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100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL70  明治の三陸名勝23 「茂市(師)附近の眺望」 (下閉伊郡小本村)

2015-02-13 18:00:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「茂市()附近の眺望」 (現下閉伊郡岩泉町小本)

 元の明治の写真帖のタイトルは「茂市附近の眺望」とありますが、音は同じでも、「市」ではなく、「師」の誤植と思います。(モシと読みます)

 さて茂師海岸と云えば、先のVOL67で紹介した「宮古層」と呼ばれる前期白亜紀(約1億1千万年前)の地層から日本で最初の恐竜化石が発見されたことで知られています。昭和53年(1978)の夏、旧国道45号線の道路脇の崖(宮古層群の礫岩)に露出していた脊椎動物の化石が見つかりました。その後のこの化石は、史上最大の陸生脊椎動物といわれる全長20mを超す竜脚類という大型草食恐竜の上腕骨(前足)の一部であることが判明し、発見地に因み「モリリュウ」と名付けられました。但し、化石は状態が悪く詳細な分類ができないことから正式な学名は付けられていません。

 なお宮古層から発見される化石はアンモナイトなどの海中に棲む動物が主で、陸生の恐竜が同じ地層から発見されることは不思議に思いますが、当時の陸地から海に運ばれ海中動物と一緒に堆積したものと考えられています。すると現在は山ばかりの同地域に、モシリュウが生息していた当時は、恐竜が生息できるような広々とした草原があったのでしょうか… 夢が広がります。

 それまで中生代の日本列島は、大部分が海の底にあったので、恐竜は生息していなかったと考えられていましたので、定説を覆す大発見でした。その後恐竜の化石は日本各地で発見され、中生代(ジュラ紀後期~白亜紀後期)、数多くの恐竜が生活していたことが明らかになりました。

※いわいずみブログ「わが国で初めて発見された白亜紀の巨大恐竜

 さて本ブログには、宮沢賢治が度々登場しますが(Vol18.67.68)、この大発見の34年前に発表された「楢ノ木大学士の野宿」では、主人公が岩手県の海岸で白亜紀の爬虫類の骨格化石を探すうちに、大きな恐竜に出会う夢を見ています。賢治は当時から三陸に恐竜化石が眠っていると考えていたのかもしれません。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL69  明治の三陸名勝22 「龍甲巖(岩)島」 (下閉伊郡田野畑村小本村)

2015-02-09 16:09:57 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「龍甲巖(岩)島」 (下閉伊郡岩泉町小本)

 

 龍甲巖(岩)は、岩泉町尾本地区の小本川の河口にある、三角形の巨岩です。この珍しい名前の由来には、アイヌ語のタッコ(小高い丘)に、龍神の甲(かぶと)に似ているのをダブらせて龍甲(たっこう)を当てたという説があるそうです。三陸沿岸にはこの他にもアイヌ語に由来すると云われる地名が各地にあります。

 さて写真帖撮影の当時から、景勝の地として知られていたようですが、現在の龍甲岩は頂きに松が大きく育ち、更に趣きが増して小本川河口のシンボル的存在となっています。但し撮影当時と違い、前回の島越松島同様に、陸から島まで防波堤を伸ばして、河川港を造成したので今では陸続きとなっています。この一帯も東日本大震災の大津波で防潮堤が壊れるなど甚大な被害を蒙り、現在復興工事が盛んに行われています。

龍甲岩でネット検索していたら、「水彩画fromいわて」というブログでこの龍甲岩を描いた水彩画を見つけ、作者工藤哲郎様からご了解を頂きましたので下記に掲載します。

 

 また本ブログの明治の学校シリーズ「VOL41小川尋常高等小学校」に、工藤様のモミジの水彩画もアップしました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL68  明治の三陸名勝21 「島の越松島」 (下閉伊郡田野畑村)

2015-02-06 12:59:06 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「島の越松島」 (下閉伊郡田野畑村)

 松島と云えば日本三景の一つ宮城県の松島が有名ですが、松が生えている島だからと名付けられた同じ名を持つ島は全国各地に100を超す数があると思います。この写真は前回紹介した島越海岸近くにある小島です。明治の頃よりちゃんとした名が付けられ写真帖に掲載れているので当時から北三陸を代表する景勝の地として知られていたのでしょう。但し、現在の景観は本写真撮影の頃とは大分異なっています。頂きに松が生えている姿は変わりませんが、港の整備に伴い、島を利用して左右に防波堤が作られ、また海面が埋め立てられ島とは陸続きになってしまいました。

