100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL20 明治の釜石港(上閉伊郡釜石町)全景其の1

2013-10-06 17:28:55 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の釜石港(上閉伊郡釜石町)全景其の1

釜石と云えば「製鉄の町」として有名ですが、写真のとおり明治45年には既に高炉の煙突から煙が上がっています。

前回の宮古鍬ケ崎湊と較べると、停泊している船舶や桟橋がより近代化及び大型化とされています。これは明治19年(1886年)当時の釜石鉱山田中製鉄所が、日本で初めて連続出銑に成功し高炉製鉄を軌道に乗せ、さらに日本の産業革命の進展とともに鉄鋼の需要が増大し、前述の本写真帖付属データのとおり、製鉄された鉄鋼材を東京・横浜方面への搬出か、あるいは北海道から製鉄の燃料となる石炭を搬入するためより大型の船舶が必要になったものと思われます。(製鉄所にまつわる話は製鉄所写真の項で)

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VOL19 明治の鍬ケ崎湊(現宮古市鍬ケ崎町)其の3

2013-10-02 00:12:48 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

明治の鍬ケ崎湊(現宮古市鍬ケ崎町)其の3

写真は、鍬ケ崎の裏山から湊を見下ろしたものです。鍬ケ崎湊は、北に突き出して大きく宮古湾を囲う重茂半島と、小さく南に出ている竜神崎に囲まれた波静かな天然の良港であり、江戸の昔から東日本太平洋沿岸有数の港であった訳が分かります。

さてご覧のとおり停泊している3隻の船は帆柱の残る2本マストの機帆船です。小さな船は艀や漁船でしょうか。前回掲載した三陸汽船の東北丸やこの後に紹介する釜石港に停泊する汽船と較べると些か旧式の船ばかりで、いかにも明治の湊らしい風情があります。当たり前ですが重茂半島や竜神崎の自然の姿は今と変わりません。

 

余聞(4)「鍬ケ崎に寄港した文人たち」

この鍬ケ崎の港には、江戸時代から多くの文人墨客が訪ねていますが、明治末期から昭和初期に来訪した岩手を代表する3人の文人の足跡を紹介します。
1人目は石川啄木。明治41年(1908年)23歳の時に北海道から再起を期して上京する旅の途中に立ち寄っています。この時の日記を刻んだ「啄木寄港の地」の碑が、鍬ケ崎港を見下ろすVOL5で紹介した旧宮古測候所後の宮古漁協ビルの敷地にあり「…午後210分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。四方の山に松や杉、これは北海道では見られぬ景色だ。…街は古風な、沈んだ、黴の生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。…」と刻まれています。

次は宮沢賢二。大正6年(1917年)の盛岡高等農林3年生の時に、釜石から三陸汽船で来港しました。その時当地随一の景勝地であった浄土ヶ浜を訪ねて詠んだ「うるはしの 海のビロード昆布らは 寂光のはまに敷かれひかりぬ」歌碑が浜の一隅に建てられています。

最後は東京出身ですが高村光太郎。戦中から戦後の昭和27年まで花巻で独居生活を送るなど岩手とゆかりの深い(因みに最初に疎開したのは宮沢賢二の実家、戦後戦争協力への自責の念から7年の独居生活を粗末な小屋で過ごす)詩人ですが、昭和6年に三陸汽船で石巻から三陸沿岸を北上して宮古に立ち寄っています。その時書いた随想には鍬ケ崎の街を「…鍬ヶ崎は両側に大きな妓楼が建ち並び、門口には妓夫や女が立っている。…人力車の車夫が奨めるので、此所から拾余町ある宮古にむかう。車上から物珍しげに左右を見まわす。一人の女性が『何見ておれんす』と、私をはやす。皆がどっと笑う。ひどくなごやかな所へ来た気がする。車は暗い切り通しを越え、長い黒塀つづきの魚くさい河岸を走って宮古につく…」と書いています。 

コメント (2)
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