読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2008-02-27 13:58:55 | テレビ番組
 NHK「知るを楽しむ」「悲劇のロシア」
ついにカラマーゾフですよ。新訳の「カラマーゾフの兄弟」は50万部も売れているとテレビで言っていた。私も1巻を買って読んだが、すらすらと読めて嘘みたいだ。「キツネつき」などという言葉には少しぎょっとしたけど、ロシアでは「悪魔つき」とやらが普通にいるらしいからきっとそのことだと思う。2巻目を買おうとしたところ、どこに行っても品切れになっていて信じられないことだ。こんな暗い小説(しかも古典)を皆読むのか?番組では2ちゃんねるらしき掲示板が一瞬だけど出てきて、「現代的なテーマ」だとか「神の不在」だとか、まともにディスカッションされている様子だったのでびっくりだ。何がそんなに受けるのかと思ったが、一昨日の講義でやっとはっきりした。

 ドストエフスキーは時事ネタ大好きな人だったらしくて、「罪と罰」にしても「悪霊」にしても、実際に起きた事件が小説の着想となっているのだが「カラマーゾフの兄弟」も1866年におきた「カラコーゾフ事件」という最初の皇帝暗殺未遂事件が影響しているという。(このあたりが参考になる)この時代はテロが頻発し、ロシアが歴史的な大転換をしようとしていた時期であった。ドストエフスキーはこの激動の時代を小説に織り込もうとしていたのだ。私は知らなかった(または忘れていた)のだが、この小説は実は未完であって、第一部がこの「父殺しをめぐるミステリー」。続きの第二部がおそらく、「皇帝暗殺をめぐる物語」だったのだろうと亀山氏は言う。この小説はカラコーゾフをモデルにした暗殺者の生涯を描こうとしたものだ。

 「父殺し」の真犯人はスメルジャゴフだ。しかし、「殺してやる」と公言していたドミートリーはもとより、「神がいなければすべては許されるのだ」と無神論をスメルジャコフに吹き込んだイワンも、果たして無罪と言えるか。無意識に父の死を望みスメルジャコフをそそのかしたイワンにも罪はあるのではないか。そして、清純で信仰心の篤いアリョーシャすらも、イワンとの対話から、実は決して聖人ではないということを露呈してしまう。彼らはみな父殺しにかかわっていると言えるのだ。

 「ドストエフスキーが小説の中で描いた人間はすべて壊れかけている。そして、このグローバリゼーションの現代において、我々の脳もまた圧倒的な情報量の前で壊れかけている。今、ドストエフスキーが読まれるのはそのような壊れかけた私たちの心に訴えかけるからだ」と亀山氏は最後におっしゃった。そうか、たいへんよくわかる。と同時にちょっと思いだしたことがあったので、どうでもいいことだけど書いておこう。

「知るを楽しむ」のテキストでところどこ引っかかる言葉(「神か悪魔か」とか「進化する」とか)があって、気になっていたのだが、番組で「壊れている」とおっしゃったので思い出した。かつて雑誌「群像」2006年4月号に掲載された「暴力的な現在」(井口時男)という評論の中に「もののあはれ」の壊れ、またはロボットのリアリズムという章があった。ここで著者は、現代の少年犯罪が私たちをおびやかすのは、彼らに人間的な感情が欠如しているように見えるからだと言っている。
 彼らにはもう、憎悪や怨恨といった熱い情念もなければ、欲望も快楽もない(ようにみえる)。感情が死んでいて、ただ冷めた好奇心しかない(ようにみえる)。彼らはあたかも、見知らぬ生き物に対するように人間に対している(ようにみえる)。

市民社会を脅かすのは、少年犯罪の量ではなく突出したいくつかの質である。そこでは「もののあはれ」が壊れている。

 島田雅彦氏は朝日新聞2006年3月、最後の文芸時評でこの評論に言及して「もののあはれが壊れている」と書いていた。偶然であるけども 島田雅彦の小説に「君が壊れてしまう前に」というのがある。上記の写真で猫の背中のところに寝かしてあるクリーム色の本だ。(5、6年前の写真だからパソコンが古い)2年前私は文芸時評を読んだとき、「だって壊れでもしなきゃ生きていけないじゃないの」と思った記憶がある。なんせ新聞だって壊れてるような時代なんだから。
 もはや私たちはみな壊れているのかもしれない。生き延びるためには壊れざるを得ないのではないかと私は思う。だって、信じられないような事件が次から次へと起こるのですよ。情報を遮断し、感情を殺さなくては生きられません。で、さっき、島田雅彦氏の公式サイトをちらっと見たら、「あなただって壊れているじゃないか」と思った。これ、まともなサイトか?

 そのようなことを思い出して探してみたら、昨年の8月に行われた亀山郁夫氏と島田雅彦氏のトークセッションの広告記事が出てきた。(2007年9月14日朝日新聞 21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』)おお、そのまんまじゃないか。「今、なぜ『カラマーゾフの兄弟』なのか」という問いに対して亀山氏はこう答えている。
 『カラマーゾフの兄弟』は運命に翻弄される芥子粒のような存在と、罪を犯す人間の巨大な精神世界の広がり、この対比を描いています。ここに、今を生きる我々、現代のグローバリゼーションと何か通底しているものを感じるのです。二つのアンバランスさ、世界の対立といったものが、19世紀後半のロシアの小説が生まれる二重性と非常に似ているんですね。そしてもう一つが金の問題です。グローバリゼーションの時代に特有の金銭感覚がドストエフスキーにはある。

