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100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL90  明治の三陸の産業14「畜産2」 (上閉伊郡・気仙郡・九戸郡)

2015-08-15 15:14:11 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

岩手の畜産(2)

 「上閉伊郡産馬組合遠野町馬検場」(上閉伊郡遠野町/現遠野市)

「気仙郡産馬組合馬見場」(気仙郡盛町/現大船渡市)

「九戸郡軽米村馬検場」(九戸郡軽米村/現軽米町) 

死語になった「馬検場」と「オセリ」

 本写真帖には当時(明治末期)馬産が隆盛を極めていた象徴として3カ所の馬検場の写真が納められています。今はバケンジョウと漢字入力すると、「馬券場」の文字が出て、「馬検場」あるいは「馬見場」は漢字変換候補にありません。現在ほぼ死語に近い「馬検場」は、本来は馬の検査や予防接種などをする施設ですが、オセリに呼称される馬のセリ市会場としても利用されていました。

 明治44年の岩手県産馬組合連合会が配布した競売日広告によれば、当時県内には20カ所のセリ場があり、連合会でセリ日が重複しないように調整をしていたようです。例えば写真の遠野町の馬検場のセリ日は、11月1日より8日までの8日間で計1300頭がセリにかけられ、飼育者や馬喰などの関係者以外にも近郷近在から大勢の見物人も集まり、露店やサーカスなども出て、大変な賑わいを呈していたようです。

    (盛岡タイムスWebNews)

VOL75  明治の三陸名勝28 「一の瀧(又一ノ滝)」 (上閉伊郡附馬牛村)

2015-03-25 17:14:14 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

一の瀧(又一ノ滝)」(上閉伊郡附馬牛村/現遠野市附馬牛)

  

この滝は本写真帖に「一の瀧」の名称で記載されています。私はまだこの滝は見たことがなかったのでネットで画像検索をしたら遠野市宮守の寺沢川にある「一ノ滝」が見つかりましたが、どうも形状が異なり別物と思いましたので、前回紹介した「ゆーし」様の「岩手の滝」を拝見したら、下記の「又一ノ滝」の画像を見つけました。水流や岩の形状から、本写真帳の「一の瀧」は遠野市附馬牛地区の薬師岳の麓にある「又一ノ滝」と呼称されている滝と思われます。

この地区には、昔この滝を訪れた諸国行脚の僧が『紀州の那智の滝は日本一といわれるが、この滝は二番目だ』といったら、滝が怒って水を止めてしまい、あわてた僧は『この滝も又、(日本)一の滝だ』と言い直したら水が流れ始めた。それで『又一ノ滝』というのだ」という伝承があります。それから云えば明治の頃もそう呼称されていた筈で写真帖の「一の瀧」は誤記となります。

さて「那智の滝」は落差133mの日本一の名瀑ですが、こちらの「又一ノ滝」は残念ながら遠く及ばない幅5m落差20m程の滝です。しかし林道終点からブナなどが生い茂る道を徒歩で約30分、鬱蒼とした木立の中の巨大な一枚岩を滑るように流れ落ちる滝は十分に見ごたえがあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。


VOL64  明治の三陸名勝17 「釜石公園十二神」 (上閉伊郡釜石町)

2015-01-24 15:13:32 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

「釜石公園十二神」 (上閉伊郡釜石町/現釜石市)

 

写真の公園は、現在は薬師公園と呼ばれ、釜石市大町商店街の裏手の高台にあり、市街地と釜石湾を見下ろす展望と桜の名所で知られ、釜石市民の憩いの場となっています。園内には戦災者の霊を慰め、平和を祈って建てた平和女神像や、多くの句碑や文学碑及び頌徳碑があり、また市内最古の歴史を誇る観音寺が第二次大戦後移転再建されています。

此の地はかっては「薬師堂」または「十二神」と呼ばれていました。その以前は広厳山医王寺というお寺があり、「薬師如来及び日光菩薩、月光菩薩十二神将を安置」していたことからそのように呼ばれていたと思われます。

現在でも釜石市民に人気の公園ですが、その昔も名勝として知られていたようです。薬師堂中興の祖である敬天律師が約二〇〇年前に選んだ釜石八景の中にも「広厳山の秋の月」として薬師山からの風景が含まれていますし、写真が撮影された明治時代も景勝地として賑わっていたようです。


VOL63  明治の三陸名勝16 「忠魂碑1~3」 (宮古町・遠野町・大槌町)

2015-01-22 18:46:06 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

忠 魂 碑

(下閉伊郡宮古町/現宮古市・上閉伊郡遠野町/現遠野市・同大槌町)

  

(宮古町)            (遠野町)            (大槌町)

忠魂碑とは、戦没者の霊を慰霊・顕彰するために在郷軍人会や遺族会らが建立した碑をいいます。その歴史は、明治時代の戊辰戦争までさかのぼりますが、その後の日清・日露戦争以降に全国各地の町や村に広まりました。また、戦時下では、軍国教育の一環として学校の敷地内に建立されたものも多くあったといいます。但し、第2次世界大戦後その多くが撤去されましたが、変遷を重ねて今でも残されているものがあります。

本写真集には、3基の忠魂碑が掲載され、いずれも現存していますので紹介します。

「下閉伊郡宮古町の忠魂碑」 宮古港を見下ろす宮古市光岸地の高台にある大杉神社の境内の一角にあります。大きな石の台座の上に、高さ約4mの石碑があり、碑の中央に大きく忠魂碑、その上に明治27・28年戦没と刻まれていますので、日清戦争の戦没者を祀ったものです(日露戦争は明治37-38年/1904-1905)。この境内には他に幕末の戊辰戦争の宮古湾海戦の戦跡碑もありますが、確か私の小学校1年の時の遠足の地で、それらの碑の存在も知らずに遊んだことを覚えています。

「上閉伊郡遠野町の忠魂碑」 現地確認はしていませんので確かなことは分かりませんが、この立派な碑は、現在も遠野市全域を見下ろす鍋倉山の展望台に、鉄柱は白く塗られているものの、柱頭の鷲の像と共にあるようです。高さは3丈5尺といいますから約10mの塔です。因みに建立は明治44年なそうなので建立後すぐの写真です。

「上閉伊郡大槌町の忠魂碑」 この碑は幾多の変遷を経て、現在は平成14年に町内全域を見下ろす城山公園の一角に立っています。その経緯は城山公園の石碑に詳しく刻まれていますが、最初は明治40年に日清・日露戦争の大槌町出身の戦没者への哀悼碑として街なかの御社地内に建立され、第2次大戦後解体撤去され同町内の小槌神社境内に9年間放置されていましたが、昭和31年に同神社境内に再建されて、さらに平成14年に現在地に再々移転して、今回の大津波から免れています。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL51 明治の三陸名勝 4 「不動巖」 (上閉伊郡小友村)

2014-10-02 10:42:43 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

「不動巖」 (旧上閉伊郡小友村/現遠野市小友)

 

 今「遠野の不動岩」といっても分かる方は岩手県人でも遠野以外では殆どいないと思われます。但し明治・大正の頃は、岩手有数の景勝地で大正13(1923)年には岩手日報社企画の「岩手三景」の一つに選ばれています。

 「遠野物語」の舞台ともなっています。遠野市鱒沢から国道107号の大船渡方面に向かう途中にあり、写真の正面に見える高さ180尺(54m)の巨岩に龍が昇るような形をした割れ目があり、その割れ目を写真手前下に写る巖龍神社(明治以前は羽黒派修験者の源龍院)の山伏が、読経を唱えながら頂上まで登ったそうです。

 また毎年2月28日に行われる「小友町裸参り」は、この修験道の荒行が今に伝わる奇祭です。酷寒の冬の夜、神社の大鈴をもった厄男らが、町の南にある上宿橋そばの大般若供養塔までの約400mを3往復します。以前は不動岩の根に清水の湧き出る池があり、ここから汲み上げた「神水」で水垢離をしていたそうですが、今は湧水が出なくなり水垢離は省略されているようです。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL43  明治の学校13 「大槌尋常高等小學校」(上閉伊郡大槌町)

2014-09-24 09:45:50 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

「大槌尋常高等小學校」 (大槌町)

(旧 大槌町立大槌小学校)

 大槌尋常高等小学校は、明治初期に創立した歴史の学校で、幾多の変遷を経て多くの児童が学んで育っていきましたが、平成23年3月11日の東日本大震災の大津波とその後の大火災により校舎の大半を失い、その後平成25年に大槌町内の安渡小、赤浜小、大槌北小と4校が統合して、新大槌小学校と生まれ変わり、旧大槌小学校は閉校扱いとなりました(それで上記サブタイトルを旧大槌小学校としました)。沿革その他詳しい情報が掲載されていたであろう旧大槌小学校のホームページは今は無く、残念ながら知ることがきませんでした。今後資料が集まり次第補足追加します。

 写真のとおりコの字型の立派な構えの校舎です。両翼の校舎のどちらかが講堂と思われますが、左右どちらでしょうか。また裏手にそびえる塔屋はどのような役割をはたすものでしょうか?気になります。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL24 明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

2014-07-12 17:50:42 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

 遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)は、県内でも有数の歴史ある学校です。創立は明治34年(1901年)で、遠野高校の学校要覧沿革を調べたところ、校舎は明治と大正期に火災で焼失したものの、校地の移転はなく、現在と同じ場所(遠野市六日町)のようです。なお写真の校舎は明治40年の火災の後再建された白亜の建物です。

前稿記述のとおり、当時の岩手県三陸沿岸地区唯一の中学校として、上閉伊郡(遠野・釜石)のみならず、下閉伊・気仙地区からも若者が集まり幾多の優秀な人材が育っています。 


