100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL94  明治の三陸の産業17「水産業②」 (三陸の漁獲物一覧)

2015-09-23 16:56:47 | 明治の統計集(下閉伊郡)

 

「明治の三陸の港には、サンマの水揚げがなかった」という話①

 

 この写真は本写真帳掲載のものではありません。昭和30年代の宮古港のサンマ船出漁時の集結写真です。当時宮古港はサンマ棒受け網漁の根拠地で、秋になると三陸のみならず全国各地から300艘を超えるサンマ船が宮古に集結し、町中がサンマ漁師で賑わっていました。そして或る朝許可証を得た船がサイレンの元に一斉に出漁する光景は壮観でした。

 現在は許可証の発行形式が変わり、全国各地からサンマ漁船が集結することもなくなり以前ほどではありませんが、それでも秋の宮古にとってサンマは漁獲高の上位を占めて地域漁業を支える大変重要な魚種です。それは明治の頃もそうだとばかり思っていました。しかし…

 下表は、本写真帳附属図表の明治43年の郡別の漁獲物を複写したものです。

 但し上表は数量は尺貫法(貫をトンに換算、1貫≒3.75㎏)で、かつ魚種名や漢数字等が見づらいので、下表に作成し直しました。なお1種だけ魚種名が不明なものがありました【魚編に氷と書く魚が何か全く見当がつきませんでした】。

三陸の漁獲の明治と現在の違い

 三陸は明治の頃も漁業が盛んで、沿岸の各漁には様々な種類の魚介が揚がっていました。しかしよく見ると、種類によっては漁獲量が大きく異なっています。平成24年の漁獲量(岩手統計年鑑)との比較は次のとおりです。

※1 平成のカツオはソウダカツオを含めていません。※2平成のマグロは全種合計値です。※3平成のタラはマダラとスケトウダラに分けていますが、明治期のタラは両方かどうか分かりません。なお明治のセグロイワシは、現在はカタクチイワシと分類されています。

「明治の三陸には、サンマがなかった」① 

 前回も触れましたが、明治の漁獲1位の鰹(カツオ)は、平成の現在は4分の一に激減していますし、その他にも現在三陸を代表する魚である「サンマ」の名が、明治には見当たりません。当時は別の呼称でしたのでしょうか。あるいは統計の記入漏れがあったのでしょうか。当初私はそのように推測したのですが、実は明治の頃は三陸ではサンマ漁が行われていなかったのです。(次回に続く)


VOL94  明治の三陸の産業16「水産業①」 (下閉伊郡)

2015-09-12 17:59:05 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

鰹漁 巖手丸 (岩手県水産試験場用船/下閉伊郡宮古町)

 

漁業は明治の頃も三陸の主要産業

(本稿からしばらく明治の水産業を紹介します)

 明治の時代も水産業は三陸の主要産業でした。前述のvol30でも下閉伊郡の統計で一部紹介しましたが、本写真帖の付属諸表から、三陸の産業全体の生産額(明治43年)を一覧表に直して比較すると次のとおりです。明治43年当時は、農産物が全体の41%を占めて最も多いのですが、漁業は漁獲物と水産製造を合せると26%と2番目となっています。

 

鰹は明治末の三陸の代表的な魚、でも今は

 

 鰹は、明治の三陸では写真帖に掲載する位代表的な魚種で、本写真帖の付属諸表(次回詳述)によると三陸全体で525,536貫(1貫3.75kgとすると、1,971t)の漁獲があり、当時の魚種別で一番の漁獲がありました。ところが現在(平成24年)はカツオ・ソウダカツオ合せて484tと明治の4分の1に減っています。漁獲法や加工販売ルートの変化等の要因があるかも知れませんが、三陸の鰹は、春から初夏にかけて三陸沖を北上して、ちょうど今の時季(8月から9月)にたっぷりと脂を蓄えて戻ってきて美味で、今も昔も三陸を代表する魚種と思っていた私には少しショックな数値でした。しかし明治と比較すると、三陸の魚には、もっと驚くべき変容がありました。