 しかし今回の東日本大震災の大津波は、その防波堤も楽々と乗り越えて島越の集落の殆どをなぎ倒してしまいました。田野畑村には、NHKの朝ドラ「あまちゃん」で一躍有名になった「三陸鉄道北りあす線」が走っており、島越地区には瀟洒な洋風の「島越駅」がありましたが、大津波は土台の一部を残して、駅舎・ホーム・線路等の全てを押し流してしまいました(先の「あまちゃん」で線路が津波に流されたシーンはこの駅付近で撮影されています)。その後三陸鉄道は、国や全国の皆様方からの支援を受けて、会社と地域が一体となって復旧活動を進め、震災から3年半後に新駅舎が完成しました。

 なお震災前の瀟洒な島越駅舎には「カルボナード」の愛称が付けられていました。これは前回紹介した宮沢賢治に因んでおり、童話「グスコーブドリの伝記」の舞台が由来となっています。隣りの田野畑駅の愛称「カンパネルラ」は童話「銀河鉄道の夜」の登場人物に由来しています。またこの駅舎前に設置されていた賢治の詩碑は、奇跡的に流されずに残りました

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL67  明治の三陸名勝20 「海岸(島越)」 (下閉伊郡田野畑村)

2015-02-04 12:08:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

海岸(島越)下閉伊郡田野畑村)

 

 これもまたザックリしたタイトルですが、当時は土地の人にとっては景観/観光という概念は無く、その種の価値を持ちない名もない海岸であったので仕方がないのかもしれません。

 近年この「海岸」一帯は、その自然景観が高く評価されて、大震災後は三陸復興国立公園、その前は陸中海岸国立公園に指定され、多くの観光客が訪れています。また最近は景観のみならず、地質学・地理学といった地球科学的な視点から注目を集めています。それが「ジオパーク」です。三陸沿岸には地球の歴史に実際に触れることができる場所(ジオサイト)に恵まれており、平成25年9月に「日本ジオパーク」に認定されました。 ※三陸ジオパークオフシャルサイト

 さてこの写真にもジオパークの代表的なものが写り込んでいます。写真左上から斜めに海に入り込んでいる縞模様の層理が「宮古層」と呼ばれる前期白亜紀(約1億1千万年前)の地層がそれです。この地層は田野畑村から宮古市にかけての太平洋沿岸にかけて広く分布し、アンモナイトから恐竜まで豊富な種類と量の化石が産出していることで知られています。

 写真は現在の島越港から付近から北に向かって撮られたものと思われます。三陸海岸有数の景勝地北山崎はここから北に約10㎞、200mの断崖が続く鵜巣断崖は南に約5㎞の地点にあります

 此の地には、あの宮沢賢治も訪ねています。詩集「春と修羅」には、大正14年(1925)に近くの羅賀港から宮古に三陸汽船(前掲VOL18「明治の鍬ケ崎湊其の2」参照)に乗船して宮古に向った折に詠んだとされる詩「発動機船1.2.3」があり、3基の詩碑が建てられていました。地質学に造詣の深かった賢治は、既にこの地層の存在を知っていたのでしょうか? なお賢治は、この写真帖発刊の契機となった明治三陸大津波があった明治29年(1896)に生まれ、昭和三陸大津波の年(昭和8年/1933)にその短い生涯を閉じています。そして今回の東日本大震災の大津波で詩碑3基の内1基が流出してしまいました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL65  明治の三陸名勝18 「浄土ヶ浜」 (下閉伊郡鍬ケ崎町)

2015-01-26 14:51:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「淨土の濱」(下閉伊郡鍬ケ崎町/現宮古市鍬ケ崎)

 

淨土の濱 其一(下閉伊郡鍬ケ崎町)

淨土の濱 其二(下閉伊郡鍬ケ崎町) 

淨土の濱海水浴場 (下閉伊郡鍬ケ崎町)

 

