読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「アメリカン・ギャングスター」

2008-02-06 23:40:43 | 映画
 最近、星新一のショート・ショートをよく思いだす。こんな話だ。宇宙人が地球を征服しており、町中にトラップを仕掛けている。マンホールやいろんな物が体重計になっていて、人間の体重がある基準を超えるとそのトラップに落ち込んで消えてしまう。どうやら宇宙人の食料にされているのではないかとうわさされている。主人公とその家族は、トラップに嵌らないように食欲を制限しているが、なにせ食糧は有り余るくらい支給されていて、おまけに至るところに外見を偽装した食品が仕掛けてあるのでつい無意識に食べてしまう。子どもは「食べたいよー!」と言って泣くが、夫婦ともに心を鬼にして節食を強要する。生き残るためにはそうするしかないのだ。そしてその頃、宇宙人たちは、「野蛮な人間たちも、やっと欲望を制御するようになりましたねえ」みたいな会話をしている。つまりこれは欲望の肥大によって自滅してしまいかねない人間たちに、自制することを教えるための配慮だというのだ。

 私がこの話を読んだのは中学の頃だけど、「もし本当にこんな社会になったら自分は生き残ることができるだろうか」と考えて身震いした。欲望を自制するなんてことは、とてもできそうにない。だけど、最近よく思うのだ。やっぱりこの社会で生き延びられるかどうかの一つの条件は、「際限なく肥大する欲望を自制できるか否か」にかかっているのではないか。「アメリカン・ギャングスター」公式サイト)を見ながらもそんなことを考えた。

 刑事リッチーは、犯罪者から100万ドルもの大金を押収して、それを正直に届け出たため仲間から爪弾きにされる。時はベトナム戦争のさ中。町にはドラッグがあふれ、マフィアやギャングが幅を利かせている。警官の大半は彼らとつながっており、収賄や恐喝は日常茶飯事のことだ。麻薬捜査官が押収した麻薬を薄めて横流ししている始末。そんな中でバカ正直にお金を届ければ、「アブナイ奴」扱いされて命さえ狙われるかもしれない。なのになぜ届けたのだろう。汚職は警察だけではないのだ。司法関係者、政治家、いろんなところに及んでいる。特別捜査官になって麻薬王の捜査を進めるリッチーに、友人でさえ「やめてくれ。俺も危なくなる」と懇願する。ひどいもんだ。

 だけど私は思う。もし、命がけのハードな仕事をしていたとして、眼の前を汚れた金が(しかも大金が)日々通過していたとしたら、それをネコババしないでいられるだろうか?自分は子供と過ごすこともままならないほど働きづめで安月給なのに・・・・。もちろんできはしない。きっと札束の一つや二つ・・・。あるいは、チンピラの命の一つや二つ・・・・。
 そして思う。もしベトナム戦争に参戦していたとして、ジャングルの中をはいずり回りながら死の恐怖におびえる毎日だったとして、麻薬に手を出さずにいられるだろうか?また、仕事がなくて将来の希望も見えなくて友達みんながドラッグをやっていて、町中に安価なドラッグがあふれていたとしたら、やらないでいられるか?もちろんいられない。きっと死ぬまでやるに違いない。だから並の克己心では間に合わないし、その選択は生死を分けるほど重要だと言える。


 刑事リッチーがなぜ汚職に手を染めなかったか、よくわからない。人一倍正直者ではあった。しかし、相棒を死に追いやり、妻子と別れ、親友を失い、それほどの犠牲を払ってまで正義を守り通すというのがわからない。そんな高潔な人間にはとても見えないのだ。女たらしだし。それで考えていたんだけど、思うに、組織というものは一定以上腐敗がひどくなってくると、生き延びるために自浄作用のスイッチが入るんじゃないかなあ。リッチーは高潔であったというより、反骨精神があって、「これはおかしい。間違っている」と思うと人が何を言おうと耳を貸さない。そんなリッチーを、組織の中の汚れてない部分が利用したのだと思う。だって、あれじゃあ警察はヤクザと一緒だよ。昔イタリアマフィアに関する本を読んだことがあったけど、マフィアが台頭したのは、19世紀イタリアの警察や裁判所がひどい腐敗と横暴に支配されていて、まったく庶民の役に立っていなかったからだということだった。国家の治安維持能力が低下するとその代替としてマフィアのような闇の仕事人が現れてくる。おもしろいのはムッソリーニが独裁政治をしていた時代に、マフィア掃討作戦が何度も決行され、ほぼ根絶やし寸前にまで行ったらしいのだ。ファシズムとマフィアは相性が悪いようだ。戦後また復活して今に至っているのだが、検察でマフィア追及をした検事はことごとく暗殺されている。私は昔、雑誌「ニューズウィーク」でファルコーネ判事の奮闘記を読んでしばらくしてその爆死のニュースを聞いて暗澹としたものだ。この前のナポリのゴミ騒動だって、マフィアが原因だ。アメリカもそんなふうになるところだったのだ。だから、わが身を削ぎ落とすような厳しい告発で腐敗警官を一掃せざるを得なかったのだろうと思う。

 もう一つ心に残ったところは、最初の方で黒人ギャングのボス、バンビー・ジョンソンが死ぬ前、部下のフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)と家電量販店に入りながら愚痴をこぼすシーンだ。
「近頃じゃ、何もかも変わっちまって、コンビニにマクドナルドに量販店だ。会話やサービスはどこへ行った。」
フランクが麻薬を現地で直接仕入れるということを思いつくのはそのボスの言葉がヒントになっているのだが、これでボスが地域や人間関係を大切にする古いタイプの人であったことがわかる。フランクと手を結ぼうとするマフィアのドン、ドミニク・カッターも酪農を例えにして、「保護や規制がないと農家はやっていけない」なんてことを言う。そう言えば、この時代は家族経営的な小規模農家が経営破たんして農地を手放し、どんどん集約化されていた時代じゃなかったっけ。商業も農業も、社会のいろんな分野でそのような変化が進行していた時代だったのだ。そのような時代において、フランクは新しい流れに乗って成功した側の人間だ。たいへん賢くかっこいいのだが、映画はフランクがのし上がっていく映像と交互に麻薬に蝕まれた貧困者の悲惨な姿を写し出す。たいへん象徴的な捉え方だと思った。今もやっぱりその頃とおんなじようにグローバリゼーションによって破壊される社会の部分があるわけで、そのような現代的な意味合いも込めているのかなあと思う。

 フランクが極道者になった原因には子どもの頃の悲惨な体験があるらしい。社会の理不尽さを憎んでそれに打ち勝つパワーを身につけるためにマフィアになったわけだが、その部分がリッチーと共鳴している。だから逮捕後にリッチーに協力したのだ。頭がいいし自制心もあるから教育を受けるチャンスさえあればひとかどの人物になったに違いないと思える。だからこの映画はただの極道バトルではなくて、過酷な社会における人間の生き方についてもいろいろと考えさせてくれるものだった。