創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

なぜ鴎外は玄人の女性が好きか

2015-12-09 15:54:32 | 対幻想
「父の像」(吉本隆明)
 この中で気になる箇所。「森鴎外ももつ女性像は、玄人筋の女性像からできています。これは、父親の持っていた女性像をたいへんよく受け継いでいると思います。なぜ、受け継いだかといえば、長く生きていた母親が父親を肯定的に見て、否定したことがない過ごし方をしたために、それが鴎外に受け継がれていったんだと思います。」
 この個所で、漱石とは違うことと対比しています。問題は、なぜ母親が父を否定しないと、息子が玄人すぐの女性を好きになるのかという疑問です。解けない。

像としての母型

2015-12-01 10:59:21 | 対幻想
像としての母型
 生きていくことにまったく受け身で無力な状態を助け出す母の愛は、乳児にとっては、その後、他の人物と接していくにあたっての人間関係のイメージの原型を形成していく。自分を同じように愛してくれる像を重ねて相手を見るようになる。つまり母の像の延長として、自分への細やかな愛情や評価を性愛と同一視する。性感帯から絶えずあふれ出る興奮と満足の源泉であり、母は育児とともに性対象の代理を演じているからだ。その強い性欲動の準備は、性器領域の刺激だけではなく、心的生活の影響で異性愛の原型が形成されるということになる。その逆に、乳児期に母の愛情が不十分な場合には、その原型はゆがみ、その後の性愛に負の大きな心的要因を為政されることになる。また、その像と食い違う場合、その像を無意識に拒否れたことになり、ときには失望の欠落感から神経症の症状を発症することもある。

対幻想の変容

2015-11-25 15:07:23 | 対幻想
対幻想論の拡張
 吉本隆明が使い始めた対幻想の言葉の概念は、一対の男女の性の観念の世界を指し、本質は家族ということになる。しかし、対幻想は性に関わる全観念領域を対しようとすべきだといえる。例えば男女性がうしなわれた状況などは対幻想の解体と規定してしまうが、そうではなくて対幻想の変容ととらえるべきで、対幻想概念は意味を失ったり対幻想そのものの用語が解体したわけでもない。家族を核として考えてしまうと、現代の性の態様が総体として捉えられなくなってしまう。

売買春と売春禁止法

2015-11-24 16:19:01 | 対幻想
エロスについて(吉本隆明)
「エロスとかそういう問題というのは、大雑把に言いますと、二つに分けられるんです。この二つというのが何かと言いますと、家内的、家庭的要素、そしてもう一つが家庭の外側にある社会的な要素です。それは同視できるものでもないし、重ね合わせるものでもない、と僕はそう考えているわけです。自慰行為にはある種の不健全さというものがあると思うんですが、不健全であると考えるからこそ、好きな女性を見つけ、実際に性的結合を行い、子を産み、家庭を築くという経路を辿る。僕も大体はそうだったと思いますね。」 ここには、性と社会性との脈絡が不用意に言及されているが、大きなテーマとして提起されている。自慰行為はあくまでも自己細胞内の欲動を、本来であれば異性を対象として行われるべき生殖行為の偽装である。しかし、社会性という人間関係の規範と、異性関係の制約と自己欲動の欲求の折り合いをつけるために生み出されたともいえる。つまり社会内の自然的人間関係が、完全に自由になり、本能の発動と社会性とが合致して、自分の好きな異性との関係が、いかなる疎外関係もなく解消された状態で。全人間的に関係性が取れる理想の状態にまで到達していない以上、男女の疎外関係は解消されてはいない。
  吉本は売春と性についてで「これ(売買春)は禁止にすべきではないし、制約にもならないし、これを制約とする法律が当たり前とも思えない。これは人間のもつ本質的な問題で、また本質的な欠陥に由来するものなので、これを法律で決めることはできないと思います。」という非常に難解なテーマに答えを出している。つまり、性欲動とそれを自由に可能とさせる社会性が完成していない以上、そうした性の解放と意識の自由さが一致している社会が成り立てば、性意識の抑圧もなくなる。性の欲求が歪められることのない環境が成り立つことが売買春の解消になる。そうした完成された社会ではないので、本能に埋め込まれた欲動を、法律という規制で抑圧するのは二重の抑圧になってしまう。

性の自己疎外

2015-10-14 13:41:54 | 対幻想
性の「自己疎外」とは
 人間は、同じ類でありながら性に限定して考えると、男性と女性という性別に分けられ それぞれが別の機能を持つことで、生理的身体としては個別には子孫を残すために半分の機能しか持っていない。これが類としての「自己疎外」を生み出す原点であり、必然性でもあると考えられます。すなわち、男女は性の自己疎外体である。疎外という概念は、「対立」としてマルクスは使用していました。自然と人間の「疎外」、あるいは生産の工程で発生する商品と生産者との「疎外」という対立概念として使われました。
 そのマルクスの疎外感を拡張すると、性の自己疎外という考え方が、当然現れてきます。男女の性は、人間という人類の抽象概念で全体として考えれば、性の役割で区分されてしまいます。その性差が本来の意味では同じ人間でありながら、対の関係を生み出してしとまい、性としての関わりが発生せざるを得ない宿命を負います。
 社会生活を、性を排除して考えていくと、例えば仕事をする上では性の意識はないほうがいいわけです。ある工場で商品を作る生産工程に関わるとすれば、性別は排除されます。すなわち中性あるいは無性として労働することになります。ただ、その労働工程は性としては排除されてしまいます。当然、疎外という問題は生じますが、ここではその労働から離れた場合、あるいは離れなくても性としては性別の身体を持ちながらも排除をしなければならない自己矛盾を持っているといえます。離れれば当然、労働疎外からは離脱しますから、異性として接し会う場合の人間という概念からの自己疎外が生じます。男女は、性の自己疎外体であり、男女性は性の疎外関係にあるといます。