 

ナント!「明治の三陸には、サンマがなかった」 ※次回詳しく紹介します。


VOL93  明治の三陸の産業15「畜産5」 (下閉伊郡)

2015-08-20 17:17:56 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小川乳油製造所」下閉伊郡小川村/現岩泉町小川)

 

 

 乳油とは、牛乳の脂肪分を固めた食べ物即ちバターやチーズ類のことです。現在の岩泉町は、先の葛巻町同様に酪農が盛んな町ですが、その原点は明治初頭まで遡ります。明治4年(1929)に岩泉の八重樫市右衛門氏に日本に輸入されたばかりの牛(ショートホーン種)が貸与され、在来種の南部牛と交配したことが記録されています。また前述(VOL91)のとおり明治25年(1950)にはホルスタイン種の飼育が始まっています。

 写真の「小川乳油製造所」は現在その社名は残っておらず、どのような変遷があったのかは分かりませんが、明治末期には搾乳だけでなく、既にバターなどの乳製品の製造が始まっていたとは、改めて岩泉の酪農の歴史の古さを知りました。


VOL92  明治の三陸の産業14「畜産4 乳牛②」 (九戸郡)

2015-08-19 16:00:10 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三浦牧場」九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

 

大規模多角経営「三浦農場」

 3葉とも三浦農場の写真です。先のVOL81の項でも紹介した蚕室や桑畑を持つ三浦農場と同じと思われます。養蚕以外にも酪農を手掛けるなど、当時の先進的な事業を大規模かつ多角的に経営されていた岩手県北の雄というべき機業であったことが伺い知れます。

「馬主牛従」から「牛主馬従」そして「馬無し」へ

 さて本写真帖には、当時の詳しい統計資料が付属しており、明治43年末の三陸沿岸の家畜は下表のとおりでした。別の資料によると、明治30年の岩手県全体で、馬は10万9千頭、牛2万2千頭とありますので、県全体に較べると牛の比率が高かったようです。また牛馬とも圧倒的に牝の割合が高く、仔を産ませては2歳位で競りに出したようです。

 

 前述のとおり、馬は軍用の以外にも、農耕あるいは運搬(木出し含む)と、現在のトラクターとトラックを兼ねた極めて有能な家畜で、それ故「曲り屋」で共に暮らし、飢饉のときでも最後まで手放さなかったのですが…、戦局が深まり軍の統制下で、馬は一切軍馬本位となり、扱いが難しい軍馬を養う資力のない零細農家は、無畜農家となり生活が困窮するようになったようです。そこで三陸沿岸の農家は馬より扱いやすい牛を導入し、馬主体から牛へと移行し、さらに戦後は軍用馬の需要はなくなり、さらに農業の機械化など農用馬は激減、いつしか近郷の農家に馬を姿を見かけることは無くなりました。


VOL91  明治の三陸の産業15 「畜産3 乳牛」 (九戸郡)

2015-08-18 14:55:03 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「袖山牧場」九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈)

 

「平庭牧場」九戸郡江刈村/現岩手郡葛巻村江刈川)

 

(平庭牧場/ホルスタイン種)

 

(平庭牧場/エアーシャー種)

 

(種牡牛ブラウンスイス種、下閉伊郡岩泉村/小泉市兵衛氏所有)

 

(種牡牛エアーシャー種、大川畜牛園/下閉伊郡大川村) 

明治から続く「岩手の酪農」

 岩手県は全国第6位の牛乳生産量のある酪農県で、中でも葛巻町は、写真の袖山牧場や平庭牧場を始めとして乳牛の飼育が盛んに行われ、東北一の酪農の町として知られています。私は、この写真帖を見るまでは、葛巻を含む岩手県の酪農は昭和以降のものとばかり思っていましたが、調べると日本に最初にホルスタイン種が入ったのが明治18年、その5年後に小岩井牧場に、さらに2年後の明治25年に葛巻や岩泉にホルスタイン種の飼育が始まったようです。今から120年も前から岩手の酪農の歴史が始まっていたとは先人の先見性に恐れ入るところです。

