100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL26 明治の学校4 「鍬ケ崎尋常高等小學校」(下閉伊郡鍬ケ崎町)

2014-07-19 12:50:49 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「鍬ケ崎尋常高等小學校」(下閉伊郡鍬ケ崎町)

(現 宮古市立鍬ケ崎小学校)

 鍬ケ崎町は、明治22年(1889年)の町村制の実施によりに浦鍬ヶ崎村が単独で町制(3635人)を敷き、その後大正13年(1924年)に宮古町と合併して新制の宮古町(旧宮古町9193人、旧鍬ケ崎町8387人)となり、その後昭和16年(1941年)に宮古町(16,023人)は、近隣の3村(山口村2,432人、千徳村1,646人、磯鶏村2,704人)との合併により宮古市となり現在に至っています。

 鍬ケ崎小学校は明治8年(年)に当時鍬ケ崎3丁目にあった東屋長屋を校舎として開校し、折しも町制を施行した明治22年に現在の校地に移転新築しています。(本写真は、この写真帖掲載の為に撮影したものではなく、正面校舎棟上に祭壇が設けてあることからこの校舎落成式の際の撮影? あるいは先に右の校舎を建てその後の生徒増により増築?と推測)

 さて鍬ケ崎小学校と本写真帖作成の緒となった「明治の三陸大津波」とは因縁浅からぬものがあります。明治の三陸大津波は、明治29年6月15日の夜8時7分に鍬ケ崎の町を襲い、鍬ケ崎町だけで死者137名、家屋流失倒壊547棟と甚大な被害を与えました。この時の津波は今回の津波とは異なり、震度2と揺れは小さく、誰もが大津波の襲来を予期しないものでした。しかしながら此の日は旧の端午の節句の日に当たり、偶々同時刻に鍬ケ崎小学校で「幻燈会」が開催(正面校舎右側に片屋根が見えるのが会場の講堂か?)されて、大勢の児童と家族が参集していて、為に幸い大津波(鍬ケ崎で最大波高8.5m)から難を逃れることができたということです。(此の事を伝える碑が学校近くの蛸の浜町の心公院境内に建立されています) 

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?

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VOL25 明治の学校3 「宮古尋常高等小學校」(下閉伊郡宮古町)

2014-07-17 12:55:44 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

  「宮古尋常高等小學校」(下閉伊郡宮古町)

(現宮古市立宮古小学校)

 私自身が40数年前に卒業した小学校ですが、この写真を最初に見たときはどこかわかりませんでした。写真は現在のつちや本舗さんあたりから東に向いて撮影されています。(VOL7掲載の下写真の逆方向、校舎は右手山際に隠れた処)

 宮古小学校の校地は、現在も写真当時と同じ場所に在りますが、狭かった敷地は大きく拡がり手前の田圃は校庭となっています。勿論校舎も下記のとおり何度も建て替えられて、

 明治6年(1873年)に写真左奥の山手にある常安寺一室を仮教室として創立し(生徒数20名)、翌明治7年に現校地に移転しています。写真の校舎は明治28年(1895年)に落成(14教室、建坪409坪)したものです。その後生徒の増加に伴い、講堂兼雨天体操場新築(150坪、大正6年)、校地の拡張と校舎の増設(大正11年)、同新校舎火災消失・再築(昭和24~26年)、旧体育館竣工(482坪、昭和35年)、現東校舎新築(昭和41年)、現西校舎新築(昭和53年)、現体育館竣工(平成15年)と続いて現在に至っています。

 写真の明治の校舎は昭和24年の火災で焼け残り、私はこの校舎で学んでいます。薄暗くて長い廊下、踏板がすり減った階段、黒光りする手摺等がおぼろげに思い出されます。下の写真は私の在校当時ものです。中央の玄関は余り記憶にないのですが、明治の本写真と同じ形状なことがわかります。実は講堂も入学時は残っていて、その後旧体育館ができ、次にプールと新校舎建設のためにこの校舎が取り壊しになり、一時体育館を薄いベニヤ板で間仕切りして授業をしていました。

