著作権フリーのユーチューブ・ミュージックライブラリからのセレクトです。

単発の効果音と違って、音量のバランス決めるのが難しかったです。トークのボリューム10に対して、BGMは1/10ぐらいの音量にしてみました。

正解はあるのかな?

 


聖なる【朱の起源】時代と人種を超える施朱とは?

2023-12-01 | 古代ミステリー

最近、フォトショットのスポット投稿が続いていましたが、久しぶりの古代ミステリーの投稿です。

「朱」の謎を解く、そこそこ長文ですが、興味がある方はご覧ください。

 

の起源】

人類が最初に出会った顔料は朱(赤)だ。原始人の残した洞窟の壁画などに使用されている。

赤は冴えが強く発色が良い。隠ぺい力にも優れ、色の中ではとてもパワフルな色で、文字どおり「朱に交われば赤くなる」というほどの最強色だ。

 

赤い顔料には、主に3種類あり最もメジャーなものが「ベンガラ」=赤鉄鉱

最も貴重なものが、「朱」=水銀朱を含む辰砂という鉱石で、

鉛を焼いて赤くした赤鉛を「丹」という。

 

日本では、赤い顔料を総称して「丹生」と言い神社の朱塗などに使われていた。

 

「丹生都姫神社」

古代より丹生を産出するエリアには、丹生都姫、にほつ姫などが祭られている。

 

日本人に赤は相性が良いらしく、紅白や日本国旗、巫女さんの緋袴など白と対比させて好んで用いられてきた。

因みに、ちょっとややこしいが本来「朱」とは赤色の事をいい、朱(赤)の補修材に安価な代用品として使われていたのが現代の私達が言う朱色の顔料だった。

 

 

朱は無機水銀であり有毒な有機水銀と違い、「丹」と言った様な薬にも使われていた原料で、古代のみならず最近まで消毒や殺菌にも使われていた。但し如何なる成分でも過剰に摂取すれば腎機能に障害を起こす様に、朱もこの限りではなく同様に害となる。金メッキのメッキ材料にも使われる為、金の様に或いはそれ以上に貴重な材料だった。大仏の金メッキでは、気化させるにあたり大量吸引による被害があったらしい。

 

魏志倭人伝に登場するヒミコも、魏国への貢ぎ物に「朱」辰砂を献上しながらも、魏国からは「丹」=赤鉛を望んだというほど赤い顔料は必要とされていた様だ。

丹生は縄文早期(約1万年前)の縄文土器の着色から、銅鐸、ハニワ、装飾具などあらゆる製品に着色されてきた。

 

 

【死者への施朱】

古代日本には「施朱」という習慣があった。遺体の頭部や胸を中心に赤い顔料を塗って葬るという習慣だが、古墳時代の終わりに消滅した。赤い骨が発見された当時は、生者のものか?死者のものか?がまず考えられたという。入墨に使った顔料が死後に骨と共に残ったとも考えられる。

古墳時代の施朱は消滅手前で最盛となり、亡骸だけでなく墓室の地面に散布されたり天井や壁も全て赤くして、何層にも塗布したり、顔料も朱とベンガラを使い分けたりなど施朱には様々な方法があった。

 

これは、「殯」もがりの習慣と結びつけて考えられ、死霊の呪いを封じるといった呪術的なものだと信じられている。

しかし、こうした呪術的信仰は一時期中世の日本で盛んだっただけで、何千年、何万年と伝統的に続いてきたものでは無く、時代を越えた根拠があるものでは無い。

 

古墳時代だけでなく、弥生時代、縄文時代にも施朱が行われていた事が発見されていて、日本列島の先住民族と渡来人、文化の違う民族、文化の違う時代まで同様な「死霊の呪い封じ」で行われていたという事は考えにくい。宗教や信仰は、民族や時代によっても異なるものではないだろうか。

そして、縄文時代・弥生時代、古墳時代まで共通した文化というのは他に類例がなく、驚くべきことだが、何故ここまでいくつもの時代を超えて続いてきたのかはよく解っていない。

 

施朱が行われるのは、祟りを恐れた呪い封じではなく、もっと違う理由があるのかを考えてみたい。

 

 

【即、鎮圧的手段】

施朱の研究者によれば、古代人の風習に対して、即「悪霊の鎮圧的な手段である」として安易に結論付けてしまうのは理論的な裏付けに欠けていて、説得力が無いという。

しかし、日本人のオカルト好みもあってか実しやかに「祟りを恐れ呪いを封じた」などと呪術的心理と結びつけられる方が多い。むしろ無難に置きにいく感じで、呪い封じは枕詞の様に受け入れられる様だ。

特に祟りを恐れたというのならば、菅原道真や平将門など無念に亡くなられた方の弔いには、朱塗りが多く施され調伏されていたなどと、濃淡がエビデンスとしてもっと存在していてもよさそうなものだが、実際全てに根拠がある訳ではない様だが只「赤は魔封じの色」に使われたと信じられている。

しかし、現代の私達が日の丸や紅白を見て、「呪い封じだ」とは思わない様に、古代人も同様に、赤は呪い封じとだと即は思わないのではないだろうか。

 

「呪い封じ」の呪術的な信仰が生まれる以前から、赤は馴染みの深い色であり、呪術信仰の象徴としてどこまでも時代を遡っても良いという初歩的なミスを犯すわけにはいかない。

そして現代人は古代人に対して、必ずといってよいほど

「テクノロジーは劣っている」

「原始的・土俗的な呪術信仰」である

と結論付けるバイアスが強く働き、滅多にこの域を出ることが無い。劣ったものとして見下す姿勢はバイアスというより、もはや信仰に近い。

 

施朱に関してはどうだろうか?

 

施朱は日本の古代遺跡だけでなく、汎世界的な風習で人類共通の習慣であり、すくなくとも3500年前はエジプト、中国、日本で施朱が行われていた。

時代を越え、文明を超え全ての人々は「死霊の祟りを恐れ封じ込めた」と断言するには、少し無理がある様に思える。

古典的な信仰心とは別に、文明、国、民族に限定されない「人類に共通する何か別の由来があるのでは、」と、探求してみたくなるところだ。

 

しかも、施朱の習慣は人類だけではない。起源はもっと古く3万年前・旧石器時代の原始人から、30万年前~ネアンデルタール人、50万年前~北京原人に至るまで、人類のみならず、旧人、原人の時代からあった習慣だという。

この、言語さえ未発達な時代から既に宗教や呪術が存在していたとも思えず、火、道具、そして宗教以外の何か、もっと太古からあるホモ属共通の習性があったとまずは考えてみても良いかもしれない。

そして、その元々あった習性が宗教発生後に埋葬儀礼に変化していったのではないだろうか。

 

「呪い封じだった。」を除外してみて、原初からある習性として考えた場合、どの様な可能性が考えられるだろう…

 

 

【魂魄の幽冥道】

中国の鬼とは、日本の鬼とは違い亡くなった方の霊のことだ。

 

「魂魄」と言い、人は亡くなると魂は天にあがるが、魄は弔わなければ地に還らず、地上を彷徨う浮遊霊となる。この浮遊霊のことを鬼と言い、鬼の道とはこの幽冥道のことを言う。

なので、人を殺すことよりも人を殺して弔わない事の方がもっと悪いこととされていた。

呪い恐れて封じるというよりは、人の道として弔う。

(魂=ソウル、魄=スピリット、鬼=ゴーストと言った感じだろうか)

そして、火葬、土葬、鳥葬、風葬など弔い方は文化や宗教によって違いはあれど、

故人を還してあげることは、生あるものとしての節理だ。

 

地に還すという点においては、赤色を亡骸に塗布しておくことは理に適っているのかもしれない。赤については「赤の魔除けの力を信じた。」と想像し、それが説明の根拠になっていることが多いが、ここでこの手法から一歩外に出てみて「赤」の特質を考えてみる。

 

赤の顔料はマイナスの電荷であり、人の皮膚の表面荷電はマイナスなので、塗布した場合は斥力の働きが生じるのだろうか?  (化学は苦手だが…)もう少し進めてみる。

 

若いころ、調色の仕事をしていたことがあった。(調色=顔料を配合し色を作りだす)

 

当時はコンピューター等より人間の目の方が正確で、機械では色差6までしか読み取れなかったものを、調色職人は肉眼で色差0.2まで判別しなければならなかった時代だ。特に「赤」の調色は人体への影響が強いため、赤の調色を長時間続ける事の危険性などを指導されていた。壁床全面を赤く塗った部屋に三日間いると人は精神に異常をきたすと教えられた。

「赤」を見続ける事は本当は疲れた。波長が長い為、その分トーンパリエーションが豊富なので沢山見なければならないのだが、あまりに刺激が強い為に口紅の調色をする職人さんは一日4時間くらいしか働けないそうだ。

宇宙観測に無くてはならない「赤方偏移」という現象(地球から遠い星ほど波長が伸び可視光は赤に偏る)で知られる様に、宇宙一波長の長い色である「赤」を目に照射し続けることはリスクが大きいのだと思うが、逆に、色指圧に使うには(カラーパンクチャー=色を皮膚に当てる刺激法)最強な色である事は間違いないだろう。

 

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では、生身の人間でなかったらどうなのだろうか?