まず名称ですが、今では「浄土ヶ浜」と言い慣わしていますが、この写真帖では「ケ」ではなく「の」となっています。百年前はそのように呼んでいたのでしょうか。

さて我が宮古が誇る景勝地「浄土ヶ浜」の100年前はどんな様子だったのか、ワクワクして頁をめくると、アレ!ナンダコレ、残念ながら期待外れの写真でした。

全体的に露出オーバーなのか、写真は白く飛んでしまい景色が判然としませんし、また画角が狭く、入江全体をフレームに納める写真が一葉もありません。もっと入り江の奥に入ってカメラを構えれば良かったのになぜしなかったのかと訝っていたら、あることに気づきました。

撮影時は撮影機材を担いで入江の奥には行くことが難しかったのではないでしょうか。写真の2枚目と3枚目の左側の山の斜面は、現在は開削されてバスも通れる立派な道路となっていますが、この写真を見ると山裾が波打ち際まで届いているようです。もしかすると、2枚目の写真の薪は、燃料用に切り出したのではなく、波打ち際の斜面を開削して、道路を造る為に切ったもので、また3枚目の写真の竿は開削工事の測量用の竿かとも思われます。但し、2枚目の写真の海中の工作物は、埋め立て工事用のものかあるいは魚の仕掛け網なのかは判りません。

現在は三陸有数の観光地となっていますが、百年前はどのように利用されていたのでしょうか。3枚目の写真の説明には、「淨土の濱海水浴場」のタイトルがついており、左端に休憩所らしき建物の一部が写り込んでいるので、既に景勝地として広く知られ、夏の海水浴客などで賑わい始めいたのでしょう。それ故に道路工事も着手されたものと思います。

でも石英粗面岩の白い岩影は勿論、黒(青)い松林の生え具合も、100年前と今とほぼ同じです。約300年前に浄土ヶ浜の名を付けた雲鏡和尚が見たときも、1千年前・2千年前の風景もあまり変わりがないでしょう。その間何人の人がこの景色を見て、詠嘆したのでしょうか。そしてまた何度大きな波が押し寄せたのでしょうか……。


VOL62  明治の三陸名勝15 「小山田輿右衛門氏彰徳碑及山門」 (下閉伊郡刈屋村)

2015-01-16 09:45:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小山田輿右衛門氏彰徳碑及山門」

(旧刈屋村/現宮古市刈屋)

 

宮古市刈屋地区にある高昌院という寺院の写真です。写真左隅にある石碑が小山田輿右衛門氏の彰徳碑です。またタイトルは単に山門とありますが、山門の上に2層目に梵鐘が吊るされた鐘楼が一体となった鐘楼門です。

この鐘楼門は慶応2年(1866年)に建立しています。写真撮影時で建立後40数年が経ち、そしてさらに100年余りを経過した現在でもそのままの姿で刈屋地区を見守っています。

なお小山田輿右衛門氏は刈屋地区の名家刈屋家の当主で、彰徳碑は小山田氏がこの鐘楼門を寄進された徳を讃えたものと推察します。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL61  明治の三陸名勝14 「秀全堂」 (下閉伊郡船越村大浦)

2015-01-07 15:52:37 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「秀全堂」 (旧船越村/現山田町大浦)

 

「秀全堂」とは、今から約280年近く前の1736年(元文元年)に大浦を訪れた智芳秀全という旅の僧が入定した場所に建てられた祠で、現在も大浦地区周辺の人々から「おしゅうぜんさま」と呼ばれて信仰を集めています。

なお入定とは、密教の究極の修行の一つで、生死の域を超えて弥勒出生の時まで衆生救済を行うというもので、東北では山形県の湯殿山の即身仏が有名です。秀全和尚は、船越半島の東側突端、大網の岩屋で座禅や瞑想を続けて、そののち火定(自身を火中に投じて入定すること)を行おう決心しましたが、大槌代官所に保留措置とされたそうです。そこで、穴を掘り、土の中で座禅をしながら待ち続け、周囲の嘆願もあり入定の許可がおり、1738年(元文3年)27日間の苦行の後、6月12日、享年37歳にして西方に旅立ったといわれています。

現在も大浦地区では入定された7月30日(旧暦6月12日)の前夜に「御逮夜」と呼ばれる供養行事が行われています。

なお写真の祠は、土台を変えただけで鈴や鐘も全く同じ状態で現在も同地に立っています。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL60  明治の三陸名勝13 「荒神社」 (下閉伊郡船越村)

