100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL5 宮古測候所(下閉伊郡鍬ケ崎町)

2013-08-31 16:38:21 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

宮古測候所(下閉伊郡鍬ケ崎町)

宮古測候所は、明治16年(1883年)に、内務省地理局12番目(即ち全国12番目)の測候所として、当時『鏡岩』と云われ現在は宮古漁協ビルが建っている宮古湾を一望できる出崎埠頭裏手の岩山に開設されました。

この全国12番目というのは、宮古は江戸期には東廻り航路の寄港地として栄え、明治に入ってもその重要性は増し、さらに三陸漁場の中心に位置することから、宮古で発する気象情報は三陸沖を通る船舶や漁船にとってはなくてはならないものとしていち早く設置が進められてものです。以来宮古の名は、天気情報の発信地としても全国津々浦々に伝わりました。私は学生の頃登山に明け暮れていて、朝夕テントの中でHNK第2放送の気象通報を聞きながら、天気図に宮古の気圧や風力などを書き込んだのが懐かしく思い出されます。

さて写真のシャレた庁舎は明治35年(1902年)に新築されたものです。写真では分かりにくいのですが洋風木造2階建ての庁舎は、実は「八角形」となっています。昭和30年(1955年)に解体するまでの長い間、港町宮古のシンボルとして親しまれいました。

なお宮古測候所はその後鍬ケ崎の町を見下ろす国道45号線脇に移転し、平成19年(2007年)に無地化されて幕を下ろしてしまいました。しかしIT全盛の今でも1日3回NHK第2放送から「宮古では東の風、風力3、晴れ、気圧…」と淡々とした声で気象通報が流され続けています。

ところでこの地には、江戸時代は所謂黒船対策として南部藩の砲台が設置されていたそうです。またこの鏡岩の突端は『由ケ尻』と呼ばれ、大きな洞門があり、宮古鍬ケ崎の名所の1つであったそうです。大正6年の埋め立て工事の際に取り除かれたものと思われ、私は古い写真や絵でしか見たことはありませんが、八角形の測候所と共に今に残っていれば観光名所となったと思います。

実は私が勝手に選んだ 「もし今でも宮古に残っていたらと思う7つの風景」 というものがあります。
今回の①宮古測候所 ②由ケ尻の洞門 と前回及び前々回の ③宮古郡役所 ④下閉伊郡物産館公会堂 残る3つはこの後のブログでご紹介します。

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VOL4 下閉伊郡物産館兼公会堂(下閉伊郡宮古町)

2013-08-29 17:59:17 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

下閉伊郡物産館兼公会堂(後の宮古町役場⇒宮古市役所)

この写真の建物は、明治44年(1911年)に、当時新川町にあった運河を埋め立てて造成した一角(現在宮古市役所本庁舎が建つ場所)に、「下閉伊郡物産館兼公会堂」として建築されたものです。即ち翌年に開催される「岩手県沿海四郡聯合物産共進会」(明治の三陸博覧会)のパビリオンとなったものです。明治の田舎町の公会堂としてはとてもモダンな建物と思えます。記録には工事請負費5,486円47銭、設計監督費250円、雑費190円、総工費5,926円47銭とあり、郡支出金4,590円、寄付金1,336円47銭で作られたそうです。現在の金額に換算する如何ほどでしょうか。当時は宮古地域には公的な集会施設がなかったので、様々な行事の会場として頻繁に使用されたようです。

その後大正14年に郡から宮古町に払い下られて宮古町有施設となり、町立の商業専修学校や愛宕小学校の仮校舎になるなどの変遷を経て、昭和13年に宮古町役場になり、昭和16年市制を施行した宮古市役所の最初の看板が掲げられました。
この庁舎は太平洋戦争の戦火やアイオン台風等の災害をくぐり抜けてきましたが、昭和42年(1967年)に隣家の出火で焼け姿を消してしまいました。もし今残っていれば明治の宮古を伝える歴史的建造物として宮古市のシンボルとなったことは間違いなく残念です。この火災は私が中学3年の時で、脳裏に強く焼き付いています。新市庁舎は、当然の如くこの跡地に再建が決まり、昭和46年3月に着工し翌47年(1972年)6月に完成し、現在も宮古市の本庁舎として機能しています。

平成23年3月11日、この庁舎の窓から撮影された撮影されたビデオ映像が、日本全国はおろか世界各地に放送されました。あの東日本大震災による大津波の映像です。庁舎横の国道沿いの堤防を真っ黒い津波が乗り越えて建物や自動車を押し潰していく光景は決して忘れることはできません。宮古市庁舎を襲った津波は庁舎1階床面から3.4mの高さに達し、1階は壊滅的な被害を受け機能を停止しましたが、幸いなことに2階より上は被害が軽微で、その後宮古市の震災復旧復興の拠点としてフル活動し市民生活を支え続け、1年余で復旧工事は完了し今に至っています。
そして震災後2年半を経過した昨今、今度は市役所庁舎の移転構想が浮上してきました。大津波に耐えた庁舎本体でしたが、40年前以上の建築設計で老朽化が著しくかつ耐震構造は基準に達していないので、建て替えが必要なので、JR宮古駅裏のJR敷地を移転候補地としているそうです。
はたして新市庁舎はどこに建てられて、行政のみならず地域コミュニティの拠点として、震災後の宮古の復興を推進していくのでしょうか。