この場合は、仮死状態の人だとする。

古代では、脳死判定などなくショック状態や仮死状態でも死亡している状態と認識された。

その為、埋葬後に生きを吹き返したりする事もしばしばあり、確実に再生が不可能と認識されるまで、安置する期間、いわゆる「もがり」殯が行われた。故人に対する思いや人々の再生への願いが強いほど、期間は長くなる。

 

キャノンは、星の出ていない暗闇でも撮影できるカメラを開発したそうだが、肉眼で暗闇であっても僅かな光(光子)は存在していて物質は反射して色は存在しているらしい。

 

紫は波長が短く散乱しやすく届きにくい色だが、紫外線などに至っては健康な人体の表面だけで被害を及ぼす。

逆に赤は人体の中にまで深く入る色で、波長が長いことにより、電子レベルでは色の中では最も人体に入る色(波長)であり、僅かだが細胞分子を励起させる可能性もあるのではないだろか。そして、健康な人体でない場合は、この暗闇レベルの微弱なエネルギーでも反って良いのかもしれない。

 

こうした皮膚表面へのマイクロカレント(微弱電流)による刺激は、最近のエステでもフェイスローラーをはじめマイナスイオン効果を狙ったものが多くなってきている。

 

意識があれば薬草を煎じ、意識がなければ針やお灸で人体に刺激を与え反応を引き出す。

 

これが私達がイメージする古代の医学の限界だと思うが、更にもう一つ、

 

意識も生体反応も無くなった人へ、

 

蘇生術的な最終手段として施す、

 

「施朱」=赤顔料の塗布という施術があったのではないだろうか。

 

勿論、そこには科学的根拠もなければ、宗教や信仰もない。

 

頭部や胸を中心に、赤の顔料を塗布し、

 

ただ、そうすることで生き返らなければ、死んでいる状態と認識されるだけだ。

 

ホモ属(原人・旧人・現人類)の習性として、それが備わっていたのではないかと思う。

 

習慣と言うよりも、もっとバイオミメティクス※的なデフォルトの習性なのかもしれない。(※工学的にも応用可能な生物機能・習性)

 

アリやハチは社会性のある生物だが、ハキリアリは集団で農業を行う。葉を切り出して、巣に運び湿度や温度を最適にした環境の中で、葉にアリ茸というキノコを植え付けてそれ育て食料としている。不要となった葉や、亡くなったアリは同じ場所へ運ばれていき塚を形成する。

 

法律も信仰も、科学的知識も存在しているとは思えないが、テクノロジーとしては成功している。この様な、知識も呪術的な信仰もなく、原初のホモ属が自然と持ち得ていた習性と考えてみることは出来ないだろうか。

 

活性化を起こす入射は、顔料の粒子の大きさによっても違うと思われ、何層にも塗布したり顔料や顔料の粒子を使い分けたりなど、多様な仕様が遺跡から発見されているのはその為なのかもしれない。

 

長くなったが、「祟りを恐れた呪い封じ」という施朱の考え方に対し、他の考え方はできないだろうか?との思いで書き綴ってきた。

 

それはこれらの事が、呪いを封じる手段とは到底思えないからだ。

 

私には、目にいっぱいの涙を浮かべ、ボロボロと大粒の涙を溢れさせながら、

悲しみを堪えて懸命に朱を施している人々の姿が、思い浮かぶ。

悲しみの涙もまた、ホモ属共通の特質だ、

愛する人、大切な家族や友人を失った人々が、

子を亡くした親が、親を亡くした子が、

祟りを恐れ呪いを封じをしている様には思えない。

 

結果として埋葬儀礼となる前は、脳死判定ならぬ施朱判定ともいう様な、最後の施術として朱を施したことがあったのではないだろうか。

 

亡くなられた方への思いは、今も昔も変わるものではないと思う。

 

故人への思いは、宗教や儀礼を超えた思いがあり、呪い封じの様な考えにだけ留めることは、その心を損なってしまっている気がしてならない。

 

ご先祖様や亡くなった方を大切に思う気持ちは、人は、恐れより愛情の方が強いだろうとの思いから、施朱についての「呪い封じ」否定論を拙いながらも書いてみた。

 

 

最後まで御覧頂きありがとうございました。✨✨✨✨✨🙏

 

 

『Bonus shot』

広島の爾保姫神社から、和歌山の丹生都姫神社に向かう途中、

雲が割れ、矢印の様に空が一直線に丹生都姫神社の方角を指していた。

 

 

近づくと、ゴールはこの辺りですと言わんばかりに空に円ができてきた。

 

 

 

不思議な天空ショーを見られたおかげで、運転もさほど疲れを感じることなく和歌山へ到着。

 

和歌山県「丹生都姫神社」

 

 

 

広島県「爾保姫神社」

辰砂(朱水銀)が採れたという黄金山に鎮座する。神功皇后による由緒。

爾保姫=爾保津姫(にほつ姫)は、丹生都姫(にうつ姫)と同じ神様と考えられている。

神功皇后と関わりのある神社は、「丹」ではなく「爾(に)」が比較的使われている気がする。

 

ちなみに、こちらの爾保姫神社は原爆でも倒壊を免れた。倒壊しなかった被爆建物として登録されていたが、2007年に不審火で焼失。

氏子さん達は、数億円を集めて新しい拝殿を再建されたという。

それでも資金は足らず、神殿などは再建する事ができなかったが、

2013年、伊勢神宮の遷宮により、旧社殿のヒノキ材を譲り受け再建された。

地域の氏子さん達と神様の関係がとても良く、

巨大なパワーストーンの様な黄金山のエネルギーと、爾保姫さまが人々を守り続けている様な気がする。

氏子さんの中には、爾保姫さまのご子孫の方もいらっしゃるのではないかと思う。

生ある者と、御先祖様とはこの様なものかと、仏教伝来以前から続く古来日本のあり樣を感じた。

 


古代ミステリー✨ご先祖様の来たみち

2023-11-03 | 古代ミステリー

古代ミステリーシリーズ

【ご先祖さまの来た道】

約7万年前アフリカを発した人類の祖先は、しばらく 西アジアにいましたが、

そこから、世界各地へと広がっていきました。

以来、

太古の昔から古代までずっと、人々や文化の流れは、西アジアから、東アジアへと、流れていきました。

人と文化の終点、

アジア世界の果てにあった、日本列島。

アジア大陸で、大規模な戦乱や動乱がある度に、世界の果てまで逃げてきた少数部族たちや、亡命してきた王族がいました。

1万年以上続いた縄文時代の後、

約千年続いた弥生時代からそれは始まり、

4世紀頃、和国最大の渡来氏族だった秦氏の渡来〜

7世紀後半、高句麗の若光王が亡命して来るまで、波状的に続いてきました。

そして律令化が進められていき

遂に、

渡来部族達の連合国だった和国が無くなり、強い日本国が建国されます。

日本列島は、

移民や亡命者の入植地だった

長い長い役割を終えて、

日本海上に強い国境線が引かれました。

今回は、その渡来部族の一つである

「犬戎」と言う三千年前に中国の北西にいた遊牧民の配信です。

犬=狗いぬ

とも言い、犬をトーテムとした古い遊牧民です。

農耕民族が『稲』🌾を神聖視する様に

遊牧民族には、牧羊と共に生きる

『犬』を神聖視した人々がいました。


日本列島にイザナギ・イザナミが降臨(渡来)してくるより以前、

カムロギ・カムロミが降臨(渡来)されたよりも昔のことで、

アジア世界の果てにある

日イズル島までやってきた、

ご先祖さまの遠い旅を辿るお話しです。


長いので、YouTubeでまとめました。😌

興味のある方はご覧下さい🙏✨

(今までも結構長かったでしたが😅☝️)

https://youtu.be/Su7VhAbR8Zc?si=cW4soFElbaCZw8tI

ヤマト朝廷以前。先住部族として

日本神話に登場する イヒカと、

海彦の子孫と云われる隼人族に関わるお話しです😌✨✨視聴時間10分です🎞️


聖なる国日本

2023-10-18 | 古代ミステリー

いよいよ、発売です✨

「聖なる国 日本」

書籍版 どうかよろしくお願いします🙏

 

2回目の YouTube 動画もアップしました

 

https://youtu.be/oGltC0mfx1c?si=6R6nrnSfEhmwcQ6g

 

私は、古い歴史や神社が好きで、全国をずっと周ってきて

ブログ「聖なる国 日本」を書きはじめ16年が過ぎました。

神社だけでなく、古代ミステリーなどの投稿もありますが、

古代ミステリーシリーズは、ブログで書くには

長くなりすぎるので、本で書こうと思い書籍化する事にしました。

それでも書ききれない事は、

ユーチューブでも配信していこうと思います。

(特に弥生時代など古代のことなど)

 

ブログともども、これからも宜しくお願いします。🙏✨

 

 

【追記】

アマゾンで、注文出来る様になるのが、

10月19日からで、

書店に並ぶのは10月23日以降

しかも 書店によってまちまちという事でした😂

本の流通、、

知らないことが多かったです🙏

(そうだったのか🤔)

 

試しに、自分で、購入してみました😌✨

 

 


