電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

三位一体の改革と義務教育(1)

2004-10-08 09:14:11 | 政治・経済・社会
 毎日新聞( 10月5日)よれば、中山成彬文部科学大臣が、4日、宮崎県庁で会見し、国・地方財政の三位一体改革に伴い廃止・削減対象になっている義務教育費国庫負担制度について「国庫負担は堅持すべきだ。教育改革は財政論によるべきではない」と批判したという。全国知事会は8月、義務教育費を削減対象に含めるよう政府に提案したが、安藤忠恕宮崎県知事も「国による財源保障」を条件に賛成していた。三位一体の改革とは、「国庫支出金の削減」「税源の地方移譲」「地方交付税の見直し」という3つのことをいっぺんにやって、地方分権を進めようということだ。なぜこういうことが問題になるのだろうか。

 地方自治体の収入は何かというと、一つが地方税で、住民税、固定資産税、事業税からなり、だいたい必要経費の4割くらいになる。次に、国から2つの財源が、地方に与えられている。1つが国庫支出金で、もう1つは、地方交付税である。国庫支出金は、国が地方自治体に資金の使い道を指定して与えるものであり、地方交付税は、地方公共団体の間の格差をなくすために与えられるものである。このほかに、国が徴集した税金を自動的に地方自治体に譲る地方譲与税や、地方債(借金)があり、それで地方財政はまかなわれている。

 この国庫支出金がひも付きであるところが問題になる。中央官庁や政治家の裁量で地方の事業ができるかどうか決まってしまうのでは、地方分権にならない。それで、国庫支出金をなくそうというわけだが、それでは地方自治体の財政が足りなくなってしまう。そこで、国が徴集している税金を地方が徴集するようしたらよいと言うことになる。これが税源移譲である。税源移譲をしないと国庫支出金をへらせないので一体ということになる。

 地方交付税については、使い道の指定はないお金で、所得税・法人税・酒税の32%、消費税の29.5%、たばこ税の25%が毎年自動的に地方に与えられるしくみになっている。これは、ひも付きではないが、一定の収入が与えられると、そのための努力をしなくなるという懸念がある。地方は地方なりに努力する必要があるのであり、そのためにも地方交付税を見直しをしようと言うのである。要するに、国庫支出金と地方交付税を削減していくためには、税源移譲が必要であり、この三つは一体で行わなければならないというわけである。

 こうした考えが出てくる背景には、地方分権だけでなく、元々、国も地方も財政的に苦しくなったということがある。いま、国の借金はどのくらいあるかというと、約700兆円である。国と地方の長期債務残高は、それぞれ518兆円と199兆円になるという。このうち国と地方の重複分がありそれを差し引くと、約700兆円になる。これは、経済シンクタンクHARVEYROAD JAPANの「日本の借金時計」を見るとわかる。「三位一体の改革」については、「地方が決定すべきことは、地方自らが決定するという、地方自治本来の姿の実現」を目指してと言われているが、こうした国の財政支出の削減ということも大きな目的ではある。そのために、国が自分たちの財政再建を優先しているところがあったりして、必ずしも三位一体にならないところがあり、地方の財政が苦しくなっているところも出てきている。

 地方分権の促進という役割については、次のようなことが言われている。ひとつは、地方は自主財源を得て自立し、中央のいうことを聞かなくてもフリーに政策を行うことができるようになり、地方分権が進むと考えられる。また、政治は、これまでの地方の利益誘導型のスタイルから、国の未来を考えた本当の政治になると言うわけだ。そんなにうまくいくのかという気もするが、それ自体はよいことことだと思う。ところで、ここで、三位一体がそんなに良いなら、みんな賛成かというとそうでもない。

 まず、国庫支出金を与える権限を持つ各中央官庁が反対している。また、国の税金をできるだけ減らしたくないという意味で、税金担当の財務省が税源移譲に消極的である。また、総務省も、フリーに使えるはずの地方交付税の交付を、意図的に操作して、地方交付税の裁量権を握り、地方交付税を暗に使い道指定のひもつき財源にしていたと言われている。だから、総務省も、自分たちの権限を残すため、地方交付税をあまり減らしたくない。結果、どの官庁も、自分たちの権限を守るため、三位一体には消極的になっているわけだ。文部科学省もこうした流れの中で、義務教育費国庫負担金制度はあくまで堅持する必要があると改めて表明したわけだ。どんどん、聖域が作られていくような気がする。


