100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL87  明治の三陸の産業11 「葡萄園」 (下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-06-20 16:35:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「葡萄園」下閉伊郡豊間根村/現下閉伊郡山田町豊間根) 

 

岩手の果樹はリンゴが主ですが、ブドウの栽培も内陸部が中心に行われて、収穫量は全国で10位前後です。三陸の各地でも小規模ですが葡萄園が点在していたようです。写真は現山田町豊間根地区の葡萄園で、佐々木甚五郎氏経営と記されています。畑に白く見えるのは春先の残雪でしょうか。

ブドウの歴史は、リンゴ同様に古くから世界各地で栽培されていたようですが、今も日本で栽培され人気のある品種の「甲州」が、平安時代の文治2年(1186)来の古い歴史を持つこと、またぶどう棚の栽培技術は江戸初期に、それぞれ甲斐(山梨県)の国人が発見あるいは考案したものであることを知り、現在の山梨県がブドウの一大産地であることはさもありなんと思った次第です。


VOL86  明治の三陸の産業10 「林檎園1.2」 (九戸郡軽米村・下閉伊郡茂市村)

2015-06-17 17:42:08 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「養蚕・製糸編」は終わり、今回からその他の農林業の写真を紹介します。

「林檎園1」九戸郡軽米村/現九戸郡軽米町)

 

「林檎園2」(下閉伊郡茂市村/現宮古市茂市)

 

実は岩手はリンゴの産地です

リンゴの産地と云えば、青森県や長野県が有名ですが、実は岩手県はこの2県に次ぐリンゴの産地です。その原産地は中央アジアなそうですが、現在私達が食しているリンゴは、明治初期に開拓使によってアメリカなどから導入された紅玉や国光を嚆矢とします。その後北海道から本州へと渡ったリンゴは青森で盛んに栽培され、ほどなく岩手にも伝わり、明治後期には三陸でも盛んに栽培されていたようです。

写真のリンゴの品種は不明ですが、1の写真は春先の「袋掛け」の風景です。また2の写真は何の作業中か分かりませんが、田鎖伝七氏経営とあります。


VOL85  明治の三陸の産業9 「岩泉繭乾燥場・栄橋繭乾燥場」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-06-13 17:57:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉繭乾燥場(林式)」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町) 

「栄橋繭乾燥場(御法川式)(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ② (乾繭)

乾繭(かんけん)の続きです。私は今回初めて繭乾燥業という業種があることを始めて知りましたが、製糸に欠かせない大切な工程の一つで、明治から昭和にかけて全国各地に大小様々の繭乾燥場があったようです。

上記写真は、2葉とも明治期の岩泉村にあった繭乾燥場です。但し岩泉乾燥場には「林式」、栄橋には「御法川式」と付されています。繭の乾燥方式と思われますが、詳しいことはわかりません。現在は勿論電力機械に乾燥ですが、明治の三陸では、薪を燃やした熱で繭を乾燥させる方式だったようです。


VOL84  明治の三陸の産業8 「宮古繭乾燥場」 (下閉伊郡宮古町)

2015-06-10 14:24:48 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「宮古繭乾燥場(林式)(下閉伊郡宮古町/現宮古市)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅲ (養蚕・蚕室)

繭を作るため、古来、蚕を育てる仕事が盛んに行われてきました。この蚕を飼育する工程が「養蚕」であり、卵から孵化飼育する稚蚕飼育施設が「蚕室」です。既に建物の写真はVOL80.81でご紹介したとおりです。蚕(かいこ)は、絹の原材料としてとても大切にされ、三陸では「おかいこ様」と尊称を付けた呼び方をされていました。前掲の写真のとおり、蚕室は温かく清潔に保たれていることが分かると思います。

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ (乾繭)

昨年富岡製糸工場を見学に訪ねたとき、工場の敷地内にその年の大雪で崩壊した大きな建物がありました。それが繭乾燥場でした。さて上記の写真は宮古にあった繭乾燥所です。場所は定かではありませんが、もしかするとVOL78の宮古足踏製糸場の隣にあったのかも知れません。間口も高さもある大きな建物です。

養蚕による繭づくりの「乾繭(かんけん)」とは、蚕室で育った繭を乾燥されることをいいます。繭を乾燥させるのは、①繭の中の蛹(さなぎ)を生きたままにしておくと、5日もすると羽化して蛾になってしまうことと、②生繭は60%以上が水分なので、長期間貯蔵するとカビが発生し腐敗するからなそうです。残酷ですが繭を熱乾燥すると中でサナギはミイラ化し、管理さえしっかりすれば製糸まで何年でも取り置くことが可能となります。


VOL83  明治の三陸の産業7 「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」(下閉伊郡岩泉村)

2015-06-07 15:38:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅱ(蚕種貯蔵)

昨年「富岡製糸工場と絹産業遺産群」として4カ所が世界遺産に登録されましたが、その中で一番なじみのないのが、「荒船風穴(群馬県下仁田町)」ではないかと思われます。この史跡は、明治から大正にかけて建設された蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設です。自然地形と天然の冷気を利用して蚕種を冷蔵し、養蚕を年に数回行うことを可能にしたものです。