聖なる国 日本☆いよいよ今月19日

2023-10-01 | 古代ミステリー

聖なる国 日本 #1

10月19日(木)いよいよ

当ブログ『聖なる国 日本』を書籍化した本が、発売になります⛩️

YouTubeも作ってみました✨

古い歴史や神社などが好きで、

全国の神社・パワースポットなどを巡り、

ブログに書き続けて16年が過ぎました。

スポットの紹介で書いていたものが、だんだんと

古代ミステリー的な要素を加筆していくうちに

ブログにしては、とてつもない長文になってしまい💦

一年ほど前、

「ブログに書ききれない事は、本に書いてみよう」

と、思い準備を進めてきました。

いざ書いてみると、ブログの様なスペックではなく

ジャンルで言えばやはり、古代ミステリー的な内容に😂

マイノリティーから、荒唐無稽なことまで、

日本列島が抱いてきた様々なことを書いています。

ブログに書けなかったこと、

ブログとは違った内容も盛り込み、

古きを知り、新しい時代に向けた

生き方のヒントとなる様な、書きおろしの一冊です。

amazonで👍10月19日〜

全国の書店👍10月23日〜


興味がある方、

御覧頂けると有難いです。✨✨✨

どうか、宜しくお願いします🙇✨


平安時代Ⅰ.「妙見信仰のルーツに隠された祈り」

2023-08-26 | 古代ミステリー

『妙見信仰』の起源

前回の妙見総本宮⛩️千葉神社で紹介した『妙見さま』について深掘り

歴史ミステリーの投稿。少し長めですが🙏興味のある方は御覧下さい。

✨✨✨ ✨ ✨✨✨

妙見信仰は中国の道教の信仰の一つで、天の中心にある北極星を崇める。

神道や仏教と習合しながらも、風水や五行といった古代中国独特の世界観を祭り

群馬・妙見寺、千葉・千葉神社、大阪・星田妙見宮、九州・足立山妙見宮など全国で「妙見さん」と言われ親しまれている。

 

【道教】

数千年の歴史がある中国の道教は、森羅万象、この世の理から人の生死や日常まで、理論学説と実践術が幅広く存在している。

道(タオ)、天帝、尊神、神仙思想にはじまり、延命長寿・不老不死、道徳教、天文学、陰陽五行、易術、風水、気学、薬学、仙術、符術、太極拳、気功術まで、

中国独特の歴史的な世界観や文化を包括しているパラダイム(常識値)であり、宗教だけには収まらない。

なので中国人は太極拳をやっているからと言って「道教徒」とは言わない。

道教の一部は二千年程前から宗教化が進んできたが、「宗教」と一言で言いきってしまうには未だ疑問もあり、西洋的な神を求める崇拝型宗教とは同じではない様だ。

 

元々東洋は、西洋の様に神そのものを求める宗教と違い、(神も含めて)森羅万象・宇宙の理を求めていた自然科学的なものだった。

その後の政策や宗教環境の変化により神々の存在が強く求められていくが、道教だけでなく、仏教も自然科学的な面があり(俱舎論)

宇宙の姿を克明に伝えている。

 

ブラックホールは黒龍

銀河は蓮、

バルジは須弥山、

イベントホライズンは金輪際、

ボイドは虚空など、

当時の人々の言葉で宇宙の姿を理解しようとしていた事は確かだ。(観測でなく想像だけだと思うが😅何故か似ている)聖徳太子がこの世のことは全て「虚仮である」と語ったことも、理論物理学の「ホログラム宇宙論」を一言で現した様な言葉と言えなくもない。

 

【太極(太元)陰陽を生じ、四像八卦を生じる】

道教が言う「太元」とは万物の始まりの事で、「道」タオの本質であるという哲学だった。後に、宗教環境の変化に合わせ、哲学上の太元を ⇒ 太元尊神と呼び人格化して崇拝の対象となる様に創造主(万物主)という宗教的な存在にした。

道教は宗教環境の変化に合わせてこの様に、崇拝対象とする神々が生み出されていった。

妙見信仰も、元々は神ではなく北極星そのものが信仰対象だった。

中国では北極星を北辰と言い、

インド仏教の北斗七星の神である

妙見菩薩』が中国に伝わると、

道教の『北辰』北極星の信仰と合わせて『北辰妙見』となった。

妙見さまは、仏教と道教の混合神だ。

 

千葉の千葉神社は妙見信仰の総本宮だが、妙見信仰はもともと西からはじまった説もあり東西の起源が分かれる。

(千葉神社)

 

大阪の星田妙見宮は、9世紀頃(800年~)空海の修法によって七曜の星(北斗七星)が降臨し祭られたという由緒で、

千葉の千葉神社は、一条天皇の眼病平癒の由緒があり西暦1000年に開山した。

平安時代初期(800年頃)と、

平安時代中期(1000年頃)、平安文化の特徴的な信仰の一つだ。

世界の宗教は太陽神ラー、アポロン、天照大神、ヴィシュヌなど、太陽を人格化して神話を作るが、

道教は人格化した神も作りつつ方位や天体そのものを祀っているのが面白い。

天体の中心で唯一動かない星、北極星=「北辰」、を『星の王』として祀り、天の中心である北辰は、日(太陽)・月・星を掌握し、人の死も司ると考えられていた。

 

【妙見信仰の始まり】

ウィキペディアでは、妙見信仰は飛鳥時代に百済・高句麗の渡来人によって日本にもたらされたと考えられている様だ。

これが、妙見信仰の始まりだろうか?

飛鳥時代と言えば、中国に百済・高句麗が滅ぼされた時代で、日本に多くの百済・高句麗人が渡来して来た。

しかし自国が滅ぼされた直後に、憎き敵国の信仰をわざわざ伝えたりしたのだろうか🤔

 

三蔵法師がインドから仏典を持ち帰ったばかりで、まだインド仏教と道教の神が習合していたとも思えず、

ようやく密教経典が編纂され始めた頃でもあり、早くも信仰対象として日本に伝わっていたとは考えにくい。

(※インドの密教よりも、何故か役行者の修験道の方が早く日本に広がり役行者が齎した可能性は考えられる🤔)

そして飛鳥時代の遣唐使など僧が伝えたていたのは、中国道教との混合仏教などではなく、三蔵法師がインドから持ち帰り伝えられた直伝の『法相宗』だった。

 

もっと以前の【北辰】とは、まだ妙見信仰ではなく天の中心であることから【天帝】を指して言う場合もあり政治用語の比喩として使われていた様だ。

信仰というより道教思想の知識として日本に伝わっていた様で、飛鳥時代の天武天皇は、道教の知識に通じていて

「真人」(仙人となった最高位の人のこと🧿)などの道教の呼称も政治的に用いていたので、高句麗系の天武天皇が、道教の知識としての「北辰」も日本に持ちこんだのかもしれない。

 

天武天皇は、陰陽寮という中務省の道教専門部署を初めて設置したが、「天文を讀み占星術を行い暦を作る」など国家の秘儀を扱う機密機関だった。

奈良時代になり、高句麗系の渡来人が東国に追いやられてしまった後、中央から目の届きにくい環境の中で、

政府直属レベルの道教の知識があった高句麗系の王族や博士、子孫の人々によって、もっと実用的な必要から妙見信仰は始まったのではないだろうか。

中国の神々は、時代が下った後に仏教勢力や貴族勢力に対抗する為に、武士勢力が積極的に用いた信仰である。

そうした意味では、中国の道教は仏教でも神道でもない第三勢力的な立ち位置であり、「妙見さま」は日本で最初に東国の武人が広めた中国系の信仰なのだろう。

 

【平将門】

平安時代は「武士」という存在はなく、まだ「つわもの(兵)」と呼ばれていた。

桓武天皇の子孫の高望王は「平氏」という姓を賜り臣籍降下し、清和天皇の子孫は源氏となり、地方で兵(つわもの)を動かす役割を担っていた。

その中の一氏族である千葉氏が妙見さまを氏神としたのも、戦さの度に祈願し、勝利をおさめたからという由緒があり、勝利の神としての信仰から広められたのだ。

苦戦時には「妙見菩薩により、七星剣を授けられた」と謳い軍を鼓舞して起死回生を図った。

(妙見信仰は、西日本の七夕、東日本の七星剣と、特徴が別れるのはその為なのだろうか🤔)

 

平安中期は「この世をば、我が世とぞ思う…」と詠んだ藤原道長の時代で、藤原貴族が中央を独占支配し、地方の任官・腐敗にも軋轢が生じる様になり、争乱が多発する様になった時代でもある。

兵(つわもの)を動かす機会が多くなるが、権勢の影響は更なる軋轢を生みだし天皇側も藤原朝廷を抑えよう様と心を砕いていた。

一条天皇が、わざわざ東国の香取神社の摂社でしかない千葉氏の「妙見さま」に病気平癒を祈り、「北斗山金剛授寺』と言う寺号を贈り開山させたのも千葉氏を支援する口実だったのかもしれない。

藤原氏が中央の要職を占めていた為に、他の貴族(天皇の降下貴族など)は差別され地方の兵になるしかなかった様な時代だ。


『つわもの』と言う呼び方も、本来は強者ではなく、

『兵は不詳の器(うつわ)=

武器を使うのは立派な人間のする事ではない』と言う意味の

「うつわ者」が語源らしく、謂わば蔑称だ。

一条天皇はその地方の天皇の子孫(つわもの)である千葉氏を何故、支援したのか。何故、千葉氏だったのか?