 なお写真帖には、ホルスタイン種のほかに、イギリススコットランド原産のエアーシャー種とスイス原産のブラウン・スイス種も掲載されています。エアーシャー種は明治11年に札幌農学校に導入され、その後明治末までは国の奨励種として岩手を始め各地に導入された記録がありますが、ブラウン・スイス種は明治期の記録はなく貴重な資料です。但しいずれも乳量が少ないので徐々にホルスタイン種に換わられたようです。

 

 


VOL90  明治の三陸の産業14「畜産2」 (上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

2015-08-15 15:14:11 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

岩手の畜産(2)

 「上閉伊郡産馬組合遠野町馬検場」(上閉伊郡遠野町/現遠野市)

「気仙郡産馬組合馬見場」(気仙郡盛町/現大船渡市)

「九戸郡軽米村馬検場」(九戸郡軽米村/現軽米町) 

死語になった「馬検場」と「オセリ」

 本写真帖には当時(明治末期)馬産が隆盛を極めていた象徴として3カ所の馬検場の写真が納められています。今はバケンジョウと漢字入力すると、「馬券場」の文字が出て、「馬検場」あるいは「馬見場」は漢字変換候補にありません。現在ほぼ死語に近い「馬検場」は、本来は馬の検査や予防接種などをする施設ですが、オセリに呼称される馬のセリ市会場としても利用されていました。

 明治44年の岩手県産馬組合連合会が配布した競売日広告によれば、当時県内には20カ所のセリ場があり、連合会でセリ日が重複しないように調整をしていたようです。例えば写真の遠野町の馬検場のセリ日は、11月1日より8日までの8日間で計1300頭がセリにかけられ、飼育者や馬喰などの関係者以外にも近郷近在から大勢の見物人も集まり、露店やサーカスなども出て、大変な賑わいを呈していたようです。

    (盛岡タイムスWebNews)

VOL89  明治の三陸の産業13「畜産1」 (上閉伊郡・下閉伊郡・九戸)

2015-08-13 16:10:11 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

  岩手の畜産(1)

   

 

  

 写真帖の2頁を使って馬の写真が掲載されていました。当時岩手県では、畜産でも牛もさることながら馬産に力を入れていたことが窺い知れます。

源平の戦いで活躍した南部駒

 さて岩手は源平の昔より馬産地として知られていました。「平家物語」に登場する馬の殆どが南部馬です(宇治川の先陣争い/磨墨・生食、一ノ谷の合戦/太夫黒、他)。当然評価も高く、南部馬の最低ランクと他国産の優秀な馬が同じ値段だったようです(延喜式)。

軍馬とダービー馬

 その後江戸時代の南部藩においても、馬産は藩の重要政策であり、南部の九牧を中心に栄えてきました。さらに明治時代に入り、日清、日露戦争を機に「軍馬」の生産が奨励されて、岩手の産業の大きな柱の一つとなっていました。また競走馬の世界でも、明治40年(1907年)に小岩井牧場で日本最初のサラブレットの繁殖を始めて、三冠馬セントライトを筆頭に何頭ものダービー馬を産出し、戦前戦後の競馬界に燦然たる成績を残しています。

 さて、写真の馬には、上左から順に、①ハクニー雑種栗毛牡馬 山吹号 ②内国産洋種栗毛牡馬 中吉号 ③長澤共同種馬(下閉伊郡花輪村)、④内国産洋種栗毛牡馬(上閉伊郡宮守村共有種馬)  ⑤雑種栗毛牡馬(上閉伊郡栗橋村種馬/和田友治氏所有) ⑥栗毛二白牡馬(九戸郡軽米村/荒川松之助氏所有) ⑦種牡馬栗毛 頂号(下閉伊郡刈屋村)とあり、軍用馬の繁殖牡馬を地域毎に共有していた実態が伺えます。