それから「『カラマーゾフの兄弟』のどこがすごいのか」。第2巻に「ございます」大尉のスネギリョフ一家というのが出てきます。私は、この一家の物語がドストエフスキーの神髄だと考えるようになりました。それはひとことで「狂っている」ということです。とりわけ、このスネギリョフの奥様の(狂い方)が異常で、これを描けるドストエフスキーはすごい。先ほど、わからないところは砕いて翻訳したと言いましたが、この奥様のセリフだけは最後までわからなかった。内心、忸怩たるものがあります。しかし、ドストエフスキーの描く狂気をきちんと読み込んでいけば、現代の、どこか歯車がおかしくなってしまった人間の心のメカニズムをしっかりと捉えられるんじゃないかと思います。

うーん、「神がかり」とか「キツネ憑き」とか出てくるのにまだうわ手がいるというのか。私はすっかり記憶にないのだけど、また読みたいような、読みたくないような・・・・。

 最後の問いは、「ドストエフスキーのテーマとは何か」。「ヒュブリス(傲慢)」という言葉がありますが、「傲慢さを避けよ」というのがドストエフスキー作品のすべてのメッセージだと考えています。「傲慢」という言葉のもつ広がりは大変なもので、人間の悲劇はここから来ているというのがドストエフスキーの信念なんですね。

なるほど、今そのようにまとめて読むとわかりやすい。で、島田雅彦氏は書かれなかった第二部について推測している。
島田 修道院を出て俗界へ戻ったアリョーシャは、イエス・キリストと同じ方向へ進むのではないか、そしてキリストがテロリストになるというのは小説としては大変面白いのですが、若者を使って皇帝暗殺をやらせるとしたら、それはアリョーシャではなくイワンでしょうね。
 アリョーシャは鞭身派が逃げたシベリアへ行き、デルス・ウザーラのような極東の先住民族・少数民族の文化と融合したキリスト教を確立していく、なんていうのはいかがでしょう?アリョーシャはピュアで敬虔でありながらファナティックな面も持っていて、キリスト教より古い自然の神、大地の恵みのような文化に引かれる気がします。
亀山 それはありえます。おもしろい。アリョーシャにはヒステリーがあって、これが急激な信仰の転向に向かわせるということはありえます。
島田 それでアリョーシャの最後は決して崇高なものではなく、氷の裂け目にはまって死ぬとか、狂った女に刺し殺されて死ぬとかいったナンセンスなものがいい。キリストの死を利用した弟子たちに広められたキリスト教ではなく、イエスそのものへ回帰する原始キリスト教でありたいので。それに「なんでこんなところで死ぬの、そんなのありかよ~」と足元をすくわれるような徒労感に見舞われるのも、ドストエフスキーの小説の魅力の一つでしょうから。

 「狂った女に刺し殺される」とは物騒な。最近新聞に連載中の「徒然王子」でもなんかそんなような言葉がありましたな。
 たとえ結界で護られていても、都市はとても不安定で、ささいなきっかけでその微妙なバランスは崩れてしまう。一人の女のヒステリー、指導者の勘違い、ささやかな悪意、嫉妬、それだけでも都市の秩序と繁栄は崩れてしまう。都市の繁栄はそこに住む人の力で築き、護らなければならない。秩序の薄い膜をめくれば、そこには混沌がある。

「結界」かよ~。そーいうマジカルなのは「宿神」で堪能したからもういいです。なんで結界が女のヒステリーくらいで決壊するのかがわからないが、この方向から行くと、王子は「地の果て」に行って夢の中でだれかと交わって太古の神に導かれ、生命力を取り戻す・・・という展開かなあ。その前にヒステリックな女が出てきて「あなたの子どもが産みたいわ」とか言って結婚を迫るのかもしれない。(これはどの小説だったっけ)。島田雅彦氏はよほどそのような女の怖さが身に沁みているに違いない。
 とまたおちょくってしまったー!


 私が記憶しているのはゾシマ長老がなくなったとき、「腐臭」がしたというので皆が驚き、アリョーシャが信仰に揺らぎを感じたという部分だ。「死んだら腐敗するのは当然じゃないか!別に恥でもなんでもない」と私は逆に驚いたのだが、ゾシマ師は高徳の僧であったから、そのような人の死に際しては「芳香がして花びらが降る」とまでは言わないが、なんらかの奇跡のようなものが起きるのではないかと皆密かに期待したというのだ。この部分に関して、大学時代に聖書研究会で確かパウロの手紙か何かを読んでる時に先生がしみじみとおっしゃったことがある。「神の力の現れとして奇蹟を期待することは間違っているのよ。私にもそのようなものが起きて欲しいと思う気持ちはどこかにあるのだけれど、では奇跡が起きなければ神は存在しないかといえば決してそうではない。聖書には奇蹟の物語がたくさん載っているけど、それらは寓話として読むべきで、それが事実として起きたと解釈するべきではない。私はいつもオカルト的な方向に迷いそうになる度にこの『カラマーゾフの兄弟』を思い出すのよ。」
 どうも、ロシア正教には独特の考え方があるみたいで、私はアリョーシャがこんな無邪気な人たちばかりいる修道院から出て俗世に生きることの困難さを思って同情したものだ。

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1 コメント

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イワンの言葉について (閲覧者)
2015-05-03 15:17:02
はじめまして。拝見して感じたことなのですが、イワンの「神がいなければすべては許されるのだ」という発言は、本当に無神論者のものなのだろうか?と思います。むしろ有神論者が神不在を仮定して否定的に語っているかのような感じです。仮に神が存在しなければ人間はどんな悪をも犯すだろうというように。カントの道徳的根拠としての要請ではないですが、人間が道徳的に生きるには人々が死後の神による裁きを恐れてこそであり、人間がすべてを許されるということはよくないこと、恐ろしいことだという感覚があってのこのイワンの言葉であると読むことはできないのでしょうか?
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