朝方の河原の散歩のときはポツポツ雨は降り始めていましたが大したことのない雨でした。
それが時間の経過とともに雨脚は強くなり、しかも風も出てきたようです。当然2階から見る外界もどんよりとした空、空と大気との区別がつかないような空で、雨は降りつづけています。
これからますます降り方も激しくなってくるようで、夕方から明日にかけてが雨降りの本番のようですね。今朝方の広瀬川は全く水量に変化はなかったですが、今頃(午後3時頃)は増水しているかな、濁りも入っているかな。
個人的には、湿気歓迎です。ずーと乾燥肌で悩んでいますので、時々は雨も降って湿度も多くなる日があってしかるべきです。晴れたり、曇ったり、降ったりの繰り返しがあってこそモンスーン地帯に住む我々日本人にとっては必要なことなのです。
3月5日の朝日新聞の記事です。「東日本大震災10年 うつりゆく記憶①」で大川小学校で6年生の三女を津波で亡くした母親のことを書いていました。
(以下の写真は、2012年3月に撮ったものです。この写真の右端に子まもり像がみえます。)
(引用開始)『 2週間たった。もうだめなのかもしれない。校舎の近くに並べられたランドセルを見ていた時だった。「すみません」。長いコート姿の見知らぬ女性に声をかけられた。どこかのメディアの記者だった。
(2011年10月の時はマフラーや手袋はありませんでした。3月とはいっても春は名のみですから、また川沿いの学校ですし、冬は寒かったろうなと思います。また2011年3月11日の午後は雪も降ったりして、津波に襲われたら、なおのこと寒かっただろうと思います。)
「地震が来た時は車で20分ほどの職場にいて、まさかこんなことになっているとは思わなかった。学校にいた三女を探している」 そんな話をすると、女性は不思議そうに言った。 「え、なんで迎えに行かなかったのですか?」
あけみ(三女の母親)さんは顔をそむけ、何も言わず立ち去った。 四十九日に当たる4月28日。愛(三女)さんが見つかった。
遺族らが裁判所前を歩む様子がテレビに映った。学校側の安全対策の不備を問う裁判。あけみさんは参加していなかった。 あの日の問いかけが、頭によみがえった。 「なんで迎えに行かなかったんですか?」
行けなかったんじゃない。大きな津波は来ないと踏んで、私は「行かなかった」ーー。私は先生を責められない。チャンネルを変えた。
失った我が子を大切に思う気持ちは同じでも、状況や考え方はそれぞれだった。複数の家族を亡くした遺族もいる。自分は夫と2人の娘、自宅も無事だった。
ふとした会話で他の遺族を傷つけないか怖かった。娘の墓がある寺は他の遺族も通うため、いつしか月命日を避けて墓参するようになった。
何年たっても校舎は直視できないまま、震災の話は家族でもしづらかった。でも、自助の唯さんと、隣町の高校までの30分の送り迎えの車の中で時々話すことがあった。
ハンドルを握るあけみさんがつぶやく。「校舎を教訓として残すのはわかるけど、見るのはつらいんだよね」。助手席の唯さんは「そうだよね。うんうん」とうなずいた。
20年3月。仙台で社会人になった唯さんが取材に応じた記事が、ある新聞に載った。「大川小は母校で、思い出が詰まった場所。多くの子どもたちが犠牲になった事実がしっかりと伝わる場所になってほしい」という趣旨の内容だった。
あけみさんはスマートフォンで記事を撮り、「こんな風に思ってたんだ」とLINEを贈った。「唯の大好きな学校だったからさ」と返ってきた。
「ごめんね。ありがとうね」涙をぬぐった。自分にはつらい記憶を呼び戻す存在でしかなかった校舎でも、唯にとっては大切な母校なんだ。
後悔は消えない。校舎を見るのはいまもつらい。でも、20年後か、30年後。もしかしたら、残ってよかったと思えるかもしれない。「愛を思い出して話しながら、泣いたり笑ったりすることが、供養になるんだろうね」 』(引用終わり)
3月11日を挟んでいろんなことが放送されましたが、きっとみなさんも大川小学校の語り部の人とバックの大川小学校の校舎をご覧になったことと思います。今校舎は震災遺構として残すための工事が行われて、この春に公開されるようです。
新任の校長先生の研修等でも、ようやく先生方が訪れるようになってきていますが、今後は教員が学校防災を学ぶ研修の場としても活用されるとのことです。