思考の踏み込み

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寿司 後記6

2014-02-23 00:26:53 | グルメ
人はその求めるところ以外のものは結局において "佳い" とは感じないのだから、各人の求めるレベルにおいて応じた料理が様々にあればそれで良いのだろう。

そして栄養学などという幼稚 ( 栄養学が個人差と同化力の研究をしない限りは幼稚な学問と言わざるを得ない。) で小賢しい知識など捨てて、身体の感覚に従って本当に食べたいモノを食べればそれで良い。

身体に必要なものは身体が知っている。
だが人間とはこの身体でもって生きているのだから、その身体の感覚を嵩めていけば向う方向は同じはずだ。

それが "基準" というもので、"食" に関して言えば "真味" というものなのだと私は考えている。

そして我々日本人が恵まれている点は、本質に向かいたいと思ったとき、果てしなく奥深い世界が既に先人たちによって培われているという事である。

和食の奥深さは我々にとってなんと幸いなことであるか。

そこに参入したいと思っても思わなくても、そもそも例えばイギリス料理にはそんな奥深さが欠如していることと比べれば、和食の有難さがより鮮明になってくる。

漫画「美味しんぼ」で ー "よくぞ日本人に生まれけり" というタイトルの話があったが、日本人として生まれ、日本食を味わえるということがいかに幸福なことか、という内容であった。

瓢亭 朝がゆ

それ程に和食は優れている。
我々はそれをただ楽しめばいい。
“食" とはそれだけ人生に豊かさと彩りと喜びを与えてくれるものであり、栄養補給といった要素などその本質のごく一部でしかない。
( 鍛錬すれば人間は極端な話、"霞" を食って生きていくことだって不可能ではないからだが、しかしそれではつまらない。)

食の喜びと楽しみは "嗜み" のある範囲であれば人生の喜びには不可欠なものであろう。


それらの要素を与えてくれるモノの中でも "寿司" は極めて洗練されたモノであり、今回 “食" について思考する上でのきっかけとさせて貰った。


それはたしかに ー よくぞ日本人に生まれけり!と大きな声で叫びたくなるほどのものであるといってもけして大袈裟でない。


寿司、あるいは "食" について ー 。
この辺でこの主題を終わりにしよう。