"真味" も同じである。
以上の如き作業の先に残るものこそが "真味" であろう。それはやはり京風の薄味に結局は向かうものである。
信長は大将としてはあまりにも最前線で働く男であった。
従って体力の消耗は激しい。
それは京風の薄味に向かえる状態ではない。彼が田舎者であったから、石斎の料理を美味しく感じなかったのではない。
信長は可憐な程の実務行動家だったというだけである。
従ってこの挿話における石斎の感想は正しくなく、頭から京風こそ至高と押し付ける石斎の傲慢さが匂う。
信長もまた敏感にそれに反応し過ぎた。普通の者なら、「京料理」という権威に屈し、その薄味を理解できなくてもわかったフリをするものだが、信長という革命児はその権威こそ怪物の様に世の進歩をはばんでいる正体だ!と感じてその手先の様な石斎など殺してしまえ!となった。
しかし石斎の作る京料理の真価はそんな中世的な怪物たちとは本来無縁である。
なぜなら本当に優れたものは時代を超えるからだ。
従って信長の石斎の料理に対する反応も過敏に過ぎるが、彼の使命感からは無理もないことといえよう。
この石斎と信長の挿話は本来こうした感受性の違いが生んだ話であってどちらかの味覚や食に対する考え方が正しいかとかいった事ではない。
しかし "味わう" ということの本質を突き詰めていくと石斎たちの系譜が作り上げて来た「和食」の世界に辿り着くことは間違いがない。
いかにして突き詰めるのか?
それは自己の "内側" を鎮め整えることである。
正しく "外界" と触れるにはその作業がなければならない。
生理面と直結しやすい "食" という行為は本来中々この作業に向かい難いものでもある。
例えば良寛の書と対峙するとき、心を下肚に鎮めて呼吸を深くして味わうのと、ただなんとなく見るのとでは良寛の真価に迫りうることのできる範囲はまるっきり違う様に、"食べて味わう" ということもまた同じである。
頭髪蓬々 耳卓朔
衲衣 半ば破れて雲烟の若し
日暮れて 城頭 帰来の道
児童 相擁す 西又東
越州沙門良寛書
以上の如き作業の先に残るものこそが "真味" であろう。それはやはり京風の薄味に結局は向かうものである。
信長は大将としてはあまりにも最前線で働く男であった。
従って体力の消耗は激しい。
それは京風の薄味に向かえる状態ではない。彼が田舎者であったから、石斎の料理を美味しく感じなかったのではない。
信長は可憐な程の実務行動家だったというだけである。
従ってこの挿話における石斎の感想は正しくなく、頭から京風こそ至高と押し付ける石斎の傲慢さが匂う。
信長もまた敏感にそれに反応し過ぎた。普通の者なら、「京料理」という権威に屈し、その薄味を理解できなくてもわかったフリをするものだが、信長という革命児はその権威こそ怪物の様に世の進歩をはばんでいる正体だ!と感じてその手先の様な石斎など殺してしまえ!となった。
しかし石斎の作る京料理の真価はそんな中世的な怪物たちとは本来無縁である。
なぜなら本当に優れたものは時代を超えるからだ。
従って信長の石斎の料理に対する反応も過敏に過ぎるが、彼の使命感からは無理もないことといえよう。
この石斎と信長の挿話は本来こうした感受性の違いが生んだ話であってどちらかの味覚や食に対する考え方が正しいかとかいった事ではない。
しかし "味わう" ということの本質を突き詰めていくと石斎たちの系譜が作り上げて来た「和食」の世界に辿り着くことは間違いがない。
いかにして突き詰めるのか?
それは自己の "内側" を鎮め整えることである。
正しく "外界" と触れるにはその作業がなければならない。
生理面と直結しやすい "食" という行為は本来中々この作業に向かい難いものでもある。
例えば良寛の書と対峙するとき、心を下肚に鎮めて呼吸を深くして味わうのと、ただなんとなく見るのとでは良寛の真価に迫りうることのできる範囲はまるっきり違う様に、"食べて味わう" ということもまた同じである。
頭髪蓬々 耳卓朔
衲衣 半ば破れて雲烟の若し
日暮れて 城頭 帰来の道
児童 相擁す 西又東
越州沙門良寛書