西日本の七夕と結びつけて考えられている妙見信仰と違い、

東日本の「妙見さま」は、千葉氏が勝利を祈願し、平将門と結びつけて考えたものでやや趣きが違う。

地方では人々は国司の横領の為、重税に苦しみ盗賊が横行していた。

しかし、中央は治安悪化を野放しにしたままであり、国司の利権争いも激化していった。

遂に平将門の乱や藤原純友の乱が起き、平将門は東国の人々の為に立ち上がったが、鎮圧に派兵された藤原秀郷や他の平氏に敗れてしまった

平将門の兵の多くは圧政に苦しめられていた農民であった為、繁農期になり人々が農作業に戻って少数になったところを急襲された。

(平将門)

千葉氏の始祖である下総の平良文は、平将門の同族であり密かに平将門を助け、表向き朝廷側に立ちつつも将門の討伐には直接参加はしなかった様だ。

やがてその子孫の平忠常も圧政に対し反乱を起こした。

政情にもよるが、地方の人々の味方は、中央の敵である。中央は地方の利権争いを制御できず、平将門は闘争の渦に巻込まれていったが、中央からはたとえ反乱者の様に扱われていても、

戦で亡くなった東国の人々の御魂を安んじる為に、

生き残った人々が祈りを捧げたいという願いは当然あったのだろう。

 

平将門の家紋は妙見菩薩から授かったとされていた。

 

千葉氏も堂々と「平将門」を祀ることは出来なかった為、

表向きは「妙見さま」にして平将門を影祀りして、各地に広げていったのかもしれない。

 

川崎⛩️馬絹神社 

(平将門の側近だった興世王が討たれた時、里人たちがその馬の衣を拾って馬絹神社に収め、表向きは興世王ではなく熊野の神として祭った)

 

妙見さまは天の中心であることから「天御中主」という神道の神とも習合されて祭られているが、

天御中主は日本神話では創造主なのでどちらかと言えば、中国の「太元」=物事の始まりである根源的存在=太元「太元尊神」の方が近いと思う。が、

東国では「天御中主」も、アラハバキや国常立神など古い神さまの影祀りの御神名なっていることも多い。

 

平安中期は、つわもの(兵)の地方への土着の始まりと、中央からの任官の争乱の時期だったが、

その後、平安後期には

中央の権勢から離れ地方への土着が進み、つわもの(兵)から武士の時代へと変化していった。

 

中央を藤原氏に実効支配されてしまったこの時代。天皇側も、表向きは道教の神に祈りつつ

藤原朝廷を切り崩そうと

千葉氏が祭った

『妙見さま』(平将門)に願をかけたのかもしれない。

 

 

長い話しを

お読み頂きありがとうございました🙏

✨✨✨ ✨ ✨✨✨

 


Ⅲ.奈良時代・最終章『あおによし』異聞

2023-08-05 | 古代ミステリー

奈良時代3回シリーズの最終回

古代ミステリー・奈良時代の興亡の歴史です。

前回「何故、中央構造線に神社が祭られたのか」では、弥生時代まで遡ってしまいましたが、奈良時代に伊勢と大和の境界にあったという「水屋神社」に話しを戻して進めます。

 

✨✨✨✨✨✨✨

「あお丹よし」は奈良時代をさして言う枕言葉らしく、丹(赤)の対比色に見事に彩られた都を表現した言葉らしい。

 

丹とは赤い顔料のことで、辰砂という赤い鉱石や、ベンガラという赤鉄鉱のことを言う。

辰砂は、と呼ばれ水銀を含む鉱石で水銀が抽出され、寺社の朱塗りだけでなく「大仏」や仏像など奈良仏教を彩る金メッキの材料としても使われていた。(水銀は金メッキだけでなく金の精製にも使われ『朱』は人類史上最も古くから使われた鉱物でした🙃)

 

大和と伊勢の境界を決めたのが何故、伊勢神宮と春日大社の神だったのか??

「水屋神社付近で、天照大神と春日大明神二人の神が出合い境界を決めた」という伝承に違和感を感じた事から、今回のシリーズは始まった。

大和の平城京には天皇が坐し、伊勢は天皇家の祭祀を行う伊勢神宮の社領である。

天皇を頂点とした日本国の王都エリアと祭祀エリアの境界を、

何故?春日大社の神と対峙して決めなければならなかったのか?

これは大和の実権が、平城宮の天皇から春日大社にとって替わられてしまったという事だろうか🤔

 

春日大社は藤原氏(中臣氏)の祖神「天児屋根命」(アメノコヤネ命)を祭っている神社で、春日大明神と言えば天児屋根命のことだが、

日本神話では、

天児屋根は、天照大神に仕え、天照大神の命令でニニギの天孫降臨に同伴してきた神だ。

以後、その子孫の中臣氏が宮廷の祭祀を行ってきた。

 

天孫降臨の際、天照大神は御魂として祭る様に八咫鏡を曾孫のニニギ尊に託し、

アメノコヤネ、フトダマ命、アメノウズメ命、イシコリドメ命らが、天照大神に命じられニニギ尊の天孫降臨に同行した。

前回の投稿「何故、神社は中央構造線に祭られるのか」に登場する神々たちだ。

 

天児屋根命は、伴臣の1人でしかなく天照大神に祭祀をもって使える神が、天照大神に対して「国境を決める」などと唐突に対外的なふるまいをする事は有り得ない。

天孫族のヤマト朝廷に何か大きな変化が起きてしまった為に、この様なエピソードが残されているのだろう…🤔

 

【奈良の大仏と辰砂】

仏教建築は、仏教の専門的知識がなければできないので仏教勢力の独占だったが、一方で

大仏の金メッキには大量の水銀が必要だった為、水銀の多くは伊勢で産出される水銀に頼っていた。

知識の大和と、原料の伊勢、どちらが欠けても大仏建立は不可能であり、やはりこれが伊勢と大和が拮抗していた一因だったのだろうか?

大和と伊勢の国境というより水銀鉱山のある伊勢神宮内宮の社領地と、

大和の春日大社の行在所である水屋神社の境界という感じもする。

 

大和の仏教勢力は、伊勢の水銀鉱山を直接手に入れる事はできず、

水屋神社で辰砂(朱水銀)が運ばれてくるのを待つしかなかったのだろう。「赤桶」とは赤い辰砂を入れた桶のことだ。

 

水屋神社に残る地名が丹生でなく赤桶というのは、産地ではなく赤い辰砂を運ぶ拠点=ターミナルであったからで、伊勢で採れた赤い水銀が桶に入れられ運び込まれてたのかもしれない。

奈良の都は水銀だらけだったといわれ

「水屋神社」をターミナルとして夥しい量の水銀が

大仏建立のために奈良へ運びこまれていった。

(現在は水銀でなく水を運ぶ神事が残されている)

 

【仏教勢力はゼネコンだったか?】

ゼネコンとは、設計、施工、そして研究まで、総合的に行う請負業者のことだと言う。

奈良の仏教建築を担った仏教勢力は、ゼネコンだったのだろうか?

只の建築物と違い、仏教の聖典と修法に適う専門的知識がなければ、仏教建築はできない。その研究は必要であり、そのための新たな知識を齎したのは遣唐使や渡来人だった。

 

飛鳥時代に、朝鮮半島にあった高句麗と百済が中国の唐の進攻により滅亡し、高句麗人や百済人が大勢日本へ亡命してきた。

一時は日本政府の3人に1人が百済人という状態にまでなり、朝廷は冠位を大幅に増やした。

そして、

飛鳥時代~奈良時代にかけての国土開発は彼らの知識や技術によって推進した。

 

しかし、いくら朝廷に冠位でもって仕えようとも、日本の公地公民制の中では、彼らには依るべき領地がない。

率いてきた部族民も私有民とは認められず、日本国民になった。

奴婢だけは例外とされたが、私有民か国民かは厳しく判別された。

 

部族民を率いてきた亡命百済人にとってこれは面白くはなかった。

百済は和国に比べ「部族連合国」の部族主権が強い国だったので、彼らの特権意識では耐えがたかっただろう。

この意識は、百済滅亡の一因でもあった。

百済は国軍より部族連合軍が主力であり、部族長たちは国よりも部族の利益を考えて戦い

武士の時代の様な主従関係ではないので形勢により、領地と部族民を安堵して貰えれば敵方に寝返ることもあった。

新羅や和国の様に部族連合国からいち早く脱却した国だけが、国軍を持ち挙国一致した戦闘が可能だったのだ。

 

日本は大化の改新より、公地公民を推進し、天皇を頂点としたヤマト朝廷の中央集権と律令化を半世紀以上を費やし行ってきた。

各部族長たちは、冠位や国司の地位と引きかえに、率いていた私有民(部族民)と領地を差し出し、独立性のある「部族」ではなく朝廷に帰属する官僚になっていった。

中大兄皇子も自ら率先して、自分の領地と領民を国に差し出した。

 

孝徳天皇の頃に、それら国民の戸籍が整理され、国民はヤマト朝廷の為に役務につき税を払う様になり、かつての部族長が支配していた時代からようやく中央集権が育ち始めた。

 

この大化の改新の法の執行人に、小角という者が登場した。

 

国民を役務に就かせる為、役の小角と呼ばれ、山岳仏教(後に修験道となる)の開祖でもあり、修法をもって人々を従わせたので役の行者とも呼ばれた。

日本列島の各地の山を開山し、王都や仏教建築、国土開発のために人々を使役した。新たな宗教の布教と共に行われた事業は、小角に行き過ぎはあったにせよ、まだ国家事業の域をでることはなかった。

使役から開発まで全て請け負う側のゼネコンの立場だった。

 

寺社は建立すれば終わりという事ではなく、維持費を賄う為の田畑や耕作人が付与される。

寺領・社領と、神人・出家者、という寺社に属する民となる。

 

