読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「デスノート」

2008-02-09 22:38:14 | テレビ番組
 昨日はテレビで実写版「デスノート」の第二部が放送されていた。私は「デスノート」をマンガでも読んだし、子どもがせがむので映画も見に行った。でも、これはちょっとひどいんじゃないかと思った。
 
 テレビで第一部が放映され、映画で第二部が封切られた後、家族で「デスノート」の是非について、また夜神月(ライト)の行為の是非について議論した。子どもは「ライトは法律では裁かれないひどい犯罪者を殺したのだから、それは許されると思う」と言う。私は反対した「確かに、法律の網をくぐり抜ける犯罪者がいるし、あるいは法律の課す量刑ではなんの反省もせずに再犯を繰り返すような危険な犯罪者もいる。だけど、個人にそれが裁けるかといえば、そんなことはできない。それは可能か不可能かではなくて、裁きを下す権利がないという意味だ。どんな個人でも、『自分の行為は正義だ』と思い込んで人の命を奪うようなことは許されない。そうした瞬間に『正義』はもはや『正義』ではなくなって、何か別なものになってしまうと思う。ほら、ライトだって、最初は犯罪者を殺してたのに、エルに扮してテレビに出た人を殺してしまったでしょ。あの瞬間にすでにライトの正義は別のものにすり替わっていると思う。『自分は神だ』と言ってるし、とてもじゃないけど危険すぎて許せるものじゃない。」と言うと「まるでテレビでライトを非難して殺された評論家みたいだ」と言われた。「そう、途中からキラを非難する人はみんな殺されるでしょ。きっとお母さんも殺されるよ。こんなふうに強大な権力で人の批判を封じるのを独裁制というんだよ。やっぱライトは独裁者だ。危険だ。早く捕まえなきゃ。」「もう死んだって!」

 その頃、「たかじん」で「デスノートが手に入ったら使うか」というお題が出たのだが、保守派の三宅先生が「使う」と言われたのには驚いた。例の山口県光市の母子殺害事件のように、少年法に引っかかって死刑にならないような犯罪者をこの手で殺してやりたい、と(興奮して)おっしゃるのだ。「デスノート」そのまんまですやん。 そのときも、家族で「自分だったら使うか」ということを話し合った。
 「うーん、使いたいような、使わないような・・・・」と子どもが言うので、「いやー、絶対使うよ。使っちゃうに決まってるでしょ。手元にあれば使っちゃうの。だから絶対そんなものを人間が持っちゃいけないのよ。」と言うと「じゃあ、お母さんは使わないのか?」と聞く。「うーん・・・・。お母さんなんか、個人的に恨みがある人をポイポイ殺して、あっという間にプロファイリングで正体を突き止められて御用になりそうだ。手元にあったら絶対使うに違いないから最初にルールを読んだ時点で焼き払うに違いない。そうでなければ、際限なく使ってすぐさま地獄行き・・・・」「地獄には行かないらしいよ。無限の虚無に・・・」「ふん、虚無なんてどこが怖いものか。一番怖いのは、この世で生き続けることだよ。やっぱ、マンガは底が浅いねえ。」「いや、ライトはめちゃくちゃ賢いと思う。あのトリックの複雑さはとてもまねできない。」「そうだ、そうだ。やっぱり賢くなきゃデスノートは持てないんだね。お母さんはイチ降りた。」「賢いかどうかの問題か?」「うーん、きっとね、人間は決して持ってはいけないものだと思うよ。」「そりゃあ、死神のノートだもんね。」

というような会話をしたのだった。
 昨日、第二部を途中まで見かけて、あんまり安易に、まるでチェスの駒のように人が動かされ、殺されるのでうんざりしてしまった。ここにあるのは複雑さを競うゲームのおもしろさだけで、もはや人を殺すことの是非とか葛藤とかそんなものはみじんもない。
 この映画で私らは「ラスコーリニコフがまたぎ越した一線」のはるか彼方を見ているのではないだろうか。そしてすでに私ら自身もそれをまたぎ越している途上ではないか。そんな不吉な不安を覚えたのだった。