2015-01-03 14:43:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「荒神社」(旧船越村/現山田町船越) 

 

荒神社は、船越半島の南端の麓に位置する社です。目の前には青く透き通った海と白い砂浜が広がる三陸海岸有数の海水浴場となっています。

写真帖には「荒神神社」と記されていましたが、神を重ねずに「荒神社」が正式な名称なので訂正しておきます。「荒神社」は全国に数百社ありほぼ「こうじんじゃ」と呼称されていますが、こちら「あらがみしゃ」あるいは「あらがみさん」と呼ばれ、先の関口神社と同様に古くから山田地域の崇拝を集めています。

東日本大震災では、海に近いこの神社は大津波に襲われて、4つの鳥居の内の3つが倒れ、神輿が壊れるなどの被害を蒙りました。幸い拝殿は被災を免れ、津波の塩害で枯れた樹齢四百年の杉の巨木は新たな鳥居に生まれ変わり、壊れた神輿も修復されまた支援により神輿が一基新調されて祭りも再開されました。

なお写真の明治期の社殿は、その後改築があったのか、現存のものとは屋根の勾配などが異なるようです。

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VOL59  明治の三陸名勝12 「不動尊」 (下閉伊郡山田町)

2014-12-03 11:36:13 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「不動尊」 (山田町関口)

 

 「関口神社」の里宮は、山田湾河口から関口川を約3㎞遡った山麓にあり、奥宮はさらに4.5㎞上流にあります。この間の関口川の清らかな流れと、岩と周りの木々の苔のコントラストがとても美しくて、山田町八景の一つに挙げられています。

 写真帖には単に不動尊と記載していますが、地域では「関口不動尊」あるいは「関口神社」として古くから地域の崇拝を集めています。古い白黒の写真からは判然としませんが、渓流には太鼓橋が掛けられ、高い影の中腹に物見堂が建てられるなど、VOL54の野田玉川や後ほど紹介予定の釜石公園の様に明治末期の三陸の行楽地の趣相があったのではないでしょうか。それ故本写真帖では異例の4葉の写真が掲載されています。

 なお行楽と云っても今とは様相が違います。一番下の写真は渓流プールではありません。「水垢離」と云って、神仏に祈願する前に、水を浴びて身を清め穢れを取り除く行をしている様子です。関口渓流は夏でも水温は低く震え上がってしまいます。

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VOL58  明治の三陸名勝11 「黒森神社伯父杉」 (下閉伊郡山口村)

2014-11-24 14:50:08 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「黒森神社伯父杉」(旧山口村/現宮古市)

ここは屋久島、いや明治の宮古です

 この巨大な杉は、屋久杉ではありません。前回紹介した黒森神社がある黒森山の中腹に聳え立っていた杉の巨木です。その名を「伯父杉」といいます(他では祖父杉との表記もあるが、写真帖記載のまま)。

 黒森神社及び黒森山には、現在でも杉や樅(モミ)・萱(カヤ)の針葉樹の巨木が多数あります。境内に林立する杉の樹齢は1000年位、樅や萱の樹齢は1300年位と云われています。いずれも5m以上の幹回りで高さは20~30mはあり、その存在感に威圧されます。

20人余りの子供が手を繋いで1回り

 それらを遥かに凌ぐ超巨古木がこの写真の「伯父杉」でした。幹回りは、写真のとおり子供達20人余りが手を繋いで取り囲む大きさだったそうです(私が母方の祖父から実際に聞いた話)。

 その樹齢は3千年以上を超すものとも云われています(平成2年にもう一つの超巨木である「祖母杉」の調査が行われ、樹木医山野忠彦氏の鑑定では3千年以上とされ、伯父杉は祖母杉の倍以上の巨木であったので類推しました)。樹高はどれだけあったのかわかりません。

大正2年の落雷で焼失

 しかしこの超巨古木は、大変残念なことにこの写真撮影から間もない大正2年に、落雷による火事で焼けてしまい、現在は見る影もない無残な焼けぼっくいとなっています。もし現存すれば、国の天然記念物に指定されていたことは間違いないでしょう。

