創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

日本資本主義政府の行き詰まり

2015-12-07 14:53:15 | 政治   
  日本資本主義政府の行き詰まり 
「長い16世紀」のスペイン帝国が戦争を繰り返したのは、当時、社会の構造が転換しようとしていたにもかかわらず、そのシステムの変化と構造から新しい道を見つけることができずに、過去のやり方を強化することでなんとか危機を乗り越えようとしたからです。
 例えば、フェリッペ4世のもとで実権を握っていたオリバーレスは1622年に中央
集権的絶対王政の実現、つまり帝国制度の強化を企てて大構造改革を断行しました。しかし、それり素以後のあがきで大失敗に終わったというわけです。つまり既存の制度が機能不全へと陥っているにも関わらず、従来の方法や過去の歴史に回帰して維持・強化しようとすれば失敗するのは明らかです。それ以後、スペインは歴史の表舞台から姿を消しました。
 現在の、日本資本主義政府も非常によく似ています。安倍政権の経済政策は、すでに行き詰っており、積極財政政策は過剰な資本ストックを一層か上にし、雇用なき経済政策は人件費の削減以外に抜け道が見いだせないでいます。もはや機能不全に陥っているときに、従来のパターンで経済を強化しようとする方法論では、いかなる構造改革でも危機を乗り越えることはできません。           つづく

支配共同体と共同幻想のアジア性

2015-12-06 16:22:13 | 共同幻想
支配共同体と共同幻想のアジア性
「アジア的な国家では共同幻想が「共同体幻想」に近いところで成立しているのが特徴です。」(吉本)
 この前段で、アジア的という歴史概念では、国家は「支配の共同体」という概念に近似のところで成立すると思われる、という記述がある。また、個人幻想とも対幻想とも違う位相で共同幻想が生じたとき、それを国家の成立としています。
 ここでまず戸惑うのは、共同幻想と共同体幻想を区別している点だ。それは支配の共同体と共同体幻想が等価の意味で使われ、多様な共同幻想の中で国家に行きついたところの共同体と国家の起源を解き明かすことに視点があるからだといえる。これ以前の母系制社会における宗教的なカリスマ性としての巫女と託宣による宗教的支配の構造が、兄弟姉妹の支配形態の分離で、現実の権力を兄弟が担い、姉妹は宗教を担うことで共同幻想の形態が変化してしまう。そこで、はじめて共同幻想に「支配の共同体」と国家の成立がアジア的な特性として現れてきたと解釈できると思われる。

教育の在り方

2015-12-06 16:21:03 | 教育
教育の在り方
 大学は明治期には欧米の文明に追い付くためにと、知的専門家を急速に育成する必要が出てきました。そこで学校の役割は国家、社会に役立つ人間を作るという宗教性が出来上がりました。さらに大正期以降は学問の独立、思想、表現の自由、あるいは研究の自由といった新たな宗教性が出来上がりました。ただ、個々の大学によっても宗教性や理念があります。そうした地域性や個別性、特殊性を排除して世界における大学の問題として深化できれば、教育の普遍性が手に入ります。そこで初めて政治的な問題として、教育の問題が普遍性を獲得していけるといえます。時代環境、社会環境が大きく変わり、その中での教育の在り方や役割が問われますし、変わってきます。ただ、より深い教育として大学の在り方、あるいは学校教育の在り方を問うていくとすれば、国家という強制や規制と対立していかざるを得なくなります。当然、教育の内容も、国家という指導要領や教育基本法を排除して、教育の在り方全体を考えていくと、より普遍的な教育の在り方、原点へと行き着けると思います。

普遍宗教とは

2015-12-06 16:20:11 | 宗教
普遍宗教とは
 宗教が世界性をもつには、どうすればよいか。キリスト教でも仏教でもいいのですが、世界宗教といわれて人類史に延々と根付いて生きていける宗教とはなにかということです。たとえば、日本の各地には地域の宗教がありますが、決まった仕来たりや儀礼、あるいは所作があります。地域の人々の習慣ともなり、あるいは風俗、掟、規範になってもいます。ただ、そうした宗教は地域性が強く、他の地域に移ると通用しない仕来たりであったり、儀礼であったりします。つまりそうした土着の宗教は儀礼が強いほど信仰の対象が限定的で、普遍宗教、つまり地域を超えて、あるいは時代を超えて拡大していく宗教にはなりにくいものです。 では、なぜ仏教やキリスト教は普遍宗教ともいわれるほどに種族を超えて、時代や地域を超えて人々の心をとらえているのでしょう。それは、種族性や地域性を切り離して、人間の内面へと深く入り込、心を支配するだけの思想へと到達しているために、内面を律して支配する宗教性を獲得していったといえます

罪の概念と罰の形成

2015-12-06 16:18:47 | 共同幻想
罪の概念と罰の形成
 家族はセックスを基盤とする共同体で、性の親和と性の自由さがある。いっぽう親族は性の親和と性のタブーが基本となっている。この親族組織が族外婚を開始し、氏族制社会へと拡大していくにつれ、性のタブーが個々の自閉する家族にも浸潤し、しだいに長い年月を掛けてタブー化されていく。やがて、部族国家という、国家の要素を備えた規模になることで個々の村落共同体の規範は外側からしだいに強化され、家族内の性のタブーも意識されるようになっていった。結果として、それらの規範は村落法としてやがてまとめられ、自然法的な内容で整備される。ただ、原始村落共同体では村内法を犯しても、また処罰という因果応報思想はなく、その行為や出来事は見えざる霊によると思われていた。そのため、霊を祓い清める行為で対処する。タブーへの規範は祭儀行為として扱われていたと考えられる。
 その内容は、雨が降らないのは天の神のせいだから雨乞いをする。あるいは、コウモリが家に飛び込んできたのは、たたりがあるから清祓行為で清める。また、時間性を獲得し、夫婦関係が理解できてきた段階では、親族は近親相姦をタブーにしていたが、家族内も母子相姦や父子相姦、あるいは兄弟姉妹相姦を禁じ、そうした場合は清祓行為おこなっていたと考えられる。当然、部族が拡大するにつれ、またさらに上位の大和朝廷が横合いからかすめ取るように、それぞれの地域の共同体を支配。その際、個々の村落共同体にある宗教や規範、掟などの村落内のみに通用している内容を、それらには手を付けずに上から覆うように新たな法を設けていった。新たな法を大陸系農耕規範である天津罪として農耕に関係した掟をまとめ、そこで従来の村落法を国津罪としてまとめていった。大和朝廷の支配法を天津罪として定めていったものだ。国津罪は主に自然法的で、病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴がある。