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言語にとって美とはなにか  I 

2015-12-06 16:02:46 | 言葉・イメージ
言語にとって美とはなにか(吉本隆明)
 「言語にとって美とはなにか I」 概要 
 マルクスは明確な言語論には言及していない。そのため言語学者が10人いれば10の言語論があるといっても良い。吉本はマルクスの資本論における商品の「交換価値」と「使用価値」をヒントに、これから解説する言語の「自己表出」と「指示表出」とに分離し、意識の縦糸と横糸として捉えている。言語の等価価値と交換価値といった概念も、ちらついてはいたようだが文学や劇などの文字表現を芸術として、作品評価することが目的でこの論考は書かれている。純然たる言語論で終始するのではない。また、当初の「言語美」以後、解剖学者三木成夫氏の業績に触れてから、さらに論考が書き加えられ新たな解釈が施されている。すなわち 植物性神経系の「自己表出=内臓系」の縦糸と、動物性神経系の「指示表出=感覚系(体壁系)」の横糸とで全体を捉えるという、新しい言語論の拡張解釈が施されることになった。また、文学論の新たな解釈が基本にあるために、言語論として例えば「沈黙」や「ジェスチャー(身振り手振り)」などが言語美には取り込めていないことを自身みとめ、10年もすれば新たな言語論に乗り越えられるだろうとも語っていた。しかし、今のところ「言語美」を越える言語論は、現れてはいない。ただしソシュールを評価しているものの「地味だが自分の理論の方が良いとは思っている」と自信ある発言もしている。同時並行で「初期歌謡論」も出版している。重複した箇所もみられる。また、言語発生の人類の初源の意識の研究 は、当然古代史研究でもある「共同幻想論」や「心的現象論序論」の論考とも関連している。当時の文学論の主流は、政治的文学、部落文学、大衆文学といった分類や、文学的評価も主観的な価値観に流され、どの文学論や評論も納得できるものではなかった。そこで新しい文学評価や文学の価値を決められる普遍的な文学芸術評価論を構築したいと考えた。そこで生まれたのが、この「言語にとって美とはなにか」という言語論、芸術としての表現価値論ということになる。
 恐らくインド・アジア・オセアニア語の一つである日本語を基礎にした言語表現理論としては希有な内容だといえる。
■言語にとって美とはなにか I 
①言語の本質     
(1) 発生の機能
諸説を検証しながら持論を展開する。まず、人間は現実的意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出として
(2)進化の特性     (3)音韻・韻律・品詞
②言語の属性
(1)意味     (2)価値    (3)文字・像   (4)言語表現における像
③韻律・選択・転換・喩
(1)短歌的表現    (2)詩的表現    (3)短歌的喩
④表現転移論 
(1)言語の本質
①人間は人間的な意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出として行うようにな ったとき、初めて自分を動物と区別し始めた。←動物とは違った点は、言語をもつよう になったこと。
②無言語原始人が、動物社会より複雑な生産関係をもった、より高次な共同社会をいとなむようになった。例えばAがBを労働に誘ったり、共通の利害 に呼応したり、男が女を求めあったりする叫びごえの音声も、高次な編み目を持つようになる。そのために器官への固定作用が高度になり、特定の有節音が特定の信号としての機能をもち、ついには共同社会の約定のようなものとして、特定の音が特定の事物を指示するものとして現れる。
③その意識のたまりが、何事かをいわなくてはならぬまでになったということは、人間が人間的な意識の自己表出の欲求をもつようになったことを意味している。
④人間の言語の自己表出とは、現実的な条件に促された現実の意識の体験が積み重なって、意識の内に幻想の可能性として考えられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱していく水準を決めている。それとともに、ある時代の言語の水準を示 す言語尺度になっている。言語はこのように、対象に対する指示と、対象に対する意識の自動的水準の表出という二重性として言語の本質をつくっている。
⑤労働の発達は、相互扶助や共同的な強力の場面をふやし、社会の成員を相互に近づかせるようになる。この段階では社会構成の編み目は、あらゆるる所で高度で複雑になる。これは人類に意識のしこりを与え、このしこりが濃度を持つようになると、やがて共通の意識符牒を持つようになる。そして有節音が自己表出されることになる。人間の意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけになる。
⑥言語は、動物的段階では現実的な反応、反射の段階にとどまるが、やがてその反射は意識のさ わりを含むようになり、それが発達して自己表出と指示機能を備えるようになると、初めて言語という段階へと到達していることになる。この状態は「生存のために自分のために必要な手段を生産している」段階におおざっぱに対応している。やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになり、言語はそれを発した人間のためにあり、またコミュニケーションの媒体として他のために、同時に相互のために言語として機能するようになる。
