100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL18 明治の鍬ケ崎湊(現宮古市鍬ケ崎町)其の2

2013-09-29 14:39:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

鍬ケ崎湊の風景(現宮古市)其の2
「三陸汽船」

この写真は明治41年に宮古・塩釜間の三陸航路に就航した三陸汽船の4隻の木造貨客船の一つ東北丸(145t)と思われます。(但しこの写真は本写真帖に掲載されていません。参考の為に用意しました)

平成の岩手県三陸沿岸の各都市は、「国道45号」と朝ドラ『あまちゃん』で有名となった「三陸鉄道」及び「JR各線」で結ばれています (但し東日本大震災の大津波により一部区間休止中)。
しかし明治後期まではVOL2で紹介した本写真帳附属の地図のとおり、鉄道はおろか道路も整備されておらず、大量輸送には江戸時代と変わらぬ海路に頼らざるをえませんでした。明治30年に東京湾汽船が東京から進出し塩釜を経由して宮古港に至る航路を開設しましたが、独占資本の法外な高額運賃設定で、これに反発した釜石鉱山田中製鉄所を始めとする地元資本家が共同出資で明治41年に立ち上げたのが三陸汽船株式会社です。

航路開設に当たって岩手県は補助金を出し、その代り岩手県内12港、宮城県内2港へ寄港することを義務付け、第1航路を塩釜・宮古間、第2航路を宮古・久慈間として就航しました。云わば今の「三陸鉄道」に当る三陸沿岸の待望久しい動脈です。その後東京航路や北海道航路も就航し、その拠点となった鍬ケ崎港は賑わいました。

当時の定期航路は次のとおりで、本社は釜石にありましたが、航路は宮古港を中心に組み立てられていました。これは本写真帖付属の明治43年における三陸沿岸各港の下記貨物取扱データ(後日詳細を本ブログに掲載します)を見ると、既に本格稼働していた釜石鉱山田中製鉄所を抱える釜石港が移出入とも全体の半分を占めていましたが、製鉄所関連の物資(鉄鋼材:移出、石炭:移入)を除くと、宮古港が全体の4割を占め拠点性が高かった故と思います。なお東京湾汽船は明治44年に撤退し、三陸汽船に凱歌が上がりましたが後日談があります(後記余聞参照)。

時代が進み、鉄路が三陸の地に達するようになると(宮古・盛岡間の山田線開通は昭和9年/1934年、大船渡・一関間の大船渡線は昭和10年/1935年、釜石・花巻間の釜石線は昭和25年/1950年)、人も貨物もあっという間に鉄道に奪われ経営は悪化し、戦時中の昭和18年(1943年)に会社は解散してしまいました。
所属船舶は、軍に徴用されて殆どが太平洋の藻屑と消えてしまいました。

 三陸汽船の航路
≪宮古航路/毎日1便相互運行≫ 塩釜港~気仙沼港~脇ノ沢港(陸前高田)~細浦港~大船渡港(盛町)~越喜来港~小白浜港(唐丹)~釜石港~大槌港~山田港~宮古港(鍬ヶ崎)
≪久慈航路/明治44年就航≫ 宮古港~野田港~久慈港
≪気仙沼航路/≫ 塩釜港~石巻港~十五浜港(雄勝)~志津川港~気仙沼港
≪東京航路/月1便:明治45年就航≫  宮古港~小名浜港~銚子港~東京港(築地)
≪北海道航路/月2便≫ 宮古港~八戸港~函館港~室蘭港

 余聞(3)「三陸汽船の裏話」

三陸汽船の進出により、暴利を貪っていた先行の東京湾汽船との間で激しい競争が始まり、船賃は約1/3以下となり、上述のとおり明治44年(1911年)に東京湾汽船は所有船舶を三陸汽船に売却し、ついに三陸の海から撤退しました。
このことを関係県町村史で『東北の現地資本が巨大な中央資本に一矢を報いて打ち勝った』と賞賛している例があり、私も最初は明治の三陸商人なかなかやると思っていましたが、実際はそうではありませんでした。東京湾汽船は確かに船舶を三陸汽船に売却しましたが、と同時に三陸の地元商人らの株を買い取り三陸汽船の筆頭株主となり、そして設立時の取締役らは退任し、名を捨て実を取る戦略により三陸汽船は事実上東京湾汽船に乗っ取られたのが真相のようです。

