読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「百万円と苦虫女」

2008-10-03 15:57:19 | 映画
 タナダユキ監督「百万円と苦虫女」(公式サイト)。なかなかよい映画でした。

 主人公の鈴子は不器用で世渡り下手で、こういう女の子が旅をしながら成長していくとか、住み着いた先でだんだんと馴染んで明るくなってくるとか、そういう種類の映画が私は好きなんだけど、これはちょっと一味違っている。どこが違っているかっていうと部屋がいつまでたっても殺風景で、引っ越すときには未練なくみーんな捨てて、またトランク一つで出ていっちゃう。私はたとえば、今村昌平監督の「うなぎ」で、刑務所から出所して理髪店を開いた主人公のところに訳あり女が転がり込んできて、彼女が手伝ううちに古くてうす汚いお店がだんだんレトロでポップな色合いになってくるようなシーンが大好きなんだけど、この映画では部屋はあんまり変わらない。変わる間もなく、百万円貯まったらすぐに引っ越してしまう。そして家財道具っていえば唯一、つぎはぎだけどキュートな手作りカーテンだけを持ち歩いている。このカーテンはいい。

 鈴子は行く先々でやっかいなことに巻き込まれる。ああ、なんて不器用なんだろ。かわいそうなくらいだ。桃農家の長男が言うように、もっと自分の意見を最初からちゃんと言わないからそんなことになるのだ。そもそも同居人とトラブルになった事件だって、最初から言葉で怒りを表現してればよかったのだ。こんなかんじ?
 「なんでネコ捨てるのよ!ネコ、死んじゃったじゃないの!」
 「うるせー!イライラしてたんだよ!」
 「イライラしてたら、人のもん勝手に捨てるわけ?あんたの荷物も捨てるからね!」
 「なに言ってんだよこいつ!ギャーギャーうるせーよ!」
 「ネコ返せ!ネコの命返せ!」 バシ!
 「何すんだよ、このバカ女!」 パーン!
 「よ、よくも殴ったわね!・・・殺してやるー!」グサッ!
あ、ヤバイ。傷害事件になっちゃった。

 つまり、こういうドロドロの人間関係が苦手なんだな。でも、ネコを捨てられたからって相手の荷物を全部捨てるってあんまり短絡的過ぎる。で、今思い出したんだけど、私が秋葉原の事件の犯人のことでどうしても解せなかったのは、数日前に仕事着が見当たらなくて騒いだっていう件。もし、つなぎがなくなっていたら「僕のつなぎ知らない?知らない?」って聞いて回ればいいと思うのだ。更衣室が狭いとロッカーを共有しなくちゃいけないことがあって、結構トラブルになるから、あらかじめ共有者とルールを決めておかなくてはいけない。シフトがずれてて会えなかったらメモを残すとか。あと、おんなじもんだから人が間違えて着てしまうこともよくあるし、クリーニングの業者の手違いってこともある。そういう管理の責任者がいるはずで、まずその人に言うべきだ。で、もしそれが何かの嫌がらせだったり、ほんとに辞めろってことだったら(そうじゃなかったようだけど)人事の担当者とか、自分の派遣会社とかに『困ります』と訴える。もしダメだったらもっと上の管理部長とか、工場長とかに直訴するのだ。いくらでも段階はあったはずだ。『悔しい、暴れてやる』っていうのはその後でもよかったのではないか?そこまで考えていつも、「そーかー、そういうコミュニケーションの訓練を受けてないんだ。」と思ってまたよくわからなくなるが、私だって人のことは言えたものではなくって、ネットの世界のコミュニケーションとなるとさっぱりダメだ。トラブルが起こっても誰にどう相談すればいいかわからなくて途方に暮れる。たぶんそんな状態なんだろう。この映画も、きっとそういう人との係わりの苦手な子が否応なしに対人関係のトラブルに巻き込まれて、少しずつ成長していく姿を描いているのだと思った。

 問題は主人公の方にあるばかりじゃない。
 ネコ云々の前に、そもそもなんでこんな男と同居しなきゃいけなくなったかっていうと、調子のいい女友達の口車に乗せられたわけで、考えているうちに、むしろその子の方が常識が欠けててアブナイ人に思えてくる。だけど今の世の中にはそういう非常識で厚かましい人の方が多くて、鈴子はそういう人たちにうまく対応できないだけなんだ。事情も知らないのにひどい噂を立てる近所の人たちや、同窓会で笑い物にしてやろうとする高校時代の同級生や、名前も聞いてないのに「君と僕ってソウルメイト。」などと無理やりナンパしようとする海の男や、村起こしのために嫌がる鈴子を「桃娘」に仕立てようとする村の人たちや、行くとこ行くとこ、利己的な人たちばかりが目につく。そして、鈴子の弟のようにいじめられ続けた末にとうとう我慢ができなくなってキレると、一方的に悪者にされてしまうのだ。見ているうちに私は、「未熟なのは鈴子ばかりじゃないよなあ、むしろ鈴子を通して見えてくる周りの人たちも相当ひどい。」と思うようになった。特に村の人たちに集会所で責められているシーンには、何がなんでも同調を迫る田舎のいやらしさ(及び排他性)みたいなものを感じた。・・・これ、普通なんだろうけどやっぱりおかしい。嫌だな。

 それに反して恋人になった中島君はさわやか青年だった。最初、「あ、鈴子と同じ呼吸の人だ」と思った。好意を持っていることは明らかなのに、とても気を使っておずおずと少しずつ近づいてくる。なんて慎重でやさしい青年なんだろう。と、思っていたから、付き合い始めた後に「お金貸して」って言ったときには衝撃を受けた。「おい、中島、お前もか!!」そしてしばらくは、頭の中が自分の過去の経験に照らしたダメ男のパターン分析でいっぱいになり、映画そっちのけだった。鈴子に完全に感情移入しちゃってるから、問い詰めるシーンでも切なくて胸が痛んだ。中島君は私の中では完全に自己チュー男になってしまっていた。それだけに本当のことがわかったときには再び衝撃を受け、自分の心の狭さを恥じた。こんな不器用な似た者同士はそうたくさんはいないから、お互い別れるにはもったいない、とドキドキしながら見ていたが、よくある映画の結末とは違ってすれ違ってしまうのだ。「ぼくは逃げない。」という弟の手紙を読んで、そのような強さが欠けているということに気づいたのになんでまた出ていくんだろう。まだまだ鈴子には経験が足りないっていうことなのか。それはそれでよいのかもしれない。

 続きがあれば見たいような映画だった。

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