読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

雑誌「新潮45」

2008-10-24 00:07:35 | 雑誌の感想
 書店をぶらついていたら、新入荷の札のついた「新潮45」があったのだが、ちょっと視覚と認識の齟齬が生じて思わず手に取ってしまった。それもそのはず、このような表紙だ。「新潮45」といえば「女の事件簿」みたいな三面記事的な内容ばかり載ってなかったか?それがこのちょっと宗教系雑誌の趣さえ感じる表紙だ。海がきらきら光っていてきれいだ。まるで溶けた金みたいで景気よさそう。で、トップのタイトルが「麻生太郎は暗殺されるのか」とある。これは買いだ。

 買って帰ってよく見ると「リニューアル記念号」とある。
 ほう、「論座」が休刊になったことだし、その読者層を取り込もうと狙っているのか?
「新潮45」宮本太一新編集長に聞く ジャーナリズムへ回帰 産経ニュース2008.10.2
「新潮45とは」新潮社サイト
2001年に就任した「オバはん編集長」こと中瀬ゆかりが、新たな読者層の開拓を企図。30代、40代の知的好奇心旺盛な女性をターゲットに定め、「事件・教養・セックス」の3本柱を打ち出したことで、雑誌は劇的に変貌します。「総合エンターテインメント・ジャーナリズム誌」と銘打たれました。しかし、その根底にあるのは、「人間が一番面白い」という“人間探究”の視点であり、創刊以来、変わることなく脈々と受け継がれてきた精神でした。

「30代、40代の知的好奇心旺盛な女性」がターゲットだったのかー!私は新聞広告を見ただけで辟易して一度も買ったことがなかった。知的好奇心鈍いからな。
そして2008年10月――。45は装いも新たにまたもや生まれ変わります。
 自らに課したテーマは、ネット全盛で、長く活字メディアが苦境に陥っている中、どうすれば、雑誌はこの時代と充分に闘え、生き残っていけるのか、ということでした。答は簡単には見出せませんが、その方策のひとつは、ジャーナリズムの原点への回帰でした。タブーをおそれず、常に事実といわれるものを疑い、己が真っ当と信ずるところを発言していく。重要な役割りの一つに“報道”があることを今一度肝に銘じ、周りや時流に迎合せず、自身の立ち位置を堅守して、生きた情報と論評を発信していく姿勢を第一にしたのです。

ほーほー、しかし「週刊新潮」臭さがそこはかとなく漂っている気がするのは思いすごしでしょうか。
「ハマコーが吠える!小沢『自民党出向社員』政権なら日本は滅びる」浜田幸一でちょっとげんなりする。ハマコーはいいよなあ「日教組が悪い。官僚が悪い。民主党が悪い。このままでは日本は滅びる」と吠えてればいいんだからなあ。

 麻生太郎は大した記事でもなかった。そして次が「呪いの時代」内田樹ですよ。「呪い」って流行ってる?
 「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」です。今、この「呪い」の言説が、それと気づかぬうちに、私たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあるように私には思えます。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐いています。けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならずおのれ自身への呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。


 2ちゃんねるをはじめとする「ネット論壇」にはとりわけこの傾向が顕著にあらわれています。20年ほど前まで、まだ私が学会と言うところに顔を出していた頃、学会発表後の質疑応答で、「あなたは・・・・・・の論文を読んでいないのではないか」とか「周知の・・・・・・についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者がいました。私はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、「自分の知らない情報」が無価値なものであるということをあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。(中略)

 しかし、かつては学会だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネットで異常増力しているように私には見えます。(中略)

 ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方そのままです。そのタイプの書き手が今ネット上に数十万単位で出現してきている。私はこれをいささか気鬱な気分で見つめています。

 2ちゃんねるがネット論壇の中に入っているとは知らなかったが、とにかくホレ、怒れ。
 
 人が市民として他者と共生するためになによりも必要なのはこの「情理を尽くして語る」という力だと思うのですが、ネット論壇では、自説の論拠と推論の適切性を「情理を尽くして説得する」というワーディングにはまず出会うことがありません。もしかすると「合意形成」を「屈伏」や「妥協」と同義だと思っているのかもしれません。けれども、「私は正しい、おまえたちは間違っている」とただ棒読みのように繰り返すだけの言葉づかいは市民的成熟とはついに無縁のものです。(中略)

 政治を語る語法もかつての、唐島基智三が司会する、NHKの党首討論にみられたような、ゆったりとした討論は姿を消しました。人の話の腰を折り、割り込み、切り捨てるという「朝まで生テレビ!」や「TVタックル」のスタイルに変わりました。番組自体はもちろん有意義な情報を(政治家というのはこれほどマナーと頭の悪い人々なのだという事実の開示など)提供しているわけですから、それはそれでよいのですが、これらの番組が、政治を語るときの語法のスタンダードを提供したことの罪は重いと思います。

 ハマコーとか好きな人はホレ怒れ。
 「呪い」とは破壊であって、何かを創り出すよりも破壊することの方がはるかに簡単であるから、「身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は」創造的な仕事ではなく、「破壊すること」に惹きつけられる。かつての学校教育は「無根拠に高い自己評価」を適切に下方修正させ、「身の程を知る」ということを叩き込む機能があったのだが、現在の教育現場では「無限の可能性」などという無責任なアオリをしているため、自己評価と現実とのギャップに苦しむ子供たちが量産されている・・・と、まあ内田せんせいの本に繰り返し出てくる理論ですね。その「呪い」にとらわれたのが安倍晋三元首相であり、今年6月の秋葉原無差別殺傷事件の犯人であると。
 加藤はある日何かを「呪った」のだと私は思います。呪いの標的となったものは具体的な誰かや何かではなく、加藤が妄想し「『ほんとうの加藤智大』が所有しているべきもの、占めているべき地位」を不当に簒奪している「誰か」でした。そして、その「呪い」は現実の力を持ってしまい、実際に何人もの人を殺しました。(中略)攻撃性が破壊的な暴力にまで亢進するのは、それが現実の身体を遊離して「幻想」のレベルに達したときなのです。だから、私たちにとって喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体性としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと私たちに促し続けているのです。


 とここまではまあ、いいでしょう。(異論もあるけど、まあ脱線するのでやめておきます)問題はここからです。
 2007年はじめから朝日新聞が展開した「ロストジェネレーション」が単行本になったとき、私は帯文を頼まれてゲラを読みました。一読して、私は社会理論としてここまで貧しいものが登場してきたことに驚愕しました(帯文の寄稿は断りました)世の中にさまざまなかたちの制度上の不正や分配上のアンフェアがあるのは事実です。その原因についても、さまざまな説明がありうると思います。でも、大学卒業年次に景気が良かったものと悪かったものとの間に社会矛盾が集約的に表現されているというソリューションには驚嘆する他ありません。お粗末な理論はいくらもありますが、朝日新聞がこれほど無内容な理論を全社的なキャンペーンとして展開しようとしたという事実に日本のメディアの底なしの劣化を私は感じました。

これについて、20代後半から30代前半の右翼的傾向の強い2ちゃんねらーの派遣社員は同意するのか、怒るのか・・・・。

つづく。


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