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VOL17 明治の鍬ケ崎湊(現宮古市鍬ケ崎町)其の1

2013-09-20 18:46:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

鍬ケ崎湊の風景(現宮古市)其の1

この写真は、明治45年当時の鍬ケ崎町(今の宮古市鍬ケ崎上町)の風景です。現在はこの浜辺を数十m先まで埋め立てられて、砂浜は姿を消し、コンクリートの岸壁となっています。

鍬ケ崎の湊(現宮古港)は、リアス式海岸特有の奥まった波静かな天然の良港で、江戸初期より南部藩の海の玄関口として、また江戸と松前を結ぶ東廻り航路の寄港地として、回線問屋や海産物の仲買商家が建ち並び栄えてきました。この写真ではわかりませんが、俗謡で「江戸で吉原、南部で宮古、宮古まさりの鍬ケ崎」と唄われたように港に立ち寄る人々を相手とした遊郭や料理屋が軒を連ね、三陸随一の歓楽街としても賑わっていました。

本ブログのVOL 8に記しましたが、宮古港の起こりは、400年前の慶長の大津波(慶長16年/1611年)により壊滅した宮古(鍬ケ崎含む)の再興の際に、南部藩初代藩主南部利直候が宮古港を同藩の外港と定めたことに因ります。

さて写真を見ると、三陸一の港と云いながら粗末な木造の桟橋しか見当たりません。宮古港が現在のように埋め立てられて岸壁が出現するのは大正6年のことで、当時は写真のように小型の船は桟橋を使い、より大きな船の場合は沖合に停泊して艀で荷卸しをしていました。

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VOL16 明治の盛町の街並み

2013-09-19 09:51:41 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

明治の盛町(現大船渡市)の街並み

明治45年(1912年)当時の上閉伊郡盛町(現大船渡市)の街並です。現在のさかり中央通り?でしょうか。

4間(7.2m)はありそうな広い道の両側に、2階に手摺格子のある立派な商家が立ち並んでいます。右手前に荷馬車に薪を積み降ろししているところを見ると、ここは薪炭業を営んでいた店でしょうか、あるいは商家が冬支度で薪を購入したものでしょうか。

道の左側には電柱が見えますが、右側にはなく電線も見えないことから、電気の敷設工事が始まったばかりの頃かと思います。

盛町中央通りには、夏になると色とりどりの七夕飾りが飾り付けられ、盛町各地区ごとに工夫した絵が描かれた壮麗な「あんどん七夕山車」が通りを練り歩きますが、この山車は明治の末期から続いているそうなので、最初の頃はこの写真の風景の中を運行したのかも知れません。電気のない暗闇の中を行燈の明かりで浮かび上がった七夕山車はさぞ見事だったでしょう。

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VOL15 気仙郡役所(盛町)

2013-09-18 10:04:09 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

明治の気仙郡役所(盛町 現大船渡市盛町)

この写真は、明治45年(1912年)当時の気仙郡役所です。

当地は、江戸時代伊達藩領でしたが、明治の廃藩置県後、花巻県、江刺県、一関県(改称水沢県・磐井県)を経て、明治9年の第2次府県統合により宮城県となり、その年すぐ岩手県に移管され、明治11年(1878年)の編制により気仙郡として発足しました。

その後明治22年の町村制の施行により、盛町(現大船渡市)、高田町(現陸前高田市)、大船渡村・末崎村・猪川村・立根村・赤崎村・日頃市村・綾里村・越喜来村・吉浜村(現大船渡市)、気仙村・竹駒村・米崎村・横田村・小友村・廣田村・矢作村(現陸前高田市)、世田米村・上有住村・下有住村(現住田町)、唐丹村(現釜石市)の計2町20村で、人口は56,011人ありました。

