100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL94  明治の三陸の産業16「水産業①」 (下閉伊郡)

2015-09-12 17:59:05 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

鰹漁 巖手丸 (岩手県水産試験場用船/下閉伊郡宮古町)

 

漁業は明治の頃も三陸の主要産業

(本稿からしばらく明治の水産業を紹介します)

 明治の時代も水産業は三陸の主要産業でした。前述のvol30でも下閉伊郡の統計で一部紹介しましたが、本写真帖の付属諸表から、三陸の産業全体の生産額(明治43年)を一覧表に直して比較すると次のとおりです。明治43年当時は、農産物が全体の41%を占めて最も多いのですが、漁業は漁獲物と水産製造を合せると26%と2番目となっています。

 

鰹は明治末の三陸の代表的な魚、でも今は

 

 鰹は、明治の三陸では写真帖に掲載する位代表的な魚種で、本写真帖の付属諸表(次回詳述)によると三陸全体で525,536貫(1貫3.75kgとすると、1,971t)の漁獲があり、当時の魚種別で一番の漁獲がありました。ところが現在(平成24年)はカツオ・ソウダカツオ合せて484tと明治の4分の1に減っています。漁獲法や加工販売ルートの変化等の要因があるかも知れませんが、三陸の鰹は、春から初夏にかけて三陸沖を北上して、ちょうど今の時季(8月から9月)にたっぷりと脂を蓄えて戻ってきて美味で、今も昔も三陸を代表する魚種と思っていた私には少しショックな数値でした。しかし明治と比較すると、三陸の魚には、もっと驚くべき変容がありました。

 

ナント!「明治の三陸には、サンマがなかった」 ※次回詳しく紹介します。

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VOL93  明治の三陸の産業15「畜産5」 (下閉伊郡)

2015-08-20 17:17:56 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小川乳油製造所」下閉伊郡小川村/現岩泉町小川)

 

 

 乳油とは、牛乳の脂肪分を固めた食べ物即ちバターやチーズ類のことです。現在の岩泉町は、先の葛巻町同様に酪農が盛んな町ですが、その原点は明治初頭まで遡ります。明治4年(1929)に岩泉の八重樫市右衛門氏に日本に輸入されたばかりの牛(ショートホーン種)が貸与され、在来種の南部牛と交配したことが記録されています。また前述(VOL91)のとおり明治25年(1950)にはホルスタイン種の飼育が始まっています。

 写真の「小川乳油製造所」は現在その社名は残っておらず、どのような変遷があったのかは分かりませんが、明治末期には搾乳だけでなく、既にバターなどの乳製品の製造が始まっていたとは、改めて岩泉の酪農の歴史の古さを知りました。

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VOL88  明治の三陸の産業12「耕地整理」 (上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-08-12 17:30:22 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

耕地整理/田」(上閉伊郡綾織村/現遠野市綾織

 

耕地整理/畑」(下閉伊郡豊間根村荒川/山田町豊間根

 

 <2カ月近く更新を休んでいましたが、再開します>

写真の綾織と豊間根の耕地が、現代と全く変わらず整備されているのに驚きました。この写真にトラクターが写り込んでいても何ら違和感はありません。

耕地整理とは確か中学校の社会地理の授業で聞いた記憶がします。私はてっきり戦後になって行われた事業とばかり思っていましたが、明治32年(1899年)に制定された耕地整理法に基づき、明治期に既に全国各地で実施されていたようです。小さく不整形な農地を一定の大きさに整理して、通路を整備して、当時であれば牛馬による作業が能率的に行えるようにしたり、用排水の利便性を向上させたりしたようです。

写真1の綾織村(現遠野市綾織)は、遠野盆地の西端に位置する田園地帯です。優美な綾織の地名は昔この地に天女が降りて綾を織り、その織物(曼荼羅)が地元の光明寺と云う寺に伝わることに由来しているそうです。この地区には南部曲がり屋代表である「千葉家住宅」や、柳田国男の遠野物語にも登場する「続き石」「羽黒石」などの巨石や猿ケ石川河畔の「桜並木」など遠野を代表する景観旧跡が数多くあります。

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VOL87  明治の三陸の産業11 「葡萄園」 (下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-06-20 16:35:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「葡萄園」下閉伊郡豊間根村/現下閉伊郡山田町豊間根) 

 

