聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

出雲大社の界隈⛩️Ⅲ

2024-03-19 | 古代ミステリー

今回はパワースポットではなく、

古代ミステリーの投稿です。

 

【スサノオの墓】
出雲大社から車で30分ほど。稲佐浜から海岸線を北上する。


日御崎神社方面、隠れが丘と言う地にひっそりとある。

鳥居をくぐり、暫し緑の参道をゆく。

 

 

スサノオ様の神魂がいつき祀られるところ。

 

 

もともと、美佐伎神社と言い日御碕神社と合わせ

⛩️『日御碕大神宮』と称せられていたのが、

明治時代に日御碕神社に改名されたらしい、、

 

 

【日御碕神社】

 

 

スサノオの墓については奈良説もあるが、出雲ではまずこちらが候補にあがる。


日本神話ではスサノオは、
高天原(新羅)を追放され出雲にやってきて、ヤマタノオロチに差し出されそうになっていた櫛稲田姫(稲田姫)と出会った。

 

【稲田神社】

稲田姫の生誕の地に祭られている。

島根県仁多郡奥出雲町稲原2128-1

 

スサノオはヤマタノオロチを退治して姫を守り、二人は結ばれてスサノオは出雲の王となった。

⛩️出雲大社も、スサノオに命じられた大国主が建てた宮であり、古代出雲の起源はスサノオ無しでは語れない。

 


【八重垣神社】
スサノオが櫛稲田姫をかくまった場所に祭られる

 

 

【須我神社】
スサノオと妻・稲田姫と結ばれた神社

〒699-1205 島根県雲南市大東町須賀260

日本の宮

 

スサノオが稲田姫に詠った

日本の和歌。

 

古事記では、スサノオは出雲の王になったと記されるが、

通説では、スサノオは初代『大国主』になったとされている。

出雲は、
方々の国々と婚姻合併を繰り返し連邦王国となって勢力を拡大した国であり、

出雲連邦王国の盟主の事を

『大国主』と言う。

 

 



四方を海に囲まれた日本列島では、

『海峡を制する者が日本列島を制する』

と言われた程で、

日本海の制海権を持てるかどうかが、
地上の支配にも大きく影響していた為、

日本海側にこうした連邦国ができるのは当然の成り行きだった。

 

朝鮮半島から日本列島へ向かう船は、
リマン海流で南下し対馬海流と合流すると、海流に乗って日本海沿岸の何れかに到着する事になる。

 

この日本海沿岸ラインの国々が、大国主により結ばれて連邦国となったお陰で、着岸地である出雲や越の国の人々は、大陸側半島からの最新式の武器や技術を手に入れられる恩恵を授かっていた。

出雲はその日本海勢力の中心国だった。

大国主(出雲連邦の盟主)と
 
九州の多紀理姫と湍津姫、

新潟の奴奈川姫、

東西との婚姻による大型合併がかなった事で、

九州→朝鮮半島

朝鮮半島→日本海沿岸の

海上ルートは、確実で強固なものになった。

 

 

 

八千矛神、大己貴命、大穴牟遅、宇都志国玉、葦原醜男、など

大国主命には沢山の名がある。

これは大国主命とは一人の人物の固有名詞ではなく連邦の盟主をさして言う王号であり、初代大国主のスサノオの様に、幾人かの王たちの呼び名ではないかとみられている。

大国主命には70人以上の兄弟と、150人にも及ぶ息子がいることからも、
一人の人物ではなく、歴代の人物と思われる。


最後の大国主命が、
天孫族に対して出雲を譲ったと言う
『国譲り』の場所。


出雲大社の西、稲佐浜の近くにひっそりとある。

 

出雲連邦王国は大和王朝に先駆けた前王朝である為、

大和王朝の歴史書である日本書紀には記されず、

古事記の神話の中に描かれている。

 

その描き出しは、征服王朝らしい正当性で勇ましい書き方をしているが、

出雲から大和へと、政権が譲られた

「出雲の国譲り」とは、実際は、

同族・同盟の中のお家騒動であり、嫡系争いによるクーデターの様なものだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 


出雲大社の界隈⛩️Ⅱ

2024-03-09 | パワースポット

【出雲大社】素鵞社
(そがのやしろ)

出雲大社本殿の裏にあるスサノオを祭る神社。

「スサノオの御砂」で人気の裏スポット。

稲佐浜からとってきた砂をこちらの社殿の下まで持ってくると、社殿の下にある砂を御守りとして持って帰ることができる。

稲佐浜は、出雲大社から西へ徒歩15分ほど。

稲佐浜

まずこちらへ参拝し、足もとの砂を頂いて出雲大社へお参りをしてから、

その裏側にある素鵞社にお参りして御砂を頂く。



【杵那築の森】
大国主命の住居跡地。

神々が集まりここに大国主命の住まいを築いた事が「杵築」という地名の由来になったらしい。

もともと出雲大社も古来より、

『杵築大社』

と言う社名だったが、明治時代になり出雲大社に改名された。

なだらかな参道を下ってくると右手に開けた場所があるが、杵那築の森はその縁にひっそりと鎮座されている。



【御柱の跡】

大国主命はヤマトでスサノオと出会い、スサノオの娘スセリ姫と結ばれ、
『十種の宝』を手に入れた。

「お前は出雲に行き、兄弟たちを退けて大きな宮を造り大国主命となれ」

と、スサノオに命じられ、

天にも届く様な巨大な宮を造った。


20世紀になり、出雲大社の境内から直径 3mの巨大な柱の跡が発見された。

三本の大木を鉄輪で合わせ一柱の柱としていた。

最大のもので直径 6m、

出雲大社宮司の千家国造家に伝わるとおりであり、

出雲大社は15階建てに匹敵する

高さ48メートルにもなる巨大な建築物だったことが分かった。


古代では96mあったと記され、世界最大の木造建築だったようだ。


スサノオはその後、ヤマト(奈良県)で亡くなったとも、

最後は娘夫婦がいる出雲に行ったとも云われている。

最後まで御覧頂きありかどうございました。


✨✨✨✨✨✨✨

Other shot


…次回は、スサノオのお墓へ。


出雲大社の界隈⛩️Ⅰ

2024-03-02 | パワースポット

出雲大社摂社【命主社】⛩️

 

出雲大社の境内にはなく、境外の右奥にある。

 

出雲大社の銅鳥居をくぐらずに右手の社家通りを行くと、最奥にある密かなパワースポット⛩️✨✨✨

⛩️右折→

 

御祭神 神産巣日神(カミムスヒ)

大国主命の命を救った神。


樹齢千年の名木

 

 

