思考の踏み込み

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寿司 後記5

2014-02-22 07:58:21 | グルメ
自己の内面を整え、静めていくことは世界の本質に迫る唯一の手段である。

なぜなら我々が感覚器を通して世界を認識するとき、身体的心理的状況によって個人差が生まれ、それはある種のフィルターとなってそこを通る以前の本質を歪めて通すからだ。
このフィルターはなくなりはしないが、本質を見つめようと思うならばこのフィルターを出来るだけ薄くしていかなければならなくなる。

その作業の果てに "食" と向き合うと、余分な味付けは自然と要らなくなるものだ。そのとき初めて "内" と "外" は本当の意味で調和する。即ちそれは "食物" との「同化」をすらすらと可能にする。

この整えられた内的身体にあってはおかしなものでなければ、何を食べても美味しく感じるものである。
贅を尽くさなくとも、僅かに塩気があるだけで事足りる様になる。




それは健康と直結する感覚である。
健康に繋がらないモノを美味しく感じているとしたら、それは "食" の本質とは違うところの欲求によるとみなして、わが身を振り返ってみる必要がある。

( 例えば "性" の快が、生殖器の部分的な感覚に過ぎないと思い込んでいる者が、 "性" の本当の喜びを知らないのと同じで、"食" もまた舌の ー あるいはせいぜい舌と鼻くらいにしか働きかけないと思っていればこれもまた “食" の本当の部分の楽しさを知らない者といえる。)

感覚とはすべてー 全身で行うものである。それ故に心身をキレイに調えておく意味もそこにある。


本来、本当の意味で「同化」出来ない栄養物などほとんど排泄されるだけか、もしくは体内に不燃物として残り、皮膚という臨時の排泄器官を荒らすか、それも出来ないと癌などの遠因になっていくだけである。
現代病の多くは栄養の過剰摂取にあることは誰もが否定できないことであろう。


"真味" とはこれらの事象への答えである。

それは石斎たちが追求していたものであるが、信長は必ずしも必要とする段階になかったものでもある。

それでいいのだと思う。

要求するものが違うのだから、本来どちらかが歩みよらねばならない。その意味で行くと料理人たる石斎が本当は信長に合わせるべきで、料理人とはそうゆうものであるし、初めから二度目に出した味を出すべきだったのだが、石斎は自らの料理に自身があり過ぎたのだろう。

( だが、 魔王信長に対して己がプライドを一度は示してみせたということは石斎は "職人" としては見事であったと個人的には思う。)