創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

支配共同体と共同幻想のアジア性

2015-12-06 16:22:13 | 共同幻想
支配共同体と共同幻想のアジア性
「アジア的な国家では共同幻想が「共同体幻想」に近いところで成立しているのが特徴です。」(吉本)
 この前段で、アジア的という歴史概念では、国家は「支配の共同体」という概念に近似のところで成立すると思われる、という記述がある。また、個人幻想とも対幻想とも違う位相で共同幻想が生じたとき、それを国家の成立としています。
 ここでまず戸惑うのは、共同幻想と共同体幻想を区別している点だ。それは支配の共同体と共同体幻想が等価の意味で使われ、多様な共同幻想の中で国家に行きついたところの共同体と国家の起源を解き明かすことに視点があるからだといえる。これ以前の母系制社会における宗教的なカリスマ性としての巫女と託宣による宗教的支配の構造が、兄弟姉妹の支配形態の分離で、現実の権力を兄弟が担い、姉妹は宗教を担うことで共同幻想の形態が変化してしまう。そこで、はじめて共同幻想に「支配の共同体」と国家の成立がアジア的な特性として現れてきたと解釈できると思われる。

教育の在り方

2015-12-06 16:21:03 | 教育
教育の在り方
 大学は明治期には欧米の文明に追い付くためにと、知的専門家を急速に育成する必要が出てきました。そこで学校の役割は国家、社会に役立つ人間を作るという宗教性が出来上がりました。さらに大正期以降は学問の独立、思想、表現の自由、あるいは研究の自由といった新たな宗教性が出来上がりました。ただ、個々の大学によっても宗教性や理念があります。そうした地域性や個別性、特殊性を排除して世界における大学の問題として深化できれば、教育の普遍性が手に入ります。そこで初めて政治的な問題として、教育の問題が普遍性を獲得していけるといえます。時代環境、社会環境が大きく変わり、その中での教育の在り方や役割が問われますし、変わってきます。ただ、より深い教育として大学の在り方、あるいは学校教育の在り方を問うていくとすれば、国家という強制や規制と対立していかざるを得なくなります。当然、教育の内容も、国家という指導要領や教育基本法を排除して、教育の在り方全体を考えていくと、より普遍的な教育の在り方、原点へと行き着けると思います。

普遍宗教とは

2015-12-06 16:20:11 | 宗教
普遍宗教とは
 宗教が世界性をもつには、どうすればよいか。キリスト教でも仏教でもいいのですが、世界宗教といわれて人類史に延々と根付いて生きていける宗教とはなにかということです。たとえば、日本の各地には地域の宗教がありますが、決まった仕来たりや儀礼、あるいは所作があります。地域の人々の習慣ともなり、あるいは風俗、掟、規範になってもいます。ただ、そうした宗教は地域性が強く、他の地域に移ると通用しない仕来たりであったり、儀礼であったりします。つまりそうした土着の宗教は儀礼が強いほど信仰の対象が限定的で、普遍宗教、つまり地域を超えて、あるいは時代を超えて拡大していく宗教にはなりにくいものです。 では、なぜ仏教やキリスト教は普遍宗教ともいわれるほどに種族を超えて、時代や地域を超えて人々の心をとらえているのでしょう。それは、種族性や地域性を切り離して、人間の内面へと深く入り込、心を支配するだけの思想へと到達しているために、内面を律して支配する宗教性を獲得していったといえます

罪の概念と罰の形成

2015-12-06 16:18:47 | 共同幻想
罪の概念と罰の形成
 家族はセックスを基盤とする共同体で、性の親和と性の自由さがある。いっぽう親族は性の親和と性のタブーが基本となっている。この親族組織が族外婚を開始し、氏族制社会へと拡大していくにつれ、性のタブーが個々の自閉する家族にも浸潤し、しだいに長い年月を掛けてタブー化されていく。やがて、部族国家という、国家の要素を備えた規模になることで個々の村落共同体の規範は外側からしだいに強化され、家族内の性のタブーも意識されるようになっていった。結果として、それらの規範は村落法としてやがてまとめられ、自然法的な内容で整備される。ただ、原始村落共同体では村内法を犯しても、また処罰という因果応報思想はなく、その行為や出来事は見えざる霊によると思われていた。そのため、霊を祓い清める行為で対処する。タブーへの規範は祭儀行為として扱われていたと考えられる。
 その内容は、雨が降らないのは天の神のせいだから雨乞いをする。あるいは、コウモリが家に飛び込んできたのは、たたりがあるから清祓行為で清める。また、時間性を獲得し、夫婦関係が理解できてきた段階では、親族は近親相姦をタブーにしていたが、家族内も母子相姦や父子相姦、あるいは兄弟姉妹相姦を禁じ、そうした場合は清祓行為おこなっていたと考えられる。当然、部族が拡大するにつれ、またさらに上位の大和朝廷が横合いからかすめ取るように、それぞれの地域の共同体を支配。その際、個々の村落共同体にある宗教や規範、掟などの村落内のみに通用している内容を、それらには手を付けずに上から覆うように新たな法を設けていった。新たな法を大陸系農耕規範である天津罪として農耕に関係した掟をまとめ、そこで従来の村落法を国津罪としてまとめていった。大和朝廷の支配法を天津罪として定めていったものだ。国津罪は主に自然法的で、病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴がある。

新しい国家の枠組み

2015-12-06 16:17:45 | 政治   
新しい国家の枠組みとは
マルクスの発見により「国家は固定的で強固なものではなく、経済や生産の拡大につれて、国境の枠組みはたやすく越えられてしまう」ことが分かっている。グローバル経済が私たちに気づかせてくれていることは、経済や産業がすでに国境を無化して、国を越えて協力したり、合同したり現地の産業を担ったり、他国に投資していることを実感している。インターネットも、簡単に国境を飛び越えていることも分かっている。では、なぜ国家は解体すべきか。
 思想家吉本隆明は、それに対してこう答える。「国家がある限り、階級というものが必ず発生して、民衆の間の差別が永久になくならない。」と。
 では、なぜ国家があれば、階級も差別もなくならないのか。それは、たまたま会社が倒産したり、商売が上手くいかなくなったりという不運にあい、生活に困窮する。あるいはエリート街道から外れてしまい、将来の描いていた暮らしは、たちまち破綻する。その人は仕方なく生活保護を受け、あるいは職安で紹介され再雇用の末、非正規社員となる。彼らを負け組と呼びかねない社会風潮すらもある。ところが、たまたまそんな目に遭わずに済み、事業が上手くいく人間もいる。ここに収入の格差が生じ、階層が生まれ、差別が子供達次世代に生じてしまうことも起きてくる。職業選択の自由が保障されているといいながら、現実は壁だらけで、チャンスは転がっているようで閉ざされている。一見、世の中は景気が良いとか、七割が中産階級と統計上いわれたとしても、いつそれが崩れてしまうかもしれない可能性を持っている。これが思うようにならない現代社会であり、国民国家解体の兆候は少しずつ現象として現れてきている。
 社会階級格差や階層の発生は、古代社会では、共有地とは別に家族が住む家の周辺の狭い土地が、個人に許された私有地だった。ここは収穫物を私物化できる。家族構成の違いと耕作用具の工夫が、格差を生み出す根源だった。現代では、すでに持てるものの富が厳然と差を生み出して拡大してきている。資本主義社会では、この利益追求が生み出した産業構造は物を売り買いするか、そのための手助けや売買もしくは仲介、
 また、国家の理想型として、政府もしくは国家権力は自治会の会長のように嫌々、仕方なく順番で引き受けるくらいの交代でやれば良く、内閣総理大臣や大臣も仕方なくいやいやながらやるのが国家の本来の理想型だという。しかし、嫌々とは心の中の状態を指すわけだから、中央権力は調整役で、核地方に権限も財源も移譲していく、まさに地方分権の地域主権は、日本の先駆的な改革、つまり国家を開き、民衆に国家を開いていく。少しずつ国家を解体し、国家権力を縮小させて行くには先駆的な改革だとしている。私見では、さらに地方自治体から、地域内分権を進め、各地域コミュニティーで住民達が考えてやれていけることは、住民自身で分担してやていく。「小さな自治体、大きな地域」を制度化し、住民主権を確立していくことが、これからの基礎自治体の核となると考えている。これが、国家を国民に開いていく目標になりうるといえる。それでは行政サービスの低下につながると反対する意見もあるが、中央にすべてのことを委任していたために不透明になり膨れあがってきた権限と財源を、より透明にし公開できるチャンスが手にはいるわけだ。住民が困ったとき、自分たちで手配できることは自分たちでやるようにすれば、無駄の削減にもつながり、地域に合った施策も可能となる。任意団体の自治会や非自治会員、地域の企業、各団体、地区社協、農協など、地域組織を再編し地域委員会で自主運営していく。さらに、核となる数軒から十数軒の隣組が相互扶助の絆を、個人の権利や情報の侵害など制約をツールやアイデアで工夫して支え合う社会の構築が見えてくる。このように、基礎自治体の住民主権に基づくしっかりした運営母体でできあがることで、従来の国民国家の枠を越えてでも、先進国で最も少子高齢社会の典型である日本でも、持続可能な社会が構築できうると思われる。現在の日本の人口は二〇五〇年には政府の試算では四割が高齢者になる。八千万人を割り、労働人口を増やしていかないと高齢者を支えきれなくなる。当然、労働可能年齢は例えば上限は七十歳まで引き上げられ、年金支給はそれ以降となり得るかもしれない。