社殿の裏に巨石があった場所とされる真名井遺跡があり、その奥の竹林に磐座が鎮座している。

 

諏訪のミシャグチ信仰の様に、

祠と木がピッタリ寄り添っている。

 

⛩️出雲教【北島國造家】

出雲大社は、 

本殿に向かって左右にある  

左・出雲大社教(千家国造家)
右・出雲教(北島国造家)

と、

中央の出雲大社と、

合わせて三組織が祭る神社がある。

 

【千家國造家】

 

出雲大社と命主社の間にある

『北島国造館』は静寂なスポット✨

 

 

 

結婚式も行なわれる。

 


北島國造館内の亀の尾の滝

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

出雲大社の宮司は、代々、天穂日命の子孫である出雲国造が務めてきたが、
南北朝時代(700年ほど前)に、千家(左側)と北島家(右側)に分裂した。


紆余曲折ありの出雲大社は、

日本の宗教政策史上、極めて興味深い神社だ。

明治時代の「政教一致」と言う宗教政策では、日本は神国であり天皇は神の化身であるとして、明治政府は様々な取り決めを行ってきた。

 

神官の布教を禁止し、全国の神社は神社本庁の包括下に置かれ、伊勢神宮の天照大神を拝み、出雲大社の大国主命は遙拝されず、出雲大社も神社本庁下の神社となった。

しかし、出雲大社の神官らはこの支配からは離れて、千家國造家と北島國造家は、それぞれ別の宗教法人として独立した。

それが

⛩️出雲大社教

(出雲おおやしろ教と読む)と、

⛩️出雲教だ。

 


戦後は、GHQの宗教政策の影響を受け
出雲大社と出雲大社教は統合されたが、


本来、

宗教と信仰は別物であると言う事、

宗教とは民衆に広布する政策的なものだったと言う事が、歴史を通じて感じることができる。

 

 

出雲は、

近代の宗教政策のみならず、

武家社会、貴族社会、

部族社会の時代を超え、

古代、神代より古くから続く聖域で歴史が深い。

伊勢神宮に祭られる天照大神の一族に先駆け建国していた超古代国家であり、

国譲りで、国権を移譲しつつも神権だけは残り連綿と続いてきた。

 

出雲に坐される神々は、

弥生時代より長い間

日本列島の変遷を見守り続けてきたのだろう🌌

声が聴けるものならば、教えを請うてみたい。

 

 

 

✨✨✨✨✨✨✨✨

最後までお読み頂きありがとうございました。🙇


GOD SAVE Theアース❄️風の岬【襟裳岬】

2024-03-02 | パワースポット

「やはり、今年は雪が少ないですか?」

「いつもは、毎週2〜3回は雪カキしとったのが、この冬はまだ3回くらいしかしてない」

襟裳岬の銭湯で居合わせた方に、話しを聴いてみると

こんな答えがかえってきた。

今年は、青森や北海道でも雪がなくて閉鎖するスキー場があった。

風極の地・北海道の襟裳岬でも、風が吹けば寒いが日差しが強く雪が溶ける。

風は冷たいが、陽射しの温かさは本州とそう変わらないのでは?と感じた。

真冬にフリース2枚で北海道を巡ったのも初めての経験だ。

何年か前、

「いずれ本州では温暖化により農作物が採れなくなり産業の中心は北海道に移るので今のうちに北海道の土地を・・・云々」等という話を耳にしたことがあったが、

本当にそんな日が来ることも、遠く無いかもしれない。苫小牧が首都?

今年2月20日横浜で25度を体験した。

それにしても、真冬に夏日って何なんだ…?!

気温も異常だが、それより

異常気象に対する危機感の無さを異常に感じてしまうのは

私だけだろうか、、

『SDGsは大衆のアヘン』とまで揶揄される様にまでなってきたが、

そんな言葉に酔わされたとて、このままでは持続可能な未来は難しいのかもしれない。

毎年ごとに、春一番の様な強風の日が増えている様にも感じる。

温暖化もただ暑くなるのではなく、

寒暖差と強風に揺さぶられながら進行していく。

この日の襟裳は、強い台風並みの風速43メートルが吹き荒れた翌日で、襟裳岬周辺は、ゆうにダフルオーバー(4~5m?)はありそうな波が寄せていた。

冬の北海道では、スノーボードよりも

サーフィンの方が人気になるという日もやがてやってくるのかもしれない🌊

しかし、そんなことより地球は大丈夫なのか??と🌏

襟裳は、本当に何も無い😂

と思ったが、そうでも無かった♨️

ラジウムのお風呂を見つけて寄ってみた。

銭湯なのか温泉なのかよく分からない。

お爺さんが1人浸かっていたが、

「垢がたくさん浮いてるから今、溢れさせて流してるところなんだよ」

と言う。😅

(それって家庭のお風呂でやるやつじゃないか😂)

確かにたくさん浮いている。😱きっちゃない風呂だ!(てか湯の花?)

お爺さん、自分の周りの水面を手でかきはじめて

「そっちの方に流れてくから、かいて流してくれる?」

と言うので、

「分かりました」😂

と、私は流れてきた垢らしきものを湯船の淵に向かって流しはじめた。

いきなり

見知らぬ爺さんと二人、

アカ取りをしていると言う謎の展開🤣🤣

面白すぎる🤣

しかも、アカは

なかなか無くならなくて、上がるに上がれないまま

たっぷり浸かってしまった💦

オープンなお爺さんのおかげで、

全く遠慮はいらず

温まってゆく事ができた。♨️

なんか、歌の歌詞のとおりになったみたいだ😌

風が吹きすさぶ襟裳だからこそ、温かい。

✨✨✨✨✨✨✨✨

最後まで、ご覧頂きありがとうございました🙏😌

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話しは変わって😌脱未来へ、

2ヵ月ほど前、

稲の多年草化プロジェクトで

斎藤幸平さんという方の講演を聴く機会があったが、

最近になってその著書

「人新世の資本論」を読み始めた。

大きすぎて見えない事でも、確実に目の前の事から変わり始め、

自然の恵みと共にある日本の農業は

新しい未来へ歩み始めている様に思えた。


皆神神社の界隈と「不思議な松」

2024-02-22 | 古代ミステリー

皆神山ピラミッドの投稿で紹介して以来、10年ぶりになる。

長野県の皆神神社と、その周辺の投稿。

 

雰囲気もなんとなく変わった。皆神神社を囲い込む様にあったゴルフ場はなくなった様だ。

 

⛩️侍従神社  

 

 

⛩️少彦名命

 

預言の的中が未だ有名な近代の宗教家・出口王仁三郎(大本教)の印象が強く残るあやしい感じはなく、小綺麗な石碑がさりげなく整備されていた。

 

 

開放されて広々とした、空気感が清々しい。

 

 

以前はゴルフ場だったので、裏手から観ることは出来なかったが、

木花咲耶姫が祭られている奥宮は、小さな古墳の様にもみえる。

 

 

 

 

ご祭神 木花咲耶姫を祭る⛩️浅間神社

鳥居の神額には「三国第一」と書いてある。

 

木花咲耶姫は山の神「大山祇神」の娘で富士山の神様。

山梨県の富士新倉浅間神社からの勧請だろうか。

 

「三国第一」をかかげる

富士新倉浅間神社

 

 

【小丸山古墳】

 

頂上の皆神神社から少し下ったところにある。

古墳時代中期の古墳で、このあたりの王の古墳と目されている。

古墳の上には、

大山祇神がひっそりと祭られていた。

 

 

 

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飛鳥時代、西暦645年の大化の改新で、蘇我氏の蘇我入鹿・蘇我蝦夷が倒された後、蘇我派であった古人王(古人大兄皇子)は、身の危険を感じ、

半島への亡命を試み、長野方面から日本海側へ抜ける拠点があった善光寺を目指して逃げた。しかし道半ばで落命し、皆神山付近のどこかへ埋葬されたのではないかという説がある。

一般的には小丸山古墳が『古人王墓』とする説が通説だが、

小丸山古墳は古墳時代中期(約千五百年前)の古墳とされているので、

飛鳥時代(1350年前)の古人王の時代とは違う可能性もあり、古人を祭っている⛩️皆神神社の方が有力なのかもしれない。

 

 

皆神神社の他に、古人大兄皇子を祭る神社は寡聞にして知らない。

 

蘇我氏の甥にあたる古人大兄皇子は、王には即位してなかったとされるが、後に中大兄皇子(天智天皇)が古人大兄皇子の娘・倭姫を皇后にしていることなどから実際は王だったのではないかと云われている。

娘の倭姫に後を任せて出家までして逃げ様としていた事からも、倭姫は姫ではなく王女(皇太女)だった様子もうかがえる。

 

 

なんとなく古墳の様にも見えなくはない。

 

 

小丸山古墳の大山祇神と、

娘の木花咲耶姫を祭る皆神神社

父娘の祭祀は、古人王と娘の倭姫の存在を想起させられる。

 

 

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最後に…。

他に古人王が坐される処は無いのだろうかと皆神山の中を探し、何となく辿り着いた場所。と、『不思議な松』

 

 

なんとなく、、というよりも普通は辿り着かないと思われる場所。

 

 

地域の方が大切にしている聖地というか墓所の様なところだ。

不思議な松、

 

何が不思議かと言うと、

とある石塔を覆う様に斜めに伸びている。

周りの松の木と比べ、斜めに生えているが、

あり得ない角度で横向きに立っている。

 

 

一見して倒木の様にも見えるが、ちゃんと立っている。しかも、

先端は別段他の木に支えられていると言う程でも無い様だ。

何故、倒れないのだろう?

 

根に他の木の根が絡み支えになっているのだろか?

それにしても曲り方がおかしい🤔

 

通常、神木はあり得ない様な伸び方をする事は多い。

木の下には然るべき存在が眠られているのかもしれない。

しかし、大抵は支柱に支えられていて

支えもなく、自重で折れることもなく、

成長を続けている木は見た事がない。😳

不思議な松だった。

 


茨城県パワースポット【⛩️大洗磯前神社】藤原氏の時代

2024-02-07 | パワースポット

【大洗磯前神社】

茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890

⛩️御祭神  
大己貴命(大国主命)
少彦名命
 
縁結びの神様❣️と医薬の神様💊


 

文字どおり、

大洗海岸の磯の前にある神社。

水戸藩主・徳川光圀公(水戸黄門)
の命により今の拝殿・本殿が建造されたとの事。

本殿の、茅葺屋根の曲線美が見事😍

茅葺のこうした意匠は珍しい。 


  

創建の由緒は、

865年、


大己貴命・少彦名命が降臨し、
「東の海で国造りをしていたが、 
また民を救う為に帰ってきた」と言い
建立されたと言う。

⛩️摂社

△▼△▼△▼△▼△▼△


大洗磯前神社が創建された

865年は、

藤原良房により天皇の実権が握られ、桓武天皇以来、69年ぶりとなる国家祭祀執り行なわれた年であり、

この創建エピソードは、神社の社伝などではなく「文徳天皇実録」に残されている為、決して無関係では無いと思われ、

当時の中央と東国の関係を考える上では、大変興味深い。


藤原良房を恐れた政敵が、皇太子を東国へ逃がそうとしていた事から、

藤原良房は政変を起こし、皇太子を廃して自分の甥を皇太子にしてしまい、文徳天皇に擁立して実権を握った。

藤原良房は、

日本初の人臣太政大臣・摂政となり藤原氏の摂関時代を開いた大人物であり、

他氏や他藤原氏が排斥され、天皇の実権が藤原良房のものとなった真っ只中に、

大洗磯前神社が創建された事が日本「文徳天皇実録」に記されていると言う事は、常陸の国と天皇家(藤原氏)の関係からも深堀りしてみたくなる。

(🙄古来、東国と言うと鹿島神宮だったが藤原氏系の新たな拠点として刷新されたとか?)

当時は、国造(地方官)が神社の祭祀を掌握していた様な時代だ。

降臨されたと言う、大己貴命様と少彦名命様は、この頃より千年近く前の人物であり、実際には両神に投影される人物がいたのかもしれない🤔


常陸の国と言うと、

鹿島神宮がタケミカヅチを祭っているが、

北へいくと、50㌔間隔程度で

⛩️大洗磯前神社
⛩️御岩神社
⛩️国魂神社
⛩️いわき大國魂神社

と、大己貴命(大国主命)を祭っている
パワースポットが続いている。

まずは、いつかこの

大己貴命樣の四社参りをしてみたい。🙏⛩️

✨✨✨✨✨✨✨✨

最後までご覧頂きありがとうございました。


弥生時代の【金印】の謎

2024-01-31 | 古代ミステリー

【古代ミステリーシリーズ】

久しぶりの聖なる国 日本のユーチューブ配信です。

「金印」について。

約二千年前の弥生時代、日本は中国から金印を二回も授かっていますが、

これらの事は古事記・日本書紀など日本の史書には一切記されてはなく、

何故贈られたのか?? 詳しい事はよく分かっていません。

「日本がそれだけ認められていた国だから」では根拠がなく、

日本の何がそんなに凄かったのだろう?と疑問に思う方もいるかもしれません。

「国」とは言えないほどの村の様な小さな国の、竪穴式住居に住む人々に、

中国の皇帝が金印を送るほどの理由があったのでしょうか?