岩手の果樹はリンゴが主ですが、ブドウの栽培も内陸部が中心に行われて、収穫量は全国で10位前後です。三陸の各地でも小規模ですが葡萄園が点在していたようです。写真は現山田町豊間根地区の葡萄園で、佐々木甚五郎氏経営と記されています。畑に白く見えるのは春先の残雪でしょうか。

ブドウの歴史は、リンゴ同様に古くから世界各地で栽培されていたようですが、今も日本で栽培され人気のある品種の「甲州」が、平安時代の文治2年(1186)来の古い歴史を持つこと、またぶどう棚の栽培技術は江戸初期に、それぞれ甲斐(山梨県)の国人が発見あるいは考案したものであることを知り、現在の山梨県がブドウの一大産地であることはさもありなんと思った次第です。

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VOL85  明治の三陸の産業9 「岩泉繭乾燥場・栄橋繭乾燥場」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-06-13 17:57:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉繭乾燥場(林式)」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町) 

「栄橋繭乾燥場(御法川式)(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ② (乾繭)

乾繭(かんけん)の続きです。私は今回初めて繭乾燥業という業種があることを始めて知りましたが、製糸に欠かせない大切な工程の一つで、明治から昭和にかけて全国各地に大小様々の繭乾燥場があったようです。

上記写真は、2葉とも明治期の岩泉村にあった繭乾燥場です。但し岩泉乾燥場には「林式」、栄橋には「御法川式」と付されています。繭の乾燥方式と思われますが、詳しいことはわかりません。現在は勿論電力機械に乾燥ですが、明治の三陸では、薪を燃やした熱で繭を乾燥させる方式だったようです。

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VOL84  明治の三陸の産業8 「宮古繭乾燥場」 (下閉伊郡宮古町)

2015-06-10 14:24:48 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「宮古繭乾燥場(林式)(下閉伊郡宮古町/現宮古市)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅲ (養蚕・蚕室)

繭を作るため、古来、蚕を育てる仕事が盛んに行われてきました。この蚕を飼育する工程が「養蚕」であり、卵から孵化飼育する稚蚕飼育施設が「蚕室」です。既に建物の写真はVOL80.81でご紹介したとおりです。蚕(かいこ)は、絹の原材料としてとても大切にされ、三陸では「おかいこ様」と尊称を付けた呼び方をされていました。前掲の写真のとおり、蚕室は温かく清潔に保たれていることが分かると思います。

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ (乾繭)

昨年富岡製糸工場を見学に訪ねたとき、工場の敷地内にその年の大雪で崩壊した大きな建物がありました。それが繭乾燥場でした。さて上記の写真は宮古にあった繭乾燥所です。場所は定かではありませんが、もしかするとVOL78の宮古足踏製糸場の隣にあったのかも知れません。間口も高さもある大きな建物です。

養蚕による繭づくりの「乾繭(かんけん)」とは、蚕室で育った繭を乾燥されることをいいます。繭を乾燥させるのは、①繭の中の蛹(さなぎ)を生きたままにしておくと、5日もすると羽化して蛾になってしまうことと、②生繭は60%以上が水分なので、長期間貯蔵するとカビが発生し腐敗するからなそうです。残酷ですが繭を熱乾燥すると中でサナギはミイラ化し、管理さえしっかりすれば製糸まで何年でも取り置くことが可能となります。

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VOL83  明治の三陸の産業7 「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」(下閉伊郡岩泉村)

2015-06-07 15:38:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅱ(蚕種貯蔵)

昨年「富岡製糸工場と絹産業遺産群」として4カ所が世界遺産に登録されましたが、その中で一番なじみのないのが、「荒船風穴(群馬県下仁田町)」ではないかと思われます。この史跡は、明治から大正にかけて建設された蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設です。自然地形と天然の冷気を利用して蚕種を冷蔵し、養蚕を年に数回行うことを可能にしたものです。

寒冷な気候を利用した蚕種貯蔵施設「氷蔵庫」

明治初期の蚕飼育は春蚕のみでしたが、その後上記荒船風穴など蚕種を冷暗所に貯蔵し発生を遅くすることで、夏蚕や秋蚕の飼育を可能なりました。写真の氷蔵庫は、岩泉の桑園の一隅に穴を掘り、当地の冬の寒冷な気候を利用して作られた蚕種の貯蔵施設と思われます。