(2)進化の特性
①人間的な自己表出が始まると、音声は意識的に反作用を及ぼし心の構造を強化していった。こうして自発的に有節音を現実の対象なしに発することができるようになり、人間の本質力の道を開いていくことになった。
②言語としての条件であ る有節音が自己表出として発せられるようになったとき、言語は現実の対象と一義的な関係をもたなくなった。それは原始人が海を見て自己表出として「海」といったとき、その「海」は目の前で見ている海であると同時に、他のどこかで見た「海」でもあるという、海の類概念を抽出することができるようになったことを意味する。逆に眼前の海はただの「海」では捉え尽くせなくなり、例えば「うのはら」といったように、あめいは「さざ波の立つ蒼き海原」と具体化が拡張し、いくら拡張しても実体を言い尽くせない本性を備えてしまうことにもなった。
③自己表出は、海を前にしても、洞窟の中で仮に「うのはら」と有声音を発しても、同様に現実にいくつもある海の類概念を包括できるようになる。これ は音声が反射的音声という視覚的反映と一義的に結びつかず、少しずつ長い時間を掛けて離れていく過程で、手に入れた特性であった。
④有節音声は自己表出されたとき、現実にある対象との一義的な関係を離れ、類概念を持つことにより言語としての条件をすべて備えていった。自己表出はその意識を強めて、類概念の上に間違った類概念すら生み出すことにもなった。
⑤言語が知覚とも実在とも異なった次元に属するのは、人間の自己意識が自然意識とも知覚意識とも異なった次元に属するといえる。つまり人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と、歴史の結び目が現れる。
⑥ある時代のひとつの言語の水準は、第一に自己表出では、私た ちの意識にある強さをもたらすから、それぞれの時代が持っている意識は、言語が発生した時代からの急激なまたゆるやかな積み重なりそのものに他ならない。また逆にある時代の言語は、意識の自己表出の積み重なりを含んで、それぞれの時代を生きていく。第二に指示表出は、その時代の社会、生産体系、人間のさまざまな関係、そこから生み出された関係によって規定される。言い換えれば言語を表出する幼児から死までの個々の環境によって決定的に影響される。第三に、言語にまつわる時代性と永続性、類としての同一性と個性としての差別性、それぞれの民族語としての特性などが、言語の対他と対自の二面性として現れる。
(3)音韻・韻律・品詞
・音韻・・・器官としての音声が意識の自己表出の 方へ抽出された音声の共通性。
・韻律・・・有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性
・品詞・・・本質的なものではなく、便覧または約定以上のものを意味しない。品詞概念      の区別自体が本質的にははっきりした境界を持たない。下図参照。
(4) 言語の属性
①意味・・・意識の指示表出からみられた言語の全体の関係
②価値・・・意識の自己表出からみた言語の全体の関係 
      *意味と価値との関係は資料参照
③文字・・・文字の成立によって、意識の表出と表現とに分離。表出過程が表出と表現との二重の過程を持つようになる。意識の表出である言語が、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によって初めて生まれた。文字に書かれることで言語の表出は、対象になった自己像が自分の内部ばかりではなく、外部で自分と対話を始めることとなる。また、当然、自己表出文字と指示表出文字の区別がある。
④像・・・像は指示表出の強い言語(名詞)では像を喚起しやすく、自己表出の強固な言語(感動詞)では像を喚起しに くい。像の喚起力は強い自己表出を起動力とするい弱い指示表出か、弱い自己表出を起動力とした強い指示表出起因する。言語の像は、言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までも指す強さを手に入れ、その代わりに自己表出によって知覚の次元からはるかに、離脱してしまった状態で、初めて出現する。あるいは、言語の指示表出が対象の世界を選んで指定できる以前の弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚するより以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で像ばかりの言語以前があったともいえる。
⑤言語表現における像・・・像概念を持ちだしたことで、言語論は文学論へと分離していく。さらに、ここで言語の表出を、表出と表現にも分離する。そして文学的表現には、表現自体が意 識に反作用を及ぼし、さらに文字化され固定化された実在がさらに反作用を及ぼすという二重性を持つ。
まとめ
①自己表出とは