これまで宮古の街は、時代と共に広がり、町の中心は西へ西へと移動してきました。この写真帳が発刊された今から100年前の明治末は、警察署・税務署・裁判所等の行政機関の庁舎は殆どが隣りの鍬ケ崎町に近い愛宕地区に集積し、一方商業は本町通り・新町通り(現在の東西を貫く中央通り商店街ではなく、南北を走る通り)が中心で、今の宮古駅や末広町商店街周辺は全て田圃でした。この郡役所は正に中間地点に位置し、名実共に宮古の拠点として当地域を支えていたのです。
その後行政官署も西へ移転していったのですが、唯一ここだけは、主や建物が代わりながらも同じ処で地方行政を支えてきました。

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VOL3 下閉伊郡役所(宮古町)

2013-08-26 17:18:51 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

 下閉伊郡役所(宮古町)

この写真は、今から約100年前の明治45年(1912年)当時の下閉伊郡役所です。現在は宮古市役所分庁舎が建っていますが、江戸期にはここに南部藩の宮古代官所があったと云われています。因みに歴代の代官にはかの平民宰相「原敬」総理大臣の先祖の名もあるそうです。

下閉伊郡役所は、明治12年(1879年)当時の閉伊地方を東西南北中の5郡に分け、宮古村に東閉伊郡の郡役所を置いたのが始まりで、その後明治30年(1888年)に中閉伊郡(川井)と北閉伊郡(岩泉)が統合し下閉伊郡となり、爾来100有余年宮古は下閉伊の政治経済の拠点となっています。明治45年当時の下閉伊郡(宮古町・鍬ケ崎町・山田町外25村)の人口は69,867人(現在の旧下閉伊郡全体計人口は1市2町3村計96,509人)でした。

さて写真を見ると、冠木門が何やら時代めいて見えますが、後程お見せする九戸郡役所の門も冠木門で、城の外門などに見られるような簡易な作りですが威圧感があります。右の門柱には墨痕鮮やかに「下閉伊郡役所」の字が見えますが、左の柱の文字は残念ながら判別できません。木柵の外側には電信柱(宮古に初めて電燈が灯ったのはこの明治45年のことです。出来立ての割合には柱が傾いているのが残念です)とその横に大きな掲示板が見えます。柵の内側には広場があり、中央の広い石段を登り板塀を抜けたところに、これも時代がかった鯱を乗せた大屋根と中央に採光用のガラス窓の破風を設えた間口15.6間の大きな建物と、左側に白壁の蔵が見えます。

ここで建物以外で私の興味を引いたのは、石垣を組んで嵩上げされた役所の土台です。宮古には有史以前から何度も大津波が襲来しています。約1150年前の貞観の津波(869年)当時は当地方には民家集落も少なく残された記録はありませんが、400年前の慶長の津波(慶長16年/1611年)では、鍬ケ崎では今回と同じく激浪が蛸ノ浜を越え、宮古では当時八幡山麓にあった常安寺を押し流し、宮古村は戸数200余戸の内僅かに数軒を残すのみで壊滅的な被害を蒙ったと記録にあります。代官所はその後に設置されていますので、慶長の大津波の浸水域より高く盛り土して建てられたと思われます。因みに今回の東日本大震災の津波でもこの土台の高さより上に波は届きませんでした。また江戸以前からあった横町から小沢方面に抜ける山沿いの古道から上には、津波は押し寄せてしていません。私達が父祖から伝えられてきた故事は、間違いなく確実に次の時代に残し伝え続けていかなければなりません。今回の大震災で改めて思い知らされました。

※追記(残念なお知らせ)

宮古の歴史を秘めた此の地が大きく変貌するようです。実は上記のとおり、下閉伊郡役所跡地には宮古市市庁舎分庁舎が建てられていますが、今般の宮古市庁舎の移転新築工事に伴い市分庁舎は解体され、「石垣を組んで嵩上げされた土台」も崩して土地を平たんにして公園化するそうです。此の土地には確かに歴史的な建造物は残っていませんが、分庁舎の土台は400年前に津波を避ける為に嵩上げされたものであり、もしかすると土台の中には慶長の石垣の一部が残されているかもしれません。大事に保存するほどの史跡ではないかもしれませんが、慶長から明治と続く三陸大津波の歴史を潜めた「土台」が、何ら顧みられることなく消されてしまうのは残念でなりません。土台の一部を残して三陸大津波の歴史を伝えるモニュメントを建立できないものでしょうか…


