創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

普遍宗教とは

2015-12-04 15:19:37 | 宗教
普遍宗教とは
 宗教が世界性をもつには、どうすればよいか。キリスト教でも仏教でもいいのですが、世界宗教といわれて人類史に延々と根付いて生きていける宗教とはなにかということです。たとえば、日本の各地には地域の宗教がありますが、決まった仕来たりや儀礼、あるいは所作があります。地域の人々の習慣ともなり、あるいは風俗、掟、規範になってもいます。ただ、そうした宗教は地域性が強く、他の地域に移ると通用しない仕来たりであったり、儀礼であったりします。つまりそうした土着の宗教は儀礼が強いほど信仰の対象が限定的で、普遍宗教、つまり地域を超えて、あるいは時代を超えて拡大していく宗教にはなりにくいものです。 では、なぜ仏教やキリスト教は普遍宗教ともいわれるほどに種族を超えて、時代や地域を超えて人々の心をとらえているのでしょう。それは、種族性や地域性を切り離して、人間の内面へと深く入り込、心を支配するだけの思想へと到達しているために、内面を律して支配する宗教性を獲得していったといえます。

罪の概念と罰の形成

2015-12-04 15:18:38 | 共同幻想
罪の概念と罰の形成
 家族はセックスを基盤とする共同体で、性の親和と性の自由さがある。いっぽう親族は性の親和と性のタブーが基本となっている。この親族組織が族外婚を開始し、氏族制社会へと拡大していくにつれ、性のタブーが個々の自閉する家族にも浸潤し、しだいに長い年月を掛けてタブー化されていく。やがて、部族国家という、国家の要素を備えた規模になることで個々の村落共同体の規範は外側からしだいに強化され、家族内の性のタブーも意識されるようになっていった。結果として、それらの規範は村落法としてやがてまとめられ、自然法的な内容で整備される。ただ、原始村落共同体では村内法を犯しても、また処罰という因果応報思想はなく、その行為や出来事は見えざる霊によると思われていた。そのため、霊を祓い清める行為で対処する。タブーへの規範は祭儀行為として扱われていたと考えられる。
 その内容は、雨が降らないのは天の神のせいだから雨乞いをする。あるいは、コウモリが家に飛び込んできたのは、たたりがあるから清祓行為で清める。また、時間性を獲得し、夫婦関係が理解できてきた段階では、親族は近親相姦をタブーにしていたが、家族内も母子相姦や父子相姦、あるいは兄弟姉妹相姦を禁じ、そうした場合は清祓行為おこなっていたと考えられる。当然、部族が拡大するにつれ、またさらに上位の大和朝廷が横合いからかすめ取るように、それぞれの地域の共同体を支配。その際、個々の村落共同体にある宗教や規範、掟などの村落内のみに通用している内容を、それらには手を付けずに上から覆うように新たな法を設けていった。新たな法を大陸系農耕規範である天津罪として農耕に関係した掟をまとめ、そこで従来の村落法を国津罪としてまとめていった。大和朝廷の支配法を天津罪として定めていったものだ。国津罪は主に自然法的で、病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴がある。

新しい国家の枠組みとは

2015-12-04 15:17:22 | 共同幻想
新しい国家の枠組みとは
マルクスの発見により「国家は固定的で強固なものではなく、経済や生産の拡大につれて、国境の枠組みはたやすく越えられてしまう」ことが分かっている。グローバル経済が私たちに気づかせてくれていることは、経済や産業がすでに国境を無化して、国を越えて協力したり、合同したり現地の産業を担ったり、他国に投資していることを実感している。インターネットも、簡単に国境を飛び越えていることも分かっている。では、なぜ国家は解体すべきか。
 思想家吉本隆明は、それに対してこう答える。「国家がある限り、階級というものが必ず発生して、民衆の間の差別が永久になくならない。」と。
 では、なぜ国家があれば、階級も差別もなくならないのか。それは、たまたま会社が倒産したり、商売が上手くいかなくなったりという不運にあい、生活に困窮する。あるいはエリート街道から外れてしまい、将来の描いていた暮らしは、たちまち破綻する。その人は仕方なく生活保護を受け、あるいは職安で紹介され再雇用の末、非正規社員となる。彼らを負け組と呼びかねない社会風潮すらもある。ところが、たまたまそんな目に遭わずに済み、事業が上手くいく人間もいる。ここに収入の格差が生じ、階層が生まれ、差別が子供達次世代に生じてしまうことも起きてくる。職業選択の自由が保障されているといいながら、現実は壁だらけで、チャンスは転がっているようで閉ざされている。一見、世の中は景気が良いとか、七割が中産階級と統計上いわれたとしても、いつそれが崩れてしまうかもしれない可能性を持っている。これが思うようにならない現代社会であり、国民国家解体の兆候は少しずつ現象として現れてきている。
 社会階級格差や階層の発生は、古代社会では、共有地とは別に家族が住む家の周辺の狭い土地が、個人に許された私有地だった。ここは収穫物を私物化できる。家族構成の違いと耕作用具の工夫が、格差を生み出す根源だった。現代では、すでに持てるものの富が厳然と差を生み出して拡大してきている。資本主義社会では、この利益追求が生み出した産業構造は物を売り買いするか、そのための手助けや売買もしくは仲介、
 また、国家の理想型として、政府もしくは国家権力は自治会の会長のように嫌々、仕方なく順番で引き受けるくらいの交代でやれば良く、内閣総理大臣や大臣も仕方なくいやいやながらやるのが国家の本来の理想型だという。しかし、嫌々とは心の中の状態を指すわけだから、中央権力は調整役で、核地方に権限も財源も移譲していく、まさに地方分権の地域主権は、日本の先駆的な改革、つまり国家を開き、民衆に国家を開いていく。少しずつ国家を解体し、国家権力を縮小させて行くには先駆的な改革だとしている。私見では、さらに地方自治体から、地域内分権を進め、各地域コミュニティーで住民達が考えてやれていけることは、住民自身で分担してやていく。「小さな自治体、大きな地域」を制度化し、住民主権を確立していくことが、これからの基礎自治体の核となると考えている。これが、国家を国民に開いていく目標になりうるといえる。それでは行政サービスの低下につながると反対する意見もあるが、中央にすべてのことを委任していたために不透明になり膨れあがってきた権限と財源を、より透明にし公開できるチャンスが手にはいるわけだ。住民が困ったとき、自分たちで手配できることは自分たちでやるようにすれば、無駄の削減にもつながり、地域に合った施策も可能となる。任意団体の自治会や非自治会員、地域の企業、各団体、地区社協、農協など、地域組織を再編し地域委員会で自主運営していく。さらに、核となる数軒から十数軒の隣組が相互扶助の絆を、個人の権利や情報の侵害など制約をツールやアイデアで工夫して支え合う社会の構築が見えてくる。このように、基礎自治体の住民主権に基づくしっかりした運営母体でできあがることで、従来の国民国家の枠を越えてでも、先進国で最も少子高齢社会の典型である日本でも、持続可能な社会が構築できうると思われる。現在の日本の人口は二〇五〇年には政府の試算では四割が高齢者になる。八千万人を割り、労働人口を増やしていかないと高齢者を支えきれなくなる。当然、労働可能年齢は例えば上限は七十歳まで引き上げられ、年金支給はそれ以降となり得るかもしれない。

