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「次郎長伝ー博徒の虚像と実像」
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さてさて、虎三浪曲で親しまれてる「清水次郎長伝」のハイライト3年間と、幕閣井伊直弼大老の
晩年3年間と、を並べてブログする。
その始まり年(安政5年1858)は、ヤクザ次郎長がお蝶さんを連れて旅に出て名古屋で難儀した頃
であり、一方の彦根藩主井伊直弼が江戸城溜詰大名から大老職に祭り上げられた年である。
その終わりの年(万延元年1860+14時間)を、優柔不断の幕閣評議を率先決断して歴史を加速させた
故に暗殺される真冬の桜田門の井伊直弼の時と、穂北の久六と都鳥吉兵衛らの親分連続殺しで
ヤクザ仲間から悪評判となった次郎長の頃とすれば、この3年間は両者にとって最も輝いた時である。
(A)虎三浪曲で、名古屋の貧乏ヤクザが病気の次郎長夫婦の世話をする場面「勝五郎の義心」では、
座長も泣かされてしまうのだが、その世話する深見村のヤクザが、ナント「次郎長伝ー博徒の虚像
と実像」を書きました佐橋法龍氏の曾祖父の鯱鉾・巾下の長兵衛なのです。
31歳のお蝶さんが翌年1/1に亡くなってスグに、彼は誤認逮捕されて牢死しますが、残されたおせん
母子が次郎長逃亡先の寺津・間之助親分宅を頼った事で、後年上記暴露本が上梓出来たのです。
(B)一方の井伊直弼は、3年前に自選の戒名を菩提寺に託し「捨身興業之御深慮」の境地にあった。
即ち、老中職を経ずとも高位の職(執事職、元老)が得られる家筋の直弼であったので、
庶子待遇で部屋済み15年(埋木舎)で形成された自律・求道的態度を極めると共に、
井伊家世嗣となった弘化3年1846からは江戸に出府して政治意識の向上に努めていた。
斯くして、この年の4月に大老職を拝命して、老中らとの評議に参加すると共に、将軍家定を
幕政の中に引き入れて将軍継嗣の正統化を図るのであるが、問題は彼の側近達の多くが
高齢化して世代交代が始まっていたことであった。
(C)いずれの世界でも対立抗争は尽きない!
40歳の次郎長は、散々援助した元相撲取り久六が(大前田英五郎系ヤクザとの連携、十手預かり
の親分格)戦略で順風満帆な事への妬みと、アノ石松が「お蝶密通話ーN本49P」を告げたことに
怒り狂い、久六を殺してしまう。次郎長は翌年にはソノ石松に「イカサマ博打ーN本144P」を
やらせて都田村の吉兵衛を殺すに至るのであるが、これらの騒ぎの決着は「日本一首継親分・
安藤文吉」の調停で静まってしまう、ナゼダ!?
以後、甲州黒駒の勝蔵とのイザコザ争いで雑な仕事の次郎長は、維新後は旧幕臣山岡鉄舟に
心酔追従する事で「海道一の親分・清水次郎長」のブランド確立に成功するのだーN本228P。
(D)一方の井伊直弼にとっての対抗勢力は、彼を幕府筆頭のスケープゴートに利用しようとする
老中らと、江戸城内の安藤文吉親分・・如き大勢力の水戸斉昭らと、条約調印を7月期限として
軍事脅迫する米総領事ハリスらと、等であった。
果断にも直弼は、英仏軍の清国屈服の報を聞いて条約即時調印すべしとする江戸城内幕臣と
老中掘田正睦・松平忠国らの賛同を得てハリス通称条約に調印する。
そして「これは違勅であるが、慶喜を将軍にすれば朝廷に弁明する」と不時登城した斉昭派
らを譴責排除すると共に、老中職2人には違勅調印の責任を負わせて辞職を命じる。
その後の歴史展開を「公武合体」で切り抜けようとした直弼なのだが、斉昭派らの尊皇工作・
慶喜擁立の過激なブランド戦略に屈してしまうのである。
N本とは「次郎長伝ー博徒の虚像と実像」佐橋法龍著