100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL77  明治の三陸の産業1 「盛榮社製糸場」 (気仙郡猪川村)

2015-04-10 17:50:29 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「盛栄社製糸場」(気仙郡猪川村/現大船渡市猪川町)

 

しばらく「明治の三陸名勝」を紹介してきましたが、少し厭いたので一時中断して、今月から写真帖掲載の各種産業(農林漁業及び工業他)を中心に紹介します。

生糸は、明治期の日本において最大の輸出商品で、製糸業は富国強兵策を支える重要な産業の一つでした(と中学校時代に習った記憶があります)。先年富岡製糸場が世界遺産に認定され一躍脚光を浴びています。官営工場であった富岡には明治5年(1872)に既に最新の器械が導入されていましたが、三陸では明治末期になっても大規模な器械製糸の工場は少なかったようです。(本写真帳の付属資料集に、明治末期の三陸地域の製糸業の貴重な統計が多数ありますので後日掲載します)

「女工さんによる器械式製糸」

製糸は、繭を解いて生糸にすることをいいますが、「手繰り」「座繰り」「器械式」と大きく3つの方法があります。写真は、現在の大船渡市猪川地区にあった「盛栄社」という製糸場の光景です。大勢の女工さんが手前においた「煮繭鍋」の中にある繭から出た糸口を一つ一つ手で取り出して撚り合わせ、頭上にある集積器が巻き取っている様子が分かります。私は当初これが「手繰り」と思っていましたが、富岡製糸工場の案内に良く似た器械があり、どうやら外国製の製糸器械を改良した和式木製「器械製糸」のようです。器械といっても現在の自動化されたものではなく、大勢の女工さんの手が必要な代物です。動力は何を使っていたかは分かりません。

本写真帖の統計資料によると明治43年の気仙郡には器械式製糸工場が10以上が5箇所、50人以上が11箇所計16箇所もあったと記録されています。なお10人未満の小規模な座繰製糸の工場は650箇所あり、気仙郡は4郡の中で最も製糸業が盛んであったようです。

当時の製糸工場の担い手は、この工場に限らず若年の女子に拠っていたようです。女工さんによる製糸と云えば小説「野麦峠」に代表される女工哀史が連想されますが、当地の工場には近郷の農家の子女が通ったと思われ、小説ほどの過酷な労働を強いられてはいないと推量しますが…でも羽織を着た監督官らしき女性は厳しそうです。

 

出典 https://kinarino.jp/cat8

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VOL66  明治の三陸名勝19 「(高田)松原」 (気仙郡高田町)

2015-02-02 17:43:27 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「松原」 (気仙郡高田町/現陸前高田市)

 

 前掲の浄土ヶ浜の写真もがっかりでしたが、それ以上にはこの写真はガッカリしました。

 残念ながらこの写真からは、大震災前には長さ2キロその数7万本を超すと云われた白砂青松の姿が浮かんできません。また写真のタイトルですが、単に「松原」とのみあります。確かに当時は地元の人は単に松原とのみ呼称していたのでしょうが、高田町以外の人は、三保にあるから「三保の松原」の如く、高田にある松原として「高田の松原」なとど呼称し、既に景勝の地として広く知られていました。

 さてこの松原は、最初江戸時代の寛文7年(1667年)に土地の豪商菅野杢之助によって植栽され、その後、松坂新右衛門といった地域の住人や仙台藩などによる増林が続けられ、防風・防潮の役目を果たすとともに、岩手県を代表する景勝の一つとなりました。しかしこの写真撮影から約100年後の平成23年(2011年)3月11日、あの東日本大震災の10mを超す大津波に、ほぼ全ての松が呑み込まれて松原は壊滅しました。その中で奇跡的に残った松は、「奇跡の一本松」として復興のシンボルとなっていましたが、それも地盤沈下により海水が浸み込み翌年ついに枯れてしまいました。

 現在陸前高田の町では、先人の遺志を引き継いで100年かけて松原を取り戻す活動を始めているとお聞きします。長い年月と幾多の困難が伴うと存じますが、松原が再生され次の世代に引き継がれることを心より祈念します。

余りにも味気ない写真なので、東日本大震災前の「高田松原」の白砂青松の見事な景観と、震災後の「奇跡の一本松」カラー写真を添えます。但しこの2葉は私が撮影したものではなく、高田松原の再生活動をしている「復興アクション 森のチカラで、日本を元気に」のHPより転載しました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?