 

書籍版「聖なる国 日本」の方でも書いていますが、

九州の志賀島で発見された【漢委奴国】の金印は何故、

日本に贈られたのか??

可能性のある根拠について、探っています。視聴時間9.46分

興味のある方はご覧ください。

 

https://youtu.be/160smwMULk4?si=KxvIRXDIttMAyfOJ

 

〜 今回は、BGMを入れてみました。無料で使える著作権フリーのユーチューブ・ミュージックライブラリからのセレクトです。

単発の効果音と違って、音量のバランス決めるのが難しかったです。トークのボリューム10に対して、BGMは1/10ぐらいの音量にしてみました。

正解はあるのかな?

 


母娘で行きたいリトリートスポット✨耕三寺

2024-01-31 | パワースポット

広島県しまなみ海道🌊生口島『耕三寺』

昭和の実業家・金本耕三が、母の慈愛に報いようと昭和11年〜30年余りをかけて建立した浄土真宗のお寺。

全国の歴史的な古建築を模して建てられた堂塔が並び、

西の日光「母の寺」とも称せられる。

新しい寺院だからこそ、歴史的な粋の全てを纏めて建造する事ができる。

古い由緒はないが近代仏教的な世界観は、長い仏教の歴史を持つ現代人に近しい。


 


難しい仏教の教えを学ぶのではなく、

感じるだけで充分なスポット。

まるで魂の壮大なテーマパークの様だ。

 


本堂の右側に、『千佛洞』
と言う地下へ降りていく洞がある。

まずは、地獄絵図から始まり

「六道輪廻」
畜生道や餓鬼道など、人の道から外れたジオラマが続き、

人の道へと進んでいく。

更に進むにつれて、人の道の先には天界が展開され

千の仏さまが並ぶ。

順路は上がりになり、外から差す

光が導きとなり、昇天するかのように

登っていくと、外へ出たところで、

救世観音大菩薩さまが坐されている。 

人の世に生まれ、仏に導かれ、

魂の旅を続けてきた感じがする様な

拝観ルートだった。

 

これで、おしまいかと思いきや、ここから

『未来心の丘』へと、上昇は続いていく。

奥院?ではないが、寺院の奥にある

『未来心の丘』は、

広島出身の世界的彫刻家・杭谷 一東が、

「家族」をテーマに

12年の歳月をかけて2000年に完成した大理石庭園だ。

5000㎡の敷地に、3000㌧の大理石を使って

大小様々なモニュメントが造られている。  


未来の心象風景を、

家族をテーマに造り上げられた世界は、

イタリア🇮🇹やローマ、地中海を彷彿とさせる様な造りでありながらも、

仏界を経た人の心に染み渡る様な

不思議な世界だった。

 

最後は、頭頂に立つ『光明の塔』✨をくぐって終わる。

経典も偶像崇拝も無く、

ただただ仏に導かれた

光の道を辿る様に

光明の塔に至る。

✨✨✨✨✨✨

エーゲ海ではなく瀬戸内海ですけど、

何処にいるのか忘れるくらい不思議な世界でした。

 

 

この場所に、導いてくれた方に感謝✨🙏

 

『母の寺』

という事でしたが、家族や親密な人と行ってみたいスポット✨

 

入館料 1400円

ネットですと高いとの声もある様ですが、

気にはならないほど、心が洗われる様な場所でした。

 

🙄おデコが光っている ✨

 

耕三寺 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2


秦氏の古都『松尾大社』

2024-01-21 | パワースポット

【松尾大社】京都府京都市西京区嵐山宮町3

ご祭神

⛩️大山咋神 ⛩️市杵島姫(中津島姫命)

701年 文武天皇の勅命で、秦氏の拠点に松尾山の神霊が遷座され創建された。

 

秦氏の拠点、太秦(うずまさ)から車で15分程。松尾山の山麓に鎮座されている。松尾橋を渡ると正面に大鳥居がある。

 

794年に平安京が遷都された時は、秦氏は財産を投げうって都の造営にあたったという。

 

 

平安時代には「東の厳神、西の猛霊」と称され、松尾神社は西の王城鎮護社に位置づけられたが、

京都に都が遷される300年以上も前に秦氏が朝廷より賜った拠点であり、一帯は秦氏の古都とも言える様なエリアだ。

 

秦氏は、古代最大の渡来氏族で、日本列島に漢服・呉服の機織りや、養蚕を伝えた。

帰化した後はずっと大蔵省を務め、機織りや養蚕、干拓や製鉄などを伝えて全国に殖産を拓いてきた。

稲荷神社や八幡神社など、全国の神社の半数以上は秦氏由縁の神社だ。

 

御祭神の1柱である『大山咋神』はお酒の神様として崇敬を集めていて奉納酒が並ぶ。

 
 

【境内】

縁結びの松

 

上古の庭と神宝館

館内では、秦氏が崇敬するもう一柱の御祭神『市杵島姫』さまの木像や、秦氏の系図が拝観できる。

 

裏手の松尾山側にもひっそりとしたスポットがあった。

 

滝御前宮

 

丁度、御来光タイムだった。

 

✨✨✨✨✨✨✨

秦氏と言うと、メディアでは古代ミステリー的な表現で取り上げられている事も多いが、

こちらは、そうした喧騒からは離れ、

秦氏のリアルな軌跡を感じられるスポットだった。

 

付近には、秦氏ゆかりの古跡が多い。

 


三角鳥居で有名な、木島坐天照神社 

 

 

広隆寺(太秦寺)

聖徳太子(上宮法王)と、秦氏由縁の寺。秦河勝による。

 

 

 

⛩️大酒神社 

秦の始皇帝や弓月君を祭る

秦氏の拠点だけあって

古代の大陸から渡来した古族らしい、古跡が残されている。

松尾大社の周辺は、1日かけてゆっくり周りたい

古代日本を偲ぶスポット。

 

✨✨✨✨✨✨✨

最後までご覧頂き、ありがとうございました🙇

 


和歌山県【紀伊の国ノ宮】⛩️日前神宮・國懸神宮

2024-01-09 | パワースポット

和歌山県和歌山市秋月365

和歌山県を横切る中央構造線の近くに、鏡を御神体とする神宮が二社並ぶ。総称して『日前宮』とも。

珍しく短めの投稿です、、😌

 

 

 

左側⛩️日前神宮(ひのまえ神宮)
御神体🧿日像鏡

御祭神
天照大神(日前大神) 
思兼命
石凝姥生命

 

右側⛩️國懸神宮(くにかかす神宮)
御神体🧿日矛鏡

御祭神
玉祖命(豊玉神・天明玉命) 
天目一筒神
細女命

 