 ここまで書いたところで、「罪と罰」からの流れで自分が何を言いたかったのかがわかってきた。「たかじん」でときどき田嶋陽子さんが言うのだが、「犯罪の厳罰化とか言う人ってよほど自分が犯罪を犯さないという自信があるのねえ。」というセリフに私も同感する。私などはいつ人を殺すかわからないと思っているから、やたらと量刑を重くされたり、家族のプライバシーが晒されて生きていけなくなったりしてはかなわないと思う。確かに光市の事件はひどいし被害者家族に同情を禁じ得ない。だけど、第三者は、決して被害者や加害者のどちらか一方に感情移入してはいけないと思う。犯罪を犯した人間を声高にののしって「死刑にしろ」と言えばすっとするかもしれないけども、本当は、第三者が考えなければならないのは、どのような処罰であれば社会の安定が保てるかということだ。たとえば自分が誤って罪を犯してしまったときに、あまりにも重すぎる刑を科されたら、何十年後かに社会に出たとき、どうなっているだろうか。また、自分の家族が犯罪を犯した時に、インターネットで居場所を晒されていじめられたり、嫌がらせをされたり、縁談が壊れたり、そんな目にあったとしたらどうだろうか。犯罪者の家族は、どれだけ心を痛めているだろうか。それは当然だと思って我慢するだろうか。私はつくづく恐ろしくなるのだ。自分が必死に真っ当に生きようと努力していても、いつ子供が罪を犯すかもしれない。

 いろいろ考えていると、怖くて生きているのが嫌になる。社会は落とし穴だらけに見える。若い人たちが怖くてとても子供など持てないと思うのはあたりまえだ。だから社会学者が言うように立場の入れ替え可能性を考えて刑罰を決めなくてはならないと思う。量刑を重くしても、衝動殺人などの場合には犯罪の抑止にはなりにくい。重罰化によって社会に安心感が広がるのではなく、逆の効果がある場合も考慮に入れなくてはならない。
 ラスコーリニコフのような「罪の自覚のない」犯罪が増えてきた。ということはすでに「罪と罰」でわかったように「罰」は効果がない。「罪の自覚がない」ということを問題にして、根本的なところを矯正するしかない。だが、現状はどうなっているのだろうか。「自分には人を殺す権利がある」と思うのは傲慢であるけども、やたらと「吊るせ、吊るせ」というのも同じような傲慢さであると思う。

NHK「知るを楽しむ」から 亀山郁夫「罪と罰」

2008-02-09 21:41:34 | テレビ番組
 また消えてしまったのだった・・・・・・トホホ

「アメリカン・ギャングスター」のように、現代的な解釈をすると過去の出来事がまるで違って見えてくるというような事例が最近あったような・・・と考えていて思い出したのは、2月4日放送のNHK「知るを楽しむ」で最近ドストエフスキーの新訳を出されたロシア文学者、亀山郁夫氏が「罪と罰」について解説した番組だった。ドストエフスキーが最近静かにブームになっているというような記事が2、3年も前から新聞に載っていたし、「文學界」に評論も載っていたが私にはそれがなぜなのかさっぱりわからなかった。この番組を見てやっとドストエフスキーの小説の現代性、じゃなくって普遍性がわかった。「罪と罰」のテーマは、「自分は人の命さえ奪う権利があると思い込んだ人間の傲慢さの悲劇」と「そのような人間に救済、そして復活はあるのか」ということだ。

