100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL55  明治の三陸名勝 8 「立見神社」 (九戸郡久慈町)

2014-10-15 09:42:31 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「立見神社」(旧久慈町/現久慈市) 

 

 本写真帖タイトルの「立見神社」をネットでいろいろな処を検索してみましたが、全くヒットせず、神社庁の久慈市神社一覧にもそれらしきものは見当たりませんでした。

 普通の建物であれば火災で焼失して現存しないということはありますが、神社では規模は小さくなっても引き継がれるはずです。そこで誤植ではないかと似たような名前を探りましたがありません。現代ではワープロの変換ミスもあるのですが…と思いながら突然閃きました。時代によって、充てる漢字が変化する場合がよくあります、すると《たちみ》あるいは《たつみ》が、別の漢字で表記されているのでは、もう一度神社庁の一覧表をチェックすると、該当する神社が見つかりました。

 久慈市中町の巽山公園内にある「巽山(たつみやま)稲荷神社」がそれです。確か「道の駅くじ」に近い小高い丘の上に神社があったことが記憶にありますので、地形的にも間違いはないと思います。但し、久慈には不案内なので確かではありませんが、この推測は当たっているような気がしますが、どうでしょうか? どなたかご教示ください。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?

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VOL54  明治の三陸名勝 7 「野田の玉川」 (九戸郡野田村)

2014-10-08 17:23:41 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

 「野田の玉川其の1、其の2(野田村)

 写真帖のタイトルは、「野田の玉川其の1、其の2」となっていますが、写真の写りも悪く、私自身も不案内で場所が特定できません。玉川とは、野田村の玉川地区を流れる玉川そのものを示すのか、あるいは玉川地区の玉川海岸を示すのか判然としませんが、本写真帖に掲載されている名勝地とすれば、「えぼし岩」一帯の玉川海岸の写真と推定します。但し上の写真の岩は「えぼし岩」とは形状が違うように思われます。下の写真も海岸風景ですが、左の大きな建物は民家ではなく、漁の番屋か保養の宿舎でしょうか。これも不明です。

 なお野田村は明治22年に、旧野田村と玉川村が合併して野田村となり、その後周辺の市町村が合併したにも関わらず、孤高を保って現在に至っています。

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VOL53  明治の三陸名勝 6 「一石一字」 (下閉伊郡山口村)

2014-10-04 11:59:43 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「五部大経一石一字之古碑」(旧山口村/現宮古市舘合)

 

 宮古市の中心市街地を一望に見下ろす舘合の高台にある経塚の碑(高さ約2.6m×幅1.85m)です。写真では判然としませんが、碑の上部に直径34㎝の円が描かれ、その下に「五部大経 一石一字 雲公成之 永和第二」の文字が刻まれています。

 五部大経(華厳・大集・般若・法華・涅槃の五経文)の経文を、一個の石に一字ずつ書いて経塚の土中に、雲公という人が、永和二(1376)に埋納したということです。ちなみに中でも有名な法華経の文字数は69,384文字、華厳経はなんと36百万文字を超えているそうなので、とても全部を書き写されたとは思えませんが、それでも有難い碑として古から敬われていたようです。

 本写真帖では碑文のとおり一石一字古碑となっていますが、宮古市民は一字一石塚、通称一石様として親しみ、昔は悪童の遊び場として、現在は一帯が近隣公園として市民の憩いの場となっています。

 この一字一石の経石は全国各地に点在していますが、建立確定年代が全国的にも古く、また碑文の書が優れていることなどから、以前は宮古市指定文化財、現在は岩手県の文化財に指定されています。

 ところで永和は、日本の南北朝時代の北朝の後円融天皇の治世で使われた元号で、当時当地域一帯に北朝の影響が及んでいたことの証左で、宮古にはこの経塚以外にも北朝所縁と伝えられる史跡があり、歴史的にもとても興味深いものがあります。

 なお山口村は、昭和16(1941)年に宮古町他と合併して宮古市となり現在に至っています。

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VOL52  明治の三陸名勝 5 「寶珠禪院の山門」 (下閉伊郡豊間根村)

2014-10-03 16:30:58 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「寶珠禪院の山門」 (旧豊間根村/現山田町豊間根)

 国道45線の西側の小高い鞍東山頂にある曹洞宗のお寺です。隣り町ですが私は未だ現地に行ったことがなく詳しくは分かりませんが、この山門は現存しているようです。但し今の山田町の各種観光案内には記述がなく、その存在は余り知られておりません。しかし明治の頃は写真帖に掲載されていることから、下閉伊地域では有名な建造物だったのと思われます。

 ネットから仕入れた情報ですと、宝珠院の境内は松や杉の老木に覆われ、裏山の沢からは清泉が流出し、情寂の風情をかもし出している幽玄の中にある寺院なそうです。近年新たに建造された本堂には、本尊の釈迦牟尼如来の他、円空作と伝えられる木像、毘沙門天像があり、薬師堂に本尊薬師如来像鎮が安置されているそうです。

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VOL51 明治の三陸名勝 4 「不動巖」 (上閉伊郡小友村)

2014-10-02 10:42:43 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

「不動巖」 (旧上閉伊郡小友村/現遠野市小友)

 

 今「遠野の不動岩」といっても分かる方は岩手県人でも遠野以外では殆どいないと思われます。但し明治・大正の頃は、岩手有数の景勝地で大正13(1923)年には岩手日報社企画の「岩手三景」の一つに選ばれています。

 「遠野物語」の舞台ともなっています。遠野市鱒沢から国道107号の大船渡方面に向かう途中にあり、写真の正面に見える高さ180尺(54m)の巨岩に龍が昇るような形をした割れ目があり、その割れ目を写真手前下に写る巖龍神社(明治以前は羽黒派修験者の源龍院)の山伏が、読経を唱えながら頂上まで登ったそうです。

 また毎年2月28日に行われる「小友町裸参り」は、この修験道の荒行が今に伝わる奇祭です。酷寒の冬の夜、神社の大鈴をもった厄男らが、町の南にある上宿橋そばの大般若供養塔までの約400mを3往復します。以前は不動岩の根に清水の湧き出る池があり、ここから汲み上げた「神水」で水垢離をしていたそうですが、今は湧水が出なくなり水垢離は省略されているようです。

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VOL50  明治の三陸名勝 3 「十一面観世音」 (気仙郡猪川村長谷寺)

2014-10-01 09:39:56 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「十一面観世音/長谷寺」(旧猪川村/現大船渡市猪川)

 現在の長谷寺は小さな寺ですが、歴史は古く、伝承によれば、大同年間(806-810年)に坂上田村麻呂が御堂を建立し十一面観音を祀ったと云われています。

 写真の木造十一面観音菩薩立像がそれで、写真帖の説明にも坂上田村麻呂将軍建立と説明文があります。但しその後の調査により、この十一面観音菩薩立像は鎌倉時代の作と判明し、もう一体の木造如来座像が平泉中尊寺の仏像群より古く東北地方最古級の平安末期の作と判明しています。いずれの仏像も1本の桂を鉈一丁で彫り上げる「鉈彫(なたぼり)」という技法で彫られており、県指定文化財となっています。但し残念ながら通常は収蔵庫に安置され非公開となっています。

 同寺は庇護する者も少なく時代によって盛衰を繰り返していたようですが、昔から気仙郡内の信仰を集めたといい、境内に歴史の深さを感じさせる古碑が多数残っています。

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