創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

普遍思想とは

2015-12-06 16:15:50 | 思想
普遍思想とは (相対的な社会、絶対的な個人)
 私たちは社会とかかわることで生活し、暮らしています。個人は、その社会の中で必ず何らかの組織と関わり、組織の構成員となることで生きざるを得ない宿命があります。 家族、地域、学校、団体、会社、自治体、国など、上げればきりがありません。そうした共同体の中では、個人は相対的な存在になってとしまいます。組織の一員としての自分であり、メンバーであり、自分の悩みは組織の悩みであり、自分の思いは組織の思いであり、組織人として考え、お互いに協力しあって組織を動かします。そのときの自分は共同体員としての自分ですから、自宅の模様替えや花壇の手入れは、共同体の目的とはかかわりないとすれば、それはあくまで個人的な自分だけの問題になり、自分にとっても絶対的な、個人的な要件になります。すると、自分の家に戻り、部屋に入って音楽を聴いたり読書したりという生活は、絶対的な自己の部分、それ以外は相対的な個人の部分ということになります。よく考えると、多くの場合は相対的に生きていることになります。 もし、個人にとって100%が相対的な自分になってしまったら、個人はとても苦しいことになってしまいます。自分を完全に失ってしまいますから。そこで反動として絶対化した自分を、相対的な自分に対して押し戻そうとします。自分を見失わないために、人はそうしようとします。そこに絶対思想を生み出す考えや、それにひかれていくことがあると理解できると思います。特に、普遍的な思想ほど、そうした個人の心の中へと入り込むと、絶対的な感情や、より強い絶対的な対決を迫り、自分の存在そのものを追い込むほどの考えを強いてきます。あることを選択するのか、選択しないかの二者択一を強いてきます。
 問題は、その思想が絶対思想だとしたら、真理を語る上で普遍的でなければならりません。それには党派的では普遍思想には行き着けませんから、党派を超えた思想でできているはずです。政治党派も党派的ですから、なんら普遍性はありません。宗教も、もし他宗教を排除しようという内容でしたら、その宗教はなんら普遍的な宗教ではないのです。観念の世界を無限に拡大することで、カテゴリーを混同したり、また対立しているとすけば、それは普遍的な絶対思想ではないのです。党派性を止揚して行けたときに、初めてその思想は、普遍性を手に入れているといえます。

普遍思想とは

2015-12-04 15:12:58 | 思想
普遍思想とは (相対的な社会、絶対的な個人)
 私たちは社会とかかわることで生活し、暮らしています。個人は、その社会の中で必ず何らかの組織と関わり、組織の構成員となることで生きざるを得ない宿命があります。 家族、地域、学校、団体、会社、自治体、国など、上げればきりがありません。そうした共同体の中では、個人は相対的な存在になってとしまいます。組織の一員としての自分であり、メンバーであり、自分の悩みは組織の悩みであり、自分の思いは組織の思いであり、組織人として考え、お互いに協力しあって組織を動かします。そのときの自分は共同体員としての自分ですから、自宅の模様替えや花壇の手入れは、共同体の目的とはかかわりないとすれば、それはあくまで個人的な自分だけの問題になり、自分にとっても絶対的な、個人的な要件になります。すると、自分の家に戻り、部屋に入って音楽を聴いたり読書したりという生活は、絶対的な自己の部分、それ以外は相対的な個人の部分ということになります。よく考えると、多くの場合は相対的に生きていることになります。 もし、個人にとって100%が相対的な自分になってしまったら、個人はとても苦しいことになってしまいます。自分を完全に失ってしまいますから。そこで反動として絶対化した自分を、相対的な自分に対して押し戻そうとします。自分を見失わないために、人はそうしようとします。そこに絶対思想を生み出す考えや、それにひかれていくことがあると理解できると思います。特に、普遍的な思想ほど、そうした個人の心の中へと入り込むと、絶対的な感情や、より強い絶対的な対決を迫り、自分の存在そのものを追い込むほどの考えを強いてきます。あることを選択するのか、選択しないかの二者択一を強いてきます。
 問題は、その思想が絶対思想だとしたら、真理を語る上で普遍的でなければならりません。それには党派的では普遍思想には行き着けませんから、党派を超えた思想でできているはずです。政治党派も党派的ですから、なんら普遍性はありません。宗教も、もし他宗教を排除しようという内容でしたら、その宗教はなんら普遍的な宗教ではないのです。観念の世界を無限に拡大することで、カテゴリーを混同したり、また対立しているとすけば、それは普遍的な絶対思想ではないのです。党派性を止揚して行けたときに、初めてその思想は、普遍性を手に入れているといえます。

