「鍬ケ崎尋常高等小學校」(下閉伊郡鍬ケ崎町)
(現 宮古市立鍬ケ崎小学校)
鍬ケ崎町は、明治22年(1889年)の町村制の実施によりに浦鍬ヶ崎村が単独で町制(3635人)を敷き、その後大正13年(1924年)に宮古町と合併して新制の宮古町(旧宮古町9193人、旧鍬ケ崎町8387人)となり、その後昭和16年(1941年)に宮古町(16,023人)は、近隣の3村(山口村2,432人、千徳村1,646人、磯鶏村2,704人)との合併により宮古市となり現在に至っています。
鍬ケ崎小学校は明治8年(年)に当時鍬ケ崎3丁目にあった東屋長屋を校舎として開校し、折しも町制を施行した明治22年に現在の校地に移転新築しています。(本写真は、この写真帖掲載の為に撮影したものではなく、正面校舎棟上に祭壇が設けてあることからこの校舎落成式の際の撮影? あるいは先に右の校舎を建てその後の生徒増により増築?と推測)
さて鍬ケ崎小学校と本写真帖作成の緒となった「明治の三陸大津波」とは因縁浅からぬものがあります。明治の三陸大津波は、明治29年6月15日の夜8時7分に鍬ケ崎の町を襲い、鍬ケ崎町だけで死者137名、家屋流失倒壊547棟と甚大な被害を与えました。この時の津波は今回の津波とは異なり、震度2と揺れは小さく、誰もが大津波の襲来を予期しないものでした。しかしながら此の日は旧の端午の節句の日に当たり、偶々同時刻に鍬ケ崎小学校で「幻燈会」が開催(正面校舎右側に片屋根が見えるのが会場の講堂か?)されて、大勢の児童と家族が参集していて、為に幸い大津波(鍬ケ崎で最大波高8.5m)から難を逃れることができたということです。(此の事を伝える碑が学校近くの蛸の浜町の心公院境内に建立されています)