田ノ浦での、深夜の強行工事は住民の身体を張った阻止行動によって中止となった模様です。
余談を許さぬ状況は続いているようです。
http://blog.shimabito.net/?day=20100910
祝島の住民は、30年続けて来た阻止行動によって、原発建設を覆せるとは思っていない。
「我々に出来るのは、世論が変わるその日を信じて、少しでも後延ばしにすることだけである」と、反対運動の中心メンバーである山戸さんは映画でも上映会でも語っていた。
国家権力、大企業が、法令をねじまげてでも遂行する事業によって、少数の集落の生活や、生態系に回復不能な打撃を加えることは許されない。巨像が蟻を踏みつぶすようなやり方がまかり通るというのなら、それは同じようなハナシが姿を変えていたるところで横行するということだ。
僕がほんの1年ほどの短い期間、許される機会の中で感じたのは、ナチュラルで当たり前のことを主張する側が明白に苦戦を強いられているということ。目に見えない「不公平」が漫然と横たわっていること。そうした大きな意味での社会的風潮。言葉を代え、概念をすり替え、多くの雇用者を巧みに納得させながら回転し、大地を蹂躙する経済を中心とした価値観とそのシステム。
僕らはまずそれに依った生活を反省しなければならない。
少しづつでも、万年先には1ミリの修正が大きな方向転換へと繋がるのだから、1個人のちょっとした事はやはり、大きな意味を持つのだと僕には感じられる。
そして、現在まさに起きている現実に目を向けて、知り、考え、意見して倒れ、また立ち上がって同じ事を繰り返さなければならない。納得いかないなら、現場へ行ってみるといい。
同じ人間として、祝島の人々の訴えには共感するし、大きな力のやり方に憤りを感じたものだ。
そして、それでもなお畳み掛ける大きな力のやり方に一度絶望すら感じたものだ。
怒りなどとおに過ぎたところに、それでもなお燃え残る「気持ち」をどうにか形にしようと、久しぶりに言葉を練り選んで唄を書いた。
『祝島帰り』という曲ができ上がったりもした。
行って感じたら、それぞれの形で何かがボッコシ顕われるはずだ。
それが人生に大きくて新たな力となることは確かだ。
生まれてくる前に神様に授かったお使い
とでも言いたくなるような何かを思い出す。
51得点49失点の天賦の才。
得失点差+2のその2をミナが回し合えば、人口がいくら増えても地球は大丈夫だよ。
無理が通れば道理が曲がる。
祝島で起きていることは、「海の地上げ」に他ならない。
ボクの目にはソー見える。
どうみても非人道的だし、自然環境への理解と尊厳を感じられない中国電力のやり方には賛同できない。
原発の安全性に関しても、日本人なら誰もが抱かざるを得ない恐怖と疑念を納得させるに充分な説明を果たしていないのだから、まずはそれが先決であって、世論の見えない所で、まして協定違反の深夜にコソコソと工事を進めるような事であってはならない。
「原発立国政策」の見直しを求める、1音楽人です。