100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL93  明治の三陸の産業15「畜産5」 (下閉伊郡)

2015-08-20 17:17:56 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小川乳油製造所」下閉伊郡小川村/現岩泉町小川)

 

 

 乳油とは、牛乳の脂肪分を固めた食べ物即ちバターやチーズ類のことです。現在の岩泉町は、先の葛巻町同様に酪農が盛んな町ですが、その原点は明治初頭まで遡ります。明治4年(1929)に岩泉の八重樫市右衛門氏に日本に輸入されたばかりの牛(ショートホーン種)が貸与され、在来種の南部牛と交配したことが記録されています。また前述(VOL91)のとおり明治25年(1950)にはホルスタイン種の飼育が始まっています。

 写真の「小川乳油製造所」は現在その社名は残っておらず、どのような変遷があったのかは分かりませんが、明治末期には搾乳だけでなく、既にバターなどの乳製品の製造が始まっていたとは、改めて岩泉の酪農の歴史の古さを知りました。


VOL92  明治の三陸の産業14「畜産4 乳牛②」 (九戸郡)

2015-08-19 16:00:10 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三浦牧場」九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

 

大規模多角経営「三浦農場」

 3葉とも三浦農場の写真です。先のVOL81の項でも紹介した蚕室や桑畑を持つ三浦農場と同じと思われます。養蚕以外にも酪農を手掛けるなど、当時の先進的な事業を大規模かつ多角的に経営されていた岩手県北の雄というべき機業であったことが伺い知れます。

「馬主牛従」から「牛主馬従」そして「馬無し」へ

 さて本写真帖には、当時の詳しい統計資料が付属しており、明治43年末の三陸沿岸の家畜は下表のとおりでした。別の資料によると、明治30年の岩手県全体で、馬は10万9千頭、牛2万2千頭とありますので、県全体に較べると牛の比率が高かったようです。また牛馬とも圧倒的に牝の割合が高く、仔を産ませては2歳位で競りに出したようです。

 

 前述のとおり、馬は軍用の以外にも、農耕あるいは運搬(木出し含む)と、現在のトラクターとトラックを兼ねた極めて有能な家畜で、それ故「曲り屋」で共に暮らし、飢饉のときでも最後まで手放さなかったのですが…、戦局が深まり軍の統制下で、馬は一切軍馬本位となり、扱いが難しい軍馬を養う資力のない零細農家は、無畜農家となり生活が困窮するようになったようです。そこで三陸沿岸の農家は馬より扱いやすい牛を導入し、馬主体から牛へと移行し、さらに戦後は軍用馬の需要はなくなり、さらに農業の機械化など農用馬は激減、いつしか近郷の農家に馬を姿を見かけることは無くなりました。


VOL91  明治の三陸の産業15 「畜産3 乳牛」 (九戸郡)

2015-08-18 14:55:03 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「袖山牧場」九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈)

 

「平庭牧場」九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈川)

 

(平庭牧場/ホルスタイン種)

 

(平庭牧場/エアーシャー種)

 

(種牡牛ブラウンスイス種、下閉伊郡岩泉村/小泉市兵衛氏所有)

 

(種牡牛エアーシャー種、大川畜牛園/下閉伊郡大川村) 

明治から続く「岩手の酪農」

 岩手県は全国第6位の牛乳生産量のある酪農県で、中でも葛巻町は、写真の袖山牧場や平庭牧場を始めとして乳牛の飼育が盛んに行われ、東北一の酪農の町として知られています。私は、この写真帖を見るまでは、葛巻を含む岩手県の酪農は昭和以降のものとばかり思っていましたが、調べると日本に最初にホルスタイン種が入ったのが明治18年、その5年後に小岩井牧場に、さらに2年後の明治25年に葛巻や岩泉にホルスタイン種の飼育が始まったようです。今から120年も前から岩手の酪農の歴史が始まっていたとは先人の先見性に恐れ入るところです。

 なお写真帖には、ホルスタイン種のほかに、イギリススコットランド原産のエアーシャー種とスイス原産のブラウン・スイス種も掲載されています。エアーシャー種は明治11年に札幌農学校に導入され、その後明治末までは国の奨励種として岩手を始め各地に導入された記録がありますが、ブラウン・スイス種は明治期の記録はなく貴重な資料です。但しいずれも乳量が少ないので徐々にホルスタイン種に換わられたようです。

 

 


VOL90  明治の三陸の産業14「畜産2」 (上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

2015-08-15 15:14:11 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

岩手の畜産(2)

 「上閉伊郡産馬組合遠野町馬検場」(上閉伊郡遠野町/現遠野市)

