昨日はテレビで実写版「デスノート」の第二部が放送されていた。私は「デスノート」をマンガでも読んだし、子どもがせがむので映画も見に行った。でも、これはちょっとひどいんじゃないかと思った。
テレビで第一部が放映され、映画で第二部が封切られた後、家族で「デスノート」の是非について、また夜神月(ライト)の行為の是非について議論した。子どもは「ライトは法律では裁かれないひどい犯罪者を殺したのだから、それは許されると思う」と言う。私は反対した「確かに、法律の網をくぐり抜ける犯罪者がいるし、あるいは法律の課す量刑ではなんの反省もせずに再犯を繰り返すような危険な犯罪者もいる。だけど、個人にそれが裁けるかといえば、そんなことはできない。それは可能か不可能かではなくて、裁きを下す権利がないという意味だ。どんな個人でも、『自分の行為は正義だ』と思い込んで人の命を奪うようなことは許されない。そうした瞬間に『正義』はもはや『正義』ではなくなって、何か別なものになってしまうと思う。ほら、ライトだって、最初は犯罪者を殺してたのに、エルに扮してテレビに出た人を殺してしまったでしょ。あの瞬間にすでにライトの正義は別のものにすり替わっていると思う。『自分は神だ』と言ってるし、とてもじゃないけど危険すぎて許せるものじゃない。」と言うと「まるでテレビでライトを非難して殺された評論家みたいだ」と言われた。「そう、途中からキラを非難する人はみんな殺されるでしょ。きっとお母さんも殺されるよ。こんなふうに強大な権力で人の批判を封じるのを独裁制というんだよ。やっぱライトは独裁者だ。危険だ。早く捕まえなきゃ。」「もう死んだって!」
その頃、「たかじん」で「デスノートが手に入ったら使うか」というお題が出たのだが、保守派の三宅先生が「使う」と言われたのには驚いた。例の山口県光市の母子殺害事件のように、少年法に引っかかって死刑にならないような犯罪者をこの手で殺してやりたい、と(興奮して)おっしゃるのだ。「デスノート」そのまんまですやん。 そのときも、家族で「自分だったら使うか」ということを話し合った。
「うーん、使いたいような、使わないような・・・・」と子どもが言うので、「いやー、絶対使うよ。使っちゃうに決まってるでしょ。手元にあれば使っちゃうの。だから絶対そんなものを人間が持っちゃいけないのよ。」と言うと「じゃあ、お母さんは使わないのか?」と聞く。「うーん・・・・。お母さんなんか、個人的に恨みがある人をポイポイ殺して、あっという間にプロファイリングで正体を突き止められて御用になりそうだ。手元にあったら絶対使うに違いないから最初にルールを読んだ時点で焼き払うに違いない。そうでなければ、際限なく使ってすぐさま地獄行き・・・・」「地獄には行かないらしいよ。無限の虚無に・・・」「ふん、虚無なんてどこが怖いものか。一番怖いのは、この世で生き続けることだよ。やっぱ、マンガは底が浅いねえ。」「いや、ライトはめちゃくちゃ賢いと思う。あのトリックの複雑さはとてもまねできない。」「そうだ、そうだ。やっぱり賢くなきゃデスノートは持てないんだね。お母さんはイチ降りた。」「賢いかどうかの問題か?」「うーん、きっとね、人間は決して持ってはいけないものだと思うよ。」「そりゃあ、死神のノートだもんね。」
というような会話をしたのだった。
昨日、第二部を途中まで見かけて、あんまり安易に、まるでチェスの駒のように人が動かされ、殺されるのでうんざりしてしまった。ここにあるのは複雑さを競うゲームのおもしろさだけで、もはや人を殺すことの是非とか葛藤とかそんなものはみじんもない。
この映画で私らは「ラスコーリニコフがまたぎ越した一線」のはるか彼方を見ているのではないだろうか。そしてすでに私ら自身もそれをまたぎ越している途上ではないか。そんな不吉な不安を覚えたのだった。