市民社会とエンパワメント

2015-12-04 15:06:53 | 思想
市民運動とエンパワメントとは

 そもそもエンパワメントとは先住民運動や市民運動として、20世紀を代表するブラジルの教育思想家であるパウロ・フレイレの提唱により社会学的な意味で用いられるようになった。特にラテンアメリカを始めとした世界の先住民運動や女性運動、あるいは広義の市民運動などの場面で用いられ、実践されるようになった概念である。
 エンパワメントの概念が対象としているのは、人間の潜在能力の発揮を可能にするような、平等で公平な社会を実現しようとするところに価値を見出す点にある。たんに個人や集団の自立を促す概念ではない。
 エンパワメント概念の基礎を築いたジョン・フリードマンはエンパワメントを育む資源として、生活空間、余暇時間、知識と技能、適正な情報、社会組織、社会ネットワーク、労働と生計を立てるための手段、資金等を上げている。また、それぞれの要素は独立しながらも相互依存関係にあるという考えに立っている。
 地方自治や弱者の地位向上など下から上にボトムアップする課題を克服していく上で、活動のネットワークが生み出す信頼、自覚、自信、責任等の相互性を育むことが、エンパワメント向上の大きな鍵とされている。
 市民参加のあり方が問われる地方自治などの分野において、市民の地域に対する関心や主体的な関わりを構築していく上で重要視されている概念のひとつともなっている。また、エンパワーメントの基盤となる公平な社会という理念は、市民オンブズマン制度や行政アセスメント制度などの確立する上で理論的支柱にもなった。
 市民参加としてのエンパワメントのことを市民エンパワメント、地域振興や地域再生・地域活性化のことをコミュニティ・エンパワメントということもある。企業では単に権限委譲やスキルアップなどの意味でも用いられる。まちづくりの分野では福祉や防災などでエンパワーメントの概念が多用される。防災分野では、非常時における市民の自助・共助による自主防災活動の重要性から、防災エンパワメントという。
 市民運動におけるエンパワメントの概念のとらえ方は、以上のように分野により若干の違いがある。「力をつけること」と理解されることが多い。何か目前の課題がある場合に当事者が自身の置かれた状況に気づき、問題を自覚し、自らの生活の調整と改善を図る力をつけることを目指す意味が用いられるものであるといえる。そもそもこのエンパワメントという概念自体が多義的なものであることから、そのような解釈が決して誤りとはいえない。

 人は誰もがすばらしい力を持って生まれ、生涯にわたりそのすばらしい力を発揮し続けることができるという前提がある。 そのすばらしい力を引きだすことがエンパワメント、ちょうど清水が泉からこんこんと湧き出るように、一人ひとりに潜んでいる活力や可能性を湧き出させることがエンパワメント(湧活)である。理想の社会は、このように状態であるのかもしれないと思えてきた。