『脳と仮想』

2004-10-07 10:16:58 | 自然・風物・科学
 茂木健一郎さんの『脳と仮想』(新潮社)を読み終わった。師匠筋に当たる養老孟司さんの『唯脳論』(青土社)が本になったのは1989年9月29日、茂木さんのこの本は2004年9月25日。約15年の開きがあるが、大体同じような季節に出ている。多分それは偶然だと思う。私は、アマゾンドットコムで発売と同時に買った。読み終わるのにほぼ一週間かかった。

 一気に読める脳関係の本というのは、ほとんどない。でもこれはそういう本である。知情意という成語があるが、人がそれらを理想的に兼ね備えることはむずかしい。しかし脳はそのすべてを含んでいる。脳科学は知であり、文学は情であり、著者のいう志向性とは意である。この本はその三つの主題を含んで成り立っている。脳の本として、よく釣り合いが保たれているというべきであろう。


 これは、養老孟司さんが、毎日新聞の今週の本棚で、「心を科学で解き明かす真摯な作業」として『脳と仮想』を紹介している文章の書き出しである。養老さんの『唯脳論』は知のほうに重きを置いていたし、茂木さんの『脳と仮想』のほうは情と意のほうに重点があるように思った。養老さんは、すべての我々の知覚から始まって認識に至る「知」は、「脳内現象」だということから説明していた。もちろん、茂木さんも同じなのだが、茂木さんの場合は、「脳内現象」の構造的なとらえ返しが主のような気がした。
 
 私が最初に茂木健一郎さんを知ったのは、養老さんとの共著の『スルメを見てイカがわかるか!』(角川書店)を読んでだった。その後、『脳内現象』『心を生み出す脳のシステム』を読み、『脳と仮想』に至った。ここ1年のことである。そういう意味では、私にはとてもホットな著者であり、刺激的な人だ。

 「安全基地としての現実」というタイトルの第4章で、「物質として確かに存在する現実」と「この世界のどこにも存在しない仮想」の違いと関係が説明されている。脳内現象としては、「現実」も「仮想」も「クオリア(感覚質)」として存在するだけである。同じ「クオリア」が一方は「現実」と見なされ、他方は「仮想」と見なされる。

 目の前のコップをつかむことで、視覚と触覚の情報が一致する。コップを唇に当てれば、ひんやりとした触覚が生じることでさらにそこに現実のコップがあるという確信が強まる。コップをナイフで叩き、音がすると同時にその反動が感じられることで、コップという現実の存在は疑う余地のない確固としたものになる。
 このように、複数の感覚のモダリティから得られた情報が一致するということが、私たちの現実感を支えている。逆に言えば、そのような一致が成立しないものを、私たちは「仮想」と呼んでいるのである。

 私たちのとっての「現実」とは、私たちの身体としての感覚器官に支えられた「現実」なのであって、「現実」それ自体ではない。「現実自体」は、決して直接知ることができない。上記の説明を彼は、次のように言い換えている。

 もともとは、現実であれ仮想であれ、全ては神経細胞の生み出す脳内現象である。脳の中の1千億個の神経細胞の活動によって生み出され、私たちの意識の中に現れる様々な表象が、複数の経路を透って一致し、ある確固とした作用をもたらすとき、私たちはそのような作用の源を「現実」と呼ぶのである。
 複数の感覚のモダリティ、あるいは複数の作用の経路を通って立ち現れるものが一致するからこその「現実」であるとすれば、そのような一致が見られずに、浮遊しているものが私たち人間にとっての「仮想」である。


 「仮想」とは、茂木さんが前から研究していた脳内現象としての「クオリア」としての心的現象の中のこの「浮遊しているもの」のことだ。私たちの脳の中の現象とは、現実の単なる反映ではなく多様な「クオリア」によって支えられて作り出された「現実」と「仮想」の世界からできている。この本は、この「仮想」について詳しく触れた本だ。

 一方、仮想は、おそらく人間の精神の自由と関係している。仮想は、現実のような確固とした基盤を持っていない。現実のように、安んじてそれに頼ることはできない。しかし、だからこそ、仮想は自由に羽ばたくことができる。複数の感覚の経路の間での、あるいは作用の経路の間での整合性という現実には課されている条件がない分、私たちは、仮想の世界で自由に遊ぶことができる。