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VOL2 「明治の三陸博覧会」記念写真帳 附属地図

2013-08-25 17:42:42 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 100年前「明治の三陸」地図

 
 この地図は、今から約100年前の明治45年(1912年)に宮古市で開催された「岩手県沿海四郡聯合物産共進会」の記念写真帳の付属地図です。

 地図には当時の岩手県沿岸部の4郡(九戸郡・下閉伊郡・上閉伊郡・気仙郡)の主な地名が描かれています。明治期は三陸沿岸には市制を施行しているところはなく、私の住む宮古市は、宮古町・鍬ケ崎町の2町と、山口村・千徳村・花輪村・磯鶏村・津軽石村・崎山村・重茂村・刈屋村・茂市村・田老村・川井村・小国村・門馬村の13村に分かれています。

 中でも興味を引かれるのは、三陸沿岸を結ぶ陸路がとても細いことです。内陸部へ向かう道路は2重線で表記されていますが、現在の国道45号線に当る様な幹線道路この当時はなく、三陸の各地域間の交流は陸路より海路が主だったことが伺えます。

 したがって明治三陸大津波(明治29年/1896年)の復旧復興は、今回の東日本大震災より困難を極めたであろうことがこの地図からも容易に想像できます。この道路事情は、昭和三陸大津波(昭和8年/1933年)でも変わりなく、当地に支援の手が届くのに相当な時間が経過した後でしょうし、それまで間互いに助け合って凌いだのでしょうか。この三陸が自助自立の精神が強いのはこうした故もあろうかと思います。

 また今では殆ど利用されていない峠越えの道があることや、一部の山名などが今と異なるなど、とても興味深いものがあります。

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VOL1 「明治の三陸博覧会」記念写真帳 表紙

2013-08-24 14:11:53 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)
明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える
「明治の三陸博覧会」記念写真帳 
 
 

100年前の写真集
 この写真は、今から約100年前の明治45年(1912年)に宮古市で開催された「岩手県沿海四郡聯合物産共進会」の記念写真帳の表紙です。羽衣の松と天女の図柄がいかにも明治を感じさせます。
3つの三陸博(明治・昭和・平成)
 私がこの写真帳を初めて目にしたのは、平成4年(1992)に開催された「三陸海の博覧会」の折でした。偶々明治45年に当時の宮古町で、明治の三陸大津波(明治29年/1896)からの復興を記念して開催された「岩手県沿海四郡聯合物産共進会」と、昭和24年(1949年)に同じく宮古市藤原で前年のアイオン台風からの復興を記念して開催された「三陸振興産業博覧会」を知り、私はそれぞれ「明治の三陸博」「昭和の三陸博」と名付けて或る紙面に紹介したことがありました。その記事を見た宮古市山口の旧家のN氏が、この「明治の三陸博」の写真集があると私の店に持って来て見せて戴いたのが本写真帖でした。
 以来私も長い間本写真帳を探し続け、ようやく震災前の2010年にネット古書検索(日本の古本屋)で見つけ早速購入しました。この貴重な資料を多くの人に見て頂こうとネット公開の準備をしていましたが、しかし東日本大震災があり復旧復興活動に没頭して作業を中断していました。昨今漸く一段落したので今日から明治の三陸大津波から復興した100年前の三陸の姿を、順次公開していきます。
明治の三陸4郡の貴重な写真&資料集
 写真帳には「岩手県沿海四郡」とあるとおり、当時の九戸郡(久慈町外19村)、下閉伊郡(宮古町・鍬ケ崎町・山田町外25村、上閉伊郡(遠野町・釜石町・大槌町外14村)、気仙郡(盛町・高田町外20村)の役所や学校などの建造物を始め、各地の名所や眺望、さらには各種工場や造林地・工事現場・牛馬の類まで、当時の地域の有様を78頁186枚の写真に残しています。しかし玉石混交というか、貴重なものもあれば首をかしげる様なカットもあります。また当時の印刷技術では画質は多少目をつぶるしかありませんが、それでも約100年前のおらが郷土の様子は十分に伝わります。
 また付属の資料は更に詳細を極め、例えば各郡毎の基礎データともいうべき「郡勢一班」には、戸数・人口のみならず、職業別従事者数も記載され、農林漁業商工業を始め、町村吏員何名、神職住職何名とか、産婆や蹄鉄工の人数までも記載があって大変興味深いものがあります。また各産業の生産額や数量、各学校の就学児童数、馬車・荷車・人力車・自転車の数にいたるまで、B5足らずの紙面に沢山の情報が凝縮されています。他には各港湾の取り扱い荷役の数量金額や、当時の主産業であった蚕を含む農産物や漁獲物の数量及び金額がこと細かく記載されています。しかし旧字で小さく見にくいので、今後エクセルデータに変換してこれも順次掲載の予定です。
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