段階論と考古学

2015-10-25 13:06:42 | 思想
ヘーゲル・マルクスとフーコーでは、どう違うか。つまり段階論と考古学の違いは何か。これは、検証する必要がある。たとえば日本の十七条憲法では、仏教的な「和をもって尊しとなす。」という条文があります。これはよくよく考えると倫理が条文化されています。みな、争いばかりしていないで仲良くやることが大切だ。といった処罰を伴わない日常性の教えであり戒めにあたり、近代の国家が持つ処罰をともなうような刑法とは異なり、むしろ日本国憲法の第9条の戦争放棄の平和理念的な規範ともいえます。ヘーゲル・マルクス流いえば、近代国家法とは当然異なりますから、それ以前の段階のより古い、宗教性の色濃い道徳律、あるいは規範とも考えられます。
 むしろ鎌倉時代の武家法である御成敗式目あたりから、新しい法の段階へと入ったと考えてよいといえます。これは法然や親鸞らが仏教の信仰の規範、宗教規範の善悪の価値観と武家法の概念とを切り離したたからです。こうした倫理規範や宗教の善悪の規範が政治と切り離された時期が新たな段階てして区別できます。こうした捉え方がヘーゲル・マルクス流の段階論です。
 これに対してフーコーの捉え方は、例えば横に切らずに倫理という層で切ります。こうすると倫理の普遍性が縦長に切り離して捉えることができます。十七条憲法の「和をもって尊しとなす。」という法の倫理と、武家諸法度の12条では「争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し領地がない場合は流罪とする。 」という条文の悪口を禁止することは日時用の倫理でもある。しかし、悪口でも重大なものは「流罪」にするとなれば、法処罰としての強制力が働き、すでに過渡的な条文であるとともに、従来の規範を処罰することで異質の段階をも示している。しかし、この条文には悪口という普遍的な道徳律が見いだせる。また日本国憲法第9条の戦争放棄も、背景には争い事は良くないから戦争しないという争わなう倫理観がつらぬンレていることになる。つまり、普遍的な倫理観では、古代から現代まで宗教から近代法の中に、段階では切れない倫理が一貫して見いだせることになる。これがフーコーの考古学的な発想といえる。

新しい国の在り方を問う

2015-10-24 14:34:54 | 思想
新しい国の在り方を問う
 国家を国民に開くとは・・・
  世界における軍事的な理想状態は、がんが得てみる価値があり、また考えておくべきことです。それぞれ皆さんには譲れない持論があると思います。私の場合は、国軍の廃止です。すべての国にいえる普遍的な課題になりうるといえます。国軍とは、国家として動かせる軍隊です。最終的な課題であり、最後の理想は国軍を廃絶することにあります。日本の現在でいえば、自衛隊を廃止し、総責任者である安倍晋三総理大臣が自衛隊の出動を命令できないことにする。ただ、ここにはいくつもの問題が控えています。一足飛びには行きません。そもそも国家という狭い枠組みでは産業のグローバル化は、むしろ足かせになってきている。やがて近代国家という枠組みは解体せざるを得ない。こうした現在の「国家」という政府を中心とした一国主義がある状態での、国軍は簡単には廃絶はできまい。 つまり国家が次の形へと移行していくことがきっかけになる可能性が高いし、そうした要件が発生しない限り、独立国軍は消えるとはない。次に壁としては、その国家の枠組みの解体と並行して、一国の国軍を軍縮し、核兵器は国連の管理下に置くとともに、国軍事態を軍縮へと向かわせていくことが求められる。特に、日本の憲法第9条は世界の憲法の中でももっともすぐれた内容であり、平和憲法を楯にして軍縮のリーダーシップを取るべき役割が、日本の課題になるでしょう。現在の安倍晋三反動政権は、国家を閉ざしています。しかし、済みんの平和活動はさらに盛んになります。いずれ国家は開かれていくことになります。
 その第一歩は、政府のリコール権を国民が獲得することです。それを憲法に明記して、実質的な主権を国民へと移すことです。 同時に、現在の自衛隊は最高権力者である総理大臣ただ一人に権力者集中させていますが、これは廃止することです。軍隊を戦闘行為へと移らせる決断は、個人の権力者にではなく、国民が握る。決定権を国民の判断に任せる仕組みができれば、さらに国家は開かれていきます。たとえば無記名による国民投票で決めるようにすれば第二次大戦のように失敗は防いでいくことができます。