 子どもにとっての「サンタクロース」から始まり、小林秀雄の「蛍」、柳田国男の「子どもの魂」、そしてデカルトの「私としての魂」に茂木さんがこだわるのは、それこそが「仮想」の象徴であり、それなくしては私たちの自由な意識は存在しないということだと思う。そして、私たちは、「愛」の実在を感じるように、脳内の「仮想」の実在を感じている。


父が癌だと知らされて

2004-10-06 10:53:58 | 日記・エッセイ・コラム
 昨夜、10時少し過ぎた頃、名古屋に住んでいる弟から電話があった。父が、大腸癌だという。初期ではないようだという。今日、中津川市民病院で検査の結果説明を中津川の次男と一緒に聞いてきたらしい。私には、信じられなかった。父方の家系は、脳梗塞や動脈硬化などの循環器系の病気で亡くなった人が多いが、癌で亡くなった人は、私の知る限りいない。母も、脳塞栓で亡くなった。

 しばらく、今後の対策や連絡の仕方などを打ち合わせる。これから1週間くらいかけて、もう少し正確な検査をして今後の治療計画を立てるらしいので、検査が終わった頃に中津川に行き打ち合わせをすることにする。呆然としていると、隣の部屋で寝ていた妻が起きてきて、生姜湯を作ってくれた。そういえば、妻の父は、私と結婚する前に、癌で亡くなった。丁度私の母が、脳塞栓でなくなったのと同じ頃だ。妻の祖母も癌でなくなったそうだ。

 「初期症状でない限り、絶対手術なんてしない方がいいよ!おばあちゃんも、お父さんも、手術して、その上放射線治療で苦しんで、死んでいったんだから」と妻が言う。また、「そういえば、おばあちゃんが癌になったとき、お父さんが、おばあちゃんの癌はおばあちゃんの人生のおまけだと言っていた」とも言った。義母の話によれば、妻は義父を独り占めしていて、看病も最後までほとんど一人で付き添っていたと言う。だから、医者を信じていないところがある。まるで、敵のように話す。

 眠れない夜、隣に眠る息子を眺めながら、短歌を作ってみる。

癌という言葉を聞いて疑えり
          五月に会った我が父の顔
考える端から言葉が消えてゆく
          八十四の父五十六の我
癌と知りおろおろ我に妻が言う
          父の人生のおまけだと思え
癌と聞き妻でないころ最愛の
          父をみとりし女を思う
頼りない息子でどうもごめんねと
          癌と知らされ深夜に祈る



パソコンが壊れた!

2004-10-05 11:07:37 | デジタル・インターネット
 月曜日の朝、出社して会社のPCに電源を入れると、起動画面が現れ、「Windowsをセットアップしています」が終わり、「ネットワークの設定をしています」のところまできて、HDが「ジー、ジー」という音を繰り返し、先に進まなくなってしまった。Ctrl+Alt+Deleteキーも効かなくなり、仕方なく、3回ほど手動で電源を切って、再起動してみた。それでも、やはり、同じところで固まってしまう。

 私の使っているPCは、Gateway製のPERFORMANCEで、2000年8月に購入したものである。丁度満4年たったところだ。Gatewayは、日本から撤退してしまって、もうサポートしていない。買ったときに、すでにIBM社製のUltra ATA100対応のHDDとWindowsとの間に、不具合があり、データのディスクへの書き込み中にシステムが終了し、その結果データが破損されるという症状があった。その後、修正パッチファイルが配布された。その後、Windows98からWindows2000にアップグレイドし、2年ほどたったところだ。半月ほど前から、HDに不良セクタができるようになっていた。そして、1月前ぐらいから、時々、このHDが空回りするような「ジー、ジー」という音が出るようになった。

 これは、たぶん、もうHDの寿命のような気がする。OSも含めて、すべてのソフトは、持っているので、ハードだけ買うか、自分の余っているノートパソコンを持参しようか考えた。HDだけ買って、取り替えるという手もあるが、全体を変えてもいい頃だと思う。しかし、PCがないと仕事ができない。こんなに不便になるとは思わなかった。インターネットに接続できないこととメールが読めないことは、致命的だった。

