電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『脳と仮想』

2004-10-07 10:16:58 | 自然・風物・科学
 茂木健一郎さんの『脳と仮想』(新潮社)を読み終わった。師匠筋に当たる養老孟司さんの『唯脳論』(青土社)が本になったのは1989年9月29日、茂木さんのこの本は2004年9月25日。約15年の開きがあるが、大体同じような季節に出ている。多分それは偶然だと思う。私は、アマゾンドットコムで発売と同時に買った。読み終わるのにほぼ一週間かかった。

 一気に読める脳関係の本というのは、ほとんどない。でもこれはそういう本である。知情意という成語があるが、人がそれらを理想的に兼ね備えることはむずかしい。しかし脳はそのすべてを含んでいる。脳科学は知であり、文学は情であり、著者のいう志向性とは意である。この本はその三つの主題を含んで成り立っている。脳の本として、よく釣り合いが保たれているというべきであろう。


 これは、養老孟司さんが、毎日新聞の今週の本棚で、「心を科学で解き明かす真摯な作業」として『脳と仮想』を紹介している文章の書き出しである。養老さんの『唯脳論』は知のほうに重きを置いていたし、茂木さんの『脳と仮想』のほうは情と意のほうに重点があるように思った。養老さんは、すべての我々の知覚から始まって認識に至る「知」は、「脳内現象」だということから説明していた。もちろん、茂木さんも同じなのだが、茂木さんの場合は、「脳内現象」の構造的なとらえ返しが主のような気がした。
 
 私が最初に茂木健一郎さんを知ったのは、養老さんとの共著の『スルメを見てイカがわかるか!』(角川書店)を読んでだった。その後、『脳内現象』『心を生み出す脳のシステム』を読み、『脳と仮想』に至った。ここ1年のことである。そういう意味では、私にはとてもホットな著者であり、刺激的な人だ。

 「安全基地としての現実」というタイトルの第4章で、「物質として確かに存在する現実」と「この世界のどこにも存在しない仮想」の違いと関係が説明されている。脳内現象としては、「現実」も「仮想」も「クオリア(感覚質)」として存在するだけである。同じ「クオリア」が一方は「現実」と見なされ、他方は「仮想」と見なされる。

 目の前のコップをつかむことで、視覚と触覚の情報が一致する。コップを唇に当てれば、ひんやりとした触覚が生じることでさらにそこに現実のコップがあるという確信が強まる。コップをナイフで叩き、音がすると同時にその反動が感じられることで、コップという現実の存在は疑う余地のない確固としたものになる。
 このように、複数の感覚のモダリティから得られた情報が一致するということが、私たちの現実感を支えている。逆に言えば、そのような一致が成立しないものを、私たちは「仮想」と呼んでいるのである。

 私たちのとっての「現実」とは、私たちの身体としての感覚器官に支えられた「現実」なのであって、「現実」それ自体ではない。「現実自体」は、決して直接知ることができない。上記の説明を彼は、次のように言い換えている。

 もともとは、現実であれ仮想であれ、全ては神経細胞の生み出す脳内現象である。脳の中の1千億個の神経細胞の活動によって生み出され、私たちの意識の中に現れる様々な表象が、複数の経路を透って一致し、ある確固とした作用をもたらすとき、私たちはそのような作用の源を「現実」と呼ぶのである。
 複数の感覚のモダリティ、あるいは複数の作用の経路を通って立ち現れるものが一致するからこその「現実」であるとすれば、そのような一致が見られずに、浮遊しているものが私たち人間にとっての「仮想」である。


 「仮想」とは、茂木さんが前から研究していた脳内現象としての「クオリア」としての心的現象の中のこの「浮遊しているもの」のことだ。私たちの脳の中の現象とは、現実の単なる反映ではなく多様な「クオリア」によって支えられて作り出された「現実」と「仮想」の世界からできている。この本は、この「仮想」について詳しく触れた本だ。

 一方、仮想は、おそらく人間の精神の自由と関係している。仮想は、現実のような確固とした基盤を持っていない。現実のように、安んじてそれに頼ることはできない。しかし、だからこそ、仮想は自由に羽ばたくことができる。複数の感覚の経路の間での、あるいは作用の経路の間での整合性という現実には課されている条件がない分、私たちは、仮想の世界で自由に遊ぶことができる。


 子どもにとっての「サンタクロース」から始まり、小林秀雄の「蛍」、柳田国男の「子どもの魂」、そしてデカルトの「私としての魂」に茂木さんがこだわるのは、それこそが「仮想」の象徴であり、それなくしては私たちの自由な意識は存在しないということだと思う。そして、私たちは、「愛」の実在を感じるように、脳内の「仮想」の実在を感じている。