お気に入りの旅館 伊豆修善寺温泉 湯回廊菊屋

2015-12-04 15:14:04 | 旅行
お気に入りの旅館   伊豆修善寺温泉 湯回廊菊屋
 
明治時代、菊屋は有名な湯治場として、近くに山林を所有、菊屋山荘という広大な宴会場、鹿も飼われていた弓道場、桂川に水力発電所建設、嵐山に東屋、さらに修禅寺ハリストス正教会聖堂の建設など、数々の伝説を修禅寺に残されて来たという。
 また皇室との関わりも深く、有栖川宮様が江戸城明け渡しの際、宿泊。明治末期に先の昭和天皇、秩父宮、高松宮の御三方が皇孫殿下の頃にご宿泊。また、大正天皇、明治天皇の皇后様、常陸宮様など数多くの皇族もご宿泊されている。
 学習院院長の乃木閣下、桂太郎氏、元広島藩主浅野侯爵、政治家副島種臣氏(積翠堂菊屋の名付親)、「修禅寺の大患」で有名となった夏目漱石氏、執筆家吉田弦二郎氏もご宿泊されている。また、将棋の「大山・松田」名人戦も昭和30年に開催。大山名人が勝利されたという。
 夏目漱石氏は明治30年8月6日夜、菊屋着。到着後3日目には床につき、24日夜8時に4回目の吐血、脳貧血から一時人事不省、危篤状態に陥る。翌日、医師の往診で回復、9月の朝には氷嚢も外され、10月11日に帰宅となり、朝にはご主人の脩治さんが快気祝いにお頭付きの甘鯛をお出ししたそうだ。漱石は滞在中の9月29日に次の漢詩を詠まれている。
 「仰臥 人唖の如く 黙然大空を看る 大空雲動かず 終日 杳かに相同じ」
 *これは石碑となり、除幕式は昭和8年4月10日修禅寺公園にて行なわれている。

普遍思想とは

2015-12-04 15:12:58 | 思想
普遍思想とは (相対的な社会、絶対的な個人)
 私たちは社会とかかわることで生活し、暮らしています。個人は、その社会の中で必ず何らかの組織と関わり、組織の構成員となることで生きざるを得ない宿命があります。 家族、地域、学校、団体、会社、自治体、国など、上げればきりがありません。そうした共同体の中では、個人は相対的な存在になってとしまいます。組織の一員としての自分であり、メンバーであり、自分の悩みは組織の悩みであり、自分の思いは組織の思いであり、組織人として考え、お互いに協力しあって組織を動かします。そのときの自分は共同体員としての自分ですから、自宅の模様替えや花壇の手入れは、共同体の目的とはかかわりないとすれば、それはあくまで個人的な自分だけの問題になり、自分にとっても絶対的な、個人的な要件になります。すると、自分の家に戻り、部屋に入って音楽を聴いたり読書したりという生活は、絶対的な自己の部分、それ以外は相対的な個人の部分ということになります。よく考えると、多くの場合は相対的に生きていることになります。 もし、個人にとって100%が相対的な自分になってしまったら、個人はとても苦しいことになってしまいます。自分を完全に失ってしまいますから。そこで反動として絶対化した自分を、相対的な自分に対して押し戻そうとします。自分を見失わないために、人はそうしようとします。そこに絶対思想を生み出す考えや、それにひかれていくことがあると理解できると思います。特に、普遍的な思想ほど、そうした個人の心の中へと入り込むと、絶対的な感情や、より強い絶対的な対決を迫り、自分の存在そのものを追い込むほどの考えを強いてきます。あることを選択するのか、選択しないかの二者択一を強いてきます。
 問題は、その思想が絶対思想だとしたら、真理を語る上で普遍的でなければならりません。それには党派的では普遍思想には行き着けませんから、党派を超えた思想でできているはずです。政治党派も党派的ですから、なんら普遍性はありません。宗教も、もし他宗教を排除しようという内容でしたら、その宗教はなんら普遍的な宗教ではないのです。観念の世界を無限に拡大することで、カテゴリーを混同したり、また対立しているとすけば、それは普遍的な絶対思想ではないのです。党派性を止揚して行けたときに、初めてその思想は、普遍性を手に入れているといえます。