100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL65  明治の三陸名勝18 「浄土ヶ浜」 (下閉伊郡鍬ケ崎町)

2015-01-26 14:51:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「淨土の濱」(下閉伊郡鍬ケ崎町/現宮古市鍬ケ崎)

 

淨土の濱 其一(下閉伊郡鍬ケ崎町)

淨土の濱 其二(下閉伊郡鍬ケ崎町) 

淨土の濱海水浴場 (下閉伊郡鍬ケ崎町)

 

まず名称ですが、今では「浄土ヶ浜」と言い慣わしていますが、この写真帖では「ケ」ではなく「の」となっています。百年前はそのように呼んでいたのでしょうか。

さて我が宮古が誇る景勝地「浄土ヶ浜」の100年前はどんな様子だったのか、ワクワクして頁をめくると、アレ!ナンダコレ、残念ながら期待外れの写真でした。

全体的に露出オーバーなのか、写真は白く飛んでしまい景色が判然としませんし、また画角が狭く、入江全体をフレームに納める写真が一葉もありません。もっと入り江の奥に入ってカメラを構えれば良かったのになぜしなかったのかと訝っていたら、あることに気づきました。

撮影時は撮影機材を担いで入江の奥には行くことが難しかったのではないでしょうか。写真の2枚目と3枚目の左側の山の斜面は、現在は開削されてバスも通れる立派な道路となっていますが、この写真を見ると山裾が波打ち際まで届いているようです。もしかすると、2枚目の写真の薪は、燃料用に切り出したのではなく、波打ち際の斜面を開削して、道路を造る為に切ったもので、また3枚目の写真の竿は開削工事の測量用の竿かとも思われます。但し、2枚目の写真の海中の工作物は、埋め立て工事用のものかあるいは魚の仕掛け網なのかは判りません。

現在は三陸有数の観光地となっていますが、百年前はどのように利用されていたのでしょうか。3枚目の写真の説明には、「淨土の濱海水浴場」のタイトルがついており、左端に休憩所らしき建物の一部が写り込んでいるので、既に景勝地として広く知られ、夏の海水浴客などで賑わい始めいたのでしょう。それ故に道路工事も着手されたものと思います。

でも石英粗面岩の白い岩影は勿論、黒(青)い松林の生え具合も、100年前と今とほぼ同じです。約300年前に浄土ヶ浜の名を付けた雲鏡和尚が見たときも、1千年前・2千年前の風景もあまり変わりがないでしょう。その間何人の人がこの景色を見て、詠嘆したのでしょうか。そしてまた何度大きな波が押し寄せたのでしょうか……。


VOL64  明治の三陸名勝17 「釜石公園十二神」 (上閉伊郡釜石町)

2015-01-24 15:13:32 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

「釜石公園十二神」 (上閉伊郡釜石町/現釜石市)

 

写真の公園は、現在は薬師公園と呼ばれ、釜石市大町商店街の裏手の高台にあり、市街地と釜石湾を見下ろす展望と桜の名所で知られ、釜石市民の憩いの場となっています。園内には戦災者の霊を慰め、平和を祈って建てた平和女神像や、多くの句碑や文学碑及び頌徳碑があり、また市内最古の歴史を誇る観音寺が第二次大戦後移転再建されています。

此の地はかっては「薬師堂」または「十二神」と呼ばれていました。その以前は広厳山医王寺というお寺があり、「薬師如来及び日光菩薩、月光菩薩十二神将を安置」していたことからそのように呼ばれていたと思われます。

現在でも釜石市民に人気の公園ですが、その昔も名勝として知られていたようです。薬師堂中興の祖である敬天律師が約二〇〇年前に選んだ釜石八景の中にも「広厳山の秋の月」として薬師山からの風景が含まれていますし、写真が撮影された明治時代も景勝地として賑わっていたようです。


VOL63  明治の三陸名勝16 「忠魂碑1~3」 (宮古町・遠野町・大槌町)

2015-01-22 18:46:06 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

忠 魂 碑

(下閉伊郡宮古町/現宮古市・上閉伊郡遠野町/現遠野市・同大槌町)

  

(宮古町)            (遠野町)            (大槌町)

忠魂碑とは、戦没者の霊を慰霊・顕彰するために在郷軍人会や遺族会らが建立した碑をいいます。その歴史は、明治時代の戊辰戦争までさかのぼりますが、その後の日清・日露戦争以降に全国各地の町や村に広まりました。また、戦時下では、軍国教育の一環として学校の敷地内に建立されたものも多くあったといいます。但し、第2次世界大戦後その多くが撤去されましたが、変遷を重ねて今でも残されているものがあります。