 原始の時代から、人が周囲の外の世界(外界)からの刺激を与えられ、そこで生きていく上で、さまざまな必要に促され、それらが刺激となって自然に意識の世界を少しずつ膨らませ、やがてその蓄積が世代を超え、時間をかけていく内に幻想(観念)の世界を持てるようにまでなってきたとき、言語を使う可能性が出てきたといえる。
 当然、言語を発するための身体器官の発達と、自発的に言語を発していくまでには相当の時間を要したと考えられる。この言葉を発しようと思う意識の全体を自己表出という。 特に自動的に運動している植物神経系は、心臓を中枢とし肺、胃、腸など内臓系器官で、のど仏より下にあり、感覚も鈍く第二義的になっている。自己表出性が一番大 切な感動詞や助詞などと深く関わっている。
②指示表出とは
 自己表出が叫びやわめきなどの発語(あわわ言語)から、しだいに特定の音声が指示性を持つまでに共有されるようになる。このときの音声は言語といえる段階に来ている。
 それらの音声(有節音)が、しだいに特定の内容を指示し、人々の共通の指示語となったとき、言語としての水準を獲得したことになる。その共通に認識できる指示語を使うことを指示表出という。
言語は、自己表出の面を強く出す言語や、特定の指示物を強く表現する言語など映像を伴いながら、言葉の幅や抽象度を広げていく。さらに関連した言語のグループなどがさらに細分化されることで、言語は独自の抽象度と水準を獲得し、時代や地域で異なりながら発達してきた。人間の感覚器官との結びつきが強く、感覚が受け入れたものを神経によ
って大脳に伝える。指示性の強い、五感とかかわりのある体壁系の言語ということになる。①「言語は自己表出において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代から急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみ かさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。」(言語にとって美とはなにかI )
②「自己表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこから生み出される幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によって決定的に影響される。」(同上)
③「言語は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともに生存し死滅する側面をもっている。これが言語の対他的な側面にほかならない。」(同上)

アイヌ語に遊ぶ

2015-08-04 14:12:58 | 言葉・イメージ
語源としてのアイヌ語
 8月は暑い日が続いています。さて、アイヌ語で「アツイ」は「海」という意味であり、ほかにも「レプ」も海を指します。同じ対象でも名詞が複数存在します。「カ」は「表面」という意味か施ありますから、「アツイカ」は「海上」あるいは「海面」になります。
 日本人は「サマイーグル」、「サメ」は同じ「さめ」を表します。
すこし複雑になりますが、「アヌン」は「他人」で、「アヌン-イタク」は「外国語」。ということは「イタク」は「話す」で「イタク-アンベ」は「言葉」という意味になります。 太陽は「チュプ」で、「アン」はよるという意味ですから、「アンチュプ」は「月」ということになります。

語源としてのアイヌ語

2015-08-04 13:47:35 | 言葉・イメージ
 語源としてのアイヌ語
 アイヌ語で「ナイ」の「ナ」は「水」を表し、「イ」は「場所」を意味します。ですから、「ナイ」とついていれば、水のある場所、あるいは「谷」「河」「沢」なども意味し、また水が枯れてしまった場合も含んでいました。 ですから「幌内」や「稚内」などもそうした地形を持っていたことになります。
 また、米沢(よねざわ)は、以前には「ヨナイザワ」と発音しており、ここにも「ナイ」がありましから、そうした地形であったことが類推されます。アイヌ語は日本の古語として全国的に広がっていました。やがて渡来人が侵入支配し、先住民のアイヌ人が駆逐され、混血され、追いやられていきます。日本の縄文期以前の古語が、アイヌや琉球語に残されて分布していることが分かります。また、今でも古語が発音や語形が変化して原型は留めていないものの、言葉として語形変化している場合が多くあります。

言語にとって美とはなにか(吉本隆明ノート)

2015-07-12 17:38:23 | 言葉・イメージ
言語にとって美とはなにか(吉本隆明ノート) 
