100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL76  明治の三陸名勝29 「タグリガ瀧」 (下閉伊郡豊間根村荒川)

2015-03-28 14:55:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「タグリガ瀧」(下閉伊郡豊間根村荒川/現山田町荒川)

 

この滝は宮古湾に河口のある鮭で有名な津軽石川から遡ること約10㎞、支流豊間根川のさらに支流荒川に注ぐタグリ沢にあります。私も数度訪ねたことがありますが、林道がすぐ傍まで通じていて誰でも行きやすい処にある落差10m程の滝です。本写真帖には「タグリガ瀧」とカタカナ名の表記となっていますが、今は「多久里滝」の漢字が付されているようです。中には括弧書きで「手繰り滝」の表記がありました。名の由来は定かではありませんが、明治の頃から景勝地として知られていたようです。但し現在は周囲の森林伐採が進み、残念ながら深山幽谷の趣は失われています。

「森は海の恋人」の言葉のように、「森で培われる豊かな滋養分が水を通じて川から海に流れこみ、海の豊かさとなって海の生き物を育てる」(畠山重篤氏)と云われています。森林資源の活用と自然保護の両立は難しいものがあり、年を経れば豊かな森が回復するのでしょうが、皆伐は自然体系の破壊をまねきかねません。

今回も「ゆーし」様の「岩手の滝」掲載の写真を下記に転載します。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。

 


VOL75  明治の三陸名勝28 「一の瀧(又一ノ滝)」 (上閉伊郡附馬牛村)

2015-03-25 17:14:14 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

一の瀧(又一ノ滝)」(上閉伊郡附馬牛村/現遠野市附馬牛)

  

この滝は本写真帖に「一の瀧」の名称で記載されています。私はまだこの滝は見たことがなかったのでネットで画像検索をしたら遠野市宮守の寺沢川にある「一ノ滝」が見つかりましたが、どうも形状が異なり別物と思いましたので、前回紹介した「ゆーし」様の「岩手の滝」を拝見したら、下記の「又一ノ滝」の画像を見つけました。水流や岩の形状から、本写真帳の「一の瀧」は遠野市附馬牛地区の薬師岳の麓にある「又一ノ滝」と呼称されている滝と思われます。

この地区には、昔この滝を訪れた諸国行脚の僧が『紀州の那智の滝は日本一といわれるが、この滝は二番目だ』といったら、滝が怒って水を止めてしまい、あわてた僧は『この滝も又、(日本)一の滝だ』と言い直したら水が流れ始めた。それで『又一ノ滝』というのだ」という伝承があります。それから云えば明治の頃もそう呼称されていた筈で写真帖の「一の瀧」は誤記となります。

さて「那智の滝」は落差133mの日本一の名瀑ですが、こちらの「又一ノ滝」は残念ながら遠く及ばない幅5m落差20m程の滝です。しかし林道終点からブナなどが生い茂る道を徒歩で約30分、鬱蒼とした木立の中の巨大な一枚岩を滑るように流れ落ちる滝は十分に見ごたえがあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。


VOL74  明治の三陸名勝27 「大瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-21 18:11:39 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「大瀧 (下閉伊郡小川村字門/現岩泉町小川字門)

  

「大瀧」の名を冠する滝は岩泉町内に数カ所あり、当初は前回紹介した岩泉町大川地区の「七瀧」の約1㎞下流にある滝とばかり思っていたのですが、写真帖をよく見ると(小川村字門)とありましたので、小本川の本流を約40㎞遡り、小川中学校手前の石畑地区にある岩泉町の三十景の一つ「門の大滝」と思われます。

 大滝と云いながらも落差は5m足らずの滝ですが、淵は広く深く、現在はこの写真とは周囲の様相が異なり、滝の周囲を緑豊かな木々が覆い、小さいながらも春夏秋冬の季節を問わずとても風情があります。 (残念ながら写真からは今の景観が伝わりませんので、岩手の滝めぐりと云うブログの写真を下記にご紹介します)

 伝承では、乙女が毎朝この滝の淵の水面を鏡代わりに髪をとかし化粧をしたと謂われ、「化粧滝」も別名もあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。


VOL73  明治の三陸名勝26 「七瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-18 18:13:28 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

(石館銅山より望む)七瀧」下閉伊郡大川村/現岩泉町大川)

 

「七瀧」は、Vol69に紹介した龍甲岩のある小本川河口を遡ること約40km奥の北上山地北部の中央に位置する岩泉町大川地区にあります。深山幽谷とまでは云いませんが、豊かな自然に囲まれた清らかな渓流が、約100mの川筋の間に大小七段の滝となって流れ落ちています。(残念ながら写真からは景観がよく伝わりませんので、東北観光スポットめぐり をご覧ください)

 大川は、秋の紅葉や冬の雪景色も大変素晴らしいものがありますが、私は新緑の時季をお薦めします。若葉の間にピンクの山桜や赤いツツジやが水面に映えます。また大川は、渓流釣りの名所で、シーズンともなるとたくさんの釣り人が竿を並べています。さらに最近ではカヌーで急流下りを楽しむ好ポイントともなっているようです。

