思考の踏み込み

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寿司 後記3

2014-02-20 07:46:40 | グルメ
内的エネルギーがうまく鬱散できずに心理的に鬱屈しているときや、体力の発散ができずに持て余しているときなどは、身体は味の濃いモノを欲しがり、それを美味しいと "感じる" 。

また単純に肉体を多く疲労させる者は汗をかくから塩分の濃い味を求めることは当然である。寒い地方の料理の味付けの濃いことも同じような理由といえる。( 寒さに耐える事はそれだけで体力を消耗するからだ。)

従って体力や心理面の鬱散そのものを "食" で行う場合と、鬱散による欠乏感、消耗感を補おうとする場合とがあることがいえる。
それはどちらも "内的状態" としては偏りのある状態であって、心を静めて "真理" と接することのできる状態とはいえない。

強いストレスを感じたときに激しい音楽を聞きたくなることも、悲しいときに暗い表現の絵を見たくなることも偏りである。



"偏り" こそが人間の文化を豊かに彩っているのだが、かといって基準を設定しなければ人は右往左往するだけで一生を終えてしまう。

基準とは心の静まった状態の感受性のことであり、それは絵でいえば余分な表現を省き、無駄をなくし、簡素化されていく水墨のような世界であり、味で言うところの "真味" もまた同じようなものであろう。

( 水墨とはただの無味乾燥な世界ではけしてなく、むしろ色彩を使わないことで無限の鮮やかさを表現している様に、味覚にもまた相通ずる世界がある。)



何事も突き詰めていけば余分なモノはうるさくなってくるものだ。

老人は体力が衰えてくるから自然と同じ境地になり易いが、本来無駄を省いて省いて、極限まで踏み込んでいって先鋭化し、簡素化されていくことと、老いることで感受性が枯れていってモノクロな世界観に至る事とは似て非なるものであることに気づくべきである。

東洋文化はその意味でけして老人の文化ではない。
このことは多くにおいて誤解されていることだが、それはまた極度に洗練された世界でもあるからその過程に取り組んだことのない者には普通わかりにくいものであることも止むを得ない。

(日本の文化の "復権" を真剣に考えるには、現代の感覚に合うように、いかにしてこの老人趣味とは違うか、ということを明確にしていく作業が求められてくると思う。だがそれはここでの本題ではない ー )