建立と共に「三千人を出家させた」とか、「千人を出家させた」とか、規模にもよるが、出家すると寺の私有民になる訳で、税も払わず役務に就くこともない、寺社の為に専属で働く人々になる。

この人々は国王の側から、仏教者に与えられた民だ。国(天皇側)は、仏教の研究から、設計・施工、民衆の使役までを任せ仏教建築物を建立し、維持のために出家者まで与え国威のために仏教を保護していた。

 

建築後は仏教者が運営し免税とした上に維持費まで賄っていたが、どれほど資金をかけたところで国が回収できるものは無い😔

肥え太るのは請け負った仏教者で、数を増やすほどに比例して国力は失われていった。

(日本に古くからある免税用語「坊主丸儲け」はこの時代から生まれた言葉だろうか、、🤔)

部族民が全て国民にかわった大化の改新以降、国民が役務につく様になってからも、

この出家者という名の「仏教の民」たちは、維持のために引き続き例外として免税地に残っていた。

白村江の戦いから壬申の乱を経て、造船、築城、軍用道路、兵役、遷都、輸送、開墾と、国民の労役は間断なく続いた時代だ。

 

亡命百済人らがこの例外に飛びつき、勢力を成したのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 

役の行者や、亡命高句麗人らは関東に追いやられ、

奈良時代になると中央では、百済人らが野合し技術者、医者、政治家、職人、宗教者、建築者、学者らによる強力なコングロマリット(複合産業集団)が形成され、ヤマト朝廷を脅かすほどの一大勢力となった。

彼らは、仏教者を矢面に立て『免税地』と私有民の確保に乗り出した。

医療・薬学から、開墾・治水事業まで、かつてなかった新しい技術で、国が施すべきであろう様々な事を民衆にもたらす彼らは、何処に行っても喝采で迎えられ全国各地を周った。

おまけに仏教に入信すれば役務や兵役も税金も免除されると聞き、民衆は彼らを大歓迎した。

 

国土開発は、亡命百済人たちの技術や知識で進められてきたが、

国の請け負い事業のはずだったものが、やがて彼らの独走に変わっていた。

 

私的に資金を募り、民衆の為に開墾を行い、橋を架け、施術を行い、同時に布教をしながら、千を越すとも言われる寺院を各地に建立して、民衆を出家させて、国の役務と税から解放して寺院に帰属する私有民に変えていった。

百済系の僧侶(行基)や、百済系の王(長屋王)も登場し、遣唐使らも巻き込みながら、天武天皇系、藤原氏、天智天皇系、百済系、仏教勢力が蠢くカオスな状態へと奈良時代は突入した。

 

 

【神仏習合の始まり】

百済系の移民たちは新興の仏教勢力と野合し、天皇や朝廷を脅かすほどの大勢力となり、

藤原氏の中枢である藤原四家(北家、南家、東家、西家)の主だった権力者たちが天然痘で一斉に亡くなり、藤原氏は力を失った。

 

藤原北家の残党だけが新興の奈良仏教の勢力下でかろうじて生き伸びているという状態になった。

藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は乗っ取られ、関東を押さえていた「鹿島神宮」「香取神宮」の神々は奈良に遷され「春日大社」に祭られ、興福寺の配下となった。

これが、日本の神仏習合時代の始まりだ。

 

仏教勢力は、かつて天皇側だった藤原氏の勢力を切り崩すと、そのまま国境の水屋神社まで勢力を広げていた。

気がつけば、役の行者を関東に追放し、高句麗の移民や王族らも関東に移し、遣唐使・吉備真備は九州に左遷させられ、藤原氏も四家のうち三家が失われ仏教勢力の配下となってしまい、いつの間にか平城京で天皇だけが孤立している様な状態になっていた。とうとう、

天皇は「仏教勢力の下僕である」ことを宣言させられ、

もはや国王の地位は風前の灯になった。

 

奈良仏教の首魁である法王・僧道鏡が登場してくると、

仏教勢力の実質的な支配だけでなく、遂に天皇の位を譲れと迫ってきた。

調度この頃に、興福寺の配下で春日大社の行在宮(天皇の滞在する仮宮)として水屋神社が置かれたのだ。

これは明らかに平城宮の天皇の行在宮としてではなく、

法王の行在宮として置かれたのではないだろうか。

あえて天皇しか使わない「行在宮」としてしまうことからも、法王の王権が当時どれほど強かったのかが推察される。

歴史上では、法王は天皇の上の位とされていた。後世の上皇の様な存在だったのかもしれない。

院政や摂関政治、幕藩政治の様に、天皇に実権を持たせない体制が日本で初めて(束の間だったが)奈良で誕生しつつあった。しかし、

法王・道鏡の企ては失敗に終わり、道鏡の失脚後は墾田永年私財法も差し止められた。

これにより、仏教勢力が新たな免税地を手に入れる為には、既存の免税地=神社が持つ社田や神領を手に入れるしか方法が無くなってしまった。

仏教勢力は、この頃より「神道の神とは、仏教神の化身である」と言う方便を唱えて、神社を仏教の勢力下に置いていく神仏習合の時代が本格的に始まった。

 

「神仏の対立から仲良く神仏習合。お寺は国立大学の様な存在だった。」と、私達が知る様な歴史とは些か違う気がするが、奈良時代のリアルへ少しは近づいたと思う。🤔

 

道鏡と道連れの様に天武天皇系の皇統は滅びてしまい、皇統が一世紀ぶりに天智天皇系に移ると、天皇側は奈良仏教との袂を別ち奈良からの脱出を試みる様になった。

他に藤原氏や帰化人勢力など、奈良仏教に野合していた人々も天皇側につき、奈良の仏教勢力だけが取り残された様子が覗える。

 

桓武天皇は、京都の長岡京に遷都すると共に平城京の第二の都であった流通拠点「難波京」を閉鎖し、奈良仏教は半ば経済封鎖されつつあった様だ。その後、天皇側には藤原氏の暗殺に始まり、伊勢神宮の放火や桓武天皇の周囲での変事や、長岡京の度重なる災害が立て続けに起きた。桓武天皇は長岡京を放棄し、

平安京への遷都を行い、遂に新たな時代を切り開いた。

 

奈良の仏教勢力はその後も残り、平安仏教と対比して「南都・北嶺」と呼ばれる様になったが、貴族の時代となった平安京で再び権力の座を手に入れることはなかった。

 

「あおによし」という青と丹(赤)の対比色が、まるで法王天皇を対比を伝えているかの様に、今も奈良をさして言う枕詞に綺羅として残されている。

 

長い話しを読んで下さりありがとう御座いました。🙏✨

✨✨✨✨✨✨✨✨

 

古代ミステリー・シリーズ「あとがき」

前回は、室町時代、今回は奈良時代で、このまま書き続けていくと日本の

「宗教政策通史」が出来上がるかもしれない…🤔

📿仏教伝来後の日本では、

武力を用いて恐れさせ、強引に従わせると言うことよりも、

宗教を用いて祟りや呪い、仏罰を恐れさせ従わせると言う方法が定着しつつあった。

律令と武力だけでなく、宗教という見えない鎧がなければ国は治められない事を為政者たちは知っていたのだ。

元々、日本人には呪いや罰といった恐れの信仰が無かった為に、これはかなり効果的なマインドコントロール方法だった様だ。

やがて、次の時代には中世独特の👹呪術的信仰の時代が開花する。

呪い調伏、祟り封じ、かつての日本人には無かった恐れの信仰が支配した時代だ。

国宝級の地獄絵図 などを見ても
時代が下るごとに猟奇的で、怪奇なものになっている。

次は、平安時代にもスポットを当てて

この特異な時代を深掘りしてみたい😌


Ⅱ.奈良時代以前【神社は何故、中央構造線に祭られたのか】

2023-08-02 | 古代ミステリー
  1. 前回の続き、古代ミステリーの投稿です。✨

 

中央構造線とは、関東から九州まで日本列島を東西に横切っている大断層のこと。

香取神宮・鹿島神宮、諏訪大社、伊勢神宮、石神神宮、宇佐神宮、幣立神宮など、⛩️名だたる神社がこの線上に祭られている。

奈良時代の投稿だが一度離れ、これらの神社が祭られた古代まで遡ってみる。

何故、神社は中央構造線上に祭られているのか?

✨✨✨✨✨✨✨✨

 

中央構造線上に、主要な神社が多く祭られている事はよく知られていて、

「ゼロ磁場の影響があるパワースポットだから」

「地震の影響が多いスポットだったから」など、祭られている根拠は様々な憶測があって、古代ミステリーファンの好奇心を掻き立てられている。

 

それとも理由はなく、たまたま偶然並んでいるだけなのだろうか?

 

中央構造線は、鹿島神宮辺りからフォッサマグナ東端に沿ってやや北上し、フォッサマグナ西端にある静岡・糸井川構造線と交わる辺りで、南に折れ曲がる。

この交差する地点は、諏訪市と茅野市の境界辺りで、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界でもあり、ここに諏訪大社が祭られている。

主要な神社と言ってもこうしてみると神社ではなく、諏訪大社以外は「神宮」が多い。神宮は明治神宮や伊勢神宮など天皇家と関わりのある特別な神社だけが「神宮」と呼ばれる。

 

一方、「レイライン」と呼ばれる北緯35度付近のラインにも神社が祭られていて、こちらは光の道(レイライン)という文字通り太陽の日照時間が最も長いラインであり、太陽の恵みを最も受けられるスポットだ。

 

西端は島根県「出雲大社」、東端は千葉県「玉前神社」で、出雲は櫛稲田姫、そして玉前神社に祭られる玉依姫も稲作を伝えた神であり、農耕民族にとっては雨の恵みと太陽の恵みは無くてはならなかったので、サンロードとも呼ばれるこの太陽の恵みライン上に田畑を拓き、社を祭り豊穣の祭祀を行っていたのかもしれない。

 

天の恵みパワースポットのレイラインと比べ、

地のパワースポットの中央構造線上で祭られている神宮や神社、特に皇祖と関わりのある神々たちは、大地の裂け目からどの様な恩恵を受けていたのだろうか?