ここまで書いたところで、「罪と罰」からの流れで自分が何を言いたかったのかがわかってきた。「たかじん」でときどき田嶋陽子さんが言うのだが、「犯罪の厳罰化とか言う人ってよほど自分が犯罪を犯さないという自信があるのねえ。」というセリフに私も同感する。私などはいつ人を殺すかわからないと思っているから、やたらと量刑を重くされたり、家族のプライバシーが晒されて生きていけなくなったりしてはかなわないと思う。確かに光市の事件はひどいし被害者家族に同情を禁じ得ない。だけど、第三者は、決して被害者や加害者のどちらか一方に感情移入してはいけないと思う。犯罪を犯した人間を声高にののしって「死刑にしろ」と言えばすっとするかもしれないけども、本当は、第三者が考えなければならないのは、どのような処罰であれば社会の安定が保てるかということだ。たとえば自分が誤って罪を犯してしまったときに、あまりにも重すぎる刑を科されたら、何十年後かに社会に出たとき、どうなっているだろうか。また、自分の家族が犯罪を犯した時に、インターネットで居場所を晒されていじめられたり、嫌がらせをされたり、縁談が壊れたり、そんな目にあったとしたらどうだろうか。犯罪者の家族は、どれだけ心を痛めているだろうか。それは当然だと思って我慢するだろうか。私はつくづく恐ろしくなるのだ。自分が必死に真っ当に生きようと努力していても、いつ子供が罪を犯すかもしれない。
いろいろ考えていると、怖くて生きているのが嫌になる。社会は落とし穴だらけに見える。若い人たちが怖くてとても子供など持てないと思うのはあたりまえだ。だから社会学者が言うように立場の入れ替え可能性を考えて刑罰を決めなくてはならないと思う。量刑を重くしても、衝動殺人などの場合には犯罪の抑止にはなりにくい。重罰化によって社会に安心感が広がるのではなく、逆の効果がある場合も考慮に入れなくてはならない。
ラスコーリニコフのような「罪の自覚のない」犯罪が増えてきた。ということはすでに「罪と罰」でわかったように「罰」は効果がない。「罪の自覚がない」ということを問題にして、根本的なところを矯正するしかない。だが、現状はどうなっているのだろうか。「自分には人を殺す権利がある」と思うのは傲慢であるけども、やたらと「吊るせ、吊るせ」というのも同じような傲慢さであると思う。
テレビで第一部が放映され、映画で第二部が封切られた後、家族で「デスノート」の是非について、また夜神月(ライト)の行為の是非について議論した。子どもは「ライトは法律では裁かれないひどい犯罪者を殺したのだから、それは許されると思う」と言う。私は反対した「確かに、法律の網をくぐり抜ける犯罪者がいるし、あるいは法律の課す量刑ではなんの反省もせずに再犯を繰り返すような危険な犯罪者もいる。だけど、個人にそれが裁けるかといえば、そんなことはできない。それは可能か不可能かではなくて、裁きを下す権利がないという意味だ。どんな個人でも、『自分の行為は正義だ』と思い込んで人の命を奪うようなことは許されない。そうした瞬間に『正義』はもはや『正義』ではなくなって、何か別なものになってしまうと思う。ほら、ライトだって、最初は犯罪者を殺してたのに、エルに扮してテレビに出た人を殺してしまったでしょ。あの瞬間にすでにライトの正義は別のものにすり替わっていると思う。『自分は神だ』と言ってるし、とてもじゃないけど危険すぎて許せるものじゃない。」と言うと「まるでテレビでライトを非難して殺された評論家みたいだ」と言われた。「そう、途中からキラを非難する人はみんな殺されるでしょ。きっとお母さんも殺されるよ。こんなふうに強大な権力で人の批判を封じるのを独裁制というんだよ。やっぱライトは独裁者だ。危険だ。早く捕まえなきゃ。」「もう死んだって!」
その頃、「たかじん」で「デスノートが手に入ったら使うか」というお題が出たのだが、保守派の三宅先生が「使う」と言われたのには驚いた。例の山口県光市の母子殺害事件のように、少年法に引っかかって死刑にならないような犯罪者をこの手で殺してやりたい、と(興奮して)おっしゃるのだ。「デスノート」そのまんまですやん。 そのときも、家族で「自分だったら使うか」ということを話し合った。