 現在宮古小学校の児童数は260名前後ですが、校歌に謳われているように20名から始まり、明治16年には464名、写真の当時は既に高等科を併設(明治35年)していますので1000名前後、昭和10年には一時愛宕小の併置もあり2344名、戦後になると昭和22年は1863名、昭和33年には2027名が在校しています。私の時はベビーブームが過ぎた後でしたが、それでも1学級50名前後で1学年6学級で全校で入学時で1800名、卒業時でも1500名以上はいた記憶があります。それが今では1学年分もいないのですから……。

  なお宮古小学校のことについては、「まぼろし小学校~1960年代の宮古小学校~」というHPを見つけました。

http://www.geocities.jp/jinysd02/syougakkou.html

どうやら私の2.3学年下のようですが、当時のエピソードが事細かく楽しく綴られています。

 

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VOL24 明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

2014-07-12 17:50:42 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

明治の学校2 「遠野中学校」(上閉伊郡遠野町)

 遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)は、県内でも有数の歴史ある学校です。創立は明治34年(1901年)で、遠野高校の学校要覧沿革を調べたところ、校舎は明治と大正期に火災で焼失したものの、校地の移転はなく、現在と同じ場所(遠野市六日町)のようです。なお写真の校舎は明治40年の火災の後再建された白亜の建物です。

前稿記述のとおり、当時の岩手県三陸沿岸地区唯一の中学校として、上閉伊郡(遠野・釜石)のみならず、下閉伊・気仙地区からも若者が集まり幾多の優秀な人材が育っています。 

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VOL23 明治の学校1 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

2014-07-12 14:19:25 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

 当時の三陸沿岸地域には、小学校を卒業した後の上級学校といえば、本稿の「岩手県立水産学校」(現在の岩手県立宮古水産高校)と、次稿の「遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)の2校しかなかったので、漁業関係の子弟にかぎらず地域の秀才が競って入学し、鈴木善幸元首相・熊谷義雄元衆議院議員(普代村出身)などの人材を輩出しています。(私の祖父は8期生でした)

 因みに内陸には盛岡中学校(同盛岡一高)や一関中学校(同一関一高)、福岡中学校(福岡高校)などの中学校があり、宮古から盛岡中学校へ入る生徒も大勢いたようです。

 さて岩手県立水産学校ですが、明治28年(1895年)に水産補習学校として設立、その後下閉伊郡立水産学校を経て明治34年(1901年)に県立移管されています。校舎は現在宮古市磯鶏地区にありますが、写真の当時は藤原地区(現在の藤原小学校)にあり白い外壁が一際目立つ存在でした(当時の上級学校は、盛岡中学や遠野中学もなぜか校舎は白く塗られています)。《VOL6.明治の宮古の街並み其の1 参照》

 明治末期の三陸沿岸地域においては学校の重要度は現代の比ではありませんでした。この写真が本写真帖には各郡役所の次の頁に掲載されていることからも推し量れます。

 

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VOL22 明治の久慈港(九戸郡久慈町)

2014-07-12 10:37:43 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

明治の久慈港(九戸郡久慈町)全景

タイトルは久慈港全景となっていますが、写真には所謂港らしい風景はありません。

撮影場所を地図と照らし合わせて推測しますと、遠くに見える島影(弁天鼻と牛島?)や中央の細長い砂州を見ると、現在の湊町の金刀比羅神社吹きの高台から俯瞰したものでしょうか。

写真上半分を横断する川は夏井川とすると、海側の砂州は現在と較べると狭小です。写真の右端には鮭の川止めと思われる柵が見られます。手前の葉の落ちた木立や民家の煙突の煙などから冬季の撮影と思われます。

現在の久慈港は長内町の埋め立てが進み大型船も寄港できる近代的な港湾となっていますが、当時は未だ港湾整備されていなかったのかもしれません。但しVOL17の「鍬ケ崎湊2」で既述したように、明治44年には三陸汽船の久慈航路が就航していますのでその後徐々に港が整えられていき、大正11年に内務省指定港湾になっています。

写真で気にかかるのは、この地区も明治の三陸大津波で大きな被害を蒙ったはずですか、この撮影時は早くも海辺近くまで民家が密集して建てられていることです。今回の東日本大震災で大きな被害を受けていなければよかったのですが…。(因みに明治の大津波の際は、NHKのあまちゃんでも有名になった近くの小袖海岸の「つりがね洞」の由来となった釣り鐘状の岩が、その大波で落下と云われています)

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