大船渡市は、盛町と昭和7年に町制を施行した大船渡町及び末崎村・猪川村・立根村・赤崎村・日頃市村の2町5村が合併して昭和27年に誕生しました。
現在気仙地方の行政経済の中心は、同じ市域ながら大船渡町に移っていますが、明治の頃は盛町あるいは隣りの高田町であったようです。

さて気仙郡役所ですが、明治の風格ある建物です。山裾に建てられていますが、今のどの辺りでしょうか。気仙郡役所の大きな表札が掲げられた頂部が円形の白い門柱が役所本体とは趣が異なりモダンです。木柵の手前には石垣に用いるのか何に使うのか岩石が多数転がっています。これから近くで工事をするところでしょうか。建物の築年や変遷など興味は尽きませんが、今の私にはネツト検索以外に知る術はありませんので気仙の人に託します。

<追記>

先日、盛岡での或る酒席で、この気仙郡役所の位置についての耳寄りな情報を得ました。大船渡市盛町の盛町の天神山公園の麓にある浄願寺というお寺の隣りの空き地(駐車場)は、元盛町役場が在った処というものでした。地図を開いて見ると、地形的にも合致しており、気仙郡役所が盛町役場となり、その後大船渡町と合併して現在の庁舎敷地へと移動したのかも知れません。(2014.6.28記)

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VOL14 明治の遠野の街並み

2013-09-17 12:11:15 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の遠野町(現遠野市)の街並み

明治45年当時の上閉伊郡遠野町(現遠野市)の街並です。鍋倉山の遠野城址から、北の土淵・遠野八幡宮方面を展望したものでしょうか。

さすが南部遠野の城下町、道が整然としていて、右手前から延びる道は、城址から今の遠野駅に向かっている通りでしょうか。写真中央の横道は一日町の通りか、それとも仲町の通りでしょうか。その交差点付近に少し気になるものが写っています。白い櫓状していますがこれは何でしょうか正体不明です。

さて遠野は家並みもしっかりしています。土蔵があちらこちらに見え、当時の遠野が行政のみならず、一帯の経済の中心地として繁栄していたことが伺い知れます。一番手前の白壁の二階建ての比較的新しそうな建物は、最初見たときはVOL13の上閉伊郡役所かなと思ったのですが、よく見ると2階の窓の形状が違います。ただ隣りの建物と併せて行政機関の建物であることは間違いないと思います。

あの有名な柳田國男の「遠野物語」が刊行されたのは明治43年のことですから、國男が見た遠野の街並みはこのままであったであろうし、定宿の高善旅館もこの写真に写っているかも知れません。但し、遠野物語の舞台となったカッパ淵はこの写真の上部右に霞んで見える方角であり、曲がり屋で有名な千葉家は左上部かなたで写真には写っていません。

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VOL13 上閉伊郡役所(遠野町)

2013-09-16 09:28:45 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の上閉伊郡役所(現遠野市)

写真の建物は、明治45年(1912年)当時の上閉伊郡役所です。

当時の上閉伊郡は、遠野町・綾織村・小友村・松崎村・附馬牛村・土淵村・青笹村・上郷村・宮守村・鱒沢村・達曾部村(以上現遠野市)、釜石町・甲子村・鵜住居村・栗橋村(以上現釜石市)、大槌町・金沢村(以上現大槌町)の計3町14村で、人口61,366人でした。なお現在釜石市域である唐丹村は、当時は気仙郡に属していました。

明治30年(1897年)に、当時の西閉伊郡・南閉伊郡が合併して上閉伊郡が発足して、郡役所を遠野町に設置しました。遠野は遠野南部氏2万石の城下町地として栄えた町で、郡役所の外、郵便局・警察署・裁判所・税務署などの行政官庁が置かれ、西は宮守、東は釜石・大槌にまたがる上閉伊郡の行政の中心地でした。

白く塗装した壁と白い門柱、当時普及し始めたトタン葺きと思われる薄い屋根など他の郡役所とは趣が異なった造りです。木柵前の道路や屋根に雪が見えます。(郡役所のあった場所その他の情報は、今の私は持ち合わせていないので、襤褸が出ないうちに紹介はこの辺で…)