本写真集には、3基の忠魂碑が掲載され、いずれも現存していますので紹介します。

「下閉伊郡宮古町の忠魂碑」 宮古港を見下ろす宮古市光岸地の高台にある大杉神社の境内の一角にあります。大きな石の台座の上に、高さ約4mの石碑があり、碑の中央に大きく忠魂碑、その上に明治27・28年戦没と刻まれていますので、日清戦争の戦没者を祀ったものです(日露戦争は明治37-38年/1904-1905)。この境内には他に幕末の戊辰戦争の宮古湾海戦の戦跡碑もありますが、確か私の小学校1年の時の遠足の地で、それらの碑の存在も知らずに遊んだことを覚えています。

「上閉伊郡遠野町の忠魂碑」 現地確認はしていませんので確かなことは分かりませんが、この立派な碑は、現在も遠野市全域を見下ろす鍋倉山の展望台に、鉄柱は白く塗られているものの、柱頭の鷲の像と共にあるようです。高さは3丈5尺といいますから約10mの塔です。因みに建立は明治44年なそうなので建立後すぐの写真です。

「上閉伊郡大槌町の忠魂碑」 この碑は幾多の変遷を経て、現在は平成14年に町内全域を見下ろす城山公園の一角に立っています。その経緯は城山公園の石碑に詳しく刻まれていますが、最初は明治40年に日清・日露戦争の大槌町出身の戦没者への哀悼碑として街なかの御社地内に建立され、第2次大戦後解体撤去され同町内の小槌神社境内に9年間放置されていましたが、昭和31年に同神社境内に再建されて、さらに平成14年に現在地に再々移転して、今回の大津波から免れています。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL62  明治の三陸名勝15 「小山田輿右衛門氏彰徳碑及山門」 (下閉伊郡刈屋村)

2015-01-16 09:45:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「小山田輿右衛門氏彰徳碑及山門」

(旧刈屋村/現宮古市刈屋)

 

宮古市刈屋地区にある高昌院という寺院の写真です。写真左隅にある石碑が小山田輿右衛門氏の彰徳碑です。またタイトルは単に山門とありますが、山門の上に2層目に梵鐘が吊るされた鐘楼が一体となった鐘楼門です。

この鐘楼門は慶応2年(1866年)に建立しています。写真撮影時で建立後40数年が経ち、そしてさらに100年余りを経過した現在でもそのままの姿で刈屋地区を見守っています。

なお小山田輿右衛門氏は刈屋地区の名家刈屋家の当主で、彰徳碑は小山田氏がこの鐘楼門を寄進された徳を讃えたものと推察します。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL61  明治の三陸名勝14 「秀全堂」 (下閉伊郡船越村大浦)

2015-01-07 15:52:37 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「秀全堂」 (旧船越村/現山田町大浦)

 

「秀全堂」とは、今から約280年近く前の1736年(元文元年)に大浦を訪れた智芳秀全という旅の僧が入定した場所に建てられた祠で、現在も大浦地区周辺の人々から「おしゅうぜんさま」と呼ばれて信仰を集めています。

なお入定とは、密教の究極の修行の一つで、生死の域を超えて弥勒出生の時まで衆生救済を行うというもので、東北では山形県の湯殿山の即身仏が有名です。秀全和尚は、船越半島の東側突端、大網の岩屋で座禅や瞑想を続けて、そののち火定(自身を火中に投じて入定すること)を行おう決心しましたが、大槌代官所に保留措置とされたそうです。そこで、穴を掘り、土の中で座禅をしながら待ち続け、周囲の嘆願もあり入定の許可がおり、1738年(元文3年)27日間の苦行の後、6月12日、享年37歳にして西方に旅立ったといわれています。

現在も大浦地区では入定された7月30日(旧暦6月12日)の前夜に「御逮夜」と呼ばれる供養行事が行われています。

なお写真の祠は、土台を変えただけで鈴や鐘も全く同じ状態で現在も同地に立っています。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL60  明治の三陸名勝13 「荒神社」 (下閉伊郡船越村)

2015-01-03 14:43:09 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「荒神社」(旧船越村/現山田町船越) 

 

荒神社は、船越半島の南端の麓に位置する社です。目の前には青く透き通った海と白い砂浜が広がる三陸海岸有数の海水浴場となっています。

写真帖には「荒神神社」と記されていましたが、神を重ねずに「荒神社」が正式な名称なので訂正しておきます。「荒神社」は全国に数百社ありほぼ「こうじんじゃ」と呼称されていますが、こちら「あらがみしゃ」あるいは「あらがみさん」と呼ばれ、先の関口神社と同様に古くから山田地域の崇拝を集めています。

東日本大震災では、海に近いこの神社は大津波に襲われて、4つの鳥居の内の3つが倒れ、神輿が壊れるなどの被害を蒙りました。幸い拝殿は被災を免れ、津波の塩害で枯れた樹齢四百年の杉の巨木は新たな鳥居に生まれ変わり、壊れた神輿も修復されまた支援により神輿が一基新調されて祭りも再開されました。

なお写真の明治期の社殿は、その後改築があったのか、現存のものとは屋根の勾配などが異なるようです。

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?