 マルクスは明確な言語論には言及していない。そのため言語学者が10人いれば10の言語論があるといっても良い。吉本はマルクスの資本論における商品の「交換価値」と「使用価値」をヒントに、これから解説する言語の「自己表出」と「指示表出」とに分離し、意識の縦糸と横糸として捉えている。言語の等価価値と交換価値といった概念も、ちらついてはいたようだが文学や劇などの文字表現を芸術として、作品評価することが目的でこの論考は書かれている。純然たる言語論で終始するのではない。また、当初の「言語美」以後、解剖学者三木成夫氏の業績に触れてから、さらに論考が書き加えられ新たな解釈が施されている。つまり植物性神経系の「自己表出=内臓系」の縦糸と、動物性神経系の「指示表出=感覚系(体壁系)」の横糸とで全体を捉えるという、新しい言語論の拡張解釈が施されることになった。また、文学論の新たな解釈が基本にあるために、言語論として例えば「沈黙」や「ジェスチャー(身振り手振り)」などが言語美には取り込めていないことを自身みとめ、10年もすれば新たな言語論に乗り越えられるだろうとも語っていた。しかし、今のところ「言語美」を越える言語論は、現れてはいない。ただしソシュールを評価しているものの「地味だが自分の理論の方が良いとは思っている」と自信ある発言もしている。同時並行で「初期歌謡論」も出版している。重複した箇所もみられる。また、言語発生の人類の初源の意識の研究は、当然古代史研究でもある「共同幻想論」や「心的現象論序論」の論考とも関連している。
■言語にとって美とはなにか I 
①言語の本質
(1) 発生の機能
諸説を検証しながら持論を展開する。まず、人間は現実的意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出として
(2)進化の特性
(3)音韻・韻律・品詞
②言語の属性
(1)意味
(2)価値
(3)文字・像
(4)言語表現における像
③韻律・選択・転換・喩
(1)短歌的表現
(2)詩的表現
(3)短歌的喩
④表現転移論
(1)近代表出史論(1)
(1)表出史の概念
(2)明治初期
(1)言語の本質
①人間は人間的な意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出として行うようにな ったとき、初めて自分を動物と区別し始めた。←動物とは違った点は、言語をもつよう になったことだ。
②無言語原始人が、動物社会より複雑な生産関係をもった、より高次な共同社会をいとなむようになったとき、AがBを労働に誘ったり、共通の利害に呼応したり、男が女を求めあったりする叫びごえの音声も、高次な編み目を持つようになり、そのために器官への固定作用が高度になって、特定の有節音が特定の信号としての機能をもち、ついには共同社会の約定のようなものとして、特定の音が特定の事物を指示するものとして現れる。
③何事かをいわなくてはならぬまでになったということは、人間が人間的な意識の自己表出の欲求をもつようになったことを意味している。
④人間の言語の自己表出とは、現実的な条件に促された現実の意識の体験が積み重なって、意識の内に幻想の可能性として考えられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱していく水準を決めている。それとともに、在る時代の言語の水準を示す言語尺度になっている。言語はこのように、対象に対する指示と、対象に対する意識の自動的水準の表出という二重性として言語の本質をつくっている。
⑤労働の発達は、相互扶助や共同的な強力の場面をふやし、社会の成員を相互に近づかせるようになる。この段階では社会構成の編み目は、あらゆるる所で高度で複雑になる。これは人類に意識のしこりを与え、このしこりが濃度を持つようになると、やがて共通の意識符牒を持つようになる。そして有節音が自己表出されることになる。人間の意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけになる。
⑥言語は、動物的段階では現実的な反応、反射の段階にとどまるが、やがてその反射は意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出と指示機能を備えるようになると、初めて言語という段階へと到達していることになる。この状態は「生存のために自分のために必要な手段を生産している」段階におおざっぱに対応している。やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになり、言語はそれを発した人間のためにあり、またコミュニケーションの媒体として他のために、同時に相互のために言語として機能するようになる。
(2)進化の特性
①人間的な自己表出が始まると、音声は意識的に反作用を及ぼし心の構造を強化していった。こうして自発的に有節音を現実の対象なしに発することができるようになり、人間の本質力の道を開いていくことになった。
②言語としての条件である有節音が自己表出として発せられるようになったとき、言語は現実の対象と一義的な関係をもたなくなった。それは原始人が海を見て自己表出として「海」といったとき、その「海」は目の前で見ている海であると同時に、他のどこかで見た「海」でもあるという、海の類概念を抽出することができるようになったことを意味する。逆に眼前の海はただの「海」では捉え尽くせなくなり、例えば「うのはら」といったように、あめいは「さざ波の立つ蒼き海原」と具体化が拡張し、いくら拡張しても実体を言い尽くせない本性を備えてしまうことにもなった。
③自己表出は、海を前にしても、洞窟の中で仮に「うのはら」と有声音を発しても、同様に現実にいくつもある海の類概念を包括できるようになる。これは音声が反射的音声という視覚的反映と一義的に結びつかず、少しずつ長い時間を掛けて離れていく過程で、手に入れた特性であった。