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VOL12 明治の久慈 遠望其の2

2013-09-15 16:58:35 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

 

明治の久慈町(現久慈市)の遠望 其の2

VOL11とほぼ同じ場所から、カメラを右(西?)に振ったと思われる写真です。

久慈は、古く藩政時代には代官所が宇部町に置かれ、また大川目の三日町に市が立っていたそうで、当時は現在より西の地区が栄えていたようです。
その後昭和の初めに現在の場所に鉄道の駅ができることになり、久慈の市街地は久慈川上流の大川目地区から下流に向って線上に延びてきたそうです。するとこの写真とVOL11の写真は、大川目地区を久慈川上流から下流に俯瞰したものかも知れません。

 

過日 明治 (Takashi Taya)さんから、下記のコメントを頂いて、撮影場所が特定できました。ありがとうこざいました。「其の1、2のロケーションをみて、旧、久慈小学校から撮った様に見えます。現、土風館の後方高台です。前方は現、合同庁舎方向の様に思われます。遠方の山並みがそのように思えます。」

 

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VOL11 明治の久慈 遠望其の1

2013-09-13 17:47:37 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

明治の久慈町(現久慈市)の遠望 其の1

明治45年当時の九戸郡久慈町(現久慈市)の遠望です。残念ながら私にはこの写真がどの位置からどの方向を向いて撮られたのか分かりません。

写真の手前は当時盛んであった養蚕用の桑畑でしょうか。家屋は、VOL6.7の宮古町と同じように板葺や木っ端葺が多く瓦葺も見えます。写真中程に、白い煉瓦煙突と大きな建物が見えます。酒か醤油の醸造所でしょうか?

過日 明治 (Takashi Taya)さんから、下記のコメントを頂いて、撮影場所が特定できました。ありがとうこざいました。「其の1、2のロケーションをみて、旧、久慈小学校から撮った様に見えます。現、土風館の後方高台です。前方は現、合同庁舎方向の様に思われます。遠方の山並みがそのように思えます。」

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VOL10 九戸郡役所(久慈町)

2013-09-10 18:53:39 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

宮古が続きましたので、これからしばらく九戸郡から気仙郡までの写真をざっと紹介します。但し私は宮古の人間なので判らないところが多いので悪しからず。

九戸郡役所(岩手県九戸郡久慈町

この写真は、明治45年に当時の九戸郡役所前で撮られたものです。
明治45年当時の九戸郡は、久慈町・長内村・宇部村・夏井村・山根村・大川目村・侍浜村・山形村(以上現久慈市)、種市村・中野村・大野村(現広野町)、軽米村・小軽米村・晴山村(現軽米町)、葛巻村・江刈村(現葛巻町)、戸田村・伊保内村・江刺家村(現九戸村)、野田村の1町19村体制で、人口は64,668人でした。

階段の突き当りに冠木門があり、門柱に九戸郡の文字が見えます。門柱の周りには木柵が巡らされ、人垣の隙間から白壁を見えます。おもしろいのは門柱の上の雪洞様の飾り、まだ電燈のない時代で、行燈にろうそくを燈したのでしょうか。

ところでこの写真の九戸郡役所はどこにあったのでしょうか、今回私はネットでしか調べようがなかったのですが、残念ながら分からず仕舞いでした。
もう一つの方法として、この写真帳の資料集の「九戸郡勢一班」に記載されていた郡役所の位置「東経141度44分、北緯40度12分」を国土地理院の地図経緯度検索http://watchizu.gsi.go.jp/index.htmlで調べたのですが、該当する所は天神堂あるいは寺里の山中もしくは山際で、昔郡役所があったような場所はではありませんでした。経緯度の誤植かも知れません。後日図書館等へ出向いて調べようとは思いますが、ご存知の方は教えて下さい。

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VOL9 市日風景 (下閉伊郡宮古町)

2013-09-07 18:11:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 市日の風景(今の宮古市中央通)