VOL88  明治の三陸の産業12「耕地整理」 (上閉伊郡綾織村・下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-08-12 17:30:22 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

耕地整理/田」(上閉伊郡綾織村/現遠野市綾織

 

耕地整理/畑」(下閉伊郡豊間根村荒川/山田町豊間根

 

 <2カ月近く更新を休んでいましたが、再開します>

写真の綾織と豊間根の耕地が、現代と全く変わらず整備されているのに驚きました。この写真にトラクターが写り込んでいても何ら違和感はありません。

耕地整理とは確か中学校の社会地理の授業で聞いた記憶がします。私はてっきり戦後になって行われた事業とばかり思っていましたが、明治32年(1899年)に制定された耕地整理法に基づき、明治期に既に全国各地で実施されていたようです。小さく不整形な農地を一定の大きさに整理して、通路を整備して、当時であれば牛馬による作業が能率的に行えるようにしたり、用排水の利便性を向上させたりしたようです。

写真1の綾織村(現遠野市綾織)は、遠野盆地の西端に位置する田園地帯です。優美な綾織の地名は昔この地に天女が降りて綾を織り、その織物(曼荼羅)が地元の光明寺と云う寺に伝わることに由来しているそうです。この地区には南部曲がり屋代表である「千葉家住宅」や、柳田国男の遠野物語にも登場する「続き石」「羽黒石」などの巨石や猿ケ石川河畔の「桜並木」など遠野を代表する景観旧跡が数多くあります。


VOL87  明治の三陸の産業11 「葡萄園」 (下閉伊郡茂市豊間根村)

2015-06-20 16:35:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「葡萄園」下閉伊郡豊間根村/現下閉伊郡山田町豊間根) 

 

岩手の果樹はリンゴが主ですが、ブドウの栽培も内陸部が中心に行われて、収穫量は全国で10位前後です。三陸の各地でも小規模ですが葡萄園が点在していたようです。写真は現山田町豊間根地区の葡萄園で、佐々木甚五郎氏経営と記されています。畑に白く見えるのは春先の残雪でしょうか。

ブドウの歴史は、リンゴ同様に古くから世界各地で栽培されていたようですが、今も日本で栽培され人気のある品種の「甲州」が、平安時代の文治2年(1186)来の古い歴史を持つこと、またぶどう棚の栽培技術は江戸初期に、それぞれ甲斐(山梨県)の国人が発見あるいは考案したものであることを知り、現在の山梨県がブドウの一大産地であることはさもありなんと思った次第です。


VOL86  明治の三陸の産業10 「林檎園1.2」 (九戸郡軽米村・下閉伊郡茂市村)

2015-06-17 17:42:08 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「養蚕・製糸編」は終わり、今回からその他の農林業の写真を紹介します。

「林檎園1」九戸郡軽米村/現九戸郡軽米町)

 

「林檎園2」(下閉伊郡茂市村/現宮古市茂市)

 

実は岩手はリンゴの産地です

リンゴの産地と云えば、青森県や長野県が有名ですが、実は岩手県はこの2県に次ぐリンゴの産地です。その原産地は中央アジアなそうですが、現在私達が食しているリンゴは、明治初期に開拓使によってアメリカなどから導入された紅玉や国光を嚆矢とします。その後北海道から本州へと渡ったリンゴは青森で盛んに栽培され、ほどなく岩手にも伝わり、明治後期には三陸でも盛んに栽培されていたようです。

写真のリンゴの品種は不明ですが、1の写真は春先の「袋掛け」の風景です。また2の写真は何の作業中か分かりませんが、田鎖伝七氏経営とあります。


VOL85  明治の三陸の産業9 「岩泉繭乾燥場・栄橋繭乾燥場」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-06-13 17:57:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉繭乾燥場(林式)」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町) 

「栄橋繭乾燥場(御法川式)(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ② (乾繭)

