創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

ナルシズム入門より

2015-12-06 16:11:49 | 意識・意思・精神
ナルシズム入門(フロイト) より
児童と原始人を同列にして精神生活を解釈する。では、なぜフロイトは原始人の精神生活を取り上げたのだろうか。彼はいくつかを例示している。
・自己の願望や心的作用がもつ力の過大評価 
・思想の全能性
・言葉の持つ魔力への信仰
・外界に対する技巧
・これらの誇大妄想的な徹底的応用として現れる「魔法」
 そして現在の児童の外界に対する類似性に共通項を見出している。「自画にふりあてられた根源的なリビドーの割当という観念」が「リビドーの格納」として神経症の諸兆候のようにやがて表れるとしている。そしてリビドーは「自我リビドー」と「対象リビドー」とがあり、それらは反比例の関係で対立している。対象リビドーの最高の発展段階を「恋着」といい、自己の人格の完全な放棄の状態。自我リビドーのそれは、偏執病者による世界没落の空想の世界のイメージだとする。

止揚の概念

2015-12-06 16:01:40 | 意識・意思・精神
・対極概念を統合し、新たな考えを生み出す
 たとえば 死と生という対立している状態を合一させて考えている。死ではキューブラー・ロスという女性の「死の瞬間」の人間の意識の変化を段階化している理論と、乳胎児期の無意識を対応させて段階論を作り上げ、両者を結合させて人間の生命幻想に理論化のメスを入れる。

こころを科学する

2015-12-04 15:09:48 | 意識・意思・精神
「心」を科学する
心の深層部分で乳胎児期の母との受け身の接し方に、あるいは無意識の内に獲得したその仕方に、人間の社会の歴史、共同体の歴史との著しい関連付けをしている。すなわち社会的な行動や生活の挫折と、母と乳胎児との接し方の挫折は同一視され、共同体の社会的段階と病像とを不可分な関係として捉えられる。
 それは西欧文化の展開の根拠でもあり、さらにさかのぼり、氏族共同体の内婚の禁止の時期のことも取り上げる。内婚制は原始共同体と古代的共同体との中間期の段階で、当時は族外婚は禁止されていたが、それを誤魔化すために妊娠した女性の相手は神様だったという神様神話が古事記には書かれている。このような族外婚が氏族内で半分以上になると内婚制は崩壊し、氏族内婚から族外婚制へと移行していく。ここでは近親婚は半分くらいしか禁制が通用せず、近親の親と子や兄弟姉妹との関係はタブーではなかった。この時代の男女には、まさに近親相姦的傾向があり、乳児期の母との接触にトラブル、すなわち受け身である時期に時代的な障害を受けることで、同性愛的な傾向としてのパラノイアにかかった近親婚があったと考えられている。
 こうした、時代情況下での影響は西欧文化がキリスト教の影響から乳児期に儀式行為と称し、乳児の身体に特別な傷を負わせてきたこととも共通して取り出せる。この習俗が、もっとも重要な大洋期における心的加害行為であり、これが起因となって内向的個人主義あるいは全体主義、思索的文化といった固有の世界を生み出していると吉本は指摘している。
 まさに、男女の性愛の行動と社会構造との関わり合いの過程で、無意識のうちに心的世界に入ってしまう時代病といえる。
 さらに、その脱出法のひとつとしてとして乳胎児期に母との接触の仕方で起きてしまう病像を、過去に追いやってしまえば、つまりそのような社会システムができあがれば、すくなくとも方法論としては解決する。
 そのひとつには、人工授精と人工出産すなわち母体内で受胎するということから、人工的な環境での受精と生長、さらに一連の育児を社会システムで行うと、母からの受け身のダイレクトな影響は受けることなく育つことになる。あくまでも未来映画のような論理的方法論としての想定で、あるヒントを暗示しているように思われる。
 乳胎児期の母との接し方が最重要ではあるが、西欧全文化の根源というには、一部飛躍がありはしないか。日本人の子育て法を他方の極に置くとはいえ、過去の戦時には日本人とて満州・朝鮮半島などで残虐な行為をしてきている。戦争の悲惨さは、いかに大洋期が良い環境であったとしても、国家という共同体が個人に逆立して強制すると同時に、個人の内部に残虐さが内在し、殺戮に走れるというテーマを突き詰める必要があると考えられる。
 そもそも「大洋」とは、母と乳胎児との 関係から発生した心と感覚の錯合した前意味的な芽生えをもった世界である。発語でいえば前言語的な固有言語世界で、喃語(あわわ言葉)や幼児言語の世界に対応し、「母音は言語的な皮質の優位で感受され、また「母」の像の根源にはあらゆる自然現象を擬人化し、命名せずにはおられない発生機の習俗がかかわってくる」とみなされている。まさに古代人類の黎明の意識と、自然との関わりに対応している。
 フロイトが捉えた神経症やパラノイアは「大洋」期に言語をどう獲得していくかと深く関わっていて、この前言語的世界だけが宿命的な強迫神経症を解く鍵と考えられている。
 ところで私たちがいう心とは何かを突き止めようとすると、人間の生い立ちである生命史をたどり直す必要がある。
 人の体の植物から動物への進化とは、植物の茎に体壁系(感覚器官系)をかぶせたものにあたっている。
 逆にいえば、動物の体から腸管を一本引き抜いて、それをちょうど袖まくりするように裏返しにひっくり返したものに他ならない。
 植物系の茎の維管束は、動物の血管系で、葉の表面は、動物の腸管と肝臓、肺胞の内側に当たる。植物は大地と天空というふたつの自然に体自体を開いてつながっている。そこでは大陽はまるで心臓が血液を押し流すように、光を押し出し、光合成という代謝活動を行っている。
 一方、動物は体腔と腸腔を入江に、肝臓と腎臓という入口と出口で外界を遮断し、体壁系で自然との直接のつながり避けている。内臓系は遠方の外界と共振する「植物器官」で中心は心臓、体壁系は近接する外界の自然と反応する「動物器官」で中心は頭脳ということになる。
 また内臓系は腸管系・血管系・腎管系の三つに分かれ、吸収・循環・排出を行う。血管系は体壁系の神経に当たっている。それに対し体壁系は外皮系・神経系・筋肉系の器官に別れ、外皮系は皮膚の触覚が進化して、目・耳・鼻などの感覚器官が開き、神経系は発達して脊髄になっおり、そのは発達したものが脳、また筋肉系は脊髄の両側にでき、広がって内臓をすべて包んでいる。
 この内臓系の動きつまり植物系の器官を基にする心と、体壁系つまり神経や筋肉などの動物系の感覚器官を基にする心の動きのふたつがあるとしている。これらふたつが表出されたものが人間の心だということになる。
 言語は動物的な反射が意識のさわりを含むようになり、それが次第に発達して自己表出としての指示性をもつようになったときに、人間に言語を使う条件が整ったこと、またそのさわりのようなものを感じて、その現実的反射が自己表出されたとき、言語が人間のために存在し、他者のためにも存在する言語の指示性を獲得したことになると論じていた。
内臓の動きが心を表すのを「自己表出」、感覚器官が反映して動く心を「指示表出」と対応させることになった。