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VOL80  明治の三陸の産業4 「刈屋製糸場」 (下閉伊郡刈屋村)

2015-05-30 15:43:12 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「刈屋製糸場」下閉伊郡刈屋村/現宮古市刈屋)

製糸は明治の三陸の中山間地に新たな産業を興した

現在の宮古市刈屋地区にあった製糸場です。大きな建物が四棟見えますが、全ての建物が製糸工場ではなく、正面の二階建ての大きな建物や手前の二棟は、換気用の小屋根が見えるので蚕を育てる蚕室と思われます。もしかすると1階が製糸工場かもしれませんし、蚕の餌なる桑の葉の貯蔵庫もあったと考えられます。

刈屋地区は四方を山に囲まれて平地が少なく寒冷な気候で稲作には余り適しておらず、江戸時代や明治に入っても冷害による飢饉に何度も襲われた山里でした。これは刈屋村に限らず下閉伊・上閉伊・気仙・九戸の三陸地方の全てに通じることです。しかし製糸業は、生糸を繰り出す工場だけでなく、その原材料の繭を産み出す蚕の飼育すなわち養蚕しかり、さらに蚕を飼うための桑の葉の栽培と、裾野は広いものがあります。当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、製糸工場は農家の子女の大切な雇用の場でした。

三陸の養蚕及び製糸の歴史はさほど古くなく、明治の後半から急激に発展します。稲を育てられなかった荒れ地が桑畑となり、有力な農家は繭を作る蚕室付の居宅を建て始め、座繰式の中小の製糸工場が山あいの土地にも建てられ、近隣の子女が勤め工場に通い現金収入を得ました。工場で仕上げられた生糸は、三陸の港から横浜に向けて出荷され、さらに海外へ渡りました。製糸は、外貨獲得産業として日本の近代化を支えましたが、三陸の地では中山間地に新たな産業を興し、近代の経済サイクルが稼働する端緒となりました。

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VOL79  明治の三陸の産業3 「中村生絲揚返所」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-05-03 04:01:20 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「中村生絲揚返所」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「揚返し」とは、座繰や機械繰で繰糸器に巻き取られた生糸を、大きな枠に巻き直して綛(かせ)を作る施設です。この工程は糸の太さのバラつきを整え、余分な水分を飛ばすことで湿気により糸がくっつくことを防ぎ強度を上げるなど、品質の向上に欠かせないものです。

写真の中村製糸揚返所のことは詳しく分かりませんが、揚返所があるほどですから、座繰か器械式か大きな製糸場であったと思われますし、多分周辺の小さな工場から集荷して品質を整えて、生糸として出荷したと推察します。

生糸は、岩泉からは盛岡へ馬車などで運びそれから汽車で、宮古では宮古港から船で、それぞれ横浜に運び、それから海外に輸出されていました。

因みに三陸各地で育てた生糸に製品化する前の「繭」も、宮古港を始め三陸各地の港から、信州・上州その他の製糸工場に送られていました。その金額は宮古港の場合(明治43年)、生糸32,500円に対して繭84,600円と、原料のまま送られる方が多かったようです。

 

 

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VOL78  明治の三陸の産業2 「宮古足踏製糸場」 (下閉伊郡宮古町)

2015-04-30 16:58:03 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「宮古足踏製糸場」下閉伊郡宮古町/現宮古市)

 

明治末期の三陸は「座繰足踏式製糸」が主流

「座繰」の製糸は、江戸後期に普及した製糸の方法で、釜で煮た繭から糸を手で繰り出していた「手繰り」に代わり、釜から繰り出した糸を歯車仕掛けの糸巻き枠に掛けてハンドルを回して巻き取る方法です。最初の頃は手で回していましたが、改良を重ねて、明治初期に、足踏みにより車を回転させて糸枠を動かし、両手が自由に使えて作業効率が格段に上がる「足踏み式座繰器」が考案され、器械式は高価なことから、昭和初期まで地方の小規模な工場などで活躍しました。

写真は、宮古町にあった製糸場の風景ですが、小規模とはいえざっと60人を超す女工さんが働いていたようです。場所は残念ながら特定できていません。

因みに当写真帖の付属資料によれば、明治44年当時下閉伊郡には、足踏式座繰の工場は20カ所あり、台数は475台、生産量は1200貫(1貫=3.75㎏)≒4,500㎏とあります。

