創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

天津罪と国津罪

2015-09-06 09:29:49 | 民俗学
天津罪と国津罪
 村民の誰かが農耕地の畦を埋めて田に水が流れないようにしたとします。あるいは、近親相姦をしたとします。これらの行為は共同体の掟を破り、暮らしを乱す行為になっていました。そこで祓い清めることで、邪心をその者から取り除くために水で洗い出して清める。あるいは悪霊を祓い清めて追い出すといった宗教儀礼を行いました。つまり、実刑としての具体的な処罰を個人に課すのではなく、行為を促したを「醜悪な汚れ」を追い出すことが初期の処罰の考え方でした。
 やがて前農耕的段階から農耕的段階へと移行する過程で、宗教優位から現実的政治優位へと転換し、それに伴い共同幻想としての法規範が渡来人達の文化移入とともに取り込まれ、身体的清祓行為を社の建立に向け、罪に対する法的刑罰の高度な意識を取り込むことになりました。ただ、初期の段階は個々の家族集団内と農耕法的な共同規範は混然としていましたが、「家庭内の家内信仰、掟、習俗、伝習」と「農耕に関わる規範」とのカテゴリーに分類されるようになります。
 それが、天津罪と国津罪という分類で、(1)天津罪は主に農耕に関わる刑法にあたり、例えばその中には①畦放(あなはち)-畦を壊して田に張ってある水を流失させる水田感慨妨害。古事記でスサノオが高天原でアマテラスオオミカミに行い、アマテラスは天の岩戸隠れています。②溝埋(みぞうめ)-溝を埋めて田に水が引けないようにする。③樋放(ひなはち)-田に水を引く管を壊す。④頻播(しきまき)-他の人が種を播いたところに、また播いて作物の成長を妨げる。などの農耕法的な共同性に対する侵犯で刑法的カテゴリーを含みます。(2)国津罪は自然的カテゴリーあるいは親族法にあたり、①生膚断(いきはだたち)-人の肌に傷を付ける。傷害罪。②己が母犯せる罪-近親相姦③己が子犯せる罪-実子との相姦④母と子と犯せる罪-ある女と性交し、その後その娘と相姦する。④畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)-家畜を殺し、その遺体で他人を呪う。など病気、災害、天変地異、不適切な性的関係など幅も広い。 
 国津罪は前農耕的な段階を多く含み、兄弟姉妹の性交が含まれず、前氏族共同体にまでさかのぼれる法概念を含むことから、私の考えでは国津罪の方が天津罪よりは古いと考えられます。おそらく、大和朝廷の意図は、天津罪を農耕法として共同体の上位へと引き出し、抽出して法概念として上に置き、それ以外の残った近親相姦、獣姦、天変地異などを国津罪に包含して、清祓対象と共に私法的な下位の概念へと位置付けたと考えられます。

祓い清め

2015-09-06 09:28:53 | 民俗学

①醜悪な汚れに感染(接触)したものを体から落とす。
②水浴などで身体に着いた醜悪な汚れを洗い落とす。
③醜悪な汚れそのものを洗い落とす。
④身体を水に滌いで清める。特に目と鼻を洗う。
①②に刑罰的意味が存在し、③は宗教的な意味が存在していました。対他的な関係は醜悪な汚れを法または宗教に挿入し、祓い清めで解消できると考えられていた。現代でも、具体的な法律からは削除されていても、習俗として神社で祓い清めの儀式は残り、また境内で柄杓で手を洗うなどの行為は、その儀式を受けています。

巫女論

2015-07-15 15:13:52 | 民俗学
■巫女論
 共同幻想論には「巫女論」が収められている。通常、巫女といえば、女性で神がかり的な異常心理を群衆内で示し、宗教上の神の託宣を村落民に伝えるという役を演じると受け取られやすい。しかし、共同体が成立し、その託宣を共同体に伝える段階では、性別は関係なく、また当然共同体の利害関係を背負うことになります。
 ところが巫女は、吉本にいわせると「共同幻想を自己の対幻想の対象となしうるもの」としている。これは、共同体を背負いながらも共同体の幻想の象徴ともいえる対象物を性交渉の相手にできる人物という意味になります。例えばそれがお犬様でも、トーテムのような像でも、神と称する人でもかまわず、ただ共同幻想の象徴を生態省にできる。実際、性行為をするしないは関係なく、対幻想の対象になしうるのが巫女の条件ということになる。それは、共同体の発展過程で宗教が共同体と同致することを意味し、その段階をもって巫女の役割を権力と結びつけるか、共同体の構成員に穀保神として豊穣を祈願し、あるいはなんらかの規範を託宣として伝えます。ただ、この巫女本来の実質的な役割は共同体の進化と共に、霊威なり神の力を失うことになります。
 ただ、ここでフロイトの理論を持ち出して、「女性」とは生誕の最初の乳幼児期における拘束対象が母親と同性であったものとしていま。つまりは、出産期および授乳期という産後時期に乳幼児の世話を直接行う母親と同性の性を持っているものという、回りくどい言い方をしているが実は本質を突いた女性論を紹介している。
 ここで、さらに吉本は論を展開し、いわゆる拘束対象である同性の母親から、逃れようとしたとき、その対象となる性は男性となるか、あるいは具体的に男性でも女性でもない架空の性ということになってしまう。なぜなら、回避しようという性が女性である以上、同性である女性に行き着くことはありえないからです。では、女性志向女性をどう説明するのでしょう。この論でいえば、何らかの理由によって、相対的な性対象としての女性か、母性としての女性でしかあり得なくなります。では、回避しようとした場合の「他者」を排除し、残る自己幻想か共同幻想への同致に当然理論的には行き着きます。こうして、彼の女性論が「あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらものをさして<女性>の本質とよぶ」という結論が導かれています。しかも、この自己幻想を選ぶことも、共同幻想を選ぶことも同じことを意味し、自身の生誕を選ぶか、生誕の母胎としての自身を選択するかも同一だとしています。そて、自己幻想を選ぶとは何を意味するかでしょう。それは実在しない観念としての性対象を生み出す矛盾にさらされるはずです。つまりそのことが、自己の生誕を生み出すことにはならないと考えられます。ただ、このとき自己幻想=共同幻想という本質的巫女があり得るとしたら、おそらくは歴史上の古代に遡った特異な精神状態の時でしょう。少なくとも、現代に当てはまるという想定は、よほどの特殊な状況や特殊な文化段階、もしくはてんかん症などの特異な疾病や修練を積んだ異常の創出が条件となります。聖テレサがつかむ恍惚は、自己性愛と共同性愛の二重性だとしてますが、いずれにしろ普遍性があるとは思われません。また、もし共同幻想を選ぶとすれば、共同幻想の象徴としての神なり、トーテムなりの対幻想の性対象ということで、古代共同体の特異な巫女が清祓儀礼や宗教儀礼といった共同行為を行うこととは無矛盾となります。
 なお、ここではシャーマンをもその論考の対象にしています。共同幻想の象徴に同化し共同体の共同利害を心的に構成しうる自覚的な修練や伝授が、個人幻想につく状態を死の境で生み出すような過酷な修練が、共同幻想と馴致できる自己統御が要求されるとしています。巫女は性の対幻想と共同体との同致で祈祷性性神疾患との違いを、ここで強調しています。 巫女とは、ある意味では不幸を背負ってしまった女性達ですね。