 さてこのブログの初期(VOL5/宮古測候所の項)に、「もし今でも宮古に残っていたらと思う7つの風景」と題して、私が勝手に選んだ今は無くなってしまった建物や風景のことを紹介しました。今回の「伯父杉」は勿論入ります。これまで計5つ(①宮古測候所 ②由ケ尻の洞門 ③宮古郡役所 ④下閉伊郡物産館公会堂)、残る2つも間もなくご紹介します。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL57  明治の三陸名勝10 「黒森神社」 (下閉伊郡山口村)

2014-11-03 17:58:16 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「黒森神社」 (旧山口村/現宮古市)

 

 宮古駅(JR・三鉄)の正面に見える山が黒森山で、その名のとおり杉や樅・萱等の針葉樹に黒く覆われた山です。標高(309.9m)は決して高くはありませんが、周囲の山より突き出た三角形の山容は、昔から宮古沖を航行する船の目印となっていました。黒森神社は、その山腹に社を構えています。創建は明らかでありませんが、古来より宮古地域の信仰を集め崇められ、地元では「黒森様」の呼び名で親しまれています。私も母が旧山口村の出身でしたので幼少の頃何度か祭典に行きました。

 社自体は、何度か建て替えられ新しく大きくありませんが、次のように多くの遺物や伝承さらに神楽や巨木が残されています。

<遺物>

 山麓の発掘調査では、奈良時代の密教仏具が出土しています。また県指定文化財の1334(建武元)年の銘がある鉄鉢や、1370(応安3)年からの棟札多数や、南北朝初期とされるものから戦国時代の銘が入った権現様(獅子頭)が多数現存しています。学術的な裏付けもしっかりしており、黒森神社は信仰の場として千年を超える歴史があることは確かと思われます。

<伝承・伝説>

「義経北行伝説」 源義経一行が、平泉から逃げ延びていく途中に当神社にも立ち寄り、般若経を写経奉納したと伝えられています。(黒森山神譜)

「長慶天皇御陵説」 南北朝時代の長慶天皇の陵墓がこの黒森神社という説、但し同御陵と称する墳墓は全国各地に20カ所以上点在しており、真偽の程は定かでありません。

「坂上田村麻呂創建説」 これまた坂上田村麻呂の創建を称える神社は全国各地に多数あり、真偽の程定かでありません。

<巨木>

 黒森山には山名の由来となった針葉樹の巨木が今でも多数あります。写真中央の樹木は確か樅ですが、なんといっても「伯父杉」「叔母杉」が有名でした。詳しくは後日ご案内します。

 

 黒森山を行場とする修験山伏によって伝承された神楽で、前項の獅子頭の銘から室町中期の発祥とされています。修験のカスミ(旦那場)廻りの伝統を神楽巡業によって現代に受け継ぐ貴重な芸能で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

(私の店がある宮古市末広町商店街でも、毎年正月に門打ちと公演を行っています)

 

※黒森山の標高をネットで検索したら、310~340mまでまちまちでしたが、国土地理院の地図には309.9mとありましたので、これを採ります。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL56  明治の三陸名勝 9 「公孫樹」 (下閉伊郡宮古町)

2014-11-01 17:51:44 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「公孫樹」 (旧宮古町/現宮古市)

 もう少し写真とタイトルに工夫が欲しいのですが…、私の母校である宮古市立宮古第一中学校の校庭にある公孫樹=銀杏の大木です。

 写真では貧相な様子ですが、実物は樹高18.5m、根元周囲12.4m、推定樹齢300年以上を誇る巨木で、樹勢も頗る盛んで夏には青々と葉が茂り、秋には黄葉の絨毯を敷いています。実は樹根部の中心は空洞になっており、その周りに大小8本の幹が束生して取り囲んでいます。また焼け焦げた跡のある古い根株も残っています。現在生育している公孫樹は、初代木から代を重ね、先代の根株から萌芽して成長したものと考えられます。宮古市指定天然記念物となっています。

 この公孫樹は、宮古の鎮守である横山八幡宮の丘の麓にあり、宮古の名の由来に深い関わりがあります。横山八幡宮略記曰く、今から約千年前同八幡宮の禰宜が阿波の鳴門の鳴動を鎮めた功により朝廷より「宮古」の名を賜り、帰着して手にしていた杖を境内の挿したところ芽吹いて成長したとされています。それ故「逆さイチョウ」の名で広く宮古市民に親しまれております。