 

 

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VOL76  明治の三陸名勝29 「タグリガ瀧」 (下閉伊郡豊間根村荒川)

2015-03-28 14:55:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「タグリガ瀧」(下閉伊郡豊間根村荒川/現山田町荒川)

 

この滝は宮古湾に河口のある鮭で有名な津軽石川から遡ること約10㎞、支流豊間根川のさらに支流荒川に注ぐタグリ沢にあります。私も数度訪ねたことがありますが、林道がすぐ傍まで通じていて誰でも行きやすい処にある落差10m程の滝です。本写真帖には「タグリガ瀧」とカタカナ名の表記となっていますが、今は「多久里滝」の漢字が付されているようです。中には括弧書きで「手繰り滝」の表記がありました。名の由来は定かではありませんが、明治の頃から景勝地として知られていたようです。但し現在は周囲の森林伐採が進み、残念ながら深山幽谷の趣は失われています。

「森は海の恋人」の言葉のように、「森で培われる豊かな滋養分が水を通じて川から海に流れこみ、海の豊かさとなって海の生き物を育てる」(畠山重篤氏)と云われています。森林資源の活用と自然保護の両立は難しいものがあり、年を経れば豊かな森が回復するのでしょうが、皆伐は自然体系の破壊をまねきかねません。

今回も「ゆーし」様の「岩手の滝」掲載の写真を下記に転載します。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。

 

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VOL74  明治の三陸名勝27 「大瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-21 18:11:39 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「大瀧 (下閉伊郡小川村字門/現岩泉町小川字門)

  

「大瀧」の名を冠する滝は岩泉町内に数カ所あり、当初は前回紹介した岩泉町大川地区の「七瀧」の約1㎞下流にある滝とばかり思っていたのですが、写真帖をよく見ると(小川村字門)とありましたので、小本川の本流を約40㎞遡り、小川中学校手前の石畑地区にある岩泉町の三十景の一つ「門の大滝」と思われます。

 大滝と云いながらも落差は5m足らずの滝ですが、淵は広く深く、現在はこの写真とは周囲の様相が異なり、滝の周囲を緑豊かな木々が覆い、小さいながらも春夏秋冬の季節を問わずとても風情があります。 (残念ながら写真からは今の景観が伝わりませんので、岩手の滝めぐりと云うブログの写真を下記にご紹介します)

 伝承では、乙女が毎朝この滝の淵の水面を鏡代わりに髪をとかし化粧をしたと謂われ、「化粧滝」も別名もあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。

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VOL73  明治の三陸名勝26 「七瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-18 18:13:28 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

(石館銅山より望む)七瀧」下閉伊郡大川村/現岩泉町大川)

 

「七瀧」は、Vol69に紹介した龍甲岩のある小本川河口を遡ること約40km奥の北上山地北部の中央に位置する岩泉町大川地区にあります。深山幽谷とまでは云いませんが、豊かな自然に囲まれた清らかな渓流が、約100mの川筋の間に大小七段の滝となって流れ落ちています。(残念ながら写真からは景観がよく伝わりませんので、東北観光スポットめぐり をご覧ください)

 大川は、秋の紅葉や冬の雪景色も大変素晴らしいものがありますが、私は新緑の時季をお薦めします。若葉の間にピンクの山桜や赤いツツジやが水面に映えます。また大川は、渓流釣りの名所で、シーズンともなるとたくさんの釣り人が竿を並べています。さらに最近ではカヌーで急流下りを楽しむ好ポイントともなっているようです。

 さて題の「石館銅山」とは、どのような鉱山であったのか?残念ながら調べが及びませんでした。写真の撮影場所は、下流の北側の山腹からと思えるのですが、国土地理院の地図にはそれらしき鉱山跡の記載もなく、ネット検索でも該当する鉱山名を見つけることはできませんでした。隣りの岩泉町小川地区には本銅という地名が残り本銅鉱山という名の鉱山があったことや、宮古市の田老地区には田老鉱山と云う大きな銅山が40年程前まで稼働していたので、この地区で銅の産出があっても不思議ではないので記載は確かと思えますが…。

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VOL72  明治の三陸名勝25 「湧窟(龍泉洞)」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-11 15:57:15 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「湧窟(龍泉洞)」下閉伊郡岩泉町)

 