写真は当時片桁(カタゲダ)と呼ばれていた今の宮古市中央通りで、毎月2と9の付く日に開かれていたという市日の一コマです。川岸に露店が立ち並び、写真手前ではカゴやザルなどの竹製品、その先は野菜でしょうか、自ら作り育てたものを所狭しと並べています。買い物する人には背負い籠(しょいかご)姿が目に着きます。近郷近在から沢山の人が集まり、先は正に黒山の人だかりで活気が溢れ、街が賑わっている様が見てとれて、今の商店街の姿と比較すると羨ましくなってしまいます。

写真奥の川の曲がり具合や途中に右方(北)から入る大きめの道路が見当たらないことから、この写真の撮影場所は現在の高橋交差点より西寄りかと思えます。撮影年は電信柱が見えることから、宮古に初めて電燈が点いた写真帳の発行年である明治45年、時季は通行人が綿入れの厚い着物を着て、また川の向こう岸や遠くの山に残雪が見えること、川面に薄氷が張っていることから寒い2月頃でしょうか。高い位置から撮られています。当時も今もこの撮影地点には建物がない筈なので高い脚立の上からでも俯瞰したのかも、それとも川岸に大きな木があってそこに登ったのかも知れません。

さて山口川に蓋をかける工事が始まったのが昭和29年、蓋をかけ終わり全面舗装工事が終了したのが昭和34年のことです。この写真撮影当時は南北の本町通りや新町通りが賑わっていましたが、山口川が暗渠となり道路が広くなると、宮古駅から末広町そしてここ中央通を経て宮古市役所へ向かう一本道が、宮古のメイン通りとなりました。

ところで私はこの写真を本写真帖以外でも、様々な資料集で何度も目にしています。どれが本元か分からりませんが、前述のとおり電信柱が写っていることなどから推察すると、この写真帳が元となり広がったのかも知れません。ともかく宮古の往時の賑わいが窺い知れるとても良い写真であることは間違いありません。

実は、この市日の風景が、私が勝手に選んだ 「もし今でも宮古に残っていたらと思う7つの風景」 の 其の5 です。市は、昨今の商店街になくなったの風情があり、人の交流と賑わいがあります。今で云う農工商連携の元となるものです。スローシティーという言葉が気になり始めたこの頃です。

(余話)

最近気象庁の過去データを調べたら明治45年(1912)の宮古の月毎の最低気温下表データを見つけ、その結果本写真の撮影日をある程度まで推測できましたので加筆します

本写真の撮影日は、①写真帖の出版は明治45年4月であり、宮古に電気が通じたのが同45年なので明治45年に確定。②川面には薄氷が、遠景の山には雪が見え、気象庁データでは宮古の最低気温は同年1月/-5.1℃、2月/-3.2℃(氷点下3度程度では川の流れがあるので薄氷が張るまでには至りません)、3月/-1.2℃なので1月、③市が立っているので1月9.12.19.22.29日までと推定しました。


(2013.9.6に投稿したものを、2017.2.11に一部修正)

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VOL8 町割り石(宮古の町の原点)

2013-09-07 12:34:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

今回は、写真帳から外れて、前々回の最後に書いた続きをします。

400年前の宮古町割り

慶長の大津波の関係とは

町割りとは、今でいう都市計画のことです。

宮古にはVOL3でも書いたように何度も大津波が押し寄せていますが、特に400年前の慶長の津波(慶長16年/1611年)では、当時八幡山と舘合の合間にあった常安寺を押し流し、宮古村は山麓の数戸を僅かに残すのみで壊滅的な被害を蒙ったと記録にあります。(先の東日本大震災の大津波は、埋め立て等により海岸線が沖に延び、また防潮堤等の効果があったのか、江戸初期に常安寺あった付近よりずっと手前で波は止まっていますので、もしかすると宮古に関しては慶長の大津波は今回より大規模だったのかも知れません)