天照大神の岩戸隠れの時、岩戸を開く為に力を合わせた神々であり、

ニニギ命の天孫降臨の時には、
天照大神に命じられ同伴した神々が祭られている。

 

天孫族直属の鍛冶職人でもあり、
皇室と繋がりのある神宮の名に相応しく、
古事記の神話の世界と、日本書紀の現実の伝世品の世界を繋ぐ神々たちで、

鏡、勾玉を作った神々(鍛冶職人)

 

摂社

 

 

 

 

✨✨✨✨✨✨✨

御覧頂きありがとうございました。


辰年に行きたい🐉【龍の神社10選】

2024-01-01 | パワースポット

辰年【10選シリーズ】🐉龍の神社。

画像の投稿です。

 

1. 埼玉県『聖天宮』五千頭の龍🐉

 

五千頭の龍が圧巻の🐉龍づくしの台湾の神社。

台湾から宮大工さんらが来日し、15年の歳月をかけて竣工された。

 

 

 

2. 神奈川県⛩️箱根神社『九頭竜神社』

 

九頭竜神社奥宮 

 

平和の鳥居

 

 

3.熊本県⛩️神龍八大龍王神社

 

4.新潟県白山神社⛩️黄龍神社


白山神社の境内にある摂社




5. 奈良県⛩️室生龍穴神社 

 

ご祭神 善女龍王

 

 

6. 熊本県「幣立神宮」摂社・東御手洗池

 

 

7. 琵琶湖竹生島🐉宝厳寺八大龍王黒龍様

八大龍王様は中国からの伝来仏教の龍神様。

琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺には、八大龍王の一尊「黒龍」様が坐されている。

 

 

 


8. 長崎県「壱岐の島」龍光神社✨七本爪の龍

 

 

龍は爪の数によって神格が違う。通常は三本爪だが、中国皇帝は五本爪の龍を祭る。

こちらの龍はなんと七本爪。

 

 

9. 京都府⛩️籠神社奥宮【真名井神社】 

 

伊勢神宮外宮に祭られる豊受妃大神を祭る。

 

龍神を祭っている神社ではないが、狛犬のかわりに「龍」が迎えてくれる目珍しい神社。

 

 

 

 

10. 長野県⛩️『戸隠神社奥宮』九頭竜神社

 

本殿の手前にある九頭竜神社

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨

 

龍のいる📷Other Spot

 

🐉江ノ島神社

龍神さまは奥宮の奥に坐される。

 

 

🐉千葉県 玉崎神社⛩️五本爪の龍

有名な玉前神社より北に50㌔ほど行った所にある。

見事な五本爪の龍

 

 

🐉熊本県白川吉見神社🔮白川水源水晶館の竜

 

 

↓↓↓こちらは、行きたくても行けないかもしれない、、貴重な龍神さま。

🐉奈良県【八大龍王姫松明神】

 

奈良県の玉置神社に行く途中、密やかに坐されている。

 

 

 

🐉東京『金吾龍神社』

こちらは、マンションの一室にある。貴重な龍神さま。

東京都渋谷区代々木2-26-5バロール代々木510

お一人でされている様で、室内でもあり多くが参拝することはできない。

予約優先で、数時間待ってお参りできる場合も。

画像は、北海道金吾龍神社の龍がうねる様な枝。

北海道、最古の龍神と言われ東京に移る前は小樽に祭られていた。知る人ぞ知る神社。

今はもう閉鎖されていてお参りは出来ない様だ。

 

✨✨✨✨✨✨✨✨ 

龍は中国の伝説上の存在で、

八大龍王が、北伝
九頭竜様が、南伝
と、言ったところだろうか🤔


南方の香港九龍城や、九龍半島などで使われている様に、「九」は中国では縁起の良い数字。

八大龍王は、 
インド仏教の蛇神が中国に伝わり、中国人が蛇神を全て龍神に変えてしまった事で生まれた中国仏教の守護神。
 
日本でも「蛇神も龍神も同じ」として一緒にしてしまう考え方もあるが、  

インドでは、蛇神はどこまでも蛇神であり、龍神と言う発想はない。

中国も、仏教の八大龍王を除けば、

蛇神は蛇神、龍神は龍神で、

辰年、巳年、とある様に龍と蛇はきっちり分けている。

来年巳年には、蛇神特集を投稿してみたい。

🐍いよいよ還暦だ💦

 

最後まで御覧頂き、ありがとうございました。

🙏

 

山口県岩国市『白蛇神社』

2023-12-29 | パワースポット

【岩國白蛇神社】⛩️

山口県岩国市今津町6-4-2

 

ご祭神 

宗像三女神
✨田心姫 湍津姫神 市杵島姫

宇迦之御魂神

 

 

 

 


岩国市今津には、世界でも珍しい『白蛇』が棲息していて、古くから白蛇への崇敬があった。

 

 

白蛇の信仰は水の女神弁財天と習合され、

金運の神として崇められる様になり、

地域の白蛇保存会の人々の手により、

広島の厳島神社から宗像三女神を勧請して

半世紀をかけて平成24年に建立された

新しい神社だ。

 

 

信仰と宗教は、本来別ものだが、

信仰がまず先きにあった典型的なかたちかもしれない。

 

 

弁財天は、もともと
インドのサラスヴァティーという水の女神・音楽の神様だったが、

インド仏教が中国に伝わると、
中国の才能と財運の神様『弁財天』になり、

弁財天が中国から日本に伝わると、

宗像三女神の

市杵島姫と習合される様になった。

聖名を変えながら旅をしてきた女神様だ。

白蛇とは、直接関係は無いと思うが、

金運✨財運✨

と言う御利益では、強力な組み合わせなのだろうか🤔

 

 

 

 

白蛇資料館では白蛇を拝観する事ができる。

 

 

白蛇様の信仰は各地にあるが、

実際に白蛇の棲息地に祭られる神社は、

世界で一つ、唯一無二かもしれない。

 

 

 

 

最後までご覧頂きありがとうございました🙇✨


不思議なパワースポット✨養父神社⛩️

2023-12-19 | スピリチュアル

パワースポットですが、久しぶりにスピリチュアル系で投稿します✨

 

知る人ぞ知る『養父神社』✨⛩️

 

歴史的興味から行きたいと思いつつ、

なかなか行く機会がなかったが、

今回は、ピンポイントで兵庫県養父市を目指して行った。

 

横浜から向かう途中🚙、滋賀県甲賀市で一泊して

翌朝、ホテル近くの神社にお参りしてみたら

ナント!😳そこも養父神社だった。⛩️

 