 水が湧き出る岩窟なので「湧窟」とはこれまた直截的なネーミングです。写真が撮影された当時はそのように呼称されていました。実は私の岩泉の義父(大正生まれ)も以前はそのように呼んでいたそうです。また昭和13年(1938年)に国の天然記念物に指定されていますが、登録名は「岩泉湧窟及びコウモリ」のままなそうです。勿論現在は「龍泉洞」の名で広く知れ渡っていますが、はたしてこの名称はいつどのような経緯で付けられたのでしょうか?(ネット検索しましたが分かりませんでした)

 さて「龍泉洞」は、山口県の秋芳洞と高知県の龍河洞とともに「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられており、現在まで確認された距離は3631mで、中に世界一と云われる透明度41.5mの水深98mの第3地底湖や、水深120mの第4地底湖を始めとして7つの地底湖があるとても大きな洞窟です。

 北上山地の広大な森に降った雨や雪は、地下の石灰岩層を通り、この地底湖に湧き出します。この天然ミネラルを多く含んだ水は、昭和60年(1985年)に日本の名水百選に選定され、岩泉町産業開発公社が製造する「龍泉洞の水」は私の愛飲のミネラルウォーです。

「酸素一番宣言」と「水と緑のシンフォニー」

 岩泉町は、約993㎢と町では本州一の広大な面積を誇り、殆どが緑豊かな森林に覆われています。そして森林が産み出す酸素は、年間約107万トンと約400万人分の酸素呼吸量があると云われて、平成4年に「酸素一番の町」を宣言しています(その後平成の大合併で岐阜県高山市が岩泉の2倍以上、同じく宮古市も20%以上の面積を有することになったので、もしかすると現在は2.3番目かもしれませんが・・・ 年々過疎化が進み、人口は昭和45年(1970年)の約2.2万人から、現在約9,700人と激減しています。人と金は大都市に集中してどんどん二酸化炭素を排出し、片や岩泉や宮古は広大な林野から酸素を生み出しながら、地域から人が流出して衰退する一方です。少しは酸素排出交付金などの恩恵があっても良いのでは…)

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VOL71  明治の三陸名勝24 「普代海岸1.2」 (下閉伊郡普代村)

2015-03-03 18:04:42 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「普代海岸1.2」下閉伊郡普代村)

   

 上の写真は、普代村の北部にある堀内海岸の岬です。この周辺には北山崎をはじめ北部陸中海岸の男性的景観が続いていますが、この岬の先端にある「沖松磯島・丘松磯島」も海岸美が堪能できる穴場の一つです。本写真撮影当時は、名前も付けられていませんでしたが、現在は二つ合わせて「夫婦岩」の名がも付けられ、長さ424メートルのしめ縄で繋がれています。

 下の写真は普代浜と南端の岩礁です。今回の東日本大震災でこの岩礁も大津波を丸ごと被ったと思いますが、岩の松は今でも緑の枝を茂らせています。

大津波被害を最小限に食い止めた。

さて普代村は、東日本大震災により15mを超える巨大津波に襲われたものの、死者は無く(船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1名)、被災民家もありませんでした。これは、この浜に流れ込む普代川の上流300mに設置された「普代水門」と、南隣の太田名部地区の「太田名部防潮堤」が津波を防せいだ故です。三陸沿岸各地の殆どの防潮施設が破壊された中で、津波から街と人を守った数少ない事例です。「現代の万里の長城」と云われた宮古市田老の高さ10mの長大な防潮堤でさえ、今回の津波にはひとたまりもなかったのに、先人の遺訓に従い、明治の津波は高さ15mあったので、それより高い15.5mの水門と堤防を造った当時の村長の英断により、普代は守られました。

 但し、普代村を襲った津波は田老地区より若干弱く、もしより高くより長時間に亘って強い圧力を加えられていたら、耐えきれずに決壊した可能性もありました。三陸沿岸各地で復興工事が進められていますが、海岸線をコンクリートで全て覆つくすのは良策ではありません。因みに普代村の水門は幅205m、堤防は155mと決して長くありません。河口及び海岸部は狭く、住家は広い後背地にあったので、地形的にピンポイント防災が可能な優位性がありました。ただそれがあったとしても、先人の遺訓を守り、海岸部に住家を造らず、襲った波高より高い堤防を造ったおかけで被害を免れたことは間違いありません。

 

 

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