乾繭(かんけん)の続きです。私は今回初めて繭乾燥業という業種があることを始めて知りましたが、製糸に欠かせない大切な工程の一つで、明治から昭和にかけて全国各地に大小様々の繭乾燥場があったようです。

上記写真は、2葉とも明治期の岩泉村にあった繭乾燥場です。但し岩泉乾燥場には「林式」、栄橋には「御法川式」と付されています。繭の乾燥方式と思われますが、詳しいことはわかりません。現在は勿論電力機械に乾燥ですが、明治の三陸では、薪を燃やした熱で繭を乾燥させる方式だったようです。


VOL84  明治の三陸の産業8 「宮古繭乾燥場」 (下閉伊郡宮古町)

2015-06-10 14:24:48 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「宮古繭乾燥場(林式)(下閉伊郡宮古町/現宮古市)

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅲ (養蚕・蚕室)

繭を作るため、古来、蚕を育てる仕事が盛んに行われてきました。この蚕を飼育する工程が「養蚕」であり、卵から孵化飼育する稚蚕飼育施設が「蚕室」です。既に建物の写真はVOL80.81でご紹介したとおりです。蚕(かいこ)は、絹の原材料としてとても大切にされ、三陸では「おかいこ様」と尊称を付けた呼び方をされていました。前掲の写真のとおり、蚕室は温かく清潔に保たれていることが分かると思います。

「蚕」から「繭」そして「絹」への道 Ⅳ (乾繭)

昨年富岡製糸工場を見学に訪ねたとき、工場の敷地内にその年の大雪で崩壊した大きな建物がありました。それが繭乾燥場でした。さて上記の写真は宮古にあった繭乾燥所です。場所は定かではありませんが、もしかするとVOL78の宮古足踏製糸場の隣にあったのかも知れません。間口も高さもある大きな建物です。

養蚕による繭づくりの「乾繭(かんけん)」とは、蚕室で育った繭を乾燥されることをいいます。繭を乾燥させるのは、①繭の中の蛹(さなぎ)を生きたままにしておくと、5日もすると羽化して蛾になってしまうことと、②生繭は60%以上が水分なので、長期間貯蔵するとカビが発生し腐敗するからなそうです。残酷ですが繭を熱乾燥すると中でサナギはミイラ化し、管理さえしっかりすれば製糸まで何年でも取り置くことが可能となります。


VOL83  明治の三陸の産業7 「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」(下閉伊郡岩泉村)

2015-06-07 15:38:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「岩泉蚕種貯蔵氷蔵庫」下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅱ(蚕種貯蔵)

昨年「富岡製糸工場と絹産業遺産群」として4カ所が世界遺産に登録されましたが、その中で一番なじみのないのが、「荒船風穴(群馬県下仁田町)」ではないかと思われます。この史跡は、明治から大正にかけて建設された蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設です。自然地形と天然の冷気を利用して蚕種を冷蔵し、養蚕を年に数回行うことを可能にしたものです。

寒冷な気候を利用した蚕種貯蔵施設「氷蔵庫」

明治初期の蚕飼育は春蚕のみでしたが、その後上記荒船風穴など蚕種を冷暗所に貯蔵し発生を遅くすることで、夏蚕や秋蚕の飼育を可能なりました。写真の氷蔵庫は、岩泉の桑園の一隅に穴を掘り、当地の冬の寒冷な気候を利用して作られた蚕種の貯蔵施設と思われます。


VOL82  明治の三陸の産業6 「三陸各地の桑園」 ①~⑦(九戸郡・下閉伊郡・上閉伊郡)

2015-06-05 09:42:27 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三陸各地の桑園」①~⑦

(①上閉伊郡綾織村/現遠野市、②下閉伊郡岩泉村/現岩泉町、③同郡刈屋村/現宮古市、④同郡茂市村/現宮古市、⑤⑥九戸郡大野村/現広野町、⑦下閉伊郡小川村/現岩泉町

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅰ(桑の栽培)