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VOL50  明治の三陸名勝 3 「十一面観世音」 (気仙郡猪川村長谷寺)

2014-10-01 09:39:56 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「十一面観世音/長谷寺」(旧猪川村/現大船渡市猪川)

 現在の長谷寺は小さな寺ですが、歴史は古く、伝承によれば、大同年間(806-810年)に坂上田村麻呂が御堂を建立し十一面観音を祀ったと云われています。

 写真の木造十一面観音菩薩立像がそれで、写真帖の説明にも坂上田村麻呂将軍建立と説明文があります。但しその後の調査により、この十一面観音菩薩立像は鎌倉時代の作と判明し、もう一体の木造如来座像が平泉中尊寺の仏像群より古く東北地方最古級の平安末期の作と判明しています。いずれの仏像も1本の桂を鉈一丁で彫り上げる「鉈彫(なたぼり)」という技法で彫られており、県指定文化財となっています。但し残念ながら通常は収蔵庫に安置され非公開となっています。

 同寺は庇護する者も少なく時代によって盛衰を繰り返していたようですが、昔から気仙郡内の信仰を集めたといい、境内に歴史の深さを感じさせる古碑が多数残っています。

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VOL49  明治の三陸名勝 2 「洞雲寺」 (気仙郡盛町)

2014-09-30 09:25:01 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「洞雲寺」 (旧盛町/現大船渡市盛町) 

 洞雲寺も、前回の正徳寺と同じく気仙大工の代表的な建築物の一つです。左端に白く写る山門は、別名竜宮門とも呼ばれ、浦島太郎に出てくる竜宮城の門にも似た一層部の端部が丸み帯び白漆喰で塗り込められているのが特徴です。建造は文化年間(1804~18)で気仙大工である古沢氏が建てたとされています。写真中央に大きく聳える本堂も天保年間(1830~44)に同じく気仙大工の新沼幸作氏が棟梁となり建てられています。

 さてこの洞雲寺本堂には、明治29(1896)年のいわゆる「明治三陸大津波」により溺死した気仙郡内5678人全員の名前が刻まれた幅1.5m高さ2.7mの大位牌が安置されています。当時、同寺は臨時病院となって負傷者が運び込まれたそうです。懸命の治療及ばす亡くなられた方も大勢いたことと思われます。最期の場所となった洞雲寺門前に犠牲者の霊を弔う大海嘯記念碑が七回忌に当たる明治35(1902)年に建てられ、同時に大位牌が納められました。

 そして今回の東日本大震災の犠牲者を供養する「観世音菩薩像」及び記念碑・石碑が平成24(2012)年11月に、同じ洞雲寺の境内に建立されました(これ以上大津波記念碑が林立することは絶対に避けなければなりません)。

 

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VOL48  明治の三陸名勝 1 「正徳寺の庭松」 (気仙郡小友村)

2014-09-29 10:29:29 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「正徳寺の庭松」(旧小友村/現陸前高田市小友町)

  

 本写真帖には、三陸一帯の名勝が数多く掲載されています。但し、明治の頃と現代とでは、美意識や価値観の違いあるいは鑑定調査により現在はさほど有名でないものや、火災等で姿を消してしまったものもあります。けれどその対比、落差もそれまた一興です。今回からしばらく続けて紹介します。

 正徳寺は陸前高田市小友町字両替にある古刹で、本堂や太鼓堂は、文化3年(1807年)に気仙大工松山五郎吉により建てられた見事な造りです。但し写真帖のタイトルは「正徳寺の庭松」となっており、松がメインとなっています。当時は気仙大工の建築物は現代ほど高い評価を得られていなかったのでしょうか。なお此の松は現在も庭一杯に枝を広げており、その形状から「寝まり松」と名付けられているようです。

 さて陸前高田市小友町一帯は、東日本大震災の大津波が襲い衰滅的な被害を蒙りました。隣り浜の高田松原は全て消え失せ、高田の商店街も姿を残していません。この正徳寺も小高い山の中腹にありましたが、すぐ下の墓地まで波が押し寄せまたそうですが本堂等は無事で、両替地区の避難所となり大勢の方が身を寄せ合って避難生活を送り、地域の復興支援の拠点となったそうです。

 

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VOL47  明治の学校17 「世田米尋常高等小學校」(気仙郡世田米村)

2014-09-28 11:32:03 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「世田米尋常高等小學校」 (旧世田米村)

(現 住田町立世田米小学校)

  

