思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

形影神 後書き

2014-10-23 06:08:05 | 
また、想定を遥かに超えた長さになってしまった。
モノローグで書いていれば半分以下ですんだかもしれないが、ダイアローグという形式がこれほどに幅を取るとは思わなかった。

自然、その形式の選択による制約も多く、もちろん内容が内容であったこともあり、今までで一番書いていて苦心したというのが正直なところである。





「心身一元論」と「心身二元論」といずれが是か非か、というのは古く紀元前から議論されてきたテーマであるが、その結論ははっきりしていない。

私自身も、感覚的にはどう考えても一元論の立場ではあったが、どうにもそれでは説明しきれない現象があって、長いことその事について考えてきた。

その考え方は、頭だけで考えることはできる限り控えた。
必ず身体感覚と繋げて思考する様にした。
その意味で、既存の心身の相関関係についての議論とは趣を異にするとは思っている。


心身がいかに密接かという事は身体感覚を追求すればするほど、一つである事がわかってくる。

例えば、自らモノを考えて喋る者の手は必ずそれに伴って動く。
つまり手の動きを伴わない者の語りは、他人の意見を真似ているだけという観察が可能になる。





もっと目を養えば、例えばー 僅かな瞳の動きや声の速度や高低、肩の微細な傾き、呼吸の速度など……。

身体のほんの些細な動きから人の心との関連はかなりの部分で読み取ることが可能である。

なぜなら心身のどちらかの動きは、必ずもう一方の動きも伴っているからである。
であるのに、その動きとは別の "感覚" が存在する。

それは一体何なのだろうか?
もしかすると、我々が "心" とひとくくりにしている範囲の中に違う要素を混ぜているのではないだろうか?
それが二元論を生む理由ではないだろうか?

…そんな事が今回の "思考" のきっかけであった。





その原因を「魂」という一点を設けることで、自分の中で腑に落ちる説明に持っていってみたのだが、そもそも魂などはあるのかないのか、私などにわかろうはずがない。

だから今回の投稿はまったくのフィクションであると思って読んで頂ければそれでよい。

だが魂があるかないかー など突き詰めなくとも、在るー とそう思って生きると少し生き方が変わってくるものでもある。

だから私は、まあおそらくそういう存在は在るのだろうー と、そういう立場でいるつもりであり、スピリチュアル世界の方々の様にその存在の真否を強要したりするつもりはない。




ともかくも今回の内容については、初めて陶淵明の「形影神」という作品に出会って以来、なんとなくずっと自分もその形式を真似てみたいと構想していたモノであり、それを今回書けたことにはある程度満足している。


本当はもう少し対話に参加者を増やしたかった。
"延髄" とか、"大脳新皮質" 、"松果体" あたりは登場させたかったが、脳科学がまだ研究途上であることと、その分野への自分の不勉強さがそれを思いとどまらせた。

他にも "潜在意識" 。

これは前半で登場する様な事を書いておきながらついに出せなかった。
潜在意識の奥深さが、まだ私などには掴みきれないからで、その状態でそれを擬人化させて発言させるという事は早い段階で断念せざるをえなかった。

それは "無意識" についても同じである。

それと多くの "感情" 達 ー 嫉妬や喜びや悲しみ、愛… 。
これらも登場させたら面白かったとは思うが、その場合余りにも繁雑になってしまうので、これはそういう理由で避けた。




陶淵明という人の描写の仕方も、ずいぶんと実際の淵明像からは離れてしまったが、内容の進行上それは犠牲にせざるを得なかった。
まあその程度は大目に見て頂きたい。


すでに述べた様に「形影神」という形式へのオマージュは、10年以上も前からなんとなく構想していたとはいえ、本当のところはまだ私程度の者が書くには早い内容であったというのも、今現在の本音でもある。

そんな内容の投稿を最後まで読んで下さった方に感謝。


" … 但 (た) ダ 恨ムラクハ
謬語 (びゅうご) 多カラン。

君ヨ 当 (まさ) ニ酔人ヲ
恕 (ゆる) スベシ… 。 "


残念ながら
間違いだらけのこの言い分。

酔っ払いのこと
ひらにご容赦願いたい。


「飲酒二十首」其ノ二十より。




形影神 終幕

2014-10-23 06:07:03 | 
ー 夜露は依然、凄としている。

喧風は止みて絶え、気は澄みて天象を明らかにしている。
その場のモノ達はー ずいぶんと長いこと無言のままでいた。


やがて… 一羽の鳥が飛び来たって柏の枝に羽を収める。




"影" が… 口を開く。

「……そろそろ、我らも帰るといたそうか。もはやこの酒宴も潮時だろう。
さあ意識よ、音頭をとってくれ。」

「…は、はい。」

ようやく意識は我に帰ったようだ。
意識は主催者としての責任を思い出したのか、何やら長々と挨拶をはじめたが、なぜか途中でやめた。

「いかがした?」

"形" が問う。

「この酒席は淵明殿の墓前にて企画したもの。
されば最後はやはり淵明殿の詩でもって終えたい。
私のつまらぬ挨拶などは無用であろう…。」

みな一様に頷いた。

それぞれに杯を満たし合い、淵明の小さな墓前に向かう。




"記憶" が謳うー 。

それは生前の淵明が「自ら祭る文」と題して自らの死を仮想し、自らの霊に捧げると嘯いて詠んだ詩である。
その場の誰もが最も好きな作品の一つであった。

彼らは "記憶" のその声に、耳を済ませながらこの… 永い一夜の出来事に想いを馳せていた。







" ー 茫茫タル大塊 
悠悠タル高旻 (こうびん)
是レ萬物ヲ生ジ
余モ人タルヲ得タリ    

果てしない大地。
遥かなる天空。
そこに万物が生じた。
私も人として生まれた。
  




余 人ト為リテヨリ
運ノ貧シキニ逢フ
簞瓢 (たんぴょう) 屡シバ尽キ
絺綌 (ちげき) ヲ冬ニ陳ク

人として生まれてよりこのかた。
運の乏しい暮らしだった。
飲食はしばしば事欠き。
夏服が冬のふとん。




歡ビヲ含ンデ谷ニ汲ミ
行 (あゆ) ミ 歌イテ薪ヲ負フ
翳翳タル柴門 (さいもん)
我ガ宵晨 (しょうしん) ヲ事トス

それでも谷の水汲みにも喜びを覚えた。
薪を背負っては歩き歌った。
ほのくらい柴の戸のもと。
朝夕を私はひっそりとすごした。




春秋 代謝シテ
中園ニ務メ有リ
載 (すなわ) チ耘 (くさぎ)リ
載チ耔 (つち) カヘバ
迺 (すなわ) チ育チ 迺チ繁ル


春と秋が入れ替わりして。
田畑の仕事にいそしんだ。
草を刈り、土を耕せば。
育ちゆき繁り栄えた。





欣 (たの) シムニ素牘 (そとく) ヲ以テシ
和スルニ七絃ヲ以テス
冬ハ其ノ日ニ曝シ
夏ハ其ノ泉ニ濯グ

楽しみに書を読み。
歌にあわせては七弦の琴を弾いた。
冬は日なたぼっこ。
夏は泉で水浴び。






勤メテ勞ヲ餘スコト靡 (な) ケレバ
心ニ常閒有リ

働いて力の出し惜しみはしなかった。
心にはいつもゆとりがあった。



天ヲ樂シミ分ニ委ネ
以テ百年ニ至ル…

天命を楽しんで己が分に身を委ね。
かくて一生の終わりを迎える…。











ー やがて、朝日が昇る頃…柏木の周囲からすべての気配は消えた…。


終。