 

【大地の恵みと神宮】

中央構造線は、約1億年前の白亜紀の頃に誕生した大きな断層で、大地の横ずれが日本列島を東西に横切っている。中央構造線の北側はマグマの噴出があり南側はないという、特殊な地質ラインの様だ。

この中央構造線上の大地からは、「丹生」と呼ばれる鉱物資源が古くから産出されることが知られていて、縄文時代早期から採集が行われていた。

丹生とは赤い鉱物のことで、赤鉄鉱から採れるベンガラや、辰砂(朱水銀)などを「丹生」と言い、赤い着色顔料として使用された。

縄文土器の着色から、神社の朱色まで日本文化の彩に一万年近く使われてきた伝統的な赤色顔料だ。

 

 

 

(※朱とは=水銀のこと。朱色の鉱石で無機水銀なので害は比較的少ないらしい。かつて消毒に使用された所謂赤チンの材料。仏教伝来と共に鉛を焼いて赤色化させる方法も使われる様になりこれも「丹」と言う)

 

しかし、丹生は顔料だけにとどまらず、

製鉄が渡来した弥生時代頃からは、赤鉄鉱のベンガラは製鉄の為に使われ、

秦氏が渡来した古墳時代からは、辰砂から水銀が採取される様になり、金の精製や金メッキに使われる一層重要な鉱物となった。

なので、中央構造線に限らず「丹生」が産出され製鉄が行われていたエリアでは、丹生都姫神社や丹生神社が祭られている。ちなみに中央構造線上には高野山もあるが、丹生都姫は、空海を高野山に導いた神としても知られている。

 

辰砂(朱=水銀)

 

 

 

前回の投稿から挙げている中央構造線上にある『水屋神社』の東は、伊勢神宮社領内(多気)に丹生水銀鉱山があり、西の大和方面(奈良県宇陀市)に抜けるとやはり水銀鉱山がある。

 

そのまま、中央構造線を西に沿って、丹生川上神社中社、上社、下社と続き、奈良盆地には鏡作坐天照国照神社があり「石凝姥命」という鍛冶の神や、物部氏の始祖ニギハヤヒも祭られている。

太玉命(フトゥダマ)祖神とする末裔で、天孫族の製鉄部族を率いていた。

 

十種の祓詞という祝詞に「皇神たちの鋳あらわし給う十種の宝」とあるが、王家の象徴である神具や鉄器は無二の神宝で、王には必ず鋳物を扱う専属の鍛冶職人がいた。日本神話では

忌部氏の天目一筒神(天津麻羅)が天孫族の神具の金工を担っていたとされる。

 

物部氏は神具でなく武具を扱った。「物」とは刃物のことで、刃物を扱う部族なので物部という。香取神宮の御神名の布津御魂の剣や、石神神宮の七支剣など物部系の神剣がある。

 

石凝姥命は、天皇家の三種の神器の一つである「八咫鏡」を作った神様で、日本神話では天岩戸隠れのときにオモイカネに命じられ八咫鏡を作り、鏡の光で岩戸から出てきた天照大神に鏡に映った御姿を見せたという。神具、武具、神器と、それぞれに鍛冶の神がいる。

 

更に中央構造線を西にいくと、

 

和歌山市には八咫鏡に先立って作られた日像鏡をご神体とする『日前神宮』と、日矛鏡をご神体とする『國懸神宮』が祭られている。

 

枚挙に暇がないが、中央構造線上の神社は鍛冶や製鉄に関係する神々が祭られ、そして「神宮」と呼ばれる天孫族系の主要な神社が多く、日本の神宮の1/3が中央構造線上に祭られている。

日本列島を統べた天孫族が、地下資源の得られるエリアを次々と拠点にしていったのだろうか?

 

【伊勢神宮と水銀を伝えた秦氏】

⛩️宇佐神宮は、九州の中央構造線の近くにあり、秦氏が渡来してきた時の拠点である。

 

日本に製鉄と辰砂から水銀を採取する方法や、養蚕や機織りなど殖産の多くをもたらした。

水銀採取法は秦氏が初めて日本に伝えたとされ、秦氏が拠点として造った秦王国は「辰王」とも言うので水銀の原料が「辰砂」と呼ばれている事とも関係があるのだろうか🤔

(中国の辰州で採れるからです😅☝️)

辰砂から採れる水銀は、大仏や仏具の金メッキの為に使用され、奈良の大仏建立時には、夥しい量の水銀が奈良へ運びこまれてきた。

仏教にはなくてはならない資源で、当時は水銀が金や銀よりも価値があった事もあり、どこの寺社でも水銀を備蓄していた。

しかしなんといっても伊勢が水銀の有数の産出地であり、奈良平城京の仏閣建築の殆どを賄っていたが、それだけに留まらず、中国にまで輸出されていたほどの最大の産出地だった。

(水銀の産出国は、日本・中国・スペインと限りがあり古代では大変貴重なものでした🙄産出国にまで輸出するのは相当な需要と伊勢の供給量があった様で、伊勢は日本と言うより世界有数の産出地だった様です🤔)

 

伊勢神宮の社領から採れる水銀資源と、

仏教勢力の仏教建築の専門性と、双方が合わさり奈良の仏教建築は可能となっていたので、双方の立場が拮抗していたのはそうした理由もあったのかもしれない、🤔

 

「製鉄を制する者が国を制する。」

「水銀を制する者が国を制する。」と言われた事もあり、

 

石器から鉄器に替わった時代、

弥生時代~古墳時代(4世紀頃)に渡来した王族たちは、中央構造線上の鉱物資源が多く採れるエリアに「宮」を置き拠点としていた。

 

古代は祭政一致であり、古墳時代までは祭政はそれほど分離してなかった為、

 

「宮」=王宮のことであり同時に

「宮」=神の坐す場所でもあり、

当に神宮と呼ぶのに相応しい王都だったのではないだろうか。

 

ちなみに四国の中央構造線上には古代の鉱山はないので、神宮もない。

中央構造線上では鉱物由来の拠点はヤマト王朝のあった紀伊半島(ヤマト水銀鉱床)に集中していて、他は必ずしもそうではないのだ。

 

関東・九州の中央構造線に至っては地中深くに埋もれていて実際は何処にあるかは確認できておらず、やはり四国と同様に大地の恵みへ手がとどかないエリアだ。

 

例外的に、宇佐神宮のある九州東端の大分には別府金山・臼杵丹生郷などの鉱山(香久山)があり、四国東端には安房水銀鉱床があり、天照大神の葬儀を行ったという伝承がある八倉姫神社がある。

関東西端の武蔵野国一の宮の氷川神社がある埼玉県は、「地球の窓」と言われる程の地下資源が豊富で、奈良時代の和同開珎~昨年閉山した秩父鉱山まで、日本有数の鉱山が多いエリアであり、丹生の採集も古くから行われていた様だ。

 

しかし、関東の香取神宮、次いで鹿島神宮などは「王の宮」ではなく⚔️東征した物部氏や🧿平定した中臣氏の拠点だった様で、

中央構造線上に建立というよりも、東日本平定の為に最東端の岬から上陸し、拠点を構えたと言うだけなのかもしれない。

 

(たまたま突き出た最東端と構造線エリアが重なったのは、フォッサマグナでへし折られた時の影響も関係あるのかも?しれないが…)

 

弥生時代の初期に渡来してきた

農耕民族は、天の恵み「レイライン」上に宮を置き

弥生~古墳時代に渡来してきた

製鉄民族は、地の恵み「中央構造線」上に宮を構え栄えた。

と、言った感じではないだろうか。🤔

 

諏訪大社のある信州エリアについては書くと長くなりそうなので割愛する。単に製鉄や農耕、中央構造線と言った視点だけでは覗い知る事のできない、日本の中でも稀な伝統とヤマト族とも違う民俗性が残る特殊なエリアだ。

 

最後に、幣立神宮がある熊本は謎としておいていきたい。😌

 

次回、奈良時代の最終章へ続く…

 

✨✨✨✨✨✨✨✨

長い話を、最後まで読んで頂いてありがとうござました。🙏

(古墳時代の須恵器「はそう」)

水銀を丹生からエア・リダクションで抽出する為の蒸留器。小型のものは祭祀用で全国から出土している。


Ⅰ.奈良時代の謎【法王と天皇】対立の真相

2023-07-29 | 古代ミステリー

今回は古代ミステリーロマンの投稿です。

✨✨✨✨✨✨✨

前の投稿で紹介した『水屋神社』は、大和の国と伊勢の国の国境に位置していて国分けの伝承が残されている。

水屋神社は春日大社の「行在所」だったとされるが、行在所とは天皇が皇居から出て滞在する時に使う「仮宮」のことで、「平城宮」の行在所なら分かるが何故、春日大社だったのだろうか?