 私が高校の頃「罪と罰」を読んだときには、あまりにも情けない大人たちに嫌悪感を覚えて腹が立った。業突張りの金貸しの老婆、売春婦の娘にたかるアル中の父親、主人公の妹ドーニャーを口説く女たらしの金持ち紳士、腹が立って、「どいつもこいつも死んじまえ!」と思った。ラスコーリニコフにしたって、決心して殺したのだからウジウジと悩んだり懺悔したりしないで、もっとこうスッパリと割り切れないものか・・・・。亀山郁夫氏はこの小説を「最後の童話」とおっしゃったが、私には登場人物の誰にもまったく共感などできない不可解な小説であった。またここに描かれていたロシアの貧しさと寒さと社会の抑圧感とは、その頃図書館の窓から見えていた冬の曇った空や自分の陰鬱な気分とぴったりと重なって、異常な息苦しさを感じさせるものだった。

 息苦しさを覚えたのも当然だ。番組ではラスコーリニコフが住んでいた屋根裏部屋のモデルとなった建物が出てきた。なんと!汚くて暗いのだろう。階段など、そのまんまホラー映画の舞台になりそうだ。ラスコーリニコフの屋根裏部屋を見て母親は「まるで棺桶みたいじゃないの」と言う。「棺桶みたいな部屋」とは、ドストエフスキーがこの小説を書く前に見て、強い印象を受けたという、ハンス・ホルバインの絵「死せるキリスト」のイメージが重ねられているのではないかと亀山氏は言う。このキリストは何という姿だろうか。グリューネヴァルトのキリスト磔刑図並みの陰惨さじゃないか。復活など、到底信じられないないほど痛めつけられたこのキリストの姿を、ドストエフスキーは、殺人を犯すラスコーリニコフの精神の病の深さに重ね合わせているのだという。棺桶のような狭い部屋に押し込められるなんてまるで悪夢に出てきそうだ。(実際私はそのような悪夢をよく見るのだけど。)

 そして、老婆の義理の妹で偶然早めに帰ってきたため殺されてしまったリザヴェータは、実はロシアでは「聖痴愚」と呼ばれる種類の人であるという。亀山氏は「神がかり」と訳している。ここらへんは、なんとなくわかるところだけども、ロシアでは、社会のルールや通念にとらわれず、ときどき常軌を逸した言動をする人を「神がかり」として敬ってきたという。リザヴェータはその「神がかり」であって、リザヴェータの聖書を受け継いでいるソーニャもまた売春婦ではあるが、清らかな魂を持ち、「聖なる者」の側の人間だ。罪の告白を受けて畏れおののくソーニャは「十字路に立って告白しなさい。そして大地に口づけをしなさい」という。ロシアではキリスト教伝来以前の昔から大地崇拝の信仰があって、母なる大地は神の象徴だ。だからソーニャは「神に許しを請いなさい」と言っているのだ。この小説は「神殺し」そして、「母殺し」の物語でもあるのだという。それにしてもロシアの「母」のイメージというのは、なんとおそろしいものか・・・。番組ではストーリーが簡潔に影絵(みたいなアニメーション)で描かれているのだが、それがちょっと古風で、怖くて、何かを思い出させるような不思議なインパクトがある。

 ラスコーリニコフはシベリア流刑になるが、罪を悔いているわけではない。罪の自覚のないものには罰も意味をなさないのだという。このような「罪の意識」の欠落した人間が救済されるのか、罪を悔いて一人の人間としてよみがえることができるのかということがテーマなのだ。おお、これぞ現代的なテーマだ。私らは最近「罪の意識のない犯罪」をしばしば見てはいないだろうか。そしてどのような刑罰が彼らにふさわしいかと議論してはいまいか。ラスコーリニコフはソーニャの献身によって復活への道を歩み出そうとする。現代のラスコーリニコフには何が必要なのだろうか。「罪の自覚を妨げているものは、人間の持つほとんど動物的ともいえる『傲慢さ』なのだ」と亀山氏は言う。では、私自身の中にそのような傲慢さがないと言い切れるだろうか。あるいは、最近の犯罪の厳罰化を声高に言う人たちの中に、あるいは、私たちの社会の中にそのような傲慢さがないと言えるだろうか。