寒冷な気候を利用した蚕種貯蔵施設「氷蔵庫」

明治初期の蚕飼育は春蚕のみでしたが、その後上記荒船風穴など蚕種を冷暗所に貯蔵し発生を遅くすることで、夏蚕や秋蚕の飼育を可能なりました。写真の氷蔵庫は、岩泉の桑園の一隅に穴を掘り、当地の冬の寒冷な気候を利用して作られた蚕種の貯蔵施設と思われます。


VOL82  明治の三陸の産業6 「三陸各地の桑園」 ①~⑦(九戸郡・下閉伊郡・上閉伊郡)

2015-06-05 09:42:27 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三陸各地の桑園」①~⑦

(①上閉伊郡綾織村/現遠野市、②下閉伊郡岩泉村/現岩泉町、③同郡刈屋村/現宮古市、④同郡茂市村/現宮古市、⑤⑥九戸郡大野村/現広野町、⑦下閉伊郡小川村/現岩泉町

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅰ(桑の栽培)

絹(生糸)は、蚕(カイコガの幼虫)がサナギになる際に吐き出された糸で作られた袋状の構造(これが「繭」)から作られます。この蚕を飼育する過程が養蚕で、その技術は弥生時代に稲作と共に中国から伝えられたと云われています。蚕は家畜化された昆虫で、野生回帰能力を失い、野生には生息しないし、人間の手がなければ生育することはできません。桑の葉は蚕の唯一の飼料で、養蚕は桑の栽培から始まります。

 さて養蚕が本格的に三陸地域で奨励されたのは、明治中期以降で本写真帖には前回の葛巻村の三浦農場の桑園の他に、7カ所の桑園・桑木の写真が掲載されていますので一挙に紹介します。大部分が若木で、その頃盛んに桑の植樹が行われたことが伺い知れます。また産業系の写真では一番多い掲載数で、当時の三陸の産業に占める養蚕の重要度が分かります。

※訂正 上記に写真の桑を若木と記しましたが、どうも私の勘違いと思われます。実は養蚕は年3回以上行われ、そのために蚕が育つ春から秋までの間は、常に管理され収穫していたようです。したがって桑は決して大きく育つことはなく、若木に見えたのは収穫後の桑木なようです。ご指摘を受ける前に、敢えて間違った記述を残し、知ったかぶりを訂正します。(2015/6/5)

 

 

①速成桑園(上閉伊郡綾織村)                    桑園遠景(下閉伊郡岩泉村)

  

③桑園(下閉伊郡刈屋村/藤原多見太氏所有)         ④桑園(下閉伊郡茂市村/野内佐助氏所有)

  

⑤桑園(九戸郡大野村/長内武一郎氏所有)         ⑥桑園(九戸郡大野村/野田三郎氏所有)

 ⑦大桑木(下閉伊郡小川村字石畑/南澤伊平氏所有)

 

 


VOL81  明治の三陸の産業5「三浦農場其の1.2」 (九戸郡葛巻村)

2015-06-01 17:52:54 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三浦農場其の1」(九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

 

世界遺産の「高山社跡」とウリ二つ、全国共通の蚕室構造(換気用の天窓)

明治末期当時は九戸郡でしたが、なぜか現在は岩手郡となっている葛巻町にあった農場です。写真下部中央の看板には「三浦農場〇〇部第一養蚕場」と記してあります。すると建物はこの他にも第2第3の養蚕場があったのでしょうか。また〇〇部とあるからには当時の三浦農場には他にも部署があり様々な事業を手掛ける大きな農場だったのでしょうか。

建物は前回紹介した刈屋製糸場の蚕室とよく似た構造をしています。またこれらとよく似た建物を他でも見たことがあると思い、養蚕でネット検索したら、あの世界文化遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つ「高山社跡」(群馬県藤岡市)とウリ二つ(下写真)でした。高山社は明治17年(1884)に設立された養蚕の教育機関で、「清温育」という蚕の飼育方法確立し、その技術を日本全国及び海外にまで広めたそうです。清温育とは文字通り、蚕室の風通しを良くしかつ温めることによって蚕を育成する方法です。全国各地からたくさんの実習生が高山社で養蚕技術学んでそうなので、もしかすると三浦農場や刈屋の人達もいたかも知れません。

したがって、2階の屋根に換気用の天窓(小屋根)を設け、2階の部屋には通気性と採光の良い大きな障子戸があるとう建物の構造がうり二つなのは当たり前です。また三陸の山間部のような寒冷な地では、1階の火気によって2階を温めていたものと思われます。

「高山社跡」(群馬県藤岡市)

「三浦農場其の2」(九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

さて本写真帳には三浦農場の写真がもう一葉ありました。葛巻の集落を見下ろす高台の桑園と思われます。そういえば私が幼少の頃、母の実家の山口地区(宮古市)にも、山の斜面のあちこちに桑畑があり、そこで桑の実をかじって遊んだことを思い出しました。さらに母の実家の高い天井には蚕棚があり、囲炉裏の火で温めていた記憶も蘇ってきました。今から50数年前のことです。