 さて題の「石館銅山」とは、どのような鉱山であったのか?残念ながら調べが及びませんでした。写真の撮影場所は、下流の北側の山腹からと思えるのですが、国土地理院の地図にはそれらしき鉱山跡の記載もなく、ネット検索でも該当する鉱山名を見つけることはできませんでした。隣りの岩泉町小川地区には本銅という地名が残り本銅鉱山という名の鉱山があったことや、宮古市の田老地区には田老鉱山と云う大きな銅山が40年程前まで稼働していたので、この地区で銅の産出があっても不思議ではないので記載は確かと思えますが…。


VOL72  明治の三陸名勝25 「湧窟(龍泉洞)」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-11 15:57:15 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「湧窟(龍泉洞)」下閉伊郡岩泉町)

 

 水が湧き出る岩窟なので「湧窟」とはこれまた直截的なネーミングです。写真が撮影された当時はそのように呼称されていました。実は私の岩泉の義父(大正生まれ)も以前はそのように呼んでいたそうです。また昭和13年(1938年)に国の天然記念物に指定されていますが、登録名は「岩泉湧窟及びコウモリ」のままなそうです。勿論現在は「龍泉洞」の名で広く知れ渡っていますが、はたしてこの名称はいつどのような経緯で付けられたのでしょうか?(ネット検索しましたが分かりませんでした)

 さて「龍泉洞」は、山口県の秋芳洞と高知県の龍河洞とともに「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられており、現在まで確認された距離は3631mで、中に世界一と云われる透明度41.5mの水深98mの第3地底湖や、水深120mの第4地底湖を始めとして7つの地底湖があるとても大きな洞窟です。

 北上山地の広大な森に降った雨や雪は、地下の石灰岩層を通り、この地底湖に湧き出します。この天然ミネラルを多く含んだ水は、昭和60年(1985年)に日本の名水百選に選定され、岩泉町産業開発公社が製造する「龍泉洞の水」は私の愛飲のミネラルウォーです。

「酸素一番宣言」と「水と緑のシンフォニー」

 岩泉町は、約993㎢と町では本州一の広大な面積を誇り、殆どが緑豊かな森林に覆われています。そして森林が産み出す酸素は、年間約107万トンと約400万人分の酸素呼吸量があると云われて、平成4年に「酸素一番の町」を宣言しています(その後平成の大合併で岐阜県高山市が岩泉の2倍以上、同じく宮古市も20%以上の面積を有することになったので、もしかすると現在は2.3番目かもしれませんが・・・ 年々過疎化が進み、人口は昭和45年(1970年)の約2.2万人から、現在約9,700人と激減しています。人と金は大都市に集中してどんどん二酸化炭素を排出し、片や岩泉や宮古は広大な林野から酸素を生み出しながら、地域から人が流出して衰退する一方です。少しは酸素排出交付金などの恩恵があっても良いのでは…)


VOL71  明治の三陸名勝24 「普代海岸1.2」 (下閉伊郡普代村)

2015-03-03 18:04:42 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「普代海岸1.2」下閉伊郡普代村)

   

 上の写真は、普代村の北部にある堀内海岸の岬です。この周辺には北山崎をはじめ北部陸中海岸の男性的景観が続いていますが、この岬の先端にある「沖松磯島・丘松磯島」も海岸美が堪能できる穴場の一つです。本写真撮影当時は、名前も付けられていませんでしたが、現在は二つ合わせて「夫婦岩」の名がも付けられ、長さ424メートルのしめ縄で繋がれています。

 下の写真は普代浜と南端の岩礁です。今回の東日本大震災でこの岩礁も大津波を丸ごと被ったと思いますが、岩の松は今でも緑の枝を茂らせています。

大津波被害を最小限に食い止めた。

さて普代村は、東日本大震災により15mを超える巨大津波に襲われたものの、死者は無く(船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1名)、被災民家もありませんでした。これは、この浜に流れ込む普代川の上流300mに設置された「普代水門」と、南隣の太田名部地区の「太田名部防潮堤」が津波を防せいだ故です。三陸沿岸各地の殆どの防潮施設が破壊された中で、津波から街と人を守った数少ない事例です。「現代の万里の長城」と云われた宮古市田老の高さ10mの長大な防潮堤でさえ、今回の津波にはひとたまりもなかったのに、先人の遺訓に従い、明治の津波は高さ15mあったので、それより高い15.5mの水門と堤防を造った当時の村長の英断により、普代は守られました。

 但し、普代村を襲った津波は田老地区より若干弱く、もしより高くより長時間に亘って強い圧力を加えられていたら、耐えきれずに決壊した可能性もありました。三陸沿岸各地で復興工事が進められていますが、海岸線をコンクリートで全て覆つくすのは良策ではありません。因みに普代村の水門は幅205m、堤防は155mと決して長くありません。河口及び海岸部は狭く、住家は広い後背地にあったので、地形的にピンポイント防災が可能な優位性がありました。ただそれがあったとしても、先人の遺訓を守り、海岸部に住家を造らず、襲った波高より高い堤防を造ったおかけで被害を免れたことは間違いありません。