 世田米尋常高等小学校は、明治6年(1873年)8月に旧世田米村58番地に校舎を建て開校しました。その後明治32年(1899年)に旧世田米村火石34番地に移転新築しています。(その後火災があり現在地に再移転しています)

 写真には、立派な玄関を中心に左右対称のコの字構えの採光の良い大きなガラス窓の2階建て校舎が写っています。撮影年月や当時の小学校の詳しいことは分かりません。その他詳しい情報を得るこができましたら後日補足追加します。

 世田米村は、昭和15年に町制を施行し世田米町となり、その後昭和30年 1955年)に上有住村・下有住村と合併して住田町と改称し現在に至っています。

 さて17回続いた「明治の学校シリーズ」はこれで終了です。三陸地区にはこの他にも古い歴史を持った小学校はたくさんあり、写真帖発行当時は立派な校舎に大勢の児童が学んでいた筈ですが、どのような事情か分かりませんが本写真帖に掲載がなかったのでブログで紹介できませんでした。

 

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VOL16 明治の盛町の街並み

2013-09-19 09:51:41 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

明治の盛町(現大船渡市)の街並み

明治45年(1912年)当時の上閉伊郡盛町(現大船渡市)の街並です。現在のさかり中央通り?でしょうか。

4間(7.2m)はありそうな広い道の両側に、2階に手摺格子のある立派な商家が立ち並んでいます。右手前に荷馬車に薪を積み降ろししているところを見ると、ここは薪炭業を営んでいた店でしょうか、あるいは商家が冬支度で薪を購入したものでしょうか。

道の左側には電柱が見えますが、右側にはなく電線も見えないことから、電気の敷設工事が始まったばかりの頃かと思います。

盛町中央通りには、夏になると色とりどりの七夕飾りが飾り付けられ、盛町各地区ごとに工夫した絵が描かれた壮麗な「あんどん七夕山車」が通りを練り歩きますが、この山車は明治の末期から続いているそうなので、最初の頃はこの写真の風景の中を運行したのかも知れません。電気のない暗闇の中を行燈の明かりで浮かび上がった七夕山車はさぞ見事だったでしょう。

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VOL15 気仙郡役所(盛町)

2013-09-18 10:04:09 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

明治の気仙郡役所(盛町 現大船渡市盛町)

この写真は、明治45年(1912年)当時の気仙郡役所です。

当地は、江戸時代伊達藩領でしたが、明治の廃藩置県後、花巻県、江刺県、一関県(改称水沢県・磐井県)を経て、明治9年の第2次府県統合により宮城県となり、その年すぐ岩手県に移管され、明治11年(1878年)の編制により気仙郡として発足しました。

その後明治22年の町村制の施行により、盛町(現大船渡市)、高田町(現陸前高田市)、大船渡村・末崎村・猪川村・立根村・赤崎村・日頃市村・綾里村・越喜来村・吉浜村(現大船渡市)、気仙村・竹駒村・米崎村・横田村・小友村・廣田村・矢作村(現陸前高田市)、世田米村・上有住村・下有住村(現住田町)、唐丹村(現釜石市)の計2町20村で、人口は56,011人ありました。

大船渡市は、盛町と昭和7年に町制を施行した大船渡町及び末崎村・猪川村・立根村・赤崎村・日頃市村の2町5村が合併して昭和27年に誕生しました。
現在気仙地方の行政経済の中心は、同じ市域ながら大船渡町に移っていますが、明治の頃は盛町あるいは隣りの高田町であったようです。

さて気仙郡役所ですが、明治の風格ある建物です。山裾に建てられていますが、今のどの辺りでしょうか。気仙郡役所の大きな表札が掲げられた頂部が円形の白い門柱が役所本体とは趣が異なりモダンです。木柵の手前には石垣に用いるのか何に使うのか岩石が多数転がっています。これから近くで工事をするところでしょうか。建物の築年や変遷など興味は尽きませんが、今の私にはネツト検索以外に知る術はありませんので気仙の人に託します。

<追記>

先日、盛岡での或る酒席で、この気仙郡役所の位置についての耳寄りな情報を得ました。大船渡市盛町の盛町の天神山公園の麓にある浄願寺というお寺の隣りの空き地(駐車場)は、元盛町役場が在った処というものでした。地図を開いて見ると、地形的にも合致しており、気仙郡役所が盛町役場となり、その後大船渡町と合併して現在の庁舎敷地へと移動したのかも知れません。(2014.6.28記)

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