その当時宮古を治めていたのが南部藩初代藩主南部利直候で、4年後の元和元年(1615年)に宮古を訪れて、20日間滞在し復興の陣頭指揮をとったと云われています。宮古代官所に残された記録には5月5日藩主が小本代官を伴って眺望のよい横町の小山に登り、松のそばの大石に上がって宮古一帯を見渡し、町割りを定めたとあります。そして最初に決めた町が今の本町です。それからこの大石を「町割り石」と呼ぶようになり今に伝えられています。
その18年後に小本代官が本町から横に伸びる横町、本町の隣り通りに新町、山口川を渡った向いに田町と海沿いに南部藩の水夫が住む御水主町(後の向町)の4町が新たに決められました。

開町と云う言葉があるならば、元和元年(1615年)こそが宮古開町元年に当り、正にこの大石は、宮古の原点であり宮古市の記念すべき大切な史跡です。すると再来年の平成27年(2015年)は、宮古市開町400周年の区切りの年となります。しかし今宮古市は、なぜかこの史実を顧みず、この町割りと同時期の宮古港を南部藩の外港としたことにのみ目を向け、宮古港開港400周年記念として様々なイベントを企画していると聞きます。なぜ港のみなのか分かりません。街か港かで綱引きをするつもりは毛頭なく、今は「宮古開町&開港400周年」として全市を挙げて東日本大震災からの復興に当るべきではないでしょうか。

また元を辿ればその4年前に遭った慶長の大津波(慶長16年/1611年)から立ち興ったのが宮古の街です。
この史実を宮古の皆がしっかり捉えていたら、2年前の平成23年(2011年)は、慶長16年の大津波からちょうど400年に当たっていたので、何かしらの警鐘を鳴らしその心構えを説くことができて、もしかすると東日本大震災の犠牲が多少とも軽減できたかも知れないと思うと残念でなりません。そしてこの写真帳はそれから300年後に作られたことを思うと何かしらの縁を感じます。
しかし残念なことに町割り石の存在は今ではすっかり忘れ去られ、案内板一つなく、利直候が登った沢田から道は石垣で閉ざされ、常安寺の墓地の間を縫って西の外れに残る山道を藪をかき分けながら辿りついても、周りに木が生い茂り残念ながら眺望がよくありません。

下の図面1は、安政4年(1857)に作成されたものです。翌年が井伊直弼の安政の大獄があった年ですから、幕末の大変動が正に起きなんとなるときで、宮古開町から240年余り経った頃です。既に街並みは整い、代官所前には下町ができ、移転した常安寺も境内も整っています。

 

下図2は元禄5年(1692年)に描かれた当時の宮古村の建物の間口を1戸毎に表記した図面の復元図です。本写真帳にはありませんが、私のデータにあったので参考までに転記します。

 

余聞(1)

 私がこの町割り石を初めて見に行ったのは約50年前のことです。当時健在であった明治27年(1894年)生まれの祖父に連れられて寺に墓参りに行った時に、「町割り石」とその傍にある「唐かさ松」を知っているかと尋ねられ、知らないと答えると、ではと連れて行かれ、南部の殿様の話を教えて貰いました。祖父が云うには、祖父が幼少の頃は町割り石の周りはきれいに草木が刈り取られた広場となっており、子供達はよく相撲などをして遊んだそうです。
 また私は12.3年前に小学生だった息子の自由研究の題材に町割り石を取り上げて、無理やり連れて登ったこともありました。その時町割り石の由来を伝えた筈ですが、先日聞いたらすっかり忘れていました。小さい子には無理だったかもしれませんが、大切な試みと今でも思っています。

 私達は400年前の慶長の大津波の教訓を生かすことはできませんでしたが、今回の東日本大震災の記憶は、祖父から孫へ、孫から子へと、長く伝え残して行かねばなりません。

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VOL7 明治の宮古の街並 其の2(横町通り)

2013-09-06 18:13:26 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

判官稲荷神社から横町通りを望む

沢田の裏山にある判官稲荷神社から、横町通りを経て館合方面を見渡した風景です。宮古小学校は右手の山陰にあります。ご覧のとおり横町から先には人家が見えず、今の保久田、末広町や宮古駅一帯は、一面の田圃が広がっています。末広町に家が建ち並び始めるのはこれから10数年後の大正末期からです。

