「盛栄社製糸場」(気仙郡猪川村/現大船渡市猪川町)
しばらく「明治の三陸名勝」を紹介してきましたが、少し厭いたので一時中断して、今月から写真帖掲載の各種産業(農林漁業及び工業他)を中心に紹介します。
生糸は、明治期の日本において最大の輸出商品で、製糸業は富国強兵策を支える重要な産業の一つでした(と中学校時代に習った記憶があります)。先年富岡製糸場が世界遺産に認定され一躍脚光を浴びています。官営工場であった富岡には明治5年(1872)に既に最新の器械が導入されていましたが、三陸では明治末期になっても大規模な器械製糸の工場は少なかったようです。(本写真帳の付属資料集に、明治末期の三陸地域の製糸業の貴重な統計が多数ありますので後日掲載します)
「女工さんによる器械式製糸」
製糸は、繭を解いて生糸にすることをいいますが、「手繰り」「座繰り」「器械式」と大きく3つの方法があります。写真は、現在の大船渡市猪川地区にあった「盛栄社」という製糸場の光景です。大勢の女工さんが手前においた「煮繭鍋」の中にある繭から出た糸口を一つ一つ手で取り出して撚り合わせ、頭上にある集積器が巻き取っている様子が分かります。私は当初これが「手繰り」と思っていましたが、富岡製糸工場の案内に良く似た器械があり、どうやら外国製の製糸器械を改良した和式木製「器械製糸」のようです。器械といっても現在の自動化されたものではなく、大勢の女工さんの手が必要な代物です。動力は何を使っていたかは分かりません。
本写真帖の統計資料によると明治43年の気仙郡には器械式製糸工場が10以上が5箇所、50人以上が11箇所計16箇所もあったと記録されています。なお10人未満の小規模な座繰製糸の工場は650箇所あり、気仙郡は4郡の中で最も製糸業が盛んであったようです。
当時の製糸工場の担い手は、この工場に限らず若年の女子に拠っていたようです。女工さんによる製糸と云えば小説「野麦峠」に代表される女工哀史が連想されますが、当地の工場には近郷の農家の子女が通ったと思われ、小説ほどの過酷な労働を強いられてはいないと推量しますが…でも羽織を着た監督官らしき女性は厳しそうです。
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出典 https://kinarino.jp/cat8