読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

シンクロニシティ その4

2008-02-20 23:54:17 | 日記
 えーと、「シンクロニシティ」というタイトルで文章を書こうかどうしようかと迷っていたのだが、今朝の朝日新聞文化面にポリス再結成ツアー東京公演の記事が載っていて、おお、これぞまさにシンクロニシティと思ったので、つまんないことだけどやっぱり書いておこうと思った(「再び照らし出す『共時性』」 音楽評論家 岡村詩野)。まったく、朝日新聞とはよほど縁が深いのだろう。たぶんどこか別の次元で電波が繋がっているのだと思う。
 私はロックにもポリスにもスティングにも関心はないのだが、彼らの代表的なアルバム「シンクロニシティ」はユング心理学の影響を受けて書かれたらしい。(You Tube より Synchronicity I and II)音楽的にはともかく、歌詞がわかりにくいし怖い。ここらへんのブログが参考になった。

 そんなことはどうでもいいのだ。私がシンクロニシティというのは「犬の散歩 3」の神様の夢の件についてだ。この日記を書いたその次の日、何気なく立ち寄ったブックオフで梨木香歩「丹生都比売(におつひめ)」(原生林)を買って読んでいてびっくりした。主人公、草壁皇子は何だかこの世ならぬものを感知する能力があるようで、ときどき古い装束の匂いを感じる。
 少しかび臭く、歳月を経て、染料が発酵を始めたようなにおいでした。

 それは後に、丹生都比売という神の衣の匂いであったということがわかる。

 ほほー、やっぱり神様はかび臭いのか。いやいや、偶然の一致だって!
 それにしても、この小説では草壁皇子の父、大海人皇子(後の天武天皇)一家が吉野山に蟄居していた頃のことを描いているのだけども、母である鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の母方の祖父、蘇我倉山田石川麻呂はかつて謀反の疑いをかけられて一族郎党皆殺しにされたのであるし、大海人皇子も実は皇位継承争いで今にも攻め滅ぼされそうになっているところであるし、この後には母方の従兄である大津皇子も殺されることになっている。文章の格調の高さ、繊細さとは裏腹に書かれている事実は底知れないおそろしさを感じさせる。(この小説ではさらに鸕野讃良皇女が自分の弟も姉も水銀で毒殺し、草壁皇子さえ殺したことを暗示する)そうだったそうだった。天皇家は血みどろの歴史を持っているのだ。
 強すぎる母っていえばやっぱりユング的だなあと、このことについてひとくさり書こうかと思ったけど自制しておこう。

 も一つ偶然の一致だったのはNHK「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」。
先日、ドストエフスキーの時にこのサイトを眺めていて、「白川 静って人は松岡正剛氏に似ていたのか。いやいや、人がみんな自分の知ってる人に見えるってのは老化現象の一種」と愚かにも思って、よくよく見たら解説者が松岡正剛氏であったのだった。

 白川静は「字統」「字訓」「字通」の「字書三部作」で有名な漢字研究者だ。白川氏の研究のユニークさは、漢字の成立を古代中国の人々の感情や世界観から解き明かそうとしたところにある。たとえば「口」という文字、これは人間の口のことではなく、「サイ」といって箱をあらわしている。祝詞や呪文のような大事な言葉(言霊)を入れておく箱のような容器のことだ。「言」は命がけの神との約束であって、文字は神とのコミュニケーションツールであったというのだ。漢字の成立過程のいたるところに、この神と人とのコミュニケーションの姿を見てとり、言葉と文字は古代社会の祭祀と記録の必要性から生まれたのであって、その背景には絶対権力を持つ王の誕生があったのだと言っている。たいへんスリリングなお話であったが、まあそんなことはどうでもよいのです。第二回「白川静という奇蹟」の再放送を昨日(2月19日)の早朝見ていたら、白川氏の著書が紹介されていた。
「孔子伝」 (中公文庫BIBLIO)「初期万葉論」 (中公文庫BIBLIO)
 孔子は実は下級の巫女であった母親から生まれた呪術師なのではないか、また、儒者とは雨乞いをするものたちのことだったのではないか、そして「万葉集」は古代社会の祭祀や秘密にかかわる呪歌であって、柿本人麻呂は「魂鎮め」の儀式を行う葬儀集団だったのではないかというのだ。
 (ここんとこちょっと訂正2月26日: 孔子は下級の巫女であった母親から生まれた私生児であり、その孔子が率いていた儒者とは雨乞いや葬儀をつかさどる下層の葬儀集団であったのではないか。そしておなじように、柿本人麻呂は「遊部」と呼ばれた葬儀集団のリーダーであったのではないかと推測されている。これら白川氏の推理は、発表された当時は非難されたが、最近では有力な仮説の一つとされているそうだ。)
うーん、おそろしい。しかし、古代社会においては「雨乞い」と「葬儀」は最も重要な儀式であっただろうから説得力がある。そして私たちは古代人たちが決して牧歌的な生活をしていたわけではなく、どれだけ無力で短命で、素朴で敬虔でかつ残酷であったかということに想像力を働かせなくてはならないと思う。

 やっぱ、あのおじいさんが雨乞いに関係していたのはあたりまえのことだったのだなあ。って、それも偶然の一致だって。
 いやいや、確かこういうのは「シンクロニシティ」ではなくて「セレンディピティ」とか言うのだったかな。