絹(生糸)は、蚕(カイコガの幼虫)がサナギになる際に吐き出された糸で作られた袋状の構造(これが「繭」)から作られます。この蚕を飼育する過程が養蚕で、その技術は弥生時代に稲作と共に中国から伝えられたと云われています。蚕は家畜化された昆虫で、野生回帰能力を失い、野生には生息しないし、人間の手がなければ生育することはできません。桑の葉は蚕の唯一の飼料で、養蚕は桑の栽培から始まります。

 さて養蚕が本格的に三陸地域で奨励されたのは、明治中期以降で本写真帖には前回の葛巻村の三浦農場の桑園の他に、7カ所の桑園・桑木の写真が掲載されていますので一挙に紹介します。大部分が若木で、その頃盛んに桑の植樹が行われたことが伺い知れます。また産業系の写真では一番多い掲載数で、当時の三陸の産業に占める養蚕の重要度が分かります。

※訂正 上記に写真の桑を若木と記しましたが、どうも私の勘違いと思われます。実は養蚕は年3回以上行われ、そのために蚕が育つ春から秋までの間は、常に管理され収穫していたようです。したがって桑は決して大きく育つことはなく、若木に見えたのは収穫後の桑木なようです。ご指摘を受ける前に、敢えて間違った記述を残し、知ったかぶりを訂正します。(2015/6/5)

 

 

①速成桑園(上閉伊郡綾織村)                    桑園遠景(下閉伊郡岩泉村)

  

③桑園(下閉伊郡刈屋村/藤原多見太氏所有)         ④桑園(下閉伊郡茂市村/野内佐助氏所有)

  

⑤桑園(九戸郡大野村/長内武一郎氏所有)         ⑥桑園(九戸郡大野村/野田三郎氏所有)

 ⑦大桑木(下閉伊郡小川村字石畑/南澤伊平氏所有)

 

 


VOL81  明治の三陸の産業5「三浦農場其の1.2」 (九戸郡葛巻村)

2015-06-01 17:52:54 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三浦農場其の1」(九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

 

世界遺産の「高山社跡」とウリ二つ、全国共通の蚕室構造(換気用の天窓)

明治末期当時は九戸郡でしたが、なぜか現在は岩手郡となっている葛巻町にあった農場です。写真下部中央の看板には「三浦農場〇〇部第一養蚕場」と記してあります。すると建物はこの他にも第2第3の養蚕場があったのでしょうか。また〇〇部とあるからには当時の三浦農場には他にも部署があり様々な事業を手掛ける大きな農場だったのでしょうか。

建物は前回紹介した刈屋製糸場の蚕室とよく似た構造をしています。またこれらとよく似た建物を他でも見たことがあると思い、養蚕でネット検索したら、あの世界文化遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つ「高山社跡」(群馬県藤岡市)とウリ二つ(下写真)でした。高山社は明治17年(1884)に設立された養蚕の教育機関で、「清温育」という蚕の飼育方法確立し、その技術を日本全国及び海外にまで広めたそうです。清温育とは文字通り、蚕室の風通しを良くしかつ温めることによって蚕を育成する方法です。全国各地からたくさんの実習生が高山社で養蚕技術学んでそうなので、もしかすると三浦農場や刈屋の人達もいたかも知れません。

したがって、2階の屋根に換気用の天窓(小屋根)を設け、2階の部屋には通気性と採光の良い大きな障子戸があるとう建物の構造がうり二つなのは当たり前です。また三陸の山間部のような寒冷な地では、1階の火気によって2階を温めていたものと思われます。

「高山社跡」(群馬県藤岡市)

「三浦農場其の2」(九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

さて本写真帳には三浦農場の写真がもう一葉ありました。葛巻の集落を見下ろす高台の桑園と思われます。そういえば私が幼少の頃、母の実家の山口地区(宮古市)にも、山の斜面のあちこちに桑畑があり、そこで桑の実をかじって遊んだことを思い出しました。さらに母の実家の高い天井には蚕棚があり、囲炉裏の火で温めていた記憶も蘇ってきました。今から50数年前のことです。