【滋賀県⛩️養父神社】

養父神社と書いて「やぶ」神社という。

 

養父神社は兵庫県養父市(やぶ市)から、西日本に広がるが、

こちらが最東端の養父神社かもしれない。

何れにせよ、関東人にとっては珍しい神社だ。

 

 

御旅所(神輿で廻ってきた神様が留まる所)があった。

 

朝のお参りを済ませ、⛩️養父神社から200キロ離れた

兵庫県養父市の⛩️養父神社へ向かう繋ぎ参りに🚙

 

 

【兵庫県⛩️養父神社】

ご祭神

倉稲魂命(ウカノミタマ)

少彦名命(スクナヒコナ)

大己貴命(大国主神)

丹馬道主(谷羽道主命)

船帆足尼命

 

養父神社は、山陰本線沿いにある。かつてあった下の参道は、明治時代に開通と共に削り取られててしまった。

 

参道下の見事な竹細工。ライトアップされたらさぞ幻想的だろう

 

 

 

養父神社は日本海側から大和へ向かう途中の拠点があった場所で、

高句麗や魏国(燕国)の慕容氏とも関係があると考えられている。

 

歴史的所以は深い重点的な場所で、コウノトリの群生地としても知られていた。こちらは三宮になり、頂上が奥宮だったらしいが、御祭神でもある丹波道主の居城だった様だ。

日本国時代は、国内での争いの為の要衝に拠点が築かれたのに対し、

もっと古い、古事記が編纂されるよりも数百年前の

和国時代は、海外からの侵攻や上陸の為の要衝に拠点が築かれていたのが特徴的だ。

しかしそうした歴史的な興味とは別に、何と言うか、 ただならぬ感じが漂う空間だ。

 

宇宙飛行士が宇宙から光の柱が見えたという場所にある茨城県の御岩神社、

発行現象や群発地震で有名な長野県の皆神山ピラミッドの登頂の皆神神社のような印象を受ける。🤔

ここで 出口王仁三郎や竹内文書などの所以などがあれば ミステリースポットとしても紹介できそうな雰囲気だが、そうした感じではなく由緒はもっと古い様だ。


知る人とぞ知るスポットで、

全国から霊能者や医師など様々な人が訪れるという。

 

 

本殿は江戸・明治で移設されているが、聞くところによれば本殿である養父神社は実は本殿ではなく、右の奥にある山野口神社こそが本当の本殿とも言われている、

 


本殿の前にある狛犬と、狼が2基並んでいる。

後ろで尻尾を上げている方が駒狼で、

この狛犬と狛狼が並んでいる間はパワーゾーンになっていて、この間に立つと良いという。

 

 

 

【山野口神社】

御祭神 大山祇神

大山祇の神さまは厳格な神様で、お参りする時は、

頭を直角に下げる。

 

山野口神社は不思議な現象や、不思議な写真が撮られることでも密かに知られている。

丁寧にお参りをしてから、どうか不思議な写真を撮らせてくださいと、お願いしてみた。

 

着いたばかりの頃は黒雲に覆われ雨もちらほら降っていたが、

にわかに雲が割れ陽が顔を出し、なんとも不思議な写真が撮れた。

 

 

光量の変化だと思うが、不思議な写真であることには違いない。

 

 

 

 

 

不思議なスポットだった。

 

お読み頂きありがとうございました。✨✨✨✨


出雲大社⛩️『神在月』 神等去出祭り✨

2023-12-08 | パワースポット

出雲大社 『神在月』

神等去出祭り

全国の神々が出雲大社に集まっている間は神無月となるが、出雲では神在月となる。(旧暦10月10日〜10月17日)

12月8日、神在月の最終日。滞在を終えた神々等を全国へと送りだす神等去出(カラサデ)祭が、万九千神社で行われる。

この日の夕方迄は、雅楽や神楽など鳴り物は禁止されているが、解禁となる。

 

湯釜に忌火を点火する「湯立神事」から始められる。

【天真名井に見立てた湯釜】

「御忌荒れ」という言葉があるくらい、この日は
例年吹雪や嵐で天気が落ち着いている時がないらしいが、今年は信じられないほど
穏やかな小春日和で暖かく、雲ひとつ無い空が晴上がっていた。

 

 


更に幸運な事に、神々を送りだす神事に上殿させて頂ける事になり参加させて頂いた。⛩️🙏✨

 

万九千社宮司家に伝わる、
神楽を伴う出雲独特の湯立て神事。

湯立てを神職の方が囲む。

万九千神社は、斐伊川の河原に位置し、

万九千(まんくせ)と読む

=ま曲、

と言い、川の流れが直角にうねる場所の事を言う。

明治維新後、途絶えてしまっていたが平成29年
150年ぶりに再興された。


【剣舞】

 

 

 

湯立て神事の後、

神等去出神事が執り行われる。

 

 

 

祝詞奏上と玉串の後、

お発ち〜 との掛け声と、

梅の枝を振り神々を送り出す。

 

 

宮司さんの澄んだ声で挨拶が終わり、

 

 

なおらい(終了)

 

✨✨✨✨✨😔(良いお年を)

 


聖なる【朱の起源】時代と人種を超える施朱とは?

2023-12-01 | 古代ミステリー

最近、フォトショットのスポット投稿が続いていましたが、久しぶりの古代ミステリーの投稿です。

「朱」の謎を解く、そこそこ長文ですが、興味がある方はご覧ください。

 

の起源】

人類が最初に出会った顔料は朱(赤)だ。原始人の残した洞窟の壁画などに使用されている。

赤は冴えが強く発色が良い。隠ぺい力にも優れ、色の中ではとてもパワフルな色で、文字どおり「朱に交われば赤くなる」というほどの最強色だ。

 

赤い顔料には、主に3種類あり最もメジャーなものが「ベンガラ」=赤鉄鉱

最も貴重なものが、「朱」=水銀朱を含む辰砂という鉱石で、

鉛を焼いて赤くした赤鉛を「丹」という。

 

日本では、赤い顔料を総称して「丹生」と言い神社の朱塗などに使われていた。

 

「丹生都姫神社」

古代より丹生を産出するエリアには、丹生都姫、にほつ姫などが祭られている。

 

日本人に赤は相性が良いらしく、紅白や日本国旗、巫女さんの緋袴など白と対比させて好んで用いられてきた。

因みに、ちょっとややこしいが本来「朱」とは赤色の事をいい、朱(赤)の補修材に安価な代用品として使われていたのが現代の私達が言う朱色の顔料だった。

 

 