人家の屋根は、重厚な瓦葺は殆ど見えず、板葺や木端葺にあるいは杉皮を葺いて石を重しにしたもので、白く光って見える薄い屋根はトタン葺きでなく太陽光にに反射した板葺と思われます。(日本で最初にトタンが作られたのは明治39年(1906年)のこと、宮古でトタン屋根が各所に見えるようになったのは大正9年以降のことです)

実はこの付近一帯は明治37年(1905年)にこの写真の左側に位置する新町地区から出火し、本町・沢田・田町・横町と燃え広がり、当時の宮古町の戸数1,220戸の内半分近い580戸が焼失する大火災に見舞われたばかりですので、写真に映る大部分の家屋はその後再建されたもので、火災に備えた白壁の蔵も散見されますが、大部分が板葺き・木皮葺きでは、火災の延焼が免れ得ず、狭い敷地で家屋がひしめきあっていては大火が発災するのは至極当然のことです(江戸時代や明治・大正の宮古の歴史を見ると大火の連続でした。しかしトタン屋根が普及した大正後期からめっきり大火が少なくなっています。宮古の災害を中心とした年表をいずれアップするのでご覧下さい)

さて横町通りの幅員(4間/7.2m)は現在と変わらぬ筈ですが、今より広くすっきりとして見えるのは余計な電柱類がないせいでしょうか。路端には今は蓋がされてしまいましたが、防火用水も兼ねた沢水を湛えた堰が流れています。この道も宮古で最も早く作られた道(慶長年間、前篇参照)の1つで、今は市道ですが、実はその前は県道、さらにその前は国道でした。但し明治45年は国道であったかは定かではありませんが、鍬ケ崎の港から盛岡に向う通称「宮古街道」の一部でした。また付近一帯は江戸から明治にかけて何度も大火に襲われており、当初はもっと狭かった道幅も延焼防止の為に広げたもので、写真に映る通り両側の建物のから推察するに、もしかすると明治37年の大火後に拡幅工事がなされたのかも知れません。
また先のvol2の宮古郡役所編にも書きましたが、宮古に電燈が点いたのが明治45年のことで、666戸1,911灯と記録にありますので、当時宮古の中心地であったこの地区は当然いち早く電信柱が設置されたはずですので、電信柱が見えないこの写真が撮られたのは明治45年より少し前かも知れません。

(2013.9.6に投稿したものを、2017.2.11に一部修正)

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VOL6 明治の宮古の街並 其の1(新町通り)

2013-09-06 17:20:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

横町裏山から藤原方面を望む

横町の裏山からの南方の藤原方面を展望した写真です。一番手前の街並は横町、その左は本町、斜めに伸びる道は新町から向町に繋がる通りです。その先に木造の新晴橋(今の宮古橋)が見え、橋を渡った先の白い大きな建物は現在の藤原小学校の敷地にあった県立水産学校の校舎です。その先には今は藤原埠頭となっていますが、当時は白砂青松を絵にかいたような景色であった藤原須賀の北端の松林が見えます。

私がこの写真を見てまず驚いたのが人家の密集具合です。今は東日本大震災の津波により本町や向町の多数の建物が消失し空き地だらけとなりましたが、震災前と比較しても数段混み合っていて、当時の本町・新町界隈の賑わいが分かります。
また写真を良く見ると、ナント通りに面した店々にアーケード状の軒(雁木がんぎ)が連なっているではありませんか。雪国の象徴とばかり思っていた雁木が明治の宮古の街にもあったとはとても興味深いものがあります。さらに拡大すると新町中程の店先に「熊谷」と書かれたノボリらしきものがひるがえっているのが見えます。今の熊谷土地当時の熊谷商店と思われ、これでここが新町と特定できます。

さてこの写真は、新町通りが斜めに見えることから、通称御深山(オシンザン)様の高みから俯瞰したものと思われます。この御深山の東寄り、常安寺墓地の西外れの山中に宮古にとって忘れてはならない史跡があります。(別稿「町割り石」に続く)

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