 但し、地に挿した杖から根が生えて大きなイチョウとなったという「逆さ銀杏伝説」は、全国各地に十を超す数があります。一番有名なのは東京の麻布山善福寺の親鸞聖人の由来の銀杏でしょうか。

 またあまりにも写真帖の銀杏が貧弱なので下に現在の映像を添えます。

 

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL53  明治の三陸名勝 6 「一石一字」 (下閉伊郡山口村)

2014-10-04 11:59:43 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「五部大経一石一字之古碑」(旧山口村/現宮古市舘合)

 

 宮古市の中心市街地を一望に見下ろす舘合の高台にある経塚の碑(高さ約2.6m×幅1.85m)です。写真では判然としませんが、碑の上部に直径34㎝の円が描かれ、その下に「五部大経 一石一字 雲公成之 永和第二」の文字が刻まれています。

 五部大経(華厳・大集・般若・法華・涅槃の五経文)の経文を、一個の石に一字ずつ書いて経塚の土中に、雲公という人が、永和二(1376)に埋納したということです。ちなみに中でも有名な法華経の文字数は69,384文字、華厳経はなんと36百万文字を超えているそうなので、とても全部を書き写されたとは思えませんが、それでも有難い碑として古から敬われていたようです。

 本写真帖では碑文のとおり一石一字古碑となっていますが、宮古市民は一字一石塚、通称一石様として親しみ、昔は悪童の遊び場として、現在は一帯が近隣公園として市民の憩いの場となっています。

 この一字一石の経石は全国各地に点在していますが、建立確定年代が全国的にも古く、また碑文の書が優れていることなどから、以前は宮古市指定文化財、現在は岩手県の文化財に指定されています。

 ところで永和は、日本の南北朝時代の北朝の後円融天皇の治世で使われた元号で、当時当地域一帯に北朝の影響が及んでいたことの証左で、宮古にはこの経塚以外にも北朝所縁と伝えられる史跡があり、歴史的にもとても興味深いものがあります。

 なお山口村は、昭和16(1941)年に宮古町他と合併して宮古市となり現在に至っています。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?

 


VOL52  明治の三陸名勝 5 「寶珠禪院の山門」 (下閉伊郡豊間根村)

2014-10-03 16:30:58 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「寶珠禪院の山門」 (旧豊間根村/現山田町豊間根)

 国道45線の西側の小高い鞍東山頂にある曹洞宗のお寺です。隣り町ですが私は未だ現地に行ったことがなく詳しくは分かりませんが、この山門は現存しているようです。但し今の山田町の各種観光案内には記述がなく、その存在は余り知られておりません。しかし明治の頃は写真帖に掲載されていることから、下閉伊地域では有名な建造物だったのと思われます。

 ネットから仕入れた情報ですと、宝珠院の境内は松や杉の老木に覆われ、裏山の沢からは清泉が流出し、情寂の風情をかもし出している幽玄の中にある寺院なそうです。近年新たに建造された本堂には、本尊の釈迦牟尼如来の他、円空作と伝えられる木像、毘沙門天像があり、薬師堂に本尊薬師如来像鎮が安置されているそうです。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL41 明治の学校11 「小川尋常高等小學校」(下閉伊郡小川村)

2014-09-22 12:25:17 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小川尋常高等小學校」 (旧小川村)

(現 岩泉町立小川小学校)

 小川尋常高等小学校の沿革その他詳しいことは、残念ながら調べがつきませんでしたが、資料が集まり次第補足追加します。

 ところで写真の子供達は校庭で何をしているのでしょうか、ただ佇んでいるわけでもなく、何かして遊んでいるとものと思われますが見当が付きません。このような日常の風景を切り取ったスナップ撮影は本写真帳の学校シリーズではこの一葉だけで、とても趣があります。

 なお現在の小川小学校校庭にある「もみじ」は、その色付き具合がとても見事で2014年の岩手県観光スポットに選ばれ、絵入りはがきセットとして現在岩手県内の郵便局で販売されています。秋に近くを通られたら一度寄ってみたら如何。 

※本校の「もみじ」を描いた工藤哲郎氏の水彩画を紹介します。「水彩画fromいわて」より

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?