習志野市民フォーラム

市民情報交流センター

「奏の杜」町名変更(市内Oさんからの投稿記事)

2012年09月09日 | 日記
1) 歴史的地名を尊重すべきこと
「谷津」という地名には、地形的特徴とともに、先祖がいかにしてここに住みついたか、その暮らしや歴史の記憶が刻み込まれています。
400年余り前と思われますが、谷津本郷に住みついたのは紀州出身の人であったといわれます。その人々は、屋敷の背に(北側に)屋敷林を構えて北風を防ぎ、それを越えた後方に畑を、屋敷前方の低地に水田(谷津田)を耕作したのでした。
それは地名の由来であるとともに、関東地方の集落の基本的特徴を示すものでもあります。
遡れば、縄文時代の人々がこの地に住んで谷津貝塚遺跡を遺したのも、全く同じ地勢条件によります。彼らは谷津を泉の湧く所として、生活のよりどころとし、南面の地に居を構えたのです。
谷津浜宿は漁労、製塩の場として、千葉街道の宿として歴史を刻み、海水浴潮干狩りの名所、谷津遊園に至っています。
私たち千葉の干潟を守る会は、埋め立てで失われる谷津海岸の名を惜しんで、「大蔵省水面」と呼ばれ始めた海面に「谷津干潟」と名付け、子孫に歴史を伝えようと志しました。
地名にはそこに生きた人々の歴史が刻まれています。またその地形的条件を地名として記憶することは、生活上とくに一旦災害が生じた時に大きな教訓的指針となることは、東日本大震災の際も痛感されたことです。
奏の杜の住民となる人々にも、地域の歴史意識を共有してもらいたい、その上で個性は大切にしたい、周辺との無用な対立孤立は招くべきではありません。

2) 地域分断について
「奏の杜」は谷津地域の内部を分断する形に構成されようとしています。これは周辺谷津地域の人々にとって迷惑な話であるばかりでなく、「奏の杜」住民にとってもよいことではないと思います。
谷津の中に「奏の杜」が別の町として存在することになれば、地域共同性は失われます。その大きな弊害は環境・防災問題に現れます。
例えば、これまでの津田沼駅南口地域では、降水量の多くは地面に浸透して地下水となるか表流水となるか、あるいは下水道に集められるかして、谷津本郷地域あるいは旧庄司が池方向に、さらに下流へと向かいました。
「奏の杜」開発が進められる結果、浸透水量は大幅に減少し(降水の流出係数が上がり)、下水道に流れ込みます。一方開発された奏の杜の使用水量は莫大に増加して、これも下水道に入ります。
この時憂慮されることは、台地の水が傾斜を下って下の低地に出た時、流速が落ちるのと反比例して流量が増えようとしますので、下水道管が負荷に耐えかねて水を噴き出す、いわゆる内水型水害を惹き起こす原因となることです。
その低地とは谷津1~4丁目と6丁目であり、とくに本来谷津の中心であった谷津本郷地域の出水が危惧されます。
地形上、台地と谷が一体をなす谷津地域では、都市計画の一体性が必要です。
しかも、低地に水害が起こった時、台地上の住民がお構いなしにジャンジャン水を使っていたのでは水害地域の住民はたまりません。風呂の水もトイレの水も遠慮なく浸水して来るのです。
つまり地形的に一体をなす地域は災害に対しても一体の共同体意識を持つことが必要なのです。
「ここは谷津ではない。奏の杜だ」というような意識は、都市計画上も、防災と住民意上も、許されないことなのです。
もし谷津の中に奏の杜だけが独立的な地位を占めたいと主張するなら、周辺谷津地域住民が奏の杜に向かって、「お前のところの雨も下水もこちらで引き受けるいわれはない。全部そちらだけで処理してもらおう」と主張したとしたら、どうしますか? 甘んじて受けすか?
そんな対立は新旧住民双方に不幸です。
( 結論)
地名としては「谷津」として一体性を保ちつつ、その一郭の特色を示す名として「奏の杜」の名を使いたいならば許されることだと思います。市民の中には「奏の杜」という名称自体に違和感を持つ人も少なくないようですが、他人に迷惑をかけないなら、そして公的地名でなければ、やむを得ず受け入れることになるでしょう。
地名というものは、国がニッポンと言おうが大阪でニッポンバシであろうが、江戸東京ではニホンバシだ、と言うように歴史の重みを持つものです。
多数住民の意思を無視して変更を強行しないで下さい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。