朱は無機水銀であり有毒な有機水銀と違い、「丹」と言った様な薬にも使われていた原料で、古代のみならず最近まで消毒や殺菌にも使われていた。但し如何なる成分でも過剰に摂取すれば腎機能に障害を起こす様に、朱もこの限りではなく同様に害となる。金メッキのメッキ材料にも使われる為、金の様に或いはそれ以上に貴重な材料だった。大仏の金メッキでは、気化させるにあたり大量吸引による被害があったらしい。

 

魏志倭人伝に登場するヒミコも、魏国への貢ぎ物に「朱」辰砂を献上しながらも、魏国からは「丹」=赤鉛を望んだというほど赤い顔料は必要とされていた様だ。

丹生は縄文早期(約1万年前)の縄文土器の着色から、銅鐸、ハニワ、装飾具などあらゆる製品に着色されてきた。

 

 

【死者への施朱】

古代日本には「施朱」という習慣があった。遺体の頭部や胸を中心に赤い顔料を塗って葬るという習慣だが、古墳時代の終わりに消滅した。赤い骨が発見された当時は、生者のものか?死者のものか?がまず考えられたという。入墨に使った顔料が死後に骨と共に残ったとも考えられる。

古墳時代の施朱は消滅手前で最盛となり、亡骸だけでなく墓室の地面に散布されたり天井や壁も全て赤くして、何層にも塗布したり、顔料も朱とベンガラを使い分けたりなど施朱には様々な方法があった。

 

これは、「殯」もがりの習慣と結びつけて考えられ、死霊の呪いを封じるといった呪術的なものだと信じられている。

しかし、こうした呪術的信仰は一時期中世の日本で盛んだっただけで、何千年、何万年と伝統的に続いてきたものでは無く、時代を越えた根拠があるものでは無い。

 

古墳時代だけでなく、弥生時代、縄文時代にも施朱が行われていた事が発見されていて、日本列島の先住民族と渡来人、文化の違う民族、文化の違う時代まで同様な「死霊の呪い封じ」で行われていたという事は考えにくい。宗教や信仰は、民族や時代によっても異なるものではないだろうか。

そして、縄文時代・弥生時代、古墳時代まで共通した文化というのは他に類例がなく、驚くべきことだが、何故ここまでいくつもの時代を超えて続いてきたのかはよく解っていない。

 

施朱が行われるのは、祟りを恐れた呪い封じではなく、もっと違う理由があるのかを考えてみたい。

 

 

【即、鎮圧的手段】

施朱の研究者によれば、古代人の風習に対して、即「悪霊の鎮圧的な手段である」として安易に結論付けてしまうのは理論的な裏付けに欠けていて、説得力が無いという。

しかし、日本人のオカルト好みもあってか実しやかに「祟りを恐れ呪いを封じた」などと呪術的心理と結びつけられる方が多い。むしろ無難に置きにいく感じで、呪い封じは枕詞の様に受け入れられる様だ。

特に祟りを恐れたというのならば、菅原道真や平将門など無念に亡くなられた方の弔いには、朱塗りが多く施され調伏されていたなどと、濃淡がエビデンスとしてもっと存在していてもよさそうなものだが、実際全てに根拠がある訳ではない様だが只「赤は魔封じの色」に使われたと信じられている。

しかし、現代の私達が日の丸や紅白を見て、「呪い封じだ」とは思わない様に、古代人も同様に、赤は呪い封じとだと即は思わないのではないだろうか。

 

「呪い封じ」の呪術的な信仰が生まれる以前から、赤は馴染みの深い色であり、呪術信仰の象徴としてどこまでも時代を遡っても良いという初歩的なミスを犯すわけにはいかない。

そして現代人は古代人に対して、必ずといってよいほど

「テクノロジーは劣っている」

「原始的・土俗的な呪術信仰」である

と結論付けるバイアスが強く働き、滅多にこの域を出ることが無い。劣ったものとして見下す姿勢はバイアスというより、もはや信仰に近い。

 

施朱に関してはどうだろうか?

 

施朱は日本の古代遺跡だけでなく、汎世界的な風習で人類共通の習慣であり、すくなくとも3500年前はエジプト、中国、日本で施朱が行われていた。

時代を越え、文明を超え全ての人々は「死霊の祟りを恐れ封じ込めた」と断言するには、少し無理がある様に思える。

古典的な信仰心とは別に、文明、国、民族に限定されない「人類に共通する何か別の由来があるのでは、」と、探求してみたくなるところだ。

 

しかも、施朱の習慣は人類だけではない。起源はもっと古く3万年前・旧石器時代の原始人から、30万年前~ネアンデルタール人、50万年前~北京原人に至るまで、人類のみならず、旧人、原人の時代からあった習慣だという。

この、言語さえ未発達な時代から既に宗教や呪術が存在していたとも思えず、火、道具、そして宗教以外の何か、もっと太古からあるホモ属共通の習性があったとまずは考えてみても良いかもしれない。

そして、その元々あった習性が宗教発生後に埋葬儀礼に変化していったのではないだろうか。

 

「呪い封じだった。」を除外してみて、原初からある習性として考えた場合、どの様な可能性が考えられるだろう…

 

 

【魂魄の幽冥道】

中国の鬼とは、日本の鬼とは違い亡くなった方の霊のことだ。

 

「魂魄」と言い、人は亡くなると魂は天にあがるが、魄は弔わなければ地に還らず、地上を彷徨う浮遊霊となる。この浮遊霊のことを鬼と言い、鬼の道とはこの幽冥道のことを言う。

なので、人を殺すことよりも人を殺して弔わない事の方がもっと悪いこととされていた。

呪い恐れて封じるというよりは、人の道として弔う。

(魂=ソウル、魄=スピリット、鬼=ゴーストと言った感じだろうか)

そして、火葬、土葬、鳥葬、風葬など弔い方は文化や宗教によって違いはあれど、

故人を還してあげることは、生あるものとしての節理だ。

 

地に還すという点においては、赤色を亡骸に塗布しておくことは理に適っているのかもしれない。赤については「赤の魔除けの力を信じた。」と想像し、それが説明の根拠になっていることが多いが、ここでこの手法から一歩外に出てみて「赤」の特質を考えてみる。

 

赤の顔料はマイナスの電荷であり、人の皮膚の表面荷電はマイナスなので、塗布した場合は斥力の働きが生じるのだろうか?  (化学は苦手だが…)もう少し進めてみる。

 

若いころ、調色の仕事をしていたことがあった。(調色=顔料を配合し色を作りだす)

 

当時はコンピューター等より人間の目の方が正確で、機械では色差6までしか読み取れなかったものを、調色職人は肉眼で色差0.2まで判別しなければならなかった時代だ。特に「赤」の調色は人体への影響が強いため、赤の調色を長時間続ける事の危険性などを指導されていた。壁床全面を赤く塗った部屋に三日間いると人は精神に異常をきたすと教えられた。

「赤」を見続ける事は本当は疲れた。波長が長い為、その分トーンパリエーションが豊富なので沢山見なければならないのだが、あまりに刺激が強い為に口紅の調色をする職人さんは一日4時間くらいしか働けないそうだ。

宇宙観測に無くてはならない「赤方偏移」という現象(地球から遠い星ほど波長が伸び可視光は赤に偏る)で知られる様に、宇宙一波長の長い色である「赤」を目に照射し続けることはリスクが大きいのだと思うが、逆に、色指圧に使うには(カラーパンクチャー=色を皮膚に当てる刺激法)最強な色である事は間違いないだろう。

 

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では、生身の人間でなかったらどうなのだろうか?