「うーん、使いたいような、使わないような・・・・」と子どもが言うので、「いやー、絶対使うよ。使っちゃうに決まってるでしょ。手元にあれば使っちゃうの。だから絶対そんなものを人間が持っちゃいけないのよ。」と言うと「じゃあ、お母さんは使わないのか?」と聞く。「うーん・・・・。お母さんなんか、個人的に恨みがある人をポイポイ殺して、あっという間にプロファイリングで正体を突き止められて御用になりそうだ。手元にあったら絶対使うに違いないから最初にルールを読んだ時点で焼き払うに違いない。そうでなければ、際限なく使ってすぐさま地獄行き・・・・」「地獄には行かないらしいよ。無限の虚無に・・・」「ふん、虚無なんてどこが怖いものか。一番怖いのは、この世で生き続けることだよ。やっぱ、マンガは底が浅いねえ。」「いや、ライトはめちゃくちゃ賢いと思う。あのトリックの複雑さはとてもまねできない。」「そうだ、そうだ。やっぱり賢くなきゃデスノートは持てないんだね。お母さんはイチ降りた。」「賢いかどうかの問題か?」「うーん、きっとね、人間は決して持ってはいけないものだと思うよ。」「そりゃあ、死神のノートだもんね。」
というような会話をしたのだった。
昨日、第二部を途中まで見かけて、あんまり安易に、まるでチェスの駒のように人が動かされ、殺されるのでうんざりしてしまった。ここにあるのは複雑さを競うゲームのおもしろさだけで、もはや人を殺すことの是非とか葛藤とかそんなものはみじんもない。
この映画で私らは「ラスコーリニコフがまたぎ越した一線」のはるか彼方を見ているのではないだろうか。そしてすでに私ら自身もそれをまたぎ越している途上ではないか。そんな不吉な不安を覚えたのだった。
ここまで書いたところで、「罪と罰」からの流れで自分が何を言いたかったのかがわかってきた。「たかじん」でときどき田嶋陽子さんが言うのだが、「犯罪の厳罰化とか言う人ってよほど自分が犯罪を犯さないという自信があるのねえ。」というセリフに私も同感する。私などはいつ人を殺すかわからないと思っているから、やたらと量刑を重くされたり、家族のプライバシーが晒されて生きていけなくなったりしてはかなわないと思う。確かに光市の事件はひどいし被害者家族に同情を禁じ得ない。だけど、第三者は、決して被害者や加害者のどちらか一方に感情移入してはいけないと思う。犯罪を犯した人間を声高にののしって「死刑にしろ」と言えばすっとするかもしれないけども、本当は、第三者が考えなければならないのは、どのような処罰であれば社会の安定が保てるかということだ。たとえば自分が誤って罪を犯してしまったときに、あまりにも重すぎる刑を科されたら、何十年後かに社会に出たとき、どうなっているだろうか。また、自分の家族が犯罪を犯した時に、インターネットで居場所を晒されていじめられたり、嫌がらせをされたり、縁談が壊れたり、そんな目にあったとしたらどうだろうか。犯罪者の家族は、どれだけ心を痛めているだろうか。それは当然だと思って我慢するだろうか。私はつくづく恐ろしくなるのだ。自分が必死に真っ当に生きようと努力していても、いつ子供が罪を犯すかもしれない。
いろいろ考えていると、怖くて生きているのが嫌になる。社会は落とし穴だらけに見える。若い人たちが怖くてとても子供など持てないと思うのはあたりまえだ。だから社会学者が言うように立場の入れ替え可能性を考えて刑罰を決めなくてはならないと思う。量刑を重くしても、衝動殺人などの場合には犯罪の抑止にはなりにくい。重罰化によって社会に安心感が広がるのではなく、逆の効果がある場合も考慮に入れなくてはならない。
ラスコーリニコフのような「罪の自覚のない」犯罪が増えてきた。ということはすでに「罪と罰」でわかったように「罰」は効果がない。「罪の自覚がない」ということを問題にして、根本的なところを矯正するしかない。だが、現状はどうなっているのだろうか。「自分には人を殺す権利がある」と思うのは傲慢であるけども、やたらと「吊るせ、吊るせ」というのも同じような傲慢さであると思う。