 というわけで、とりあえずの応急措置で、システムから再インストールすることにした。Windos2000のシステムディスクを入れ、フォーマットから始めて、インストールを開始した。インストールが終わり、インターネットへの接続設定、メールの設定、社内LANの設定をするまでに昼までかかってしまった。一応動いたので、昼からは、仕事をしながら、Office2000Professionalをインストールした。インストールしてから、Windows2000とOffice2000のアップデイトをしていたら、もう夕方になってしまった。

 そんなわけで、昨日は、疲れてしまった。年に一度くらいは、まっさらなHDにOSから順番にソフトをインストールしていって、PCが自分好みに使えるように設定してみるのはいいことだと思うが、それにしても時間がかかりすぎる。仕事で使えるようにするためには、このほかにも、様々なアプリケーションソフトをインストールする必要がある。特に、Adobeの編集・デザインで使うソフトや、プログラミング用のソフトをインストールするのはまた時間がかかる。今日も、その作業をやろうかと思ったのだが、また、HDが時々、「ジー、ジー」という音を立て始めたので、やめた。どうなることやら。


不動裕理もすごい!

2004-10-04 15:46:41 | スポーツ・ゲーム
 私は、ゴルフのテレビ観戦だけはよくする。ゴルフは、自分でできる唯一のスポーツであるが、よく見る割には、上手くない。昨日は、ずっとNHKのテレビで生中継の国内女子ツアー第23戦「日本女子オープンゴルフ選手権」を見ていた。マリナーズのイチロー選手はすごいが、日本女子オープンゴルフ選手権で優勝した不動裕理もすごいと思った。解説の樋口久子プロが、「不動さんだけ、別のゴルフ場でプレーをしているようだ」と言っていたが、まさに別次元のようなゴルフで、ただひとりアンダーパー。しかも、2位以下を11ストロークも引き離す8アンダーで優勝した。

 まだ、20代ですでに永久シード権を手にし、生涯獲得賞金でも687,051,909円になり、ト阿玉の737,512,704円に続く2位になった。年間3試合ある国内メジャー戦を全て制した。今年の獲得賞金も既に1億円を突破し、5年連続賞金女王に一歩近づいた。彼女は、確かにルックスで損をしているように見える。しかし、私は彼女が試合の時に見せる、愛くるしい目の動きが好きだ。どこにこんな力があるのだろうかと思わせる華奢な仕草が気に入っている。

 今年、彼女は18試合に出場し6勝した。ベストテンフィニッシュが10回、予選落ちは一度もなく21位と23位の2回が最も悪い順位だ。ちなみに、平均ストロークが70.4912で1位になっている。このほかに1位のものに、パーセーブ率、パーオン率、リカバリー率、パーブレイク率でも1位になっている。特に、平均ストローク率は圧倒的に良い。72以下の選手は、宮里藍の71.1639と福嶋晃子の71.6944があるだけだ。昨年も、不動は平均ストロークが70.2727だった。ずば抜けているとしか言いようがない。

 宮里藍がプロゴルファーになり、今年の女子プロは、男子より面白くなった。一つ一つの大会の優勝賞金は、男子プロの半分くらいしかないが、それでも、不動裕理の獲得賞金は男子プロより多い。大体年間に5勝以上する選手などいない。その不動を追って、獲得賞金で2位につけているのが宮里藍だ。今、最も安定している不動裕理とそれに挑戦する若い女子プロゴルファーという構図ができて、とても日本の女子プロゴルフが面白いのだ。強い選手がひとりだけでは面白くない。宮里藍は残念ながら、この試合では、予選落ちしてしまった。

 宮里の代わりに大会を盛り上げてくれたのが、宮里藍と同じ年で、今年プロゴルファーになったばかりの横峰さくらだった。不動に挑戦する若いゴルファーはみんなかわいく見え、応援したくなる。特に、横峰さくらの独特のスイングと彼女のアグレッシブなゴルフは、見ていてとても気持ちが良い。また、常にキャディーとして、横峰をリラックスさせたり緊張させたりと、見事なリードをしているお父さんのひょうきんな行動が、ほほえましい。横峰さくらは、昨日の日本女子オープンゴルフ選手権で2位になり、シード権が取れそうな獲得賞金になった。彼女も、今後が期待できる選手だと思う。今、私の日曜日の午後の密かな楽しみが、日本女子プロゴルフのテレビ観戦になっている。