100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL80  明治の三陸の産業4 「刈屋製糸場」 (下閉伊郡刈屋村)

2015-05-30 15:43:12 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「刈屋製糸場」下閉伊郡刈屋村/現宮古市刈屋)

製糸は明治の三陸の中山間地に新たな産業を興した

現在の宮古市刈屋地区にあった製糸場です。大きな建物が四棟見えますが、全ての建物が製糸工場ではなく、正面の二階建ての大きな建物や手前の二棟は、換気用の小屋根が見えるので蚕を育てる蚕室と思われます。もしかすると1階が製糸工場かもしれませんし、蚕の餌なる桑の葉の貯蔵庫もあったと考えられます。

刈屋地区は四方を山に囲まれて平地が少なく寒冷な気候で稲作には余り適しておらず、江戸時代や明治に入っても冷害による飢饉に何度も襲われた山里でした。これは刈屋村に限らず下閉伊・上閉伊・気仙・九戸の三陸地方の全てに通じることです。しかし製糸業は、生糸を繰り出す工場だけでなく、その原材料の繭を産み出す蚕の飼育すなわち養蚕しかり、さらに蚕を飼うための桑の葉の栽培と、裾野は広いものがあります。当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、製糸工場は農家の子女の大切な雇用の場でした。

三陸の養蚕及び製糸の歴史はさほど古くなく、明治の後半から急激に発展します。稲を育てられなかった荒れ地が桑畑となり、有力な農家は繭を作る蚕室付の居宅を建て始め、座繰式の中小の製糸工場が山あいの土地にも建てられ、近隣の子女が勤め工場に通い現金収入を得ました。工場で仕上げられた生糸は、三陸の港から横浜に向けて出荷され、さらに海外へ渡りました。製糸は、外貨獲得産業として日本の近代化を支えましたが、三陸の地では中山間地に新たな産業を興し、近代の経済サイクルが稼働する端緒となりました。

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VOL79  明治の三陸の産業3 「中村生絲揚返所」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-05-03 04:01:20 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「中村生絲揚返所」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「揚返し」とは、座繰や機械繰で繰糸器に巻き取られた生糸を、大きな枠に巻き直して綛(かせ)を作る施設です。この工程は糸の太さのバラつきを整え、余分な水分を飛ばすことで湿気により糸がくっつくことを防ぎ強度を上げるなど、品質の向上に欠かせないものです。

写真の中村製糸揚返所のことは詳しく分かりませんが、揚返所があるほどですから、座繰か器械式か大きな製糸場であったと思われますし、多分周辺の小さな工場から集荷して品質を整えて、生糸として出荷したと推察します。

生糸は、岩泉からは盛岡へ馬車などで運びそれから汽車で、宮古では宮古港から船で、それぞれ横浜に運び、それから海外に輸出されていました。

因みに三陸各地で育てた生糸に製品化する前の「繭」も、宮古港を始め三陸各地の港から、信州・上州その他の製糸工場に送られていました。その金額は宮古港の場合(明治43年)、生糸32,500円に対して繭84,600円と、原料のまま送られる方が多かったようです。

 

 

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