「気仙郡産馬組合馬見場」(気仙郡盛町/現大船渡市)

「九戸郡軽米村馬検場」(九戸郡軽米村/現軽米町) 

死語になった「馬検場」と「オセリ」

 本写真帖には当時(明治末期)馬産が隆盛を極めていた象徴として3カ所の馬検場の写真が納められています。今はバケンジョウと漢字入力すると、「馬券場」の文字が出て、「馬検場」あるいは「馬見場」は漢字変換候補にありません。現在ほぼ死語に近い「馬検場」は、本来は馬の検査や予防接種などをする施設ですが、オセリに呼称される馬のセリ市会場としても利用されていました。

 明治44年の岩手県産馬組合連合会が配布した競売日広告によれば、当時県内には20カ所のセリ場があり、連合会でセリ日が重複しないように調整をしていたようです。例えば写真の遠野町の馬検場のセリ日は、11月1日より8日までの8日間で計1300頭がセリにかけられ、飼育者や馬喰などの関係者以外にも近郷近在から大勢の見物人も集まり、露店やサーカスなども出て、大変な賑わいを呈していたようです。

    (盛岡タイムスWebNews)

VOL89  明治の三陸の産業13「畜産1」 (上閉伊郡・下閉伊郡・九戸)

2015-08-13 16:10:11 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

  岩手の畜産(1)

   

 

  

 写真帖の2頁を使って馬の写真が掲載されていました。当時岩手県では、畜産でも牛もさることながら馬産に力を入れていたことが窺い知れます。

源平の戦いで活躍した南部駒

 さて岩手は源平の昔より馬産地として知られていました。「平家物語」に登場する馬の殆どが南部馬です(宇治川の先陣争い/磨墨・生食、一ノ谷の合戦/太夫黒、他)。当然評価も高く、南部馬の最低ランクと他国産の優秀な馬が同じ値段だったようです(延喜式)。

軍馬とダービー馬

 その後江戸時代の南部藩においても、馬産は藩の重要政策であり、南部の九牧を中心に栄えてきました。さらに明治時代に入り、日清、日露戦争を機に「軍馬」の生産が奨励されて、岩手の産業の大きな柱の一つとなっていました。また競走馬の世界でも、明治40年(1907年)に小岩井牧場で日本最初のサラブレットの繁殖を始めて、三冠馬セントライトを筆頭に何頭ものダービー馬を産出し、戦前戦後の競馬界に燦然たる成績を残しています。

 さて、写真の馬には、上左から順に、①ハクニー雑種栗毛牡馬 山吹号 ②内国産洋種栗毛牡馬 中吉号 ③長澤共同種馬(下閉伊郡花輪村)、④内国産洋種栗毛牡馬(上閉伊郡宮守村共有種馬)  ⑤雑種栗毛牡馬(上閉伊郡栗橋村種馬/和田友治氏所有) ⑥栗毛二白牡馬(九戸郡軽米村/荒川松之助氏所有) ⑦種牡馬栗毛 頂号(下閉伊郡刈屋村)とあり、軍用馬の繁殖牡馬を地域毎に共有していた実態が伺えます。


VOL88  明治の三陸の産業12「耕地整理」 (上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-08-12 17:30:22 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

耕地整理/田」(上閉伊郡綾織村/現遠野市綾織

 

耕地整理/畑」(下閉伊郡豊間根村荒川/山田町豊間根

 

 <2カ月近く更新を休んでいましたが、再開します>

写真の綾織と豊間根の耕地が、現代と全く変わらず整備されているのに驚きました。この写真にトラクターが写り込んでいても何ら違和感はありません。

耕地整理とは確か中学校の社会地理の授業で聞いた記憶がします。私はてっきり戦後になって行われた事業とばかり思っていましたが、明治32年(1899年)に制定された耕地整理法に基づき、明治期に既に全国各地で実施されていたようです。小さく不整形な農地を一定の大きさに整理して、通路を整備して、当時であれば牛馬による作業が能率的に行えるようにしたり、用排水の利便性を向上させたりしたようです。

写真1の綾織村(現遠野市綾織)は、遠野盆地の西端に位置する田園地帯です。優美な綾織の地名は昔この地に天女が降りて綾を織り、その織物(曼荼羅)が地元の光明寺と云う寺に伝わることに由来しているそうです。この地区には南部曲がり屋代表である「千葉家住宅」や、柳田国男の遠野物語にも登場する「続き石」「羽黒石」などの巨石や猿ケ石川河畔の「桜並木」など遠野を代表する景観旧跡が数多くあります。