 9.11の映像が出てくる。亀山郁夫氏は、ラスコーリニコフの殺人を「テロル」であると言う。9.11は確かにテロだった。しかし、大国が自らの正義を言い立てて罪のない多くの人々の命を奪うのもまた、テロではないだろうか。テロリストも、アメリカも「自分にはそうする権利がある」と思い込んで殺人を犯したラスコーリニコフと同じ罠に嵌ってはいないだろうか。

 最初に書いたことが全部消えちゃったのでがっくりきて本屋に行き、テキストを買ってきて読んだ。テレビには出てこないけどおもしろかった部分を抜き書きしてみよう。亀山郁夫氏がロシア文学の研究テーマの変遷について書いておられる部分だ。

 その後、興味は、ロシア・アヴァンギャルド芸術からさらにスターリン時代の文学や芸術に移った。私の関心は、強大な独裁権力のなかで芸術家(いや、創造的知識人)はいかにみずからの良心を留保するのか、という問いであった。そもそも、芸術家は他者を魅了しようというたくらみや野心において根本的に権力を志向している。そこで、時の権力者とのはげしい葛藤が生じることになる。しかし同時に、独裁権力のもとで芸術家は、多くの場合、上からの庇護を受けることなしに自立をめざすことは不可能である。この矛盾こそが、独裁体制下での芸術家の宿命ということになる。では、どのような意味で自立は可能となるのか。私がそこで突き当たったテーマこそ、「二枚舌」である。スターリン時代のすぐれた芸術家とは、表向きには権力を受け入れながら、テクストの深層に「本音」を隠すという技巧に卓越した人々であった。
 そして50代に入った私が、『罪と罰』にあれほどとりつかれ、『カラマーゾフの兄弟』にあれほど甚大な影響を受けた経験のもつ意味を、もう一度探りあててみたいと願ったとき、私のなかで、かつて「死刑宣告」を受けた経験のあるドストエフスキーと皇帝権力との対立という図式が浮かびあがってきたのは当然である。さらには、頻発するテロルの嵐のなかに生きるドストエフスキーの「二重性」ないし「二枚舌」についても深く思いをめぐらすことになった(『ドストエフスキー 謎とちから』参照のこと)。

 「あれほどとりつかれ」というのは亀山氏が初めて「罪と罰」を読んだ中学二年生の頃、深くラスコーリニコフに同化し、まるで本当に殺人を犯したかのような気持になったという経験を指している。

 小説の経験を通して読者が主人公に乗っ取られる、端的にラスコーリニコフに成り変わるという経験は、ひょっとすると、現実に人を殺すということと同じぐらいの意味の深さを持ちはじめてしまうのではなかろうか。(中略)

 かりに『罪と罰』という小説に、大きな犯罪抑止効果があるとしよう。
 この物語は、人を殺したり、あるいは人を殺すことによって、世界から切り離されることの孤独を、このうえない迫真性をもって教えてくれる。だから、『罪と罰』はできるだけ早く、若いうちに読んだほうがいい、と私は言いたい。
 しかしひるがえって、人間が人を殺さずに生きることが、『罪と罰』のような本を読む経験を通じてしか保証されないのだとしたら、われわれは何と恐ろしい瀬戸際を歩きつづけていることになるのか。ラスコーリニコフがまたぎ越した一線は、われわれとは無縁の遠い地平線ではない。それは恐ろしいほどの近さにある。逆にある意味で、かつて人を殺したことがあるという悪夢は、人間が人を殺さずに生きていくための一つの試練であり、それに耐えきることこそが人間の証しとはいえないだろうか。


 でも、私は思うのだけど、私がラスコーリニコフの恐れを理解できなかったのはきっともうすでに人としての善悪の価値判断がうすボケていたせいだろうけども、最近の子はもっとずっとずっと理解できないのじゃないかなあ。きっとこの小説を読んでも「世界から切り離されることの孤独」なんて理解できないと思うよ。なぜって、「デスノート」の流行を見ればわかる。

つづく