フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

オウム事件について

2011年11月22日 09時04分01秒 | 日々の出来事・雑記

 オウム裁判が終結したそうだ。ちょうどサリン事件が起こったとき、築地でバイトしていた。バイト先は築地本願寺の脇を通っている晴海通りを挟んだ向こう側で、救急車の音が鳴り響いていたのを、強く記憶している。ただ、その当時、テレビがなかったので、オウムに関する報道はほとんど見ていない。だから、事件をクールに見ることができるのではないかと思っている。
 私の場合、そもそも組織に帰属するのが嫌いだから、ああいう宗教団体に入ることはなかったと思う。しかし、ヨガや瞑想から得られる神秘体験については興味があった。だから若い時期に、その神秘体験に触れたら、どうなっていたか分からない。
 オウムの問題は、他人事ではなく、私たち日本人に深く関わっている部分もある。例えば、会社組織が行う軽微な犯罪行為について、社員の立場でどう対応するかといった問題である。多分、普通の日本人なら会社の犯罪行為について見てみぬ振りをするのではないだろうか。また、会社に犯罪行為を行えといわれた場合、断れるかといった問題もある。オリンパスや大王製紙などの問題などを考えればいい。
 この点、キリスト・イスラム圏の人々なら、自分の心の中にある正義は、会社の利益や規範とは別の所にあるので、比較的容易に会社の不正を暴くことができる。
 この辺のことは、既に語りつくされているから繰り返す事に意味があるかどうか分からない。ただ、社会問題としていまだに存在しているのだから、語ること自体は無意味ではないだろう。
 組織の不正を暴き、組織から疎外され一人きりになったとき、自分の行為が本当に正しかったのか、長いものに巻かれたほうがよかったのか、苦悶するだろう。そのときにこそ本当の意味で、宗教的物語が必要になる。
 寂しいから組織に入って連帯するのではなく、疎外された場所で、心の連帯をするのが宗教的な行為なのではないかと思っている。だから、孤独になることを恐れてはいけない。
 
 まだ、書きたいことはあるが、時間がなくなった。ではまた。

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