信仰の空間凝縮と心の在り処

2015-12-01 11:21:17 | 意識・意思・精神
信仰の空間凝縮と心の在り処
 古代の心性として、場所や物などの空間に魂あるいは霊的な何かが宿るという転化が考えられていたといえる。もっとも初源では、より広い広域の空間であり、天空や大地や山全体や海るいは海のはるかかなた全体と考えられ、イメージが大きく膨らんでいた。やがて広域の場所は、より具体的で身近な物へと凝縮されていく。たとえば山の高所や高所にある巨木や巨岩といった対象に意識が絞られていく過程をたどっていった。そらに、それらの遠方からより身近な信仰の対象となり得るトーテムへと移動し、さらに収縮していく。そしてより具体的な対象として人間へと転化され、死者や現人神への信仰へと空間凝縮していったと考えられる。
 これは人の心が求心的であることと一致している。つまり、人のこころは古代では外在し、魂や霊のありかが、初源の段階では公式な空間に外在していたのと対応し、人のこころは身体内にではなく、広い空間と一体化していた。この霊の在りかが次第に牛祝詞はじめ、巨木や巨岩に転化し始めると、人の心もより具体的なものへと乗り移っていく。やがて人間へと移って時、当初はある特定の巫女や女衒や宗教的カリスマへと心は同体化していった。この共同性と宗教性の意識の胴体化が、個体へと分離されて一人一人の意識の内部に心が宿っていると考えられるの至るまでには数万年が経過したと考えられる。

幼児行為

2015-12-01 11:05:17 | 意識・意思・精神
・おしゃぶり、吸引の行為は幼児期に始まり、成人しても継続いる場合がある。
このリズミカルに反復する吸引や接触は、舌や届き得るすべての部位が吸引の対象となる。代替え行為としては相手の耳を引っ張ることがある。この恍惚を伴う吸引は、注意力の消耗とも結びつき、睡眠かオーガズムの一種の運動で終了する。身体の鋭敏な乳首や生殖器へと移り、摩擦が吸引と結合する。多くの小児はおしゃぶりから手淫へと転換する。
(フロイト)