✨✨✨✨✨✨✨

今回はこの⛩️春日大社や水屋神社が創建された奈良時代の世界を、より古代ミステリー的な視点から異説を唱えてみます。

興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

【奈良時代の真相】

神仏習合の時代(神が仏教神にかえられ、神社が仏教の配下に置かれていた中世独特の宗教時代)春日大社は興福寺下に置かれていた。

 

春日大社や水屋神社ができた奈良時代は、仏教勢力が力を強めてきた時代であり、どんな世の中だったのだろうか?

 

1300年前にタイムスリップしてみて🛸🛸、当時の様子を窺っていく。

 

まず、奈良の前の飛鳥時代は、天武天皇が「天照大神を始祖神として、その子孫の天皇家を日本人が崇める」という宗教政策を考え実施していた。

天武天皇は、それまでクローズアップされてこなかった天照大神や神武天皇の存在を持ち出して自軍を鼓舞し天智天皇系の勢力に勝利した。

 

そして伊勢神宮の社格を日本一に高め、初めて「天皇」という王号と「日本」という国号を使った。古事記・日本書紀の編纂を命じ、天武天皇の跡を継いだ持統天皇は、「日本」という国号で初となる遣唐使を送り時の中国皇帝に「もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本と呼ぶように。」と言わしめた。

 

天皇を頂点とした日本の礎の時代だったが、その後、奈良時代になると藤原不比等(一説に鎌足に託した天武天皇の隠し子と言われている)がその事業を継承し、天皇を中心とした律令国家は固められたかと思われた。

しかし不比等の死後、権勢を誇っていた不比等の一族らが一斉に天然痘で亡くなると、権力の中心は仏教勢力へとって変わられた。

(天然痘は流行ってはいたが、一斉に亡くなるのは古代では暗殺の偽装とみる向きがある🤔)

 

藤原氏というと、天皇家を凌ぎ権勢を欲しいままにしてきた様に思われがちだが、それは奈良仏教の勢力から天皇家が逃れ「平安京」に遷都した100年後以降のことで、当初は天皇の支えとなり(天武系)、日本の天皇制と公地公民を守り天智系に対抗していた。

しかし、結局藤原氏を抑えて権力を欲しいままにしたのは仏教勢力だった。生まれたばかりの日本の公地公民制は、これによって破られたとも言える。

 

私達が歴史として学ぶ時は、天皇側は苛政を行い弾圧した悪玉で、僧・行基など奈良時代の仏教者は民衆の為に布教し開墾という社会事業を行ったヒーローの様に語られていることが多い。これに疑問を持ったことはなかった。

しかし、行基以来、国土開発は国家主導から仏教主導の世界へと変わってしまった。

 

仏教伝来後二百年が経ち、律令体制下では既に神仏両派が対立した時代ではなかったが、仏教勢力同士の新旧対立へと時代は動き始めていた。朝廷側は、布教を禁じる事までしなければならない程、新興勢力の行基らは僧業を超えた活動家だったのだ。

 

 

【布教という名の私有民化事業】

天智天皇系の長屋王が実権を握る様になると、開墾地の私的な所有を三世に限り認めるという「三世一身法」が施行され、大がかりな開発事業を行う行基らは私有地の開墾民達から多額の資金を集められる様になり、奈良仏教は堂々と巨万の富を蓄えていった。

国の田畑でさえ布教の後は私有地に変えられてしまい、ついには大仏を建立できるほどにまでに財を成し、行基は旧仏教者らを追い越して日本で初めての大僧正の位にまで昇りつめた。

 

国民は税は払わず、行基に資金を払い、平城京遷都の役務だけで終わったはずの国民も、千を超すとも言われる寺院や大仏の建立の使役に駆り出された。奈良仏教勢力の前に天皇家は言いなりであり「天皇は仏教の下僕である」事を宣言させられ、もはや政策者が仏教を利用するのではなく、仏教者が政策の実権を握っている世の中となっていた。

 

その後「墾田永年私財法」によって開墾地は永遠に免税となり、仏教勢力は開墾民から永遠に私税を得ることが可能になってしまった。布教による出家信者の増加は、開墾した広大な寺領で耕作を行う私有民の増加であり、即ち国民の減少でもあった。

墾田永年私財法ができた理由は、

三世一身法だと『免税期間が過ぎると開墾した田畑が放棄され耕されなくならから、永遠に免税にした』と言う。

本当にそんな事があるのだろうか?

農民自らが、自分達が汗を流して開墾した田畑を『税金を払いたくないから』と言って放置する事などない。

農民の一揆なら分かるが、
農民のストライキなど、飢え死にしてしまうだけではないか😳💦

日本人の生存を可能にしてきた、定住型農耕社会では有り得ない事だが、

免税目当てにそれを可能にしてしまう程、耕作人をコントロールする大きな力が働いていたのだろう。

 

開墾と抱き合わせて行われる布教という名の私有民化事業によって事実上、かつての和国の部族連合国の様な「私有地・私有民時代」のへの逆戻りとなった為、日本国の公地公民制は早くも崩れた。

 

 

【法王と天皇のせめぎ合い】

奈良仏教の法王・僧道鏡の時代になると勢力はピークに達し、とうとう天皇の位を譲れと迫る様になった。仏国土(仏教国化)を掲げる奈良仏教としては、法王が国王の地位を狙うのは当然のことである。

天皇を頂点とする日本国から、

法王を頂点とする仏教国日本へ、

実質支配だけでなく、ついに天皇という位を奪うまで、道鏡はあと一歩という所まで迫っていた。

天武天皇系は最後まで天智系に皇統を譲る事に抵抗していた為、利用され力を削がれながらも苦肉の選択で僧・道鏡に譲位しようとしていた様だが、伊勢神宮と並び天皇家の第二の祖廟である九州の宇佐神宮の存在により、土壇場で道鏡に皇位を譲位するには至らなかった。

 

春日大社や水屋神社が造られたのは、この頃の事である。天皇側は失速しつつも結局皇位を保ち仏教勢力に王位を譲ることは無かったが、仏教勢力をどうにかすることも出来なかった。藤原氏の生き残り達も、この頃は仏教勢力側についていたと思われる。

 

当に

天皇側・伊勢神宮と、

法王側・興福寺の勢力がせめぎ合い拮抗していた時代の真っ只中だった。

 

天皇側は様々な妨害に合いながらも、何度も奈良から脱出しようと遷都を試み、ようやく京都の平安京に遷都して新政権を開いたのはこれから20年以上経った後のことだ。

 

天皇は君臨しつつも、天武天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、または村上天皇の様に時代を切り開いた天皇以外は律令国家以降、自ら政治を行ったということがあまり無い。後醍醐天皇の様に天皇の政治に戻そうと言う戦いは失敗に終わっている。

天皇主導の時代は黎明期の飛鳥時代だけで、奈良時代は最初に天皇側が脅かされた時代だった。

そしてその仏教勢力の時代の後は、貴族の時代、武士の時代へと国家権力の中心は移り変わっていった。

 

伊勢神宮の領域と、興福寺の領域と、国境を分けた神話と共に、

水屋神社周辺には、珍し峠や水屋神社の楠と杉の和合の樹など

かつての領地のせめぎ合いを、景観までもがそれを物語っているかの様に残されている。

『珍し峠』

 

『楠と杉の和合の樹』

 

長い話しをお読み頂きありがとう御座いました。

✨✨✨✨✨✨✨

 

次回は、【日本の中央構造線上には何故、神社が多いのか?】

水屋神社が、日本列島を横切る中央構造線という大断層の上に祭られていることから、その秘密を解き明かしていきます。


Ⅲ.七福神「エビス」様と古事記の向こう側・古代ミステリー最終章

2023-07-20 | 古代ミステリー
  1. ✨恵比寿さまの

3回シリーズの古代ミステリーロマン

最後の投稿です🙏興味のある方は ご覧ください。

 

【古事記の向こう側へ🚀】

今の日本には、150年前の明治時代の宗教政策の影響がまだ色濃く残っている。

当時は、政教一致を掲げていて、

「日本は天照大神を始祖とする神の国である。」

古事記・日本書紀は全て史実である」という教育が行われていた。

 

ヤマト以前の歴史は

「日本人とは関係の無い、野蛮人がいた時代」と、教えられていたそうだ。

 

戦前までこれが続いてきた。しかし、21世紀に生きる私達が、今更これを鵜呑み信じる訳にもいかない。

 

DNA解析により私達の祖先は縄文人と弥生人の二重構造とされているが、その祖先である弥生人達が、どこの国から渡来してきた民族なのかさえ、未だに解明されてはない。かつての様に神話の世界に逃げ、ヤマト開闢以前の日本の姿を知ろうとする探究心を押し止める事などもうできないのだ。

 

古事記に記されている文字を額面どおり読むのではなく、制作者側に立った意図を読み取ろうという試みは一部の市井の間では研究されているが、それらは正史ではないので古代ミステリーと言われている。

 

中国や韓国などでは、史書の中で比喩的に表現している文章や隠語を読み取る(讖緯説など)こと等ザラにあるが、日本ではまだタブーになっている様にも思える。なので、あえて説域を広げていく為に、より古代ミステリー的な視点から思いっきって異説を掲げてみる。

 

✨✨✨✨✨

【ヤマト王朝以前の日本の姿】

ヤマト王朝は、三世紀頃から始まったと考えるのが一般的らしい。では、それ以前の前王朝は、どの様な国があったのか。

 

「和国100余国の大乱」と魏志倭人伝にある様に小国が多く、統一された王朝はなかった。

 

それぞれの部族や小国は戦っても相手を完全に武力破壊することなく、平和的な婚姻合併策をとり連合国となって勢力を強めていった。お互いの王子と王女を婚姻させて、生まれた子を王にした。

しかし、古代和国は伝統的な女王国も多く、男王国と女王国の合併の場合は、女系男系の嫡系対立が生じる。瀬織津姫などもその様な困難は遭遇したかもしれない。

 

古事記を額面どおり読まず、イザナミ・イザナキの「国生み神話」を比喩的な表現の物語として秘められた弥生人たちのストーリーを探っていく。

 

夫・イザナギと妻・イザナミの「国生み」とは?