この場合は、仮死状態の人だとする。

古代では、脳死判定などなくショック状態や仮死状態でも死亡している状態と認識された。

その為、埋葬後に生きを吹き返したりする事もしばしばあり、確実に再生が不可能と認識されるまで、安置する期間、いわゆる「もがり」殯が行われた。故人に対する思いや人々の再生への願いが強いほど、期間は長くなる。

 

キャノンは、星の出ていない暗闇でも撮影できるカメラを開発したそうだが、肉眼で暗闇であっても僅かな光(光子)は存在していて物質は反射して色は存在しているらしい。

 

紫は波長が短く散乱しやすく届きにくい色だが、紫外線などに至っては健康な人体の表面だけで被害を及ぼす。

逆に赤は人体の中にまで深く入る色で、波長が長いことにより、電子レベルでは色の中では最も人体に入る色(波長)であり、僅かだが細胞分子を励起させる可能性もあるのではないだろか。そして、健康な人体でない場合は、この暗闇レベルの微弱なエネルギーでも反って良いのかもしれない。

 

こうした皮膚表面へのマイクロカレント(微弱電流)による刺激は、最近のエステでもフェイスローラーをはじめマイナスイオン効果を狙ったものが多くなってきている。

 

意識があれば薬草を煎じ、意識がなければ針やお灸で人体に刺激を与え反応を引き出す。

 

これが私達がイメージする古代の医学の限界だと思うが、更にもう一つ、

 

意識も生体反応も無くなった人へ、

 

蘇生術的な最終手段として施す、

 

「施朱」=赤顔料の塗布という施術があったのではないだろうか。

 

勿論、そこには科学的根拠もなければ、宗教や信仰もない。

 

頭部や胸を中心に、赤の顔料を塗布し、

 

ただ、そうすることで生き返らなければ、死んでいる状態と認識されるだけだ。

 

ホモ属(原人・旧人・現人類)の習性として、それが備わっていたのではないかと思う。

 

習慣と言うよりも、もっとバイオミメティクス※的なデフォルトの習性なのかもしれない。(※工学的にも応用可能な生物機能・習性)

 

アリやハチは社会性のある生物だが、ハキリアリは集団で農業を行う。葉を切り出して、巣に運び湿度や温度を最適にした環境の中で、葉にアリ茸というキノコを植え付けてそれ育て食料としている。不要となった葉や、亡くなったアリは同じ場所へ運ばれていき塚を形成する。

 

法律も信仰も、科学的知識も存在しているとは思えないが、テクノロジーとしては成功している。この様な、知識も呪術的な信仰もなく、原初のホモ属が自然と持ち得ていた習性と考えてみることは出来ないだろうか。

 

活性化を起こす入射は、顔料の粒子の大きさによっても違うと思われ、何層にも塗布したり顔料や顔料の粒子を使い分けたりなど、多様な仕様が遺跡から発見されているのはその為なのかもしれない。

 

長くなったが、「祟りを恐れた呪い封じ」という施朱の考え方に対し、他の考え方はできないだろうか?との思いで書き綴ってきた。

 

それはこれらの事が、呪いを封じる手段とは到底思えないからだ。

 

私には、目にいっぱいの涙を浮かべ、ボロボロと大粒の涙を溢れさせながら、

悲しみを堪えて懸命に朱を施している人々の姿が、思い浮かぶ。

悲しみの涙もまた、ホモ属共通の特質だ、

愛する人、大切な家族や友人を失った人々が、

子を亡くした親が、親を亡くした子が、

祟りを恐れ呪いを封じをしている様には思えない。

 

結果として埋葬儀礼となる前は、脳死判定ならぬ施朱判定ともいう様な、最後の施術として朱を施したことがあったのではないだろうか。

 

亡くなられた方への思いは、今も昔も変わるものではないと思う。

 

故人への思いは、宗教や儀礼を超えた思いがあり、呪い封じの様な考えにだけ留めることは、その心を損なってしまっている気がしてならない。

 

ご先祖様や亡くなった方を大切に思う気持ちは、人は、恐れより愛情の方が強いだろうとの思いから、施朱についての「呪い封じ」否定論を拙いながらも書いてみた。

 

 

最後まで御覧頂きありがとうございました。✨✨✨✨✨🙏

 

 

『Bonus shot』

広島の爾保姫神社から、和歌山の丹生都姫神社に向かう途中、

雲が割れ、矢印の様に空が一直線に丹生都姫神社の方角を指していた。

 

 

近づくと、ゴールはこの辺りですと言わんばかりに空に円ができてきた。

 

 

 

不思議な天空ショーを見られたおかげで、運転もさほど疲れを感じることなく和歌山へ到着。

 

和歌山県「丹生都姫神社」

 

 

 

広島県「爾保姫神社」

辰砂(朱水銀)が採れたという黄金山に鎮座する。神功皇后による由緒。

爾保姫=爾保津姫(にほつ姫)は、丹生都姫(にうつ姫)と同じ神様と考えられている。

神功皇后と関わりのある神社は、「丹」ではなく「爾(に)」が比較的使われている気がする。

 

ちなみに、こちらの爾保姫神社は原爆でも倒壊を免れた。倒壊しなかった被爆建物として登録されていたが、2007年に不審火で焼失。

氏子さん達は、数億円を集めて新しい拝殿を再建されたという。

それでも資金は足らず、神殿などは再建する事ができなかったが、

2013年、伊勢神宮の遷宮により、旧社殿のヒノキ材を譲り受け再建された。

地域の氏子さん達と神様の関係がとても良く、

巨大なパワーストーンの様な黄金山のエネルギーと、爾保姫さまが人々を守り続けている様な気がする。

氏子さんの中には、爾保姫さまのご子孫の方もいらっしゃるのではないかと思う。

生ある者と、御先祖様とはこの様なものかと、仏教伝来以前から続く古来日本のあり樣を感じた。