VOL21 明治の釜石港(上閉伊郡釜石町)全景其の2

2014-02-11 12:32:10 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

※※パソコン故障等諸々の事情により、約5か月更新を休んでいましたが再開します。※

明治の釜石湾(上閉伊郡釜石町) 其の2

さて前回は、釜石製鉄所を控えた工業の港ですが、この写真は釜石港のもう一つの顔である漁港の姿です。場所は現在の魚市場の辺りと思われます。浜には数多くの漁船が繋がれています。

本写真集の付属資料によれば、明治末期の上閉伊郡の漁獲は数量金額ともに一番多いのは鰹で次に続くのが鮪、鮭であったようです.(詳しくは後日資料編を本ブログアップします)

写真を見て気になったのが、右下の屋根の上に乗っている白い筒状の大きな物体です。円筒なのか球体なのかも判然としませんが、これは一体何? 魚加工場の煙突ではないでしょうし、全く見当もつきません。

まもなくあの東日本大震災から丸3年となります。今は痕跡はありませんが、この近くに大津波により打ち上げられた大きな貨物船があったのを思い出します。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL20 明治の釜石港(上閉伊郡釜石町)全景其の1

2013-10-06 17:28:55 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の釜石港(上閉伊郡釜石町)全景其の1

釜石と云えば「製鉄の町」として有名ですが、写真のとおり明治45年には既に高炉の煙突から煙が上がっています。

前回の宮古鍬ケ崎湊と較べると、停泊している船舶や桟橋がより近代化及び大型化とされています。これは明治19年(1886年)当時の釜石鉱山田中製鉄所が、日本で初めて連続出銑に成功し高炉製鉄を軌道に乗せ、さらに日本の産業革命の進展とともに鉄鋼の需要が増大し、前述の本写真帖付属データのとおり、製鉄された鉄鋼材を東京・横浜方面への搬出か、あるいは北海道から製鉄の燃料となる石炭を搬入するためより大型の船舶が必要になったものと思われます。(製鉄所にまつわる話は製鉄所写真の項で)


VOL14 明治の遠野の街並み

2013-09-17 12:11:15 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の遠野町(現遠野市)の街並み

明治45年当時の上閉伊郡遠野町(現遠野市)の街並です。鍋倉山の遠野城址から、北の土淵・遠野八幡宮方面を展望したものでしょうか。

さすが南部遠野の城下町、道が整然としていて、右手前から延びる道は、城址から今の遠野駅に向かっている通りでしょうか。写真中央の横道は一日町の通りか、それとも仲町の通りでしょうか。その交差点付近に少し気になるものが写っています。白い櫓状していますがこれは何でしょうか正体不明です。

さて遠野は家並みもしっかりしています。土蔵があちらこちらに見え、当時の遠野が行政のみならず、一帯の経済の中心地として繁栄していたことが伺い知れます。一番手前の白壁の二階建ての比較的新しそうな建物は、最初見たときはVOL13の上閉伊郡役所かなと思ったのですが、よく見ると2階の窓の形状が違います。ただ隣りの建物と併せて行政機関の建物であることは間違いないと思います。

あの有名な柳田國男の「遠野物語」が刊行されたのは明治43年のことですから、國男が見た遠野の街並みはこのままであったであろうし、定宿の高善旅館もこの写真に写っているかも知れません。但し、遠野物語の舞台となったカッパ淵はこの写真の上部右に霞んで見える方角であり、曲がり屋で有名な千葉家は左上部かなたで写真には写っていません。


VOL13 上閉伊郡役所(遠野町)

2013-09-16 09:28:45 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の上閉伊郡役所(現遠野市)

写真の建物は、明治45年(1912年)当時の上閉伊郡役所です。

当時の上閉伊郡は、遠野町・綾織村・小友村・松崎村・附馬牛村・土淵村・青笹村・上郷村・宮守村・鱒沢村・達曾部村(以上現遠野市)、釜石町・甲子村・鵜住居村・栗橋村(以上現釜石市)、大槌町・金沢村(以上現大槌町)の計3町14村で、人口61,366人でした。なお現在釜石市域である唐丹村は、当時は気仙郡に属していました。

明治30年(1897年)に、当時の西閉伊郡・南閉伊郡が合併して上閉伊郡が発足して、郡役所を遠野町に設置しました。遠野は遠野南部氏2万石の城下町地として栄えた町で、郡役所の外、郵便局・警察署・裁判所・税務署などの行政官庁が置かれ、西は宮守、東は釜石・大槌にまたがる上閉伊郡の行政の中心地でした。

白く塗装した壁と白い門柱、当時普及し始めたトタン葺きと思われる薄い屋根など他の郡役所とは趣が異なった造りです。木柵前の道路や屋根に雪が見えます。(郡役所のあった場所その他の情報は、今の私は持ち合わせていないので、襤褸が出ないうちに紹介はこの辺で…)