 

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古事記に記される『日本神話』

天御柱でイザナギは左から、イザナミが右から周り出会い、イザナミの方が先に声をかけて二人は結ばれた。

第一子のヒルコが生まれたが、柔らかく3年経っても歩くことができなかったので、ヒルコは神(王)には成れず船に乗せて流された。次の子も神(王)となることはできず、

 

「女の方から声をかけたので失敗した。今度は男が先に声をかけよう」と二人は合わさり直した。すると今度は上手くゆき、次々に国を生み出していった。

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「女性の方から先に言い寄った為に失敗した」

 

これは女王の方から男王に嫁入りするという男王国家は基盤が弱く、失敗したという事だ。

 

男王国と女王国の婚姻合併は3年経っても基盤が定まらず、日本列島の進攻もままならなかった為、和国の伝統に従い、逆に男王から女王に婿入りするという再合併を試みた。

 

(逆もあり得ると思います…何れにせよ男系・女系の紆余曲折の時代🤔)

 

男系のヒルコ=王子・男王は世襲せず

女系のヒルメ=王女・女王の国としたところ、軟らかかった基盤が固まって四国から九州へと国生みの歩みが始まったのだ。

ヒルメは女王となり、大ヒルメと呼ばれた。

なので、国生みが続いた四国・九州には「大ヒルメ」の伝承が多く残されている。

大ヒルメ=女王は、後に天照大神ともいわれる様になり、また卑弥呼とむすびつける考えもあり、和国原初の女王国時代の代表的な存在となった。

 

室町時代になり、エビス様という福の神の名で、

ヒルコと出雲の国譲りの事代主という神が、同じ神様として祭られた。

 

なぜ室町時代の人々は、この国生みと国譲りの神を重ねたのか?

 

イザナギ・イザナミは、小国で混沌としていた西日本の多くの神(王)たちを二人の配下にしていき、部族連合国は拡大したが、最終的に黄泉の国(出雲)のイザナミ軍と、常世の国(新羅)のイザナギ軍は武力激突している。

日本書記では、イザナギ・イザナミ二人の仲を取り直したのは、(新羅の)菊理姫とされているが、古事記に登場せずに日本書記に記されているあたり、後世になり二人を祭った子孫なのではないかと思う。戦いは痛み分けとなったが、

 

イザナミ→スサノオ→大国主→事代主と代を重ねた後、

男系女系の嫡系対立の最後の争乱が、出雲の国譲りだったのではないだろうか。🤔

 

出雲の国譲りは、天孫族が出雲に進攻してきて出雲族より国を譲り受けたという日本神話でのエピソードだが、天孫族同士の内乱ともいわれている。

出雲の大国主・事代主(エビス)は船に乗って去っていき、この時、天孫族の嫡系が移ったのかもしれない。これを境にヤマト族の国権は女王から男王の系譜に移り、男系国家へと徐々に変貌していった。

 

この後も形式的であったにせよ、新たな王や支配者は必ず前王朝の王女に婿入りするという、伝統的なやり方で王位と国を譲り受ける婚姻合併は和国に長らく残っていた。

古代和国では、職業軍人は存在せず(将軍くらいで)兵士の多くは農民だった為に、戦に勝ったところで武力支配が継続出来なかった為、平和的な合併策がとられたのではないかと思う、🤔

 

西宮には、事代主だけでなく武南方や瀬織津姫など天孫族側ではない神々が多く祭られている。

 

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戎(エビス)が日本で神として祭られた頃は、南朝の後醍醐天皇と、北朝側の足利氏との間で半世紀に及ぶ対立があり、分裂王朝の時代が続いていた。

最終的に足利氏側が勝利したが、新興の足利勢力は、南朝の味方であった旧寺社勢力に宗教的に対抗する為、新たな信仰勢力を生み出す必要があり、明との貿易で輸入した新たな神々を使って、旧来の仏教でも神道でもない、

『七福神』という外来種の神々への信仰を生み出していったのかもしれない。

 

そして、中央からすれば「戎」という蔑称で呼ばれた者達だが、実は民衆の側にはエビスとは呼ばず、元々「エピスさま」と敬服し親しんでいる人々がいたのだ。

 

何故、民衆には土着的なエビス信仰があったのか?

 

中国の西方にいた異民族「西戎」とは、勇猛な遊牧民族のことを指して言う。遊牧民族の多くは母系国家(ハラ)で、中国は男系国家(ウル)であった為、中国人は習俗の違う彼らのことを野蛮であるとして戎(エビス)という蔑称で呼んでいた。(犬戎、西戎など)

 

6~7世紀頃、エフタル族、突厥族など西アジアでの争いに敗れた遊牧民族らが、馬を駆り戎服(軍服)を纏ったまま北アジアのステップロードを抜け、民族(ペドウン)の大移動を敢行し朝鮮半島、日本列島へと逃げ込んできた。

推古8年(600年)

「43万の異敵が襲撃してきた」

戎人8千人が筑紫から播磨の明石まで至った」などと史書にも記述が残る。

 

 

エフタル族が日本列島に上陸すると、ヤマトでは彼らを恐れて一時は王権を継ごうとする者が誰もいなくなってしまった程だ。やがて欽明天皇が没した後、エフタル族は勢いを失い東日本へと去っていった。

次に渡来した突厥族は、明石を拠点として難波を押さえ奈良まで進出したが、聖徳太子の死後は勢いを失い多くは関東へと去っていった。

 

西アジアから渡来した彼らは、在来のエミシと区別され、外来のエビス(戎)と呼ばれた。

(あくまでヤマトからみた外来で先住者にとってはヤマト族も外来種だが🤔)

 

戎と呼ばれた人々が中央から東国の野に下った後でも、彼らと共に渡来してきた人々の子孫や恩恵を受けた者達が、「エビスさま」と親しみを込めて呼び陰ながら祀っていたのかもしれない。

製鉄、馬術や馬飼い、弓術など大陸渡来の恩恵に恵まれた人々は少なからずいたはずだ。そして、日本に弥勒信仰を伝えたのも彼らだった。

 

西アジアの勇猛な戦士たちの子孫は馬術弓術に優れ、蔑まれながらも東国で力を蓄えていき、ついには武士の時代をきり開いた。坂東武者は、戎の末裔だったのだ。

 

武士の世の中となり、エビスさまを堂々と祀ることが出来る様になった民衆の信仰と、

新しい宗教を頒布しようとする幕府の宗教政策の思惑も重なり、

ついには神となった戎(エビス)を恵比寿(エビス)様という福の神の呼び名にして広めて、外来の神々と合わせて「七福神」という新しい信仰がはじまった。

 

三福神、八福神など紆余曲折があった福の神信仰には、頒布する側の試行錯誤の思惑があったのだろう。インダストリアル宗教プロデューサーは必ずいたはずだ。

室町は貨幣経済と市場が過去最高に発達した時代でもあり、福の神や商売繁盛の神も最も時代に適っていた。

 

天皇の治世から、武士の治世へ変わり、

仏教神、皇祖神、
沿岸部に祭られる御霊信仰の
スサノオなど、それら過去の信仰対象は一切除いて、

中国の道教の神々まで取り込み、

神(王)になれず船で流されたヒルコと

国を譲り船で去っていった事代主と

東国へ去った、エビスと

沿岸部の信仰が習合され、

大国主など出雲系の神も大黒さまとして再生させて、

『七福神』が生み出された。

かつての仏教神、皇祖神が宗教界の主流派だとしたら、エビス神らは

野党連合政権といったところだろうか🤔しかし、マーケットはこちらに反応した。

港や市場はこの『福の神』の信仰と共に流通経済が発展し、ついには座(ギルド)という同業者組合まで発生した。

呪いや祟りなど呪術的な教化が蔓延した前時代を暗黒の中世と言うならば、なんとルネッサンスな世界だろう。日本の伝統芸能が花開いた時代でもある。

怨念という、前時代の負の植え付け型宗教を払拭しただけでなく、

商売繁盛という御利益の教化と、経済成長が同時に進行したというのは、

日本の宗教政策史上、極めて稀有な時代だ。

 


エビス様は、ヤマトの世で陰ながら祀っていた人々だけでなく、ついには日本の伝統的な信仰にまでなった。

 

 

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かつての女王国や母系国家とは、この様な世界だったろうかと思うほど、

 

西宮は全体が母性的な優しさに包まれている様に感じた。✨

 

時代を超えた福の神の歴史と、

福の神の福徳が溢れている。

 

次は、今宮戎神社にお参りしてみようと思う。

 

3回シリーズ・古代ミステリーロマン「エビス様の真相」

 

長い話を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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✨古代ミステリーロマンは、あくまでも読み物です🥸🤟