④有節音声は自己表出されたとき、現実にある対象との一義的な関係を離れ、類概念を持つことにより言語としての条件をすべて備えていった。自己表出はその意識を強めて、類概念の上に間違った類概念すら生み出すことにもなった。
⑤言語が知覚とも実在とも異なった次元に属するのは、人間の自己意識が自然意識とも知覚意識とも異なった次元に属するといえる。つまり人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と、歴史の結び目が現れる。
⑥ある時代のひとつの言語の水準は、第一に自己表出では、私たちの意識にある強さをもたらすから、それぞれの時代が持っている意識は、言語が発生した時代からの急激なまたゆるやかな積み重なりそのものに他ならない。また逆にある時代の言語は、意識の自己表出の積み重なりを含んで、それぞれの時代を生きていく。第二に指示表出は、その時代の社会、生産体系、人間のさまざまな関係、そこから生み出された関係によって規定される。言い換えれば言語を表出する幼児から死までの個々の環境によって決定的に影響される。第三に、言語にまつわる時代性と永続性、類としての同一性と個性としての差別性、それぞれの民族語としての特性などが、言語の対他と対自の二面性として現れる。
(3)音韻・韻律・品詞
・音韻・・・器官としての音声が意識の自己表出の方へ抽出された音声の共通性。
・韻律・・・有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性
・品詞・・・本質的なものではなく、便覧または約定以上のものを意味しない。品詞概念      の区別自体が本質的にははっきりした境界を持たない。下図参照。
(2) 言語の属性
①意味・・・意識の指示表出からみられた言語の全体の関係
②価値・・・意識の自己表出からみた言語の全体の関係 
      *意味と価値との関係は右図参照



③文字・・・文字の成立によって、意識の表出と表現とに分離。表出過程が表出と表現との二重の過程を持つようになる。意識の表出である言語が、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によって初めて生まれた。文字に書かれることで言語の表出は、対象になった自己像が自分の内部ばかりではなく、外部で自分と対話を始めることとなる。また、当然、自己表出文字と指示表出文字の区別がある。
④像・・・像は指示表出の強い言語(名詞)では像を喚起しやすく、自己表出の強固な言語(感動詞)では像を喚起しにくい。像の喚起力は強い自己表出を起動力とするい弱い指示表出か、弱い自己表出を起動力とした強い指示表出起因する。言語の像は、言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までも指す強さを手に入れ、その代わりに自己表出によって知覚の次元からはるかに、離脱してしまった状態で、初めて出現する。あるいは、言語の指示表出が対象の世界を選んで指定できる以前の弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚するより以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で像ばかりの言語以前があったともいえる。
⑤言語表現における像・・・像概念を持ちだしたことで、言語論は文学論へと分離していく。さらに、ここで言語の表出を、表出と表現にも分離する。そして文学的表現には、表現自体が意識に反作用を及ぼし、さらに文字化され固定化された実在がさらに反作用を及ぼすという二重性を持つ。
第三章 韻律・選択・転換・喩
①短歌的表現
 言語表出を表出と表現に分離し、あらたな文学理論の道を展開する。等時的拍音が日本語の特徴であり、それが日本語の指示性と密着し必然的に七・五律にならざるを得なかったとする。通常、言語の喩は喩の役割以外は無用で、指示表出か自己表出のいずれかにアクセントを置いて、言語を連合させた後に、言語の価値の増殖をはたして消えるものだが、短歌の場合、特殊な喩は二重の意味を担っている。喩ではない言葉が、喩をかさねて背負ってしまう。
②詩的表現
 言語は自己表出を手に入れたときから知覚の次元を離脱し、言語の呼び起こす像の積み重ねで想像を表出させるしかない。喩は像的な喩と意味的な喩とがあね、像と意味の深淵は、一歩にの極には意味だけを、他方の極には像だけを開いている言語を想定すると、価値はこの両極の間に二重性として存在している。喩は言語を使って行う意識の探索で、現実世界に対して人間の幻想が生きている仕方ともっとも接合したとき、喩として抽出される。自己表出をどこまで押し上げられるかは喩の表現にかかっていて、ここに指示表出としての価値との関係が存在する。
③短歌的喩
 短歌の喩は、音数律として現れた日本語の指示性の根源が、普通の喩をどれだけ変形させどれだけ連れ去るかという問題に行き着かざるを得ない。現代歌人は音数律の詩の変遷の歴史を突き崩すことで、短歌的喩を抽出し必然的にバリエーションを作り出している。その多くは散文的内部世界を表出し、終わりの数語に追い詰められる。音数律の詩の本質が言語本質における韻律の問題として解かれていないため、散文的平面で